幕 間 武田信繁、酒の味 下
「まあ……。あの『すまぁとふぉーん』なる板を見せられては」
「ああ、あれは驚いたな。しかし……。」
あの者が未来の証として真っ先に見せてくれた、『すまぁとふぉーん』なる小さな黒い板。
あれには本当に驚かされた。
小さな黒い板の中に、儂と勘助の姿が鮮明に映り、その切り取られた時が何度も何度も繰り返される様子を初めて目にしたとき、文字通り腰を抜かすほどの衝撃を受けた。
いや、驚いたのはそれだけではなかった。
あの小さな黒い板に詰まった数多の未来の姿は、想像を絶するものばかりだった。
そんな儂らの何度も驚く声を聞き、不審に思ったのだろう。
部屋に近づくなと厳命されていたはずの近習が、障子戸の向こう側から怖ず怖ずと声をかけてきたほどである。
「ならば、信繁様。その御朱印帳なる書を、よくご覧になってください」
「んっ!?」
だが、時間が経ち、冷静になってみると、儂の中に疑念が湧いてきていた。
あれこそ、噂に聞く妖術ではなかろうか。
この神域ですら平然としていられる大妖である。
武田家にどんな災いが起こるか、想像もつかない。それが発覚してからでは、もはや手遅れだ。
「私には、『すまぁとふぉーん』なる黒い板の説明は出来ません」
「しかし、その御朱印帳なら説明が出来ます。
……というのも、その御朱印帳は、今の世には有り得ないものだからです」
「薄いだけでなく丈夫で、皺ひとつもなく、さらに満遍なく白い。
もしそれほど見事な紙が作れたなら、武田家は日の本すべての富を金蔵に収めることが出来るでしょう」
「だが、無理です。
天下に名高い美濃紙ですら、その紙と比べれば遥かに劣ります。同じものは絶対に作れません」
儂は御朱印帳を手に取り、勘助の言葉を聞きながら、食い入るように見つめて愕然とした。
まさに勘助の言う通りだ。
名だたる神社の朱印が連なっている驚きに気を奪われ、そこに気づくことはできなかった。
これほど見事な紙の出来栄えを、儂は今まで一度たりとも目にしたことがなかった。
「信繁様、裏返しにしてみてください。もっと驚かれますよ」
「何っ!? ……あっ!?」
その上、更なる驚きが飛び出した。
言われるがまま、御朱印帳を裏返してみると、真っ白だった。
最初から最後まで、どこを見ても表に書かれた墨が裏写りしていないのだ。
「そう、墨が裏写りしていません」
「調べてみたところ、一枚に見えて、実は懐紙を間に挟み、三枚で一組になっています。
その巧みな仕掛けを保ちつつ、一枚の長い紙を全て均一に折り、重ねることで書の形になる」
「途方もない技術です……。
その御朱印帳を再現しようとしたら、どれだけの紙が犠牲になるか……。」
「しかし、あの者は『すまぁとふぉーん』なる黒い板を我々に預けるのは断固として拒否しましたが、その御朱印帳はあっさりと渡した。
それはつまり、我々にとっては値千金の品でも、あの者にとっては、望めばいくらでも手に入る有り触れた品の証ではありませんか?」
いつしか、御朱印帳を持つ手が震えていた。
儂の心は、あの者が未来から来たという与太話を信じる方向へ、大きく傾き始めた。
今の我々には、この御朱印帳を作ることはできない。
しかし、時を重ね、あの者が生きていた約四百年後の未来なら、作れるのかもしれないと考えてしまうほどだった。
「だが、しかし……。しかしだ。我が武田家が尾張の織田家に……。
……織田家と言ったら、あれだぞ?
当主が『うつけ』と評判で、それが甲斐にまで届く家だぞ? その織田家が天下を握るなど……」
それでも、儂は反論せずにはいられなかった。
その理由は、あの者が語った我が武田家の未来にあった。
我が武田家を滅ぼす相手が、不倶戴天の敵である長尾家や、今は国力の拮抗と利害の一致で同盟を結ぶ今川家、北条家ならまだ納得もいく。
だが、織田家は有り得ない。
先代の織田信秀は戦上手だったらしいが、当代の織田信長は家督を継いでからしばらく経つのに尾張一国をまともに纏めきれていない。
逆に、領土を接する今川家にいずれ滅ぼされるだろう。それが兄上の見解だ。
どうして、そのような小物が我が武田家を滅ぼすというのか。
あの者は鉄砲なる新兵器が戦を変えると豪語していたが、武名を遠く京まで轟かせる我らが武田の騎馬隊を打ち負かすほどのものだとは、とても思えなかった。
「では、信繁様は、晴信様が家督を継がれる以前、武田家が今のような強大な力を持つとお考えでしたか?」
「そ、それは……。」
しかし、勘助の問いかけが、儂の口を噤ませた。
口には出せないが、本心を語るなら、『考えるどころか、思ってさえもいなかった』のである。
儂は物事を満遍なく、それなりにこなすことは出来るが、所詮はそれなりだ。
兄上が武田家の当主となる以前、親父殿が次期当主に儂を据えようとしているのを知っていた。
だが、儂は自分が当主になるよりも、聡明な兄上が武田家の当主になった方が、武田家は栄えると確信していた。
ところが、兄上は儂の想像をはるかに超えていた。
親父殿の苛烈な残虐性と圧政によって、不満の種が幾つも芽吹いていた甲斐を瞬く間に治めただけでなく、信濃へと侵攻。
今や、善光寺平より北を除く信濃を治め、儂の選択が正しかったことを証明するどころか、あまりにも違いすぎる器の大きさを見せつけてくれた。
「晴信様だけではありません。
近くには北条、西国には尼子と毛利……。
今は戦国乱世、当主の才覚次第でいくらでも巨大な勢力となり得るのです」
「尾張のうつけ、その評判は儂も耳にしていましたが、実際は違うのかもしれません。
家督相続に絡んだ謀略、あるいは本人がそう振る舞っていた可能性もあります」
挙げ句の果て、痛いところまで突かれてしまった。
親父殿が儂に武田家の家督を継がせようと、ことさらに儂の評判を持ち上げ、同時に兄上の悪評を家臣や領民にこれでもかと広めていたのは、有名な話である。
「信繁様、過ちは正さなければなりません」
「過ち……。だと?」
ぐうの音も出ないとは、まさにこのことを言うのだろう。
肩を落とし、視線も伏せていると、勘助が膝立ちになって詰め寄り、儂の肩に両手をそっと置いた。
「晴信様を失ってしまったのは、我々の過ち。これは揺るがぬ事実です」
「ならば、その過ちを補って余りある行いをせねば、我々は黄泉路で晴信様に申し訳が立ちません」
「では、何をもって申し訳が立つのか。
それは、武田家の名を天下に轟かせ、不動のものとすること。それ以外にありません」
勘助ほどの男が、隠そうともせずに号泣していた。
家臣たちからやっかみが出るほど互いを深く信頼し合っていた、兄上と勘助の二人である。
そんな勘助が、兄上を亡くして悲しくないはずがない。
それに、儂は自分のことばかり考えて、気づく余裕すら持てていなかった。
同時に、儂は自分と勘助が同志であることにも気づかされた。
二人だけが同じ後悔を背負い、これからは同じ嘘で他者を欺き続け、同じ未来を歩んでゆくのだ。
「そして……。不甲斐ない我々のために、八幡様はあの者を遣わせてくださったのです。
あの者が持つ知識は、これからの武田家が進むべき大いなる道標となりましょう」
「決して……。決して、滅亡などという未来へ向かわせてはなりません」
眼帯に隠されていない勘助の右目の色が、兄上を喪った悲しみから、燃え上がるような闘志へと変わる。
その熱が儂に伝わり、この先にどんな苦難が待ち受けていようとも、ひとりでは成し得なくても、勘助と二人なら共に歩んで行けると、心が奮い立った。
「そう、そうだ。その通りだ。
だが、勘助よ。儂は兄上のような才覚は持っていない。
人と人の和を取り持つのが得意なだけの、平凡な男。そんな儂を、兄上のように助けてくれるか?」
「無論です。今の武田は、信繁様なくしては成り立ちません」
もう躊躇いはない。覚悟は決まった。
儂が酒の入った盃を手に問いかけると、勘助も身を正して自分の盃を手に取った。
「では、共に行こうではないか。後悔と慚悔にまみれた道を」
「はっ! この命、果てる時までお供をさせて頂きます」
お互いに頷き合い、盃同士を軽くぶつけ合わせて、それを一気に呷る。
その味は辛くも、苦くもなく、ただただ美味かった。




