第16話 父として、影として
「なるほど、なるほど……」
縁側に胡座をかき、伸ばした左腕の先に立てた日本刀をじっと見つめる。
手首をそっと動かすたび、刀身は陽光を受けてキラーリと光り、その眩しさに自然と目を細めてしまう。
それが美しいとは思うが、それ以上の感想は湧いてこない。
俺の横には、時代劇でよく見る、日本刀の手入れに欠かせないあの白いポンポンが置かれている。
今はまさに、日本刀の手入れの最中だ。
晴信は、これを平時の日課にして、武田家が所蔵する幾本もの名刀を管理していたらしい。
影武者の俺も当然、それを真似る必要がある。
馬で遠乗りに出かけない日は、面倒で面白みに欠ける作業が、昼食後の日課として組み込まれていた。
「なるほどなるほど、ではありません!
私の話をちゃんと聞いてますか! 父上!」
そんな俺の右隣、二メートルほど離れた場所から怒鳴り声を飛ばしてくるのは、書類上の息子となった武田義信だ。
影武者として俺が晴信に代わり務める一方、義信は武田家の当主となり、あっという間に半年が過ぎ、季節は冬を迎えた。
だが、半年が経った今でも、武田家にとって晴信の存在は依然として大きかった。
どうしても晴信と比べられる義信には、ストレスが溜まるのだろう。
彼は度々、甲斐からわざわざ出向いてきては、家臣たちをうまくまとめきれない愚痴を、俺に零していた。
「聞いてる、聞いてる……。」
「とてもそうは思えません! 適当な相づちばかりじゃないですか!」
しかし、愚痴を何度も何度も聞かされる身としては、当然ながら鬱陶しい。
影武者である俺にできることはほとんどない。
それでも、武田家当主という重責を背負う義信には、やはり同情の念を抱かずにはいられなかった。
これまでは、愚痴を大人しく聞き、当たり障りのないアドバイスを返してきた。
だが、今日は違う。
思い切って、強く、ガツンと言ってやるつもりだ。
先日、信繁さんからも頼まれていた。
俺の元へ度々訪れるその行為が、家臣たちから侮られる一因になっているというのだ。
「さてさて……。」
こんな時、晴信ならどうするだろうか。
日本刀を手入れしながら考えた末、手首をひねって、義信の目に刃の反射光を当てた。
「うっ!? な、何をっ!?」
たまらず義信は右手を顔の前にかざして身を引く。
その隙をつき、刀の切っ先を素早く義信の眼前に突きつける。
「お、大殿!」
義信の背後で正座して控えていた飯富虎昌が、血相を変えて腰を浮かせた。
飯富虎昌は、義信が武田家の当主になる以前、義信を補佐して導く教育係『傅役』を務めていた、武田家随一の重臣である。
現在では信繁さんに次ぐ武田家ナンバー3の地位を不動のものとしているが、きっと甲斐では、義信と家臣たちの間を取り持つ武田家一番の苦労人でもある。
実際、義信の家督相続に際して初めて出会ったときの虎昌は、人生最良の時とでも言わんばかりに輝いていた。
しかし、今では疲労の色が濃い。
少し痩せたようにも見え、半年前にはなかった白髪が目立ち始め、五十代半ばにしては老け込んだ印象を受ける。
今夜は、我が家自慢の温泉でゆっくりと身体を休め、日々の疲れを癒してほしいものだ。
「座れ……。」
「ぎょ、御意!」
俺が鋭く睨むと、飯富虎昌はたちまち腰を落とし、平伏した。
一呼吸遅れて、我を取り戻した義信も、慌てて平伏する。
その背中はかすかに震えており、俺は脅しが過ぎたかと少し反省し、大きく息を吐いた。
「ふーーーー……。」
信繁さんの話によると、現代に伝わる逸話以上に、晴信と義信の親子仲は悪かったという。
現代風に言えば、ネグレクト状態だ。
義信を産んだ三条の方との関係が芳しくなかったこともあり、義信は幼い頃から素っ気なく扱われ、成長してからもいがみ合うことが少なくなかったらしい。
それでも、こうして頼ってくる様子を見ると、義信は晴信を嫌いにはなれないのだろう。
一方、晴信自身も息子にどう接すればよいのか分からなかったのではないかと、俺は推測する。
父親である信虎との確執は有名な話であり、虐待は連鎖すると聞く。
その証拠に、俺は晴信の子供たち全員と面会したが、娘たちは軽口を叩きながら平然と接してきた。
だが、息子たちは常に緊張しており、晴信に恐れを抱いている様子が見て取れた。
俺としては、義信とは良好な関係を保ちたい。
今の生活が送れているのは義信のおかげだ。
もし義信が俺を疎んじ、妙な気を起こすようなことになれば、困る。
「義信……。お前、今年でいくつになる?」
「二十を数えました!」
俺は日本刀を戻し、鞘に収めた。
胡座のまま尻を支点にして腰をひねり、身体の向きを義信と正対させる。
だが、義信は頭を上げようとしなかった。
先ほど、成長してからはいがみ合うことが多々あったと述べたが、晴信は自分に非があっても言い返せなくなると、義信を鉄拳で黙らせることすらあったとも聞いている。
そのトラウマを刺激してしまったのかもしれない。
少なくとも、飯富虎昌はそう捉えたようだ。伏せていた顔をわずかに上げ、俺の様子を上目遣いでしきりに窺っている。
もし俺が膝を立てて義信に詰め寄ろうものなら、すぐさま身を挺して守るつもりに違いない。
「なら、同じだ。儂も二十の時に家督を継いだ。
しかし、儂はお前のように誰かに泣きついたりはしなかったぞ?」
こうなったら、作戦を変更する。
語ろうと考えていた言葉自体は変えないが、怒気を抜き、優しく諭すようにした。
「それをお前はどうだ? 家督を継いでから、儂の元へ何度泣きついてきた? 言ってみろ」
「ぐっ……。」
「そもそもだ。国主がそう簡単に本拠を離れてどうする?
それ自体が、甘く見られる原因だとどうして分からない?」
「ぐぐっ……。」
「今年の冬は暖かくて雪も少ないから良いが……。もし今夜から大雪が降ったらどうする?
お前は甲斐へ戻れなくなり、何日も……。
下手をすれば、国主が数週間も不在になる。家臣たちが勝手を始めるのは、当然ではないか?」
「……お、仰る通りにございます」
ただし、その内容は、怒気を抜いてもなお痛烈なものだった。
信繁さんから『叱ってくれ』と頼まれて以来、考えに考え抜いた力作だけに、義信は何も言い返せない。
「虎昌……。お前もだ。
信繁がいるとはいえ、義信が心から頼りにしているのは、お前なんだぞ?
国主が不在の時、本拠を守るのは腹心の役目。それを国主と腹心の二人が一緒に離れて、どうする?」
「ま、まことに……。ま、まことに……。」
飯富虎昌にも、しっかり釘を刺しておく。
これまでも、義信が俺の元へ訪れようとするたびに引き止めていたのだろうが、それを強化する。
義信が飯富虎昌と一緒に来るのは、俺と会うのが一人では心細いからに違いない。
これで今後、虎昌が同行するのは難しくなり、そのこと自体が抑止力になる。
「だから、次にここへ来るのは、雪が融ける春まで禁ずる。いいな?」
「……はい」
これにて、一件落着。
そう言いたいところだが、罪悪感がどうにも苛む。
義信はすっかり意気消沈し、返事は弱々しく、頭すら上げようとしない。
放っておけば、俺がこの場を去るまでずっとそのままだろう。
俺は腕を組んで縁側の天井をしばし見上げる。
心の中で『もうちょっとサービスをしてやるか』と呟き、視線を義信へ戻した。
「お前は儂の子だ……。
儂が育てたとは言えぬが、お前の成長は、この目でしっかりと見てきたつもりだ」
眼差しは優しく、口元には笑みを浮かべ、声は穏やかに。
「だから、お前に家督を譲った。お前ならできると……。
今、お前に足りないのは自信だけだ。
空元気でも構わん。下らない批判など、『それがどうした!』と笑い飛ばしてやれ」
「ち、父上……」
義信が伏せていた顔を勢いよく跳ね上げる。
その目は涙に滲み、瞼はわなわなと震えていた。
「もう一度言う……。お前は儂の子だ。
儂にできたことを、お前にできぬはずがない。頑張れ、お前ならできる」
「ち、父上ぇぇ~~~っ!」
そして、鼻水まで垂らしての大号泣。
義信が片膝を立て、俺の胸へ飛び込んでくる瞬間。
俺は『鼻水、汚えっ!』と避けたい衝動を必死に押し殺し、しっかり受け止めた。
「馬鹿者。武田の棟梁たる者が泣くな」
「は、はい……。うっううっ……。」
「ううっ……。お、大殿がそのような御心だったとは……。せ、拙者は、拙者は……。」
飯富虎昌も伏せていた顔を上げた。
右腕で目元を覆い、もらい泣きしている。
「まあ、今夜は泊まっていけ……。
そうだな、鍋でもつつきながら、酒を一緒に飲もう」
二人が泣けば泣くほど、影武者の俺は苦笑が浮かんだ。
義信の背中に両手を回し、幼子をあやすように右手で優しく何度も叩いた。




