幕 間 足利義輝、二人が友のために
「……95! 96!」
二条城の居住区にある庭で、木刀を握り、ひたすらに振り続ける。
剣術の基礎にして、最も基本的な訓練。
素振りを、多くの者は退屈だと感じるらしいが、俺にはそうは思えない。
五十回を超えたあたりから、心が次第に無に近づいていく。
日頃の悩みも、いつの間にか霧のように消え去り、清々しさだけが残るのがたまらない。
「97! 98! 99!」
だが、鍛錬のやりすぎは身体を傷める。
師にそう諭され、素振りは朝、昼、晩をそれぞれ100回までと厳しく制限されている。
「100っ!」
もう少し振りたくなる衝動を抑え、木刀をそっと下ろす。
季節は春に移ろったが、冬の名残を感じさせる肌寒さが庭の空気に漂う。
その中で上半身から立ち上る湯気が、鍛え抜かれた体の熱を静かに物語っていた。
「ふぅ~~……。」
「義輝様」
「おう!」
心地よい疲労感に包まれながら、大きく息をゆっくりと吐き出す。
それを合図に、小走りで近づいてきた小姓が傍らに跪き、両手で差し出してきた手ぬぐいを受け取った。
汗を拭い、着物を整えながら思う。
信玄がこの京から去って、すでに一週間。
かつては当たり前だった日々が、今ではひどく退屈に感じられる。
「水を……。」
「済まないな」
「ありがたきお言葉にございます」
俺を将軍と仰ぎながら、その伏した顔の内で舌を出す者たちがいる。
三好長慶を筆頭とする佞臣どもと、信玄は明らかに違っていた。
表向きには長慶と対立するそぶりを見せながら、内心では尻込みしている六角や畠山らとも、まるで異なる存在だった。
「んぐっ、んぐっ、んぐっ……。
ぷはぁーーーっ! やはり、鍛錬後の水は格別だな!」
今思い返しても、岩清水祭での一件は胸がすく思いがする。
まさか、あの長慶を殴り飛ばせる者が、この世にいるとは思ってもみなかった。
それ故に、どうしても知りたかった。
なぜ、あれほど強く在れるのか。俺もまた、信玄のように強くなりたかった。
「今日は寒うございます。羽織りを……。」
「いや、このまま風呂に入ろう。支度はできているか?」
「抜かりなく」
だが、信玄はもういない。諏訪へと帰ってしまった。
家督を譲り、すでに隠居の身なのだから、このまま京に留まってもよいはずだと、何度も引き止めた。
しかし、首を縦には振らなかった。
それこそ、幕府の官職である『御供衆』の任まで用意したが、すべて無駄に終わった。
「では、急ごう」
「お供いたします」
いや、無駄に終わったどころではない。
その内示を明かした途端、信玄はそれまでの茶目っ気を感じさせる態度を一変させた。
甲斐信濃という大領を統べてきた支配者にふさわしい、厳かな威容をまとい、こう俺を叱ったのだ。
『義輝様の御心遣い、誠にありがたく存じます。
されど、謹んで辞退申し上げます』
『理由につきましては、聡明なる義輝様ならば、すでにお察しのことと存じます』
『しかしながら……。
来週には京を去り、しばらくは義輝様と相まみえることも叶わぬ身。ゆえに、あえて申し上げましょう』
『己の好き嫌い……。それもまた、判断の一つには違いありませぬ。
されど、それに重きを置いてはなりません。
かの『十六国春秋』の書に、こうございます。
一本の矢は容易く折れる。されど、二十本を束ねし矢は、折ること能わず、と』
耳が痛くて、痛くて仕方がなかった。
長慶を疎ましく思うあまり、耳障りのよい者たちばかりを身近に置いてはいないか。
信玄の言葉は、そんな己の在り方を省みさせるものだった。
御供衆とは征夷大将軍の傍らに侍る者を指す。
これといった明確な役目はない。名誉職とも称号ともつかぬ、そうした性格の任である。
それでも、これを欲する者は少なくない。
権威を失ったとはいえ、征夷大将軍の側近という肩書きは、今なおさまざまな面で役に立つ。
だが信玄は、自身の栄達よりも俺の身を案じて、その任を辞した。
つい半年前まで幕府にいなかった自分に与えるよりも、長年仕えてきた者たちに与えたほうが、幕府の力になる。そう諭したのだ。
「だが、お前という矢があれば……。」
「……矢、にございますか?」
「いや、何でもない」
そんな信玄だからこそ、俺の傍らにいてほしかった。
本当に、残念でならない。
だが、今は諏訪にいようと構わない。俺は心の底から、信玄という腹心を得たいと考えている。
一季節ほど間を空けたなら、信玄と誼の深い藤孝を、再び使者として送り、改めて御供衆の任を贈るつもりだ。
「んっ!? 何事だ?」
ふと廊下を急ぎ走る足音が耳に入り、考えを中断した。
足を止め、こちらへ向かってくる者を待つ。
「只今、長尾景虎様の先触れが参りました。
午後には、こちらへ到着との由にございます」
「承知した」
しばらくすると、家臣が現れ、目の前に跪いた。
その報告に頷き、去ってゆく背中を見送ったあと、晴れ渡った青空を仰いで、思わず溜息を漏らす。
「世の中とは、本当に侭ならぬものよ……。」
今年の春、我が友である『景虎』が、数年ぶりに上洛してくることは、すでに去年の暮れには分かっていた。
だからこそ、景虎と長く対立している信玄には、そのことを敢えて伏せていた。
だがその一方で、二人を引き合わせようと、密かに思案も重ねていた。
それは、これまで幾度となく行ってきた、征夷大将軍の権威を誇示するための仲介とは違う。
景虎と信玄が争い続けていることが、ただただ辛かった。
二人の間に立ち、是が非でも、その関係を修復したかった。
「武田様も長尾様も、きっと分かってくださいますよ」
「ふっ……。そうだと良いのだがな」
しかし、たった一週間の行き違いが、二人を対面させなかった。
それもこれも、すべては一月の末に上洛してきた尾張の信長のせいだ。
あいつさえ京へ来なければ、二人は顔を合わせていたはずだった。
「僭越ながら、織田様も心強い味方となっていただけるかと」
「あいつか……。あいつ、俺に気安すぎないか?」
信長は、決して悪い男ではない。
気の短さには難があるが、物事を腹に隠さず、何事もはっきりと口にするところには、むしろ好感が持てる。
だが、どうしても気に入らない。
そもそも、上洛の目的が俺との謁見ではなかった点が、どうにも癪に障る。
あいつの目的は、信玄との再会だった。
俺への挨拶を済ませるや否や、隣にいた信玄に向かって『帰りが遅いから迎えに来た』と言い放った。それが、何よりの証拠だ。
「ですが、義輝様は楽しそうでしたよ?」
「そう見えたか?」
「はい。お年も近うございますし、まるでご友人のようでした」
あまつさえ、信玄の屋敷で寝泊まりする始末。
三杯目はそっと出しどころか、俺が信玄のために用意した伏見の美酒を、がぶがぶと好きなだけあおり、酔いつぶれたあとは居間で高いびきをかく。
そのうえ、大人しかったのは、京や堺の見物に興じていた最初の一週間だけだった。
それ以後は、俺と信玄の後を、求めてもいないのに付いて回り、口を挟んでは、ああだこうだと五月蝿く言い立てる。
挙げ句の果てに、一月も過ぎると、今度は信玄に向かって『飽きた。早く帰るぞ』などと言い出した。
あまりの身勝手さに呆れもしたが、同時に、俺もそんな性格だったらと思わずにはいられず、その自由気ままさに、密かな憧れを抱いてもいた。
「そう……。そうだな。
ああいう騒がしいやつが、傍に一人くらいいたほうが、日々は愉快かもしれないな」
きっと、信玄も同じなのだろう。
いつも信長の駄々に手を焼き、苦笑を浮かべてはいたが、本気で腹を立てたことは一度もなかった。
今ごろ、二人はどこを歩いているのやら。
信玄はのんびりとした旅を好むが、せっかちな信長が一緒では無理に違いない。
「おっと……。体が冷える。風呂に急ぐぞ」
「はっ!」
思わず失笑が漏れたのをきっかけに、青空から視線を下ろし、今は我が友と再会するための準備を急いだ。
******
「景、とら……。」
友との数年ぶりの再会に、自然と足取りは早まる。
だが、懐かしい後ろ姿が視界に入った瞬間、呼びかけかけた声を慌てて飲み込み、足を止めた。
いつか、日の本すべての大名がここに集うと信じて造らせた評定の間。
しかし、百人を超える者が集ってもなお余裕のあるこの広さは、いまだ活かされていない。
評定の間を四つに仕切る襖が、すべて開け放たれたことは、一度としてなかった。
上座に最も近い襖。その前に、景虎は立っていた。
腕を組み、上座に背を向けたまま、襖に記された言葉を、食い入るように見つめていた。
「ふっふっ……。」
正しく、それは半年前の再現だった。
相違点を挙げるとすれば二つ。
背を向けているのが信玄ではなく景虎であること。
そして景虎が見つめているのが、かつて景虎自身が記した言葉の隣に並べられた、信玄の言葉であることだ。
信玄もそうだったが、景虎もまた、襖に記された言葉の中に、信玄の気配を感じ取っているのだろう。
武芸に秀でた景虎が、これほど近くにいる他者の存在に気づかないはずがない。
気づけないほど、深く集中している証拠だった。
「人は城、人は石垣、人は堀……。
情けは味方、仇は敵なり……。どうだ? 良い言葉だろ?」
これが好敵手というものかと、思わず頬を緩めながら、再び歩み出す。
景虎の背に隠れて見えない信玄の言葉を諳んじてみせると、景虎は振り返り、目をぎょっと見開いた。
そのまま慌てて平伏しようとするが、俺は右掌を突き出してそれを制した。
「はっはっはっ! 良い、良い!
公の場はともかく、この場でそのような堅苦しさは無用だ。
それより、その言葉が気になるか?」
ここまで反応が信玄と同じでは、笑うしかない。
これほど惹かれ合っている二人だ。
兵を用いて争うからこそ仲がより険悪になるのであって、本音を直接ぶつけ合えば、意外と簡単に解り合えるのかもしれない。
「はっ! 和を尊ぶ、誠に素晴らしい金言にございます。
己の振る舞いを振り返り、かくありたいと、猛省していたところです!」
段階を踏んで、信玄との和解を提案するつもりだった。
だが、景虎が偏見を持たずに信玄の言葉に感服している今こそが、絶好の好機だと感じた。
それに景虎は武人の気質が強く、回りくどい言い回しや謀略といった搦め手を嫌う。
百の言葉をぐたぐたと重ねるより、単刀直入に行くべきだ。
「その言葉は、信玄が書いたものだ」
「な、なんと! し、信玄がこれを! ……し、信じられませぬ!」
「事実だ。信玄自身が筆を走らせるのを俺も、藤孝もその場で見ている」
「ば、馬鹿な……。」
そう結論づけるように頷き、感服していた言葉の作者が信玄だと知って泡を食う景虎に、俺は信玄との和解を一気に切り出した。




