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再就職は武田信玄! ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~  作者: 浦賀やまみち
林の章

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第19話 地平線の彼方へ





「大殿! 見てください!

 ほら、あれ! あれ、あれ! あれが美濃ですか?」



 諏訪湖の西と繋がる天竜川を、船でのんびりと川下り。

 天竜峡からは陸路を西へ進む。狭い山間の道といくつかの峠を越え、ようやく辿り着いた美濃平野。


 先ほどまで険しい上り道に息を切らしていたのは、どこへやら。

 桃は眼下に広がる巨大な平野を指さし、はしゃぎながら声を弾ませた。



「ああ、そうだ。あれが美濃だ」



 その愛らしさに、思わず頬が緩む。


 桃が興奮するのも無理はない。

 彼女が知る信濃の平野は、どれほど広くても山間の平野に過ぎない。

 山脈という壁が四方を遮り、遠近の違いはあれど、平野の先には必ず限りがあった。


 しかし、眼下に広がる美濃平野は違った。


 小山や大地の起伏はあるものの、山脈の壁はどこにも見当たらない。

 平野は遥か彼方まで広がり、地球の丸ささえ実感できるほどに地平線まで続いている。


 こんな光景は、信濃では決して見ることができない。



「うふふっ……。こんな所に来れるんなんて、夢みたい」

「はっはっはっ! なら、夢の入口といったところだな! 京はまだまだ先だぞ!」



 では、なぜ俺たちが、信濃では決して見ることのできない光景を今目にしているのか。


 その全ての原因は義信にある。

 俺がのらりくらりと煙に巻いた藤孝殿の巧みな弁舌に根負けし、上洛の要請に応じてしまったのだ。



「そうでした! 京って、どんなところですか?」

「きっと雅なところだろう。花の京とも呼ばれるしな」

「花の京!」



 幸いなことに、今の武田家には上洛する余裕があった。

 武田家当主の義信は甲斐から動けなくても、気楽な隠居暮らしの俺には、自由気ままに動ける余裕があったのだ。


 それに、義信と晴信の知名度を比べれば、晴信の方が圧倒的に上だ。

 隠居した俺『武田信玄』でも上洛すれば、武田家と将軍『足利義輝』の面目は十分に立つ。


 そう泣き落としされて、義信はどうしても断りきれなかったらしい。

 正直、可能性の一つとしては考えていたものの、上洛要請を携えた早馬が届いたときには、思わず溜息が漏れた。



「由緒正しい大きな神社がいっぱいあるぞ」

「大殿は神社がお好きですものね!」



 現代なら車や鉄道を利用して、京都までの旅は半日で済む。


 だがここは戦国時代。基本的な移動手段は自分の足だ。

 京都までの長い道のりを考えると、億劫で、仕方がなかった。


 ところが、いざ出発してみると、考えは変わった。


 自分の足で行く旅は、なかなか悪くない。

 さすがに最初の数日は、疲労と足の筋肉痛で完全なお荷物状態だったが、それにも慣れると、景色を愛でる余裕が生まれてきた。


 陽が上ったら出発し、陽が沈む前には宿を取る。

 日付や時刻に追われることなく、ゆっくり、ゆっくりと歩む旅は、格別の情緒に満ちていた。



「それにしても、雨が上がって本当に良かった。これ以上道が泥濘んでは、堪らんからな」



 だが、厄介なのは雨だ。

 こればかりはどうすることもできない。


 後の世に中山道と名付けられる道は、古来から人々の往来で形作られてきた。


 しかし、それだけだ。

 戦国時代の道は、敵の侵略を防ぎ遅らせるために整備を怠ったものばかり。

 雨が降れば、至るところが水溜まりになって泥濘み、場所や雨量によっては通行が難しい小川のようになってしまう。


 その結果、どうしても足元は濡れて汚れる。

 イネ科の植物の茎を編んで作った、雨合羽代わりの蓑も、とても蒸れるため、着心地はお世辞にも良くない。


 それでいて、戦国時代の者たちは逞しい。


 現代人なら諦めてしまう雨の中の歩き旅も、彼らは決して諦めない。

 強い風が一緒に吹いていようと、よほどの大雨でない限り、当然のように受け止めて動じないのだ。


 例えば、今朝がまさにそれだ。


 俺は屋根を叩く雨音で目が覚め、その強さから『この宿にもう一泊だな』と二度寝を決め込もうとした。

 だが桃に、『何をもたもたしているんですか! 早く出発の準備をしてください!』と叩き起こされてしまった。



「今朝、この先に沢があると聞きました。

 そこで草鞋の泥を落としましょう。

 このままでは歩きにくいですし、いざという時に滑ってしまうかもしれません」



 もっとも、感覚は違っても同じ人間だ。

 雨の中で歩くのがしんどいと感じるのは、今も昔も変わらない。


 立ち止まった俺の背後から話しかけてきたのは、槍を杖代わりにして歩き、旅の荷物を背負った馬を牽く『穴山信君』である。


 彼は晴信の次女を娶り、俺が知る歴史では武田二十四将の一人に数えられる武田家の重臣だ。

 しかし今は、家督を継ぐ前の十七歳の若武者に過ぎない。


 父『穴山信友』が仏門に入り隠居することを、俺に倣って強く希望していた。

 そういう事情があるなら、家督を継ぐ前の気楽な身分のうちに見聞を広めてはどうかと、今回の旅の同行者に俺は誘ったのだ。



「では、少し休憩するか。喉も乾いたしな」

「そうですね。この峠を越えたら、今夜の鵜沼宿はすぐとのことです。余裕があります」



 上洛とは、京都へただ行くだけではない。

 今上天皇と室町幕府の征夷大将軍、この二人との拝謁を目的としており、その権威は全盛より薄れたとはいえ、非常に名誉なことである。


 無論、実際に拝謁するのは、従四位下の官職『大膳大夫』を持つ俺『武田信玄』一人だけだ。

 だが、同行を担っただけでも、末代まで語れるほどの名誉である。


 それだけに当然と言うべきか、俺の上洛が決まると、誰が護衛として同行するかで一悶着が起きた。


 屋敷に詰めかけ、用を足している最中でも、戸板の向こうから私が、俺が、儂が、某が、拙者が、と喚き立てる始末。

 鬱陶しさに我慢できなくなり、逆に名乗りを挙げていなかった、今年の春から屋敷の警備隊長となった穴山信君に白羽の矢を立てた。



「明日は晴れるといいな。やはり雨の旅はつまらん」



 言うまでもないが、旅の途中で俺が命を落とせば、武田家にとって一大事だ。

 そのため、常日頃屋敷を守っている兵士たちの中から選抜された約二十人が、護衛として同行している。


 しかし、護衛をぞろぞろと連れて歩くのは堅苦しく、自分が重要人物であることを対外的に示すようなもの。

 山賊に狙われる危険は逆に高まり、武田家の支配下から離れるここから先の国主たちにも、余計な緊張を与える可能性がある。


 そのため、護衛は陰ながら行動する。

 翌日に行く道の安全や今夜の宿を選定する先行組と、俺たちを挟んで前後を行く現場組に分かれ、付かず離れずで警護している。



「ですが、この景色は、雨が降ってこそですよ。

 こうも遠くまで澄み渡って見えるのは、雨の後の晴れ間だけですからね」



 もう一人の同行者は、上洛を武田家に要請してきた当人の藤孝殿だ。


 その声に振り向くと、さすがは当代一の文化人。

 俺が着込むと正しく蓑虫状態になるほどの蓑ですら、見事に着こなし、麗しい容貌をまったく損なっていない。

 これで武芸、和歌、茶道、蹴鞠、囲碁、料理など、何でもござれのリアルチートなのに、それを決してひけらかそうとしない性格。嫉妬する以前に、尊敬の念しか湧かない。


 さらに、藤孝殿が持つ豊富な知識は旅に大いに役立った。

 各地の名所や名物はもちろん、道の傍らに茂る雑草まで何でも知っており、まるでガイドさんがいるかのようだった。



「おっ!? さすがだな。藤孝殿は考え方が実に雅だ」

「そうだ! 細川様、ここで一句をぜひ!」

「えっ!? いや、しかし……」

「儂からも頼む。桃の願いを聞いてやってくれないか?」

「勉強になります! うちの父は教養を知れとうるさいですから!」

「皆さんがそこまで仰るのでしたら……」



 おかげで、俺たちはご覧の通り、退屈とは無縁で旅を満喫しながら、京都へのんびりと向かっていた。




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