第14話 独り占めの湯
「あれから、もう三ヶ月か……。
どうなることかと思ったけど、朝からまったりと温泉……。最高だな」
十人は軽く入れるほどの大きな岩風呂を、今、俺は独り占めしている。
山の泉源から絶え間なく湧き出る湯は、湯口からゆったりと流れ落ち、かけ流しのせせらぎが耳に心地よい。
オレンジ色に濁る湯で顔を洗いながら、大自然の息吹を全身で感じる。
ここは諏訪湖の北にある毒沢温泉。
家督を義信に譲った俺の隠居地として、信繁さんが選んでくれた場所だ。
『隠居地』という響きは、少し寂しさを帯びているようにも思える。
だが、この岩風呂を朝から贅沢に独り占めしている時点で、そんな思いは完全に吹き飛ぶ。
ここは、まぎれもないパラダイスだ。
「まあ……。最初はしょぼかったけどね」
諏訪大社という大きな名所が目と鼻の先にあり、そこから街道は東西南北へと延びている。
それでもここは、一歩手前にある知る人ぞ知る秘湯の地だった。
狭い山間では、農業だけで暮らすことはできない。
そのため、猟師を兼業する家が十軒ほど立つ、小さな集落があるだけだった。
「あれよあれよと、建ったもんなー……。」
ところが、俺の隠居地として選ばれたことで、この地は一変した。
山と森が切り開かれ、小山の斜面には俺が住む屋敷が建ち、その周囲には丸太を組んだ防壁と、東西を見張る物見櫓が作られた。
もはや、ここは砦そのものだ。
実際、屋敷は常時百人の兵士によって、昼夜の二交代制で二十四時間体制の警護が敷かれている。
もっと警備を減らして、十人か二十人程度で十分だと俺は提案したが、信繁さんは頑として譲らなかった。
結果として屋敷が完成すると、今度は兵士たちの住む長屋が屋敷の外に、雨後の筍のように次々と建ち並んだ。
「もう立派な村……。いや、街だよな」
こうなると、利に聡い商人たちも黙ってはいなかった。
大小さまざまな甲斐や信濃の商人が、街道沿いに支店を次々とオープンした。
それに伴い、人々や荷物の往来も飛躍的に増えた。
監視のための関所まで設置され、かつての寂れた光景はどこにも残っていない。
小さな城下町へと変わりつつあった。
しかも、これがわずか三ヶ月の間に起こったことだ。
一日一日と過ぎるたび、前日の光景が変わっていくのだから、ただただ驚くばかりである。
ブルドーザーのような土木作業車も、トラックのような資材運搬車もない。
使われている道具も現代のように洗練されておらず、すべてが手作業の力仕事だ。
この三ヶ月間で動員された人の数は、半端ではない。
武田家の支配力を、まざまざと実感させられた。
「ただなー……。先住の人たちを、助けてあげたいよなぁー……。」
哀れなのは、この地に元々住んでいた人々だ。
農地は少なく、運頼みの猟だけでは生計を立てるのは厳しかったのだろう。
新築の家々が立ち並ぶ中、彼らが住む古いあばら家は、見るに耐えないほどみすぼらしく、惨めに映る。
開拓が始まる前、信繁さんが彼らをどこかへ強制的に移住させようとしたのは正しかった。
俺は、先住者なのだからこちらの都合で土地を奪うのは良くないと止めたのだが、それは間違いだった。
まさか、こんなことになるとは思いもしなかった。
だが、今さら移住を再び提案するのも気が引けるし、彼らに新築の家を無償で与えるというのもどこか不自然だ。
彼らをどうにかしてやれないものか。
その思いが、ほんの少しの罪悪感となって胸に引っかかり、最近はそれがずっと俺の悩みになっていた。
「大殿、賄いから朝食が少し遅れるそうです」
「そうか」
「それまでの間、よろしければお背中を流しましょうか」
「そうだな……。頼むとしよう」
脱衣所へ繋がる戸がゆっくりと開く音が聞こえた。
釣られて振り向くと、湯浴み着を着た少女が頭を下げながら正座をしており、その申し出に頷いて、俺は湯から立ち上がった。




