第15話 桃と影の湯けむり
「では、頼む」
「はい、お任せください」
俺は檜の風呂椅子にどかりと腰を下ろした。
十代半ばの少女に背中を流してもらう。
現代なら間違いなく犯罪者扱いだろうが、ここは戦国時代。何の問題もない。
「まずは、お湯をかけさせていただきますね」
「おう、頭からザパーッとやってくれ!」
この地が隠居地に選ばれた理由は三つある。
一つ目は、単純に温泉が湧いていることだ。
俺は川中島の戦いで落馬して腰を痛めた際、たまたま帰り道にこの地の温泉に立ち寄り、その泉質を気に入った。
そのまま湯治を兼ねて、隠居地としてここを定めたというわけだ。
「ふふっ……。大殿はそれがお好きですね」
「せっかくの丸ハゲだ。やらないのは損だろ?」
つまり、俺は武田家の本拠地である甲斐には戻っておらず、これが隠居地を選んだ二つ目の理由に関わってくる。
俺と晴信はどれだけ瓜二つだとしても、それは見た目だけだ。
晴信の奥さんをはじめ、彼に近しい者たちの傍に長く居続ければ、立ち振る舞いの微妙な違和感に必ず気付かれるに違いない。
だからこそ、それを矯正する時間が必要だった。
最初の一ヶ月は、基本的に人前に姿を現さず、何をするにもどこへ行くにも、信繁さんが腰を痛めた俺の介護という名目で同行した。
立ち振る舞いに問題があるたびに注意を受け、それを少しずつ直していったのだ。
「はい、ザパーッ!」
「ふーーーっ! これだ、これ!」
それと並行して行ったのが、筆跡を晴信のものに似せる訓練だった。
戦国時代の古文書を見たことがある人なら分かると思うが、その文字は達筆というか、非常にクセが強い。
使い慣れていない筆の扱いにも苦労した。
信繁さんが教材として選んだのは、晴信が孫子の兵法書を自分なりの解釈と改良して残しておいた走り書きのメモだ。
毎日、何枚も何枚も、信繁さんが合格を出すまでメモを清書する作業は、まるで兵法書を編纂しているかのような気分だった。
今では、晴信流の兵法が頭にしっかり詰め込まれ、諳んじることさえできる。
「ああ、もうっ! 顔は私がお拭きしますって、いつも言ってるじゃないですか」
「おおっ、そうだった、そうだった」
もっとも、たとえ俺に戦場に立つ必要があったとしても、俺はあくまで影武者だ。
晴信流兵法が役立つ日は来ない。
指揮は家督を継いだ義信か、信繁さんが執る。
俺が指揮を執らなければならない状況など訪れるはずもなく、もし訪れたとしても、それはよほど切羽詰まった時であり、そんな状況はごめん被る。
最近、教材が変わり、武田家領内の刑罰に関する書類の清書を行っているのだが、密かに思うことがある
それは、晴信流兵法の編纂が我ながら上出来だったため、ついでに、いつかやろうと思いながら放置されていた未編纂の書類を、俺にやらせているのではないかということだ。
その証拠に、晴信が書いた書類もあれば、信繁さんが書いたと考えられる書類もあり、後者の比率は徐々に増えていた。
「それじゃあ、お背中を流しますね」
「おう、やってくれ」
最後の三つ目は、ここが甲斐と信濃の中心に位置していることだ。
武田家の本拠地である甲斐の躑躅ヶ崎館から、遠くもなく近くもない絶妙な位置にもある。
ここなら、甲斐の家臣たちの中で晴信の威光を薄れさせる効果があるとともに、完全には心服しておらず、場合によっては裏切る可能性のある北信濃の家臣たちに対する牽制にもなる。
さらに、長尾家の調略に対する抑止にもなる。これが勘助さんの考えである。
「んっしょ、んっしょ……。んっしょ、んっしょ……。」
「おお、いいぞ。その辺りだ」
「はい、ここですね! んっしょ、んっしょ……。」
少女が俺の背中を一心不乱に洗う。
掛け声を繰り返しながら、鼻息をフンス、フンスと漏らす様子が微笑ましく、思わず俺は苦笑を漏らした。
彼女の名は『桃』という。
名目上は俺の側仕えだが、実際には隠居した俺のもとに、北信濃のある家臣が差し出してきた人質である。
「だんだんと上手くなってきたな」
「えっ!? そうですか?」
さて、信繁さんと勘助さんについてだ。
現代では人付き合いが決して上手くなかった俺だが、年齢差がありながらも、この二人とはかなり親しくなっている。
戦国時代にタイムスリップして三日目で実感したことだが、この時代には娯楽というものがほとんどない。
娯楽と言えば、将棋や囲碁、和歌や漢詩といった、現代に生きていたら馴染みの薄いものばかりで、正直俺の肌には合わなかった。
楽しめるようになったのは、必要に迫られて習得した乗馬くらいだ。
ここでの最大の娯楽は、やはり他者との会話である。
影武者としての修練という目的もあったが、この三ヶ月間、信繁さんと勘助さんと多くの時間を共に過ごしたことで、自然とお互いの仲は深まっていった。
「まあ、最初は擦っているだけで、酷かったからな」
「うーー……。大殿のいじわる」
だが、信繁さんも勘助さんも、俺とは違って才能に溢れた人物だ。
いつまでも俺一人に付きっきりでいてくれるはずもない。
十日前、俺が影武者として十分に通用すると太鼓判を押され、今ではそれぞれの役目の場へ戻っている。
「おおうっ……。そこだ、そこ。少し強くしてくれ」
「はい! んっしょ、んっしょ!」
信繁さんは、武田家の本拠地である甲斐の躑躅ヶ崎館へ戻った。
今後は緊急事態を除き、月に一度、甲斐での出来事を土産話にこの地を訪れると言っていた。
勘助さんは、俺の知る歴史で武田家滅亡の大きな要因となった鉄砲に強く興味を抱いたらしい。
鉄砲を手に入れ、その性能をしっかり学び、甲斐信濃へ移住してくれる鉄砲鍛冶師を探す旅に出た。多分、年単位で会えないだろう。
だからこそ、二人がいない寂しさは、不安以上に大きかった。
寂しくなると、人の温もりが欲しくなる。それが人間というものだ。
「むっ!? いかん!」
「な、何か粗相をっ!?」
「これを見よ。桃のせいで、褌からマムシが鎌首をもたげたぞ」
「ま、まぁ……、お、大殿ったら、朝からイケナイ御方。さ、昨夜もあんなに……」
以上の理由から、俺は無罪だ。
それに、俺の側仕えになった桃には、そういう役目も含まれている。
つまり、そういうことをしなければ、桃が困ってしまうのだから、仕方がないのだ。
余談だが、桃は数え年で十五歳。
胸はまだ膨らみかけで、少女が女性へと移り変わる真っ最中。
一方、晴信の影武者である俺は、対外的には三十七歳となる。
現代では許されない関係かもしれないが、戦国時代では合法である。
おかげで、いろいろな思惑はあったものの、俺にも彼女が初めてできた。
信繁さんと勘助さんがここを去る三日前、桃が俺の側仕えとなり、その夜には桃が俺の寝室で待っていた。
今まで何度も、道行く仲睦まじいカップルを見るたび、羨んで呪ってきた。
しかし、現代では時代が遅すぎたのだ。
俺の時代はここ、戦国時代だ。
「……いいな?」
「は、はい……。も、桃をお召し上がりください」
さっき湯に浸かったとき、あまりの心地よさに思わず漏れた言葉を、もう一度言おう。
影武者、最高。




