第28話 全裸に迫る危機
「ふぅ~~……」
一仕事を終えた達成感と、我慢していたモノを解放した爽快感に、思わず深いため息が漏れた。
額に手を当てて右腕で拭うと、汗が思った以上にぬるついていて、自分の頑張りを改めて実感した。
「肌触りは悪くないんだけどさ……。
布で拭くのって、どうも慣れないな」
戦国時代にタイムスリップしてから、夏、秋、冬、春と二巡、丸二年が過ぎた。
その大半は上洛の旅に費やし、諏訪の屋敷で過ごしたのは、わずか半年ほどにすぎない。
だが、上洛の旅から戻って二日目。
こうして厠で一息ついていると、帰ってきたという感覚がひしひしと湧く。
いつの間にか、この諏訪の屋敷を自宅だと認識していた自分に、少しだけ驚いた。
「しかも、これ……。桃が洗濯してるんだろ?
本当にいいのか? 十代の女の子に、下の後始末させるのって……。」
余談だが、この厠は俺が設計した専用のもので、おそらく日本初の洋式便座だ。
現代で、和式と洋式の二つがあったら迷わず洋式を選ぶ俺にとって、和式はやはりしんどい。
しかも、この厠は水洗式。汚れが付きにくく、臭いもこもりにくい。
屋敷裏の温泉の排水口から伸びる水路が便器の直下を通り、近くの小川へと繋がっている。
当然、その小川は諏訪湖へと流れていく。
しかし、その辺りを深く考えてはいけない。
俺たちの食卓に上る魚のほとんどは諏訪湖で採れたものだから、絶対に深く考えてはいけないのだ。
「いや、それを言ったら、ここの掃除だって同じだよな。
あまり汚れないし、掃除くらい俺がやるべきか?」
厠つながりでもう一つ、余談をしておこう。
現在、甲斐と信濃の街や村々では、公衆便所が次々と建てられている。
これまで個人任せだった肥料の製作を武田家主導に切り替え、品質の安定と農作物の収穫量向上を図る。それが表向きの目的だ。
真の狙いは『大』ではなく『小』の方にある。
地中に棲むバクテリアの働きによって生まれる硝石。
これに炭と硫黄を加えることで、鉄砲に不可欠な黒色火薬が完成する。
この時代、肥料を作る過程で硝石が生じること自体は、古くからの経験則として知られていた。
しかし、それが火薬へと姿を変えることまでは理解されていなかった。
結果、火薬を手に入れるには国外から輸入するしかなく、その費用が鉄砲を大量運用するうえで致命的な足かせとなっていた。
商人の理として当然なのだろうが、初めて火薬の価格を聞いたときは、予想を遥かに超えるぼったくり価格に言葉を失った。
鉄砲そのものが高価なら、ランニングコストもまた高価。
鉄砲が金持ちの道楽扱いされている理由が、嫌というほど理解できた。
「……あれ? もしかして、俺って桃がいないと駄目人間?
服選びも、着替えも、何から何まで全部、やってもらってるし……。」
しかし俺は、戦国時代に関する豆知識として火薬の製法を知っていた。
この話には勘助さんも大喜びで、すぐに信繁さんを交えて協議が始まり、結果として甲斐信濃における公衆便所設置計画へと繋がっていく。
一年か、二年か、それとも十年か。
残念ながら、俺は硝石が『硝石』として使えるようになるまでに、どれほどの年月を要するのかまでは知らない。
もしかすると、完成する頃には戦国時代そのものが終わっているかもしれない。
だが、それでも構わない。
その時には、武田家自慢の甲州金と並ぶ、もう一つの大きな名産として残るはずだからだ。
「んっ!?」
さて、褌を締めようと便座から腰を浮かせたその瞬間だった。
目の前の閉まった戸板の向こう側から、廊下を走る足音が近づいてくる。
出鼻を挫かれた気分に、まずは何者かの到着を静かに待つことにした。
「大殿、よろしいですか?」
「何事だ?」
洋式便座を作って気づいたことがある。
大の際、和装では準備に手間がかかる。
試行錯誤の結果、一旦全裸になるのが最も手っ取り早いと解った。
そのため、着物と褌を衣紋掛けにかけ、腕を組んで便座に座る今の俺は、完全に全裸。
傍目には間抜けな姿だが、俺は『武田信玄』だ。
便所の中だろうと、常に威厳を保たねばならない。
「只今、先触れが届きました。間もなく、高坂様がお見えになります」
しかし、風雲急を告げられた瞬間、威厳は一瞬にして吹き飛んだ。
「なっ!? だ、駄目だ! ちょ、ちょっと待て!」
すぐさま便座から立ち上がり、褌に手を伸ばそうとした。
だが、焦るあまり衣紋掛けごと引っ張ってしまい、慌てて倒れかけた衣紋掛けを両手で受け止める羽目になった。
武田家における『高坂様』と言えば、信濃佐久郡小諸城の城代『高坂昌信』である。
武田家の最重要拠点を任されていることからも分かる通り、歴史上、俺が知るところでは武田四天王の一人に数えられる、重臣中の重臣だ。
「わ、儂はその……。あ、あれだ! あ、あれ!」
「……あれ、にございますか?」
「そうだ! あれだ!」
そんな高坂昌信には、確かな証拠付きで現代まで残る有名な逸話がある。
それが、晴信から高坂昌信に宛てられた熱烈なラブレターであり、二人が衆道の関係にあったという事実だ。
なにしろ、高坂昌信はスラリとした細身の爽やか美青年。
若々しい見た目で、背が低いため少年のようにも見えるが、立ち振る舞いには色気がある。
街を歩けば、女たちが黄色い悲鳴を上げるほどだ。
俺自身、戦国時代にタイムスリップした二日目、景虎との戦いに大敗して動揺する家臣たちの最前列にいた高坂昌信を初めて見たときは、その美青年ぶりに思わず目を奪われた。
「申し訳ございません。私には『あれ』が分かりません」
晴信が熱烈なラブレターを書いてまで執心した理由も、よく頷ける。
女顔の高坂昌信が女物の着物を着れば、正に『男の娘』である。
衆道に忌避感を持たない者なら、深い関係を結んでみたいと、一度は考えるに違いない。
「ば、馬鹿者! わ、分かれ!
そ、そうだ、高遠城だ!
た、高遠城へ出かけたということにしろ!」
しかし、俺は衆道の趣味は持っていない。
断固として、ノーサンキューだ。
信繁さんにも、勘助さんにも、これだけは許してもらっている。
これまで、高坂昌信と二人きりになるのを絶対に避けてきた。
たとえ高坂昌信からアプローチが仕掛けられても、巧みに逃げ切ってきたのだ。
「ほほう……。大殿は高遠へ出かけたのですか」
「えっ!?」
だが、天は俺を見放した。
衣紋掛けを立て直し、褌を改めて手に取ろうとしたら、戸板の向こう側から静かな怒りが伝わり、絶望した。
「では、ここにいらっしゃるのはどちら様ですか?
大殿のお声に、よく似ていらっしゃいますが?」
紛れもなく、その高い美声は高坂昌信のものだった。
背筋がブルリと震え、冷や汗が全身にブワッと噴き出した。




