幕 間 織田信長、猛虎の目
「それにしても、尾張はどこも大変な賑わいですな……。
まあ、それも当然か。関所がないのですから、商人にとっては極楽も同然です」
場所を表通りにある、信玄たちが今夜の宿として借りた一室に移しての会談。
無論、細川藤孝には俺の正体を伏せさせてある。
せっかく信玄が身分を隠しているのだから、堅苦しいことは抜きに語り合いたい。
そんな化かし合いの挨拶を終えると、信玄は開け放たれた窓の方を眺めながら微笑み、昼を過ぎても活気に溢れる清洲城下を褒め称えた。
「関所だけではありません。座もです。
しかし、こちらは問屋を営む貴殿にとって、面白くない話ですかな?」
俺は思わず口元が緩むのを自覚する。
関所を廃す『楽市』と、商人たちの利権を廃す『楽座』は、俺自ら肝いりで実施した政策だ。
実施以前は家臣や商人から猛烈な反発もあったが、清洲城下を中心に人が賑わい、利益が以前以上に生まれると分かった今は、反対の声など聞こえてこない。
ただし、東の駿河には今川義元という大きな雄が存在するため、土岐川から東の関所は防諜の面で廃すことができず、楽市楽座の範囲は尾張半国にとどまる。
だが、いずれは尾張全域に広げるつもりだ。
近頃、新しい名物『蕎麦切り』が大きな牽引力となり、諏訪が栄えていると盛んに聞くが、どれほどのものか。
尾張半国で、以前は考えられない賑わいだ。尾張一国となれば、日の本一の賑わいと名高い畿内の堺すら上回るに違いない。
「はっはっはっ! 確かに、確かに……。
ですが、心配には及びません。……と言うのも、この政策には欠点がある」
「欠点……。ですか?」
だが、信玄は高らかに笑い、俺の自信を否定した。
たちまち苛立ちが湧いてくるが、虚勢には見えないし、あの信玄の言葉だ。聞く価値はあるはずだと自制する。
もし、実施以前に家臣や商人たちが言ってきたような、古い慣習に縛られた文句を言ってくるのなら、今度はこちらが大笑いしてやる。
「座を廃す……。誰もが気軽に商いを行えるようになったのは良いことです。
儂らのような他国の商人が口利き料を払わなくなったことも、関所を廃したことも合わせて大助かりだ」
「だから、外の賑わいがある。
今、この尾張には尾張内外を問わず多くの者が集い、落ちた多くの金が巡り巡って、多くの者を潤していることでしょう」
ところが、意外や意外。信玄は『楽市楽座』を褒めに褒め、褒めちぎった。
「良いことづくめに聞こえますが?」
俺は意図が読めず眉を寄せる。
だが、ここまで褒められて悪い気はしない。苛立ちも徐々に治まっていく。
「しかし、それは過渡期を過ぎるまでの話です」
「商いが自由になった分、競争は激しさを増し、やがて大が小を駆逐し尽くして、巨大な一強が出来上がる。
そうなったら、独占された市場は競争力を著しく失い、商いは楽市楽座を行う前以上に凝り固まったものになりかねません」
「だから、ある程度の小が駆逐された段階で、大は結託する。
結託して扱う品の相場を取り決め、その決定に小は従うことになるのです」
「それを世間では何と言うか……。そう、問屋です。
つまり、座は確かに廃されたかもしれませんが、最終的に形を変えて残るでしょう」
その直後、信玄は痛烈な批判を浴びせかけてきた。
「ぐぐっ……。」
俺は反論できなかった。
まるで見てきたかのような未来図は説得力に満ち、自分も確かにそうなるだろうと感じずにはいられなかった。
「それに、この政策は尾張半国という小さな範囲だからこそ保てている」
「どういう意味だ!」
「キャっ!?」
悔しさから湧き上がる怒りもあり、俺は小国の主と侮った信玄の一言に耐えきれず、激高した。
勢いよく立ち上がった瞬間、信玄の右隣に座っていた、先ほど天下の往来で痴話喧嘩を繰り広げていた小娘が悲鳴をあげた。
「い、いけません! だ、旦那様!」
「大旦那様、お下がりを!」
同時に、俺の背後に控えていた猿が足にしがみつく。
一瞬遅れて、信玄の背後に控えていた若造が俺と信玄の間に割って入り、両手を大きく左右に広げた。
信玄の背後に控えていたもう一人、細川藤孝はさすがと言うしかない。
肩をピクリと小さく跳ねさせたが、それだけ。交渉事に慣れている様子が窺える。
「分からぬか? 信長殿」
「なっ!? 気付いていたのか? いつからだ!
いや、それより、今言った意味を教えろ、信玄!」
だが、やはり褒め称えるべきは細川藤孝ではなく、信玄だ。
信玄だけが全く動じず、立ち上がった俺を見上げながら、肩を震わせて苦笑を漏らす余裕っぷり。
しかも、俺の正体に気付いた上で煽っていたことも判明する。
ますます猛りの炎は燃え盛り、踏み止まれと思いながらも、唾を飛ばして怒鳴ってしまった。
「まあ、落ち着け」
「うるさい!」
この会談は非公式なものとはいえ、互いに互いの名を口にした以上、そこには意味も責任も生まれる。
信玄は隠居した身とはいえ、つい先日まで甲斐と信濃を治めていた大国の前国主だ。
対して、俺は尾張をまだ完全に掌握しきれてもいない身で、官位も力も比べものにならない。
もし、俺が信玄の不興を買ったと世間に知れ渡れば、尾張にとって様々な不都合が生まれる。
甲斐信濃と尾張の間には美濃と三河が挟まるため、今すぐ戦になることはない。
しかし、それは未来永劫という意味ではない。
三河を支配する駿河の今川家と武田家は婚姻関係にあるため、武田が三河へ進出する可能性は低い。
だが、美濃なら話は別だ。
越後の長尾家との関係を立て直しさえすれば、信玄には美濃へ手を伸ばせる力がある。
「やれやれ……。仕方ないやつだ」
「早く言え!」
だからといって、ここで簡単に退くほど、俺も、尾張も安い存在ではない。
ここで退いてしまったら、俺は俺でなくなる。
今日に至るまで、俺のために命を落としてくれた者たちにも、顔向けができなくなる。
「こんな思い切った政策を考えつくお前は、実に優秀だ」
「周囲の大きな反発があったろうに、それを押し切って実現させた実行力も見事。
それに、儂が信玄だと知ったうえで噛み付いてくる胆力も良い。
うむ……。お前の器量なら、一国はおろか、二国も、三国も治められよう」
「だがな、人が手を伸ばせる先には限りがある。
その限りの先を預けるのは他人だが……。誰もがお前のように優秀とは限らぬ」
ところが、それは俺の思い違いで、ただの早とちりだった。
「まして、人は誘惑に弱い。
大金を目の前に積まれれば、商人と結託する者が必ず現れ……。」
「だ、だったら、どうしろと言うのだ!」
しかも、俺をまっすぐに見つめるその眼差しは、どこか慈しみに満ちていた。
まるで親が子を優しく諭すようで、背中のあたりがむず痒くなるほどだ。
たまらず信玄の言葉を遮って怒鳴り返したものの、自分の声が上ずっているのに気づいた瞬間、さっきまで熱くなりかけていた頬が、別の意味でさらに熱くなった。
「くっくっ……。 それを考えるのは、お前の役目だろう?
そもそもだ。こんな助言、儂は滅多にしないんだぞ?」
信玄は愉快そうに肩を揺らして笑うと、どこか満足げに柏手を打った。
「おっと……。正体に気づいた理由を聞いていたな。ついでに教えてやろう」
「商人というのは評判第一の生き物だ。ましてや地元ならなおさらだな。
だというのに、あの醜態の最中に、わざわざ話しかけてくるのはおかしい」
「商人を装うのなら、せっかく丁稚役まで仕立てたのだ。
そこの藤吉郎殿に話しかけさせるべきだったな」
俺は肩をすくめる信玄を前に、口を開いたまま呆然と立ち尽くした。
もはや完敗と言うしかない状況に、さらに追い打ちがかかった。
なんと信玄は、俺の足にしがみついたまま離れようとしない猿の正体まで把握していたのである。
猿は農民の生まれだが、機転が利き、弁も立ち、世渡りが抜群に上手い。
一度見たら忘れられない猿顔に愛嬌もあって、独自の広い人脈を築いている。
今日、信玄をいち早く見つけてきたのも、その人脈の賜物だろう。
俺は、使える者は身分を問わず引き立てる方針だ。
猿もトントン拍子に出世し、今では台所奉行を兼ねる足軽組頭。家臣たちの間にも、その名が広まりつつある。
だが、それはあくまで織田家の内側での話だ。
猿の名が他国にまで知れ渡っているなど、到底考えられない。
それなのに、信玄は知っていた。
当然、俺がいかなる男で、いかなる道を経てここに立っているのかも、すでに見抜かれているのだと考えるほかない。
この男の目は、どこまで見通しているのか。
その耳は、どこまでを聞き取っているのか。
驚きよりも先に、薄ら寒い恐怖が胸に広がった。
「お、おらの名前を! し、信玄様が! へへぇーーーっ!」
「ぐぬぬぬぬっ!」
ここまで完膚なきまでに打ち負かされたのは初めてだった。
信玄ほどの英雄に名を覚えられて舞い上がり、涙を流して平伏する猿を横目に、俺はただ歯軋りするしかなかった。




