第21話 龍の一筆
「う~~~ん……。何だったっけかなー……。」
現代に残る城は、数十年どころか数百年の時を経た遺跡であり、貴重な文化財である。
現代に復元された城を除けば、使われている木材は煤や汚れで黒ずみ、長い年月の積み重ねが目に見える形で感じられる。
しかし、戦国時代においては、城は現役の防衛施設そのものであった。
新しく建てられた城の木材はまだ若々しく、鼻を近づければ塗られた防腐剤の匂いが感じられる。
一方で、遺跡と呼ばれるほど古い城も、利便性や防御力を高めるための改築が施されており、古さと新しさが入り混じっている。
「漫画、アニメ……。
……いや、違うよな。セリフって感じじゃないし……。」
ここ二条城は、特に新しさが際立っていた。
評定の間に一人、仄かに漂う新築独特の香りを感じながら、俺は将軍『足利義輝』の到着を待っていた。
それも、かなりの時間を。
非は俺たちにある。
寄り道せずに訪れたため、午後の謁見予定を午前に繰り上げてもらったのだから、仕方がない。
『遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます。
ですが、義輝様は先ほどまで剣の鍛錬中でございました。
ただいま、武田様にお会いするために、風呂で身を清めておられます。しばらくお待ちいただけますでしょうか?』
だが、そう言われて待っているうちに、祇園神社で感じた憤りはいつの間にか鎮まってしまった。
幕臣たちが総出で訪問を歓迎してくれる中、鼻息を荒くさせ、二条城の廊下をドシドシ踏み鳴らして『俺、怒ってますよ!』とアピールしていた自分が、今では猛烈に恥ずかしい。
「ことわざ……。にしては長いし……。
漢詩……。なんて、そもそも知らないし……。」
恐らく、この待ち時間は俺に冷静さを取り戻させる藤孝殿の策だろう。
そうでなければ、幾らなんでも待たせすぎだ。
先ほど『かなりの時間を』と言ったが、現代の時間単位でいうなら、もう二時間はとっくに経っている。
おかげで、お代わりが定期的に運ばれてくるお茶で、俺の腹は満杯になっている。
身体を左右に揺らしてみると、腹の中から『たぷん、たぷん』と音が響くし、厠にはすでに三度も往復していた。
「う~~~ん……。絶対、知っているはずなのに……。」
相手の意図さえ読み取れれば、あとは簡単だ。
向こうが望む通りに、こちらは憤りを収め、今は退屈を持て余していると素直にアピールするだけ。
そうすれば、姿は見えなくとも、どこかから俺の様子を窺っている者が『準備が整った』と判断し、足利義輝が姿を現すに違いない。
「……短歌か?
いやいや……。俺、百人一首すら知らないぞ?」
暇つぶしにこの評定の間に敷かれた畳を数えてみると、三十枚だった。
ただっ広い間の中で、用意された座布団は俺のための一枚だけ。
畳二枚を挟んだ先には上座があり、階段を一段上る程度に高くなっている。
その奥には、現代では古い家でしか見かけなくなった床の間が設けられている。
一見すると無駄なスペースに思えるこの床の間だが、それは大きな誤りだ。
「俳句なら、季語が入っていないのはおかしいしなー……。」
床の間に飾られる掛け軸や、季節に応じた生花は家主からのもてなしだ。
訪れた客の目を楽しませ、家主の到着を待つ間や、中座している間の退屈を紛らわせる役割を担っている。
それ自体が会話のきっかけとなり、潤滑油にもなるのだ。
つまり、それらの調度品に関心を払っていれば、それだけで『退屈していますよ』というアピールになる。
ただ、残念ながら糠に釘、暖簾に腕押し、馬の耳に念仏、カエルの面に水。
俺は美術品全般にまったく興味がないので、これほど困ることはない。
「うーーーん……。思い出せないなー……。」
天下の征夷大将軍が居城とする床の間に飾られた調度品だ。
生花も、それを生ける花器も、隣に置かれた青染めの皿も、鷹の描かれた掛け軸も、どれも国宝級に違いない。
ところが、まったく心が動かない。
それこそ、上座で将軍が座る予定の座布団の横、肘置きである脇息の反対側に置かれている『地球儀』なんて、この時代では最先端の超目玉に決まっている。
「あーーー……。もやっとするー……。」
しかし、俺にとっては置き場に困るただのゴミでしかない。
小学校に入学したとき、学習机と一緒に両親が買ってくれた地球儀。
当初は確かに喜んだ記憶があるが、使い道といえば高速回転させて遊ぶくらいだった。
気づけば衣装タンスの上に追いやられ、以来ずっと埃をかぶったまま放置されている。
「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり……。」
だが、床の間とは反対側。
その奥にも三十畳ほどの部屋が続いているのだろう。
閉められた白襖に書かれた言葉が、どうしても気になって仕方がなかった。
最初は、ただそのアンバランスな配置が気になった。
六枚一組の襖のうち、文字が書かれているのは右から三番目の一枚だけ。どう見ても不自然だ。
おそらく、意味が途中で切れてしまうその文字には続きがあり、いずれ左隣の襖に書き足すつもりなのだろう。
そこで『なるほど』と一度は納得して頷いたのだが、その直後に『あれ?』と首を傾げた。
そもそも『中途半端だ』なんて感じたこと自体がおかしい。
その言葉を、どこかで知っているような気がしたのだ。
『天の運はいかんともし難い。
されど、己をいかに守り、いかに戦うかは、日々の鍛錬と心構えにこそ宿る。
功もまた、人より授かるものではなく、自らの手で掴むものだ』
そのせいだろう。
俳句のように短い言葉であるにもかかわらず、その短さの中に込められた作者の意図が、するりと胸に落ちた。
旅の道中、藤孝殿が折に触れて俳句や短歌を詠んでくれ、そのたびに解説を交えた勉強会を開いてくれたおかげで、俺にも多少の心得はついた。
しかし、所詮は門前の小僧に過ぎず、本来ならば、こうも容易く読み解けるほど教養が身についたとは到底言えない。
「どこかで……。どこだ?」
だったら、この言葉は、現代に至るまで語り継がれてきた偉人か英雄の名言に違いない。
それなのに、誰の言葉だったのかどうしても思い出せない。
魚の小骨が喉に引っかかったような苛立ちが募る。
俺は、言葉の書かれた襖の前を左へ、右へと腕を組んで歩き回った。
角度を変え、何度も立ち止まって眺め、眉間に皺を寄せて、穴が空くほど凝視する。
「気になるか?」
「んっ!? ……まあね」
だが、没頭しすぎたのは失敗だった。
ふと背後から声を掛けられ、思わず相槌を返して振り返った瞬間、呼吸ほど遅れて、目が飛び出るほど驚愕した。
「えっ!? ……ええっ!?」
「ふっふっふっ……。」
いつからそこにいたのか。
将軍『足利義輝』が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
俺『武田信玄』にタメ口を許される人物など、そう多くない。
名乗られずとも、その正体は明白だった。
さらにその確信を裏付けるように、将軍の左右には先ほどまで姿のなかった二人が控えている。
左隣で跪き、苦笑を浮かべているのは藤孝殿。
右隣では、太刀を預かる小姓が顎を引き、目を伏せて静かに跪いていた。
「こ、これは……。し、失礼を致しました!」
慌ててジャンピング土下座。
我ながら、見事に決まったと言っていい。
もっとも、この程度で勘気を受けるとは思わない。
それでも、今の馴れ馴れしい無礼が将軍の機嫌を損ね、武田家に不利益を及ぼすなどという事態は避けたい。
「はっはっはっ! 良い、良い!
それより、この襖書きが気になるか?」
「はっ! 日々の精進を戒める、まことに素晴らしい金言かと!」
「うむ、儂も気に入っておる!
ゆえに、ここに置いたのだが……。
おかげで気が抜けぬわ! 毎日、嫌でも目に入るからな!」
しかし、その心配はどうやら杞憂だったらしい。
将軍は上機嫌に、喉の奥まで見えそうなほど豪快に笑い、俺は胸をなで下ろしつつ、伏せていた顔をそっと上げた。
俺の知る戦国史では、足利義輝といえば『剣豪将軍』の異名で名高い人物。
その異名に違わず、武辺者らしく気質は剛気なのだろう。ご機嫌さを抜きにしても、声が大きい。
「だが……。さすがと言うべきか。
遠く離れていようと、気配を感じるとは……。」
「それは、いかなる意味にございますか?」
そう思っていると、将軍はふいに声のトーンを落とした。
何やら含みを持つ物言いに疑問を抱き、俺は思わず問い返す。
「その襖書きは、景虎が書いたものだ」
将軍は襖書きからゆっくりと視線を離し、俺へと向けた。
しばし無言で見据えたのち、ようやく口を開き、襖書きの作者を明かした。
「景虎がっ!?」
喉に引っかかっていた魚の小骨が、ようやく取れたような気分だった。
俺は反射的に顔を襖書きへ向け、危うく『そう、それだ!』と口走りそうになった言葉を慌てて呑み込んだ。
襖に記された言葉は、長尾景虎が遺したとされる『合戦の心得』だ。
俺の知る限り、この心得にはさらに三つ文が続くはずだが、今の時点では、まだ景虎の中で形になっていないのだろう。
いずれ生まれるその続きの言葉を、後から書き足すつもりなのではないか。
もしそれが正しいのなら、当初感じたアンバランスな襖の配置にも、ようやく合点がいく。
「以前、景虎が上洛した折、この二条はまだ建築途中でな。
財をはたいてどうにか城は建てたものの、客をもてなす調度がなくて……。つい嘆いてしまったのだ。
すると景虎が、『それならば』と、この書を記してくれたのだ」
「ほほぉ~う……。それを聞いては、黙っておれませぬな」
「……んっ!?」
それにしても、この胸の奥に広がる感情は何なのだろう。
将軍から襖書きの由緒を聞かされた途端、さっきまでの爽快感は一気に消え、代わりに胸の内がざわざわと落ち着かなくなっていく。
だが、ひとつだけ確実に言えることがある。
天下の征夷大将軍が居城とする、この二条城の中心で、長尾景虎が堂々と名乗りを掲げているのなら、晴信の影武者たる俺も、黙っているわけにはいかない。
「藤孝殿、筆と墨を用意してくれないか?」
「おおっ!? 信玄、お前も書いてくれるのか!」
「ええ、負けてはいられません」
「これは凄いぞ! お前と景虎の書が並べば、我が家の家宝になる!」
「いやいや。景虎の襖なんて引っ込めたくなるほどのものを書いてみせますよ?」
先ほども言ったが、俺の俳句や短歌の心得など、所詮は門前の小僧程度にすぎない。
だが、俺には『知識』がある。
遠い未来まで受け継がれ、現代の社会でも十分に通用する、あの晴信の金言を。




