第17話 豚で天下を取る!
「豚ぁ?」
信繁さんが素っ頓狂な声を上げた。
その目は大きく見開かれ、まるで信じがたいものを目の前にしたかのようだった。
ここは、屋敷の奥にある渡り廊下を抜けた先の小さな離れだ。
山の沢から引いた清水が流れ込む池に囲まれ、唯一の出入り口である渡り廊下には、人が歩くと軋んで音を立てる仕掛けである『鶯張り』が施されている。
信繁さんが常に影武者として張り詰めているのは気の毒だと、息抜きの場として用意してくれた俺の書斎である。
「はい、豚です」
「あの、毛の生えていない猪のことか?」
だからここでは、事前に人払いさえ済ませておけば素の自分に戻れるし、信繁さんもそのつもりでいてくれる。
密談の場としても、うってつけの場所だ。
この書斎から、俺の持つ未来の知識や技術が、信繁さんを介して世に放たれている。
逆に俺は、月初めになると必ず訪ねてくる信繁さんから、今の世の中の情報を得ていた。
前回の訪問以降に武田家で起きたあれこれや、俺の提案で活発化した畿内と武田家周辺の諜報活動の結果といった内容だ。
「その豚です」
「あれか? ブイブイ鳴いてうるさいくせに、猪とは逆ですぐ逃げ出すやつか?」
義信は随分と奮起しているらしい。
季節は冬を越え、春から夏へと移り変わる梅雨時を迎えているが、相談のためにここを訪れるのは飯富虎昌だけだ。
例のお説教以来、義信は一度も姿を見せておらず、信繁さんも『一皮剥けた』と絶賛している。
「だから、その豚ですってば!
もーー……。しつこいな! 本当は分かってるんでしょ?」
俺もようやく一安心だ。これで将来は安泰のはず。
俺の知る歴史では、義信は父である晴信に反旗を翻している。
桶狭間の戦い以後、晴信の戦略方針が変化し、義信の妻の実家である駿河の今川家を攻めようとしたことが原因だ。
俺が影武者になった時点で、その未来はまず起こり得ないとは分かっていても、どこかに不安は残っていた。
だからこそ、胸を撫で下ろしている。
「だが、しかし……。うむーーー……。」
「何かで読んだ記憶があるんですけど、九州のほうでは普通に食べるらしいですよ?」
さて、今日の議題は豚の畜産だ。
戦国時代にタイムスリップしてからおよそ九ヶ月。
食事の減塩化には成功したものの、食材は農作物が中心で、せいぜい時おり川魚が添えられる程度。どうしても肉が食べたくなっていた。
しかし、本州では明治になるまで肉食を忌み、そもそも畜産という発想がほとんど存在しなかった。
それでもごく稀に肉が口にできたのは、俺が『武田信玄』だからだ。
肉が食べたいなどと我儘を言えば、当日は無理でも翌日、遅くとも翌々日には準備されるだけの権威を持っている。
その肝心なことを、しばらく忘れていたのである。
「九州など、京よりはるか遠い地の話をされてもなー……。」
「武田は天下を取るんでしょ? そんな小さなこと言ってちゃダメダメ!」
「いや、天下と豚を並べるな。お前にとっての天下は豚なのか?」
今年の冬、大雪が二週間も続いたときのことだ。
あまりの寒さに『鍋が食べたい。それも肉鍋がいい』とつい愚痴をこぼした。
すると、翌々日の夕飯に猪鍋が出てきた。
いくらなんでもおかしいと思った。
「じゃあ、その土地ごとの食べ物ってあるじゃないですか?
例えばイナゴ。あれ、俺の生まれた『現代』では食べられていないんです」
「何っ!? そうなのか? 美味いではないか?」
なぜなら、愚痴を言った日から猛吹雪が続き、人の往来どころか商人たちの足さえ完全に止まっていたからだ。
そんな状況で、いったいどこから猪肉を入手したのか。
賄方に問いただしたところ、思いもよらない答えが返ってきた。
毒沢の先住民たちは、中山道から諏訪へ入ろうとする獣を退治する、先祖代々の役目を担う猟師団なのだという。
さらに驚くことに、俺がここへ移り住んでから口にしてきた肉は、すべて彼らからの献上品だったというのだ。
「まあ、俺も慣れましたけど……。
最初はきつかったですよ? 味というより、あの見た目がね。
ご馳走だって分かっていたから我慢しましたけど……。正直、吐きそうになりました」
要するに、俺の軽いボヤきが、毒沢の先住民たちに無茶をさせてしまった。
過酷な猛吹雪の山中を、三日間も歩かせる結果になった。
分かっていた『つもり』だったが、俺の言葉の重さがどれほどかを思い知らされた。
猪鍋を食べた翌朝、礼を言おうと先住民たちを呼び出したのに、彼らはただ怯えるばかりだった。
後で、屋敷を守る馴染みの兵に探りを入れさせたところ、彼らは『不興を買って殺されるに違いない』と思い込んでいたらしい。
「そうだったのか。お前、バリバリ食べていたから……。
てっきり好物かと思って、山盛りで渡してしまった。……申し訳ないことをしたな」
俺は『三日も無茶をさせてしまった』と詫びたつもりだった。
だが、彼らはそれを『三日も遅れるとは何事か』という叱責だと受け取ってしまった。
俺が許されているポケットマネーで用意した褒美も、一応は受け取ったものの、使った形跡がまったくない。
彼らの貧しい暮らしぶりは、今も何ひとつ変わっていない。
「つまり、そういうことです」
「全然分からん。どういうことだ?」
「歓待で出されたものは、食べないわけにはいかない。
天下を取るつもりがあるなら、食わず嫌いはダメです。今のうちから慣れておこう、ということですよ」
危機感を覚えた俺は、融和策の第一歩として、彼らの集落を日々の散歩コースに組み込むことにした。
ところが、俺が姿を見せた途端、遊んでいた子どもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
家々の戸板も次々に音を立てて閉まり、区画全体が水を打ったように静まり返る。
やがて、長老が青ざめた顔で姿を現し、震える声で言った。
『大殿様……。不興を買ったことを、深くお詫び申し上げます』
『つきましては、この老骨の命ひとつで、どうかお許しくださいませ』
『なにとぞ……。なにとぞ! 子どもたちには、寛大なお裁きを!』
明らかに怖がられ、まるで厄介者のように扱われている。
この不健全な関係をどうにか改善するために、俺がひねり出した策が『豚の畜産計画』だった。
畜産を始めるには、まず『祖』となる豚が必要だ。
その捕獲こそ、毒沢の先住民たちにうってつけの仕事だった。
育成と繁殖もゆくゆくは彼らに任せるつもりだが、もちろん彼らには、代々続けてきた生活がある。
それを変えてもらう以上、相応の対価が必要だし、何より俺自身が彼らとの距離を縮めていかねばならない。
触れ合いを増やし、信頼を築き、関係をゆっくりと改善していくつもりだ。
畜産が軌道に乗った暁には、その功績をもって毒沢のまとめ役の家を武士身分に取り立てる。
そこまでが計画の第一段階である。
最終的には、完成したノウハウを甲斐と信濃の全域へと広げていく。
豚は丈夫で多産、肉も脂も使え、皮も骨も無駄にならない。
きっと武田家の発展に大きく寄与してくれるはずだ。
「しかし……。正気か?
四足を食べようだなんて……。それに、そのために飼って増やそうなどと」
信繁さんは眉をひそめ、鋭い視線で俺をまじまじと見据えた。
先ほども言ったが、肉食を忌避しているためだ。
予想通りの反応に、思わず俺は苦笑した。
だが、予想通りだからこそ、反論もばっちりと用意してある。
「でも、籠城戦でいよいよとなったら、馬でも何でも食べるでしょ?」
俺は笑みをニヤリに変え、信繁さんの理屈を一瞬でねじ伏せる、ぐうの音も出ない反撃を放った。




