第13話 影武者の誓い
「兄上……。本気ですか?」
まさに台本通りの展開だ。
俺と武田信繁は、目が合うとつい口元が緩みかける。
お互い、必死にこらえ、力強く真剣な眼差しで見つめ合う。
「みなまで言うな。安心しろ……。
儂はまだ生きている。家督を譲ると言っても、義信が完全に独り立ちするまでは、儂が後見を務める」
傍から見たら、兄弟の熾烈な睨み合い。
実際は、ただのにらめっこで、一呼吸、二呼吸と数え、五呼吸目。
武田信繁が絡ませていた視線をやっと外すと、深く息を吐き出すように溜息を漏らした。
俺の勝ちだ。やったぜ。
「しかし……。いえ、そういうことでしたら……」
実体はさておき、武田信繁の渋々といった様子に、新たに反対の声を上げる者はいなかった。
公私にわたり武田晴信を補佐する、武田家ナンバー2の信繁が納得したのだから、それも当然のことだった。
だが、やはりと言うべきか。目の前に居並ぶ大半の顔には、不安の色が浮かんでいた。
口には出せないが、武田家の後継者となったばかりの二十歳の若き武田義信に、さまざまな面での不満を抱いているのだろう。
「しかし……しかしだ。親とは愚かな存在よ。
儂はお前たちの忠誠を疑ったことは一度たりともない。
だが、家督を譲るとなった途端、たちまち不安が襲ってきたのだ」
「なあ、信繁よ……。
お前たちは、儂と変わらぬ忠誠を義信に捧げ、義信が築く新たな武田を共に盛り立ててくれるか?」
俺は眉間の力を抜き、視線を落とした。
リアリティを出すため、武田晴信の仮面を一瞬だけ外し、戦国時代にタイムスリップして不安な俺の素を出した。
「御屋形様、そう仰るのなら、拙者が誓紙をお書きいたします。
ここ、生島足島神社は朝廷とも深い繋がりのある場所。誓いを立てるには、これほど相応しい地はございません」
「おお、勘助! そうまで言ってくれるか! 儂は嬉しい! 嬉しいぞ!」
そこへ、傍らに跪く山本勘助から提案が入り、俺は満面の笑みでうんうんと頷いた。
ここでのポイントは二つある。
一つは、迷信がまかり通るこの時代において、神仏に対する誓いは非常に尊いものであるという点だ。
生島足島神社の主神の名の下で、武田義信に忠誠を誓わせることで、当面の離反を防ぎ、数年の時間を稼ぐことができる。
もう一つは、俺が武田信繁と話している最中にもかかわらず、山本勘助が許可を待たずに割り込んできた点だ。
山本勘助は、武田晴信から全幅の信頼を受け、家臣の中でも特に重用されていた。
しかし、甲斐出身でも信濃出身でもない余所者であるため、家臣たちの間では嫌われている。
そんな山本勘助が横紙破りを行えば、家臣たちも対抗心から誓約を申し出てくる。
それが、山本勘助の読みだった。
「静まれ! 静まれ!
誰か、神主殿を呼べ! あと、墨と筆、紙も持ってこい!」
そして、それは思惑どおりに進んだ。
家臣たちが一斉に俺へと押し寄せると、その熱狂を武田信繁が一喝して鎮めた。
さすがは戦国時代を代表する山本勘助の策である。
自分に向けられた悪感情すら巧みに利用する。ただ、凄いと言うしかない。
「やはり、儂は日ノ本一の果報者よ!
その岩のごとく固い忠義! これからは義信を頼むぞ!」
熱狂が渦巻く中、山本勘助が俺にだけ聞こえる小声で『退くな!』と鋭く戒めてくれなければ、確実に一歩下がっていた。
正直に言うと、初めて締めた褌の中が少し生温かくなっているのは、俺だけの秘密である。
その場に堂々と腰を下ろし、胡座をかく。
武田信繁がてきぱきと指示を出すと、家臣たちは長い列を俺の前に作っていく。この統率力も、ただ凄いと言うしかない。
「ところで、殿……いえ、大殿。
仏門に入られたのであれば、新たな名を授かったはず。それをお聞かせいただけませんか?」
さて、その長蛇の列の先頭に立つのは、俺がこの場に現れた際、最初に声をかけてきた美青年だった。
こいつは一体、誰なのだろうか。
目の前の列は武田家における序列そのものであり、その先頭に立つということは、俗に言う武田四天王の一人に違いない。
これほどの美青年が武田四天王なら、何かしらの逸話が残っていそうなものだが、やはり記憶にない。
逆に、名前を問い返したい猛烈な欲求に駆られながらも、美青年の問いかけに心の中で『よくぞ聞いてくれた』とニンマリと笑みをこぼす。
「ふっ……。信玄」
「しんげん、にございますか?」
そう、偶然か、奇跡か。
それとも、これがいわゆる『歴史の修正力』というものか。
剃髪した後、和尚さんから頂いた、仏門に入った証の名は『来々軒信玄』だった。
来々軒については思わず『俺はラーメン屋か!』とツッコみたくなったが、信玄の名に関しては、心の底から驚かされた。
「恵林寺の和尚殿に、仏門に入る理由と家督を譲る件を話したら、えらく絶賛してくれてな。
武田家の証たる『信』と、凡人には考え及ばぬという意味の『玄』を足して……。
信玄! 今日から儂の名は、武田信玄だ!」
影武者に過ぎない俺が、奇しくも戦国時代に名を馳せた武田信玄と同じ名を持つことになった。
ならば、その名に恥じぬ人生を送らねばならない。
まだ先行きに不安はあるが、俺の心は高揚していた。




