第12話 仮面の王
「信繁殿、殿はまだなのか!」
「もうすぐだ! 少し待て!」
「先ほどからそればかりだ! 本当にご無事なのだろうな!」
「昨日はこちらへ来るなり、そのまま奥へ引っ込まれたと聞くぞ!」
「兄上は無事だ! 同じことを何度も言わせるな!」
戸板の向こうから、騒がしい声が途切れなく響いてくる。
それを必死に押さえ込もうとしている武田信繁は、かなり手を焼いているようだった。
張り上げられる声に辟易している気配が、はっきりとうかがえた。
しかし、武田家の家臣たちが騒ぎ立てるのにも訳があった。
俺と武田信繁、山本勘助の三人は霧の中で道に迷い、生島足島神社へ至るまでに千曲川を三度渡る遠回りをすることになった。
だが、その思わぬ迂回が幸いし、俺たちは戦場からいち早く離れることができた。
「そうは言っても、朝餉の時間はとうに過ぎておるのだぞ!」
「そうだ、そうだ! 顔も見せぬなど、おかしいではないか!」
「兄上とて、寝過ごすことくらいある!」
一方、多くの者たちはそうはいかなかった。
ただでさえ濃霧による混乱が広がっていた。
その最中、長尾軍が武田晴信の戦死を意味する『大膳大夫、討ち死に!』と叫びながら触れ回ったものだから、武田軍の混乱は一気に大混乱へと転じた。
足軽たちは命惜しさから、我先にと逃げ出した。
それを止めようとする指揮者たちは、『信じるな! 逃げるな! 止まれ!』と怒号を張り上げる。
「まさか、本当に倒れておられるのでは……?」
「だから言っておるだろう、兄上は無事だ! 余計な憶測をするな!」
「信繁殿はそればかりだ!」
「然り、然り! 無事というのなら、殿を今すぐ呼んできてくだされ!」
その結果、あちこちで同士討ちが頻発した。
昨日の今日で、戦死者の正確な数はまだ判明していない。
だが、国力が大きく落ち込むのは避けられないと、先ほど武田信繁が肩を落として語っていた。
ともあれ、俺たち三人がこの生島足島神社へたどり着いたのは夕方頃だったが、武田家の重臣たちが揃ったのは深夜を過ぎてからのことだったらしい。
その頃の俺はというと、差し入れてもらった酒と、慣れない緊張の連続で蓄積した疲れが一気に出て、すでに高いびきをかいて眠り込んでいた。
深夜過ぎに起きていたという大騒ぎにも、まるで気づかなかった。
「……よろしいか?」
戸板の前に跪いていた山本勘助が、声を潜めてこちらへ視線を送ってくる。
俺は、すっかり涼しくなった禿頭をひと撫でし、力強く頷いた。
その合図を受け、山本勘助が戸板を勢いよく開け放つ。
「騒々しいぞ! ここをどこだと思っている!
生島大神も足島大神も、朝っぱらから迷惑しておられるわ!」
武田信繁と山本勘助の二人が用意してくれた台本は、しっかりと頭に叩き込んである。
昨日、川中島古戦場で見せてしまった桜島級の大根ぶりは、もう晒さない。
武田晴信の仮面をきっちりと被り、俺は喝を堂々と轟かせた。
「と、殿っ!? ……そ、その頭は?」
場が静まり返り、無数の息をのむ気配があたりに満ちた。
そして、俺の姿を目にした者たちが抱いた当然の疑問が、最初の一声となって飛び出す。
その声の主へ視線を向けた瞬間、俺は思わず目を見張った。
思わず眉を跳ね上げてしまうほどの美青年が、そこに立っていた。
これだけの家臣が集まる中で最前列にいるのだから、重臣中の重臣なのだろう。
武田家の重臣の名は一通り把握しているつもりだったが、これほどの美貌を持つ人物がいたという話は、少なくとも俺の知る限り存在しない。
嫉妬すら呑み込んでしまうほどの美青年に、つい名前を問い質したくなる。
しかし、今は我慢の二文字だ。
俺に与えられているのは台本のみ。
予備知識もない状況で下手にアドリブを効かせれば、間違いなくボロが出る。ここは台本どおりに進めるしかない。
「此度の戦……。儂の不甲斐ない采配ゆえ、多くの命を失わせてしまった。
よって儂は、その数多の魂を慰めるため、そして……。
今後、己を戒め、自らを律するために、仏門へと入ったのだ!」
ここでのポイントは、今日の晴れ渡った青空を眩しそうに目を細めて見上げながら、感情のボルテージをゆっくりと高めていくところだ。
胸の前に置いた右拳をやや大袈裟なくらい力強く握り締め、肩をわずかに震わせつつ、台詞を最後まで絞り出す。
言い終えた瞬間、口の中でそっと欠伸を噛み殺し、瞳には涙を滲ませる。
「なんとっ……。なんと慈悲深きお言葉!
この真田幸隆、感服に堪えませぬ!
真田庄の者はことごとく散れど! 殿のその御一言に、皆の死が、報われ申した!」
「そうか! そう言ってくれるか!
うむ! 儂は日ノ本一の果報者よ!」
その直後、ダンディーな髭のおじ様が、涙をにじませながら吠えるように声を上げた。
さすがは武田家である。
戦国時代のビッグネームが、いきなり目の前に現れたことに俺は軽く感動すら覚えた。
すると、その勢いに続けとばかりに、同じく名の知れた家臣たちが次々と名乗りを上げ始める。
穿った見方をすれば、これは忠誠を誇示するための『ポーズ』なのかもしれない。
だが、彼らから立ち上る熱気は紛れもなく本物だった。
武田晴信という人物が持つ、圧倒的なカリスマ性。その一端を、今まさに肌でひしひしと感じていた。
俺が知る歴史において、武田信玄亡き後に家督を継いだ武田勝頼は家臣たちをまとめきれず、武田家は滅亡へとまっしぐらに転げ落ちていった。
その理由の片鱗を、今ようやく理解できた気がした。
「皆の心遣い……。まことに嬉しい!
だが、儂が仏門に入ったからといって、それだけで此度の戦で散った者どもに顔向けができるはずもない!」
名乗りはまだまだ続いていたが、俺は右の掌を突き出して制した。
この場に集った家臣の数は百を軽く超えている。
全員の名乗りを聞いていては、さすがにキリがない。
「武田家において『信賞必罰』は絶対である!
それは儂自身とて例外ではない! 儂が定めた法を、儂みずから破るわけにはいかん!」
「ゆえに……。ここに宣言する!
今、甲斐の留守を預かっておる嫡男『義信』に家督を譲り、儂は隠居する!」
しかし、静まるのを待ってから、突き出していた右掌をぐっと握って見せつつ声を張り上げた途端、場はたちまちざわめきに満ちた。
先ほどの名乗り合いなど比べものにならぬ騒がしさで、誰もが手近な者と顔を見合わせている。
やがて、数多くの視線が俺の隣に集まり、それはまるで武田信繁に救いを求めているかのようだった。
「兄上……。本気ですか?」
武田信繁の低い声が響き渡った。
ざわめきはたちまち止み、俺と武田信繁が視線を交わすと、場に緊迫感が漂い始めた。




