表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
再就職は武田信玄! ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~  作者: 浦賀やまみち
林の章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/65

幕 間 足利義輝、二人が友のために




「……95! 96!」



 二条城の居住区にある庭で、木刀を握り、ひたすらに振り続ける。


 剣術の基礎にして、最も基本的な訓練。

 素振りを、多くの者は退屈だと感じるらしいが、俺にはそうは思えない。


 五十回を超えたあたりから、心が次第に無に近づいていく。

 日頃の悩みも、いつの間にか霧のように消え去り、清々しさだけが残るのがたまらない。



「97! 98! 99!」


 

 だが、鍛錬のやりすぎは身体を傷める。

 師にそう諭され、素振りは朝、昼、晩をそれぞれ100回までと厳しく制限されている。



「100っ!」



 もう少し振りたくなる衝動を抑え、木刀をそっと下ろす。


 季節は春に移ろったが、冬の名残を感じさせる肌寒さが庭の空気に漂う。

 その中で上半身から立ち上る湯気が、鍛え抜かれた体の熱を静かに物語っていた。



「ふぅ~~……。」

「義輝様」

「おう!」



 心地よい疲労感に包まれながら、大きく息をゆっくりと吐き出す。

 それを合図に、小走りで近づいてきた小姓が傍らに跪き、両手で差し出してきた手ぬぐいを受け取った。


 汗を拭い、着物を整えながら思う。


 信玄がこの京から去って、すでに一週間。

 かつては当たり前だった日々が、今ではひどく退屈に感じられる。



「水を……。」

「済まないな」

「ありがたきお言葉にございます」



 俺を将軍と仰ぎながら、その伏した顔の内で舌を出す者たちがいる。


 三好長慶を筆頭とする佞臣どもと、信玄は明らかに違っていた。

 表向きには長慶と対立するそぶりを見せながら、内心では尻込みしている六角や畠山らとも、まるで異なる存在だった。



「んぐっ、んぐっ、んぐっ……。

 ぷはぁーーーっ! やはり、鍛錬後の水は格別だな!」



 今思い返しても、岩清水祭での一件は胸がすく思いがする。

 まさか、あの長慶を殴り飛ばせる者が、この世にいるとは思ってもみなかった。


 それ故に、どうしても知りたかった。

 なぜ、あれほど強く在れるのか。俺もまた、信玄のように強くなりたかった。



「今日は寒うございます。羽織りを……。」

「いや、このまま風呂に入ろう。支度はできているか?」

「抜かりなく」



 だが、信玄はもういない。諏訪へと帰ってしまった。

 家督を譲り、すでに隠居の身なのだから、このまま京に留まってもよいはずだと、何度も引き止めた。


 しかし、首を縦には振らなかった。

 それこそ、幕府の官職である『御供衆』の任まで用意したが、すべて無駄に終わった。



「では、急ごう」

「お供いたします」



 いや、無駄に終わったどころではない。

 その内示を明かした途端、信玄はそれまでの茶目っ気を感じさせる態度を一変させた。


 甲斐信濃という大領を統べてきた支配者にふさわしい、厳かな威容をまとい、こう俺を叱ったのだ。



『義輝様の御心遣い、誠にありがたく存じます。

 されど、謹んで辞退申し上げます』


『理由につきましては、聡明なる義輝様ならば、すでにお察しのことと存じます』

 

『しかしながら……。

 来週には京を去り、しばらくは義輝様と相まみえることも叶わぬ身。ゆえに、あえて申し上げましょう』


『己の好き嫌い……。それもまた、判断の一つには違いありませぬ。

 されど、それに重きを置いてはなりません。

 かの『十六国春秋』の書に、こうございます。

 一本の矢は容易く折れる。されど、二十本を束ねし矢は、折ること能わず、と』



 耳が痛くて、痛くて仕方がなかった。


 長慶を疎ましく思うあまり、耳障りのよい者たちばかりを身近に置いてはいないか。

 信玄の言葉は、そんな己の在り方を省みさせるものだった。


 御供衆とは征夷大将軍の傍らに侍る者を指す。

 これといった明確な役目はない。名誉職とも称号ともつかぬ、そうした性格の任である。


 それでも、これを欲する者は少なくない。

 権威を失ったとはいえ、征夷大将軍の側近という肩書きは、今なおさまざまな面で役に立つ。


 だが信玄は、自身の栄達よりも俺の身を案じて、その任を辞した。

 つい半年前まで幕府にいなかった自分に与えるよりも、長年仕えてきた者たちに与えたほうが、幕府の力になる。そう諭したのだ。



「だが、お前という矢があれば……。」

「……矢、にございますか?」

「いや、何でもない」



 そんな信玄だからこそ、俺の傍らにいてほしかった。

 本当に、残念でならない。


 だが、今は諏訪にいようと構わない。俺は心の底から、信玄という腹心を得たいと考えている。

 一季節ほど間を空けたなら、信玄と誼の深い藤孝を、再び使者として送り、改めて御供衆の任を贈るつもりだ。



「んっ!? 何事だ?」



 ふと廊下を急ぎ走る足音が耳に入り、考えを中断した。

 足を止め、こちらへ向かってくる者を待つ。



「只今、長尾景虎様の先触れが参りました。

 午後には、こちらへ到着との由にございます」

「承知した」



 しばらくすると、家臣が現れ、目の前に跪いた。

 その報告に頷き、去ってゆく背中を見送ったあと、晴れ渡った青空を仰いで、思わず溜息を漏らす。



「世の中とは、本当に侭ならぬものよ……。」



 今年の春、我が友である『景虎』が、数年ぶりに上洛してくることは、すでに去年の暮れには分かっていた。


 だからこそ、景虎と長く対立している信玄には、そのことを敢えて伏せていた。

 だがその一方で、二人を引き合わせようと、密かに思案も重ねていた。


 それは、これまで幾度となく行ってきた、征夷大将軍の権威を誇示するための仲介とは違う。


 景虎と信玄が争い続けていることが、ただただ辛かった。

 二人の間に立ち、是が非でも、その関係を修復したかった。



「武田様も長尾様も、きっと分かってくださいますよ」

「ふっ……。そうだと良いのだがな」



 しかし、たった一週間の行き違いが、二人を対面させなかった。


 それもこれも、すべては一月の末に上洛してきた尾張の信長のせいだ。

 あいつさえ京へ来なければ、二人は顔を合わせていたはずだった。



「僭越ながら、織田様も心強い味方となっていただけるかと」

「あいつか……。あいつ、俺に気安すぎないか?」



 信長は、決して悪い男ではない。

 気の短さには難があるが、物事を腹に隠さず、何事もはっきりと口にするところには、むしろ好感が持てる。


 だが、どうしても気に入らない。

 そもそも、上洛の目的が俺との謁見ではなかった点が、どうにも癪に障る。


 あいつの目的は、信玄との再会だった。

 俺への挨拶を済ませるや否や、隣にいた信玄に向かって『帰りが遅いから迎えに来た』と言い放った。それが、何よりの証拠だ。



「ですが、義輝様は楽しそうでしたよ?」

「そう見えたか?」

「はい。お年も近うございますし、まるでご友人のようでした」



 あまつさえ、信玄の屋敷で寝泊まりする始末。

 三杯目はそっと出しどころか、俺が信玄のために用意した伏見の美酒を、がぶがぶと好きなだけあおり、酔いつぶれたあとは居間で高いびきをかく。


 そのうえ、大人しかったのは、京や堺の見物に興じていた最初の一週間だけだった。

 それ以後は、俺と信玄の後を、求めてもいないのに付いて回り、口を挟んでは、ああだこうだと五月蝿く言い立てる。


 挙げ句の果てに、一月も過ぎると、今度は信玄に向かって『飽きた。早く帰るぞ』などと言い出した。

 あまりの身勝手さに呆れもしたが、同時に、俺もそんな性格だったらと思わずにはいられず、その自由気ままさに、密かな憧れを抱いてもいた。



「そう……。そうだな。

 ああいう騒がしいやつが、傍に一人くらいいたほうが、日々は愉快かもしれないな」



 きっと、信玄も同じなのだろう。

 いつも信長の駄々に手を焼き、苦笑を浮かべてはいたが、本気で腹を立てたことは一度もなかった。


 今ごろ、二人はどこを歩いているのやら。

 信玄はのんびりとした旅を好むが、せっかちな信長が一緒では無理に違いない。



「おっと……。体が冷える。風呂に急ぐぞ」

「はっ!」



 思わず失笑が漏れたのをきっかけに、青空から視線を下ろし、今は我が友と再会するための準備を急いだ。




 ******




「景、とら……。」



 友との数年ぶりの再会に、自然と足取りは早まる。

 だが、懐かしい後ろ姿が視界に入った瞬間、呼びかけかけた声を慌てて飲み込み、足を止めた。


 いつか、日の本すべての大名がここに集うと信じて造らせた評定の間。


 しかし、百人を超える者が集ってもなお余裕のあるこの広さは、いまだ活かされていない。

 評定の間を四つに仕切る襖が、すべて開け放たれたことは、一度としてなかった。


 上座に最も近い襖。その前に、景虎は立っていた。

 腕を組み、上座に背を向けたまま、襖に記された言葉を、食い入るように見つめていた。



「ふっふっ……。」



 正しく、それは半年前の再現だった。


 相違点を挙げるとすれば二つ。

 背を向けているのが信玄ではなく景虎であること。

 そして景虎が見つめているのが、かつて景虎自身が記した言葉の隣に並べられた、信玄の言葉であることだ。


 信玄もそうだったが、景虎もまた、襖に記された言葉の中に、信玄の気配を感じ取っているのだろう。


 武芸に秀でた景虎が、これほど近くにいる他者の存在に気づかないはずがない。

 気づけないほど、深く集中している証拠だった。



「人は城、人は石垣、人は堀……。

 情けは味方、仇は敵なり……。どうだ? 良い言葉だろ?」



 これが好敵手というものかと、思わず頬を緩めながら、再び歩み出す。

 景虎の背に隠れて見えない信玄の言葉を諳んじてみせると、景虎は振り返り、目をぎょっと見開いた。


 そのまま慌てて平伏しようとするが、俺は右掌を突き出してそれを制した。



「はっはっはっ! 良い、良い!

 公の場はともかく、この場でそのような堅苦しさは無用だ。

 それより、その言葉が気になるか?」



 ここまで反応が信玄と同じでは、笑うしかない。


 これほど惹かれ合っている二人だ。

 兵を用いて争うからこそ仲がより険悪になるのであって、本音を直接ぶつけ合えば、意外と簡単に解り合えるのかもしれない。



「はっ! 和を尊ぶ、誠に素晴らしい金言にございます。

 己の振る舞いを振り返り、かくありたいと、猛省していたところです!」



 段階を踏んで、信玄との和解を提案するつもりだった。

 だが、景虎が偏見を持たずに信玄の言葉に感服している今こそが、絶好の好機だと感じた。


 それに景虎は武人の気質が強く、回りくどい言い回しや謀略といった搦め手を嫌う。

 百の言葉をぐたぐたと重ねるより、単刀直入に行くべきだ。



「その言葉は、信玄が書いたものだ」

「な、なんと! し、信玄がこれを! ……し、信じられませぬ!」

「事実だ。信玄自身が筆を走らせるのを俺も、藤孝もその場で見ている」

「ば、馬鹿な……。」



 そう結論づけるように頷き、感服していた言葉の作者が信玄だと知って泡を食う景虎に、俺は信玄との和解を一気に切り出した。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ