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再就職は武田信玄! ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~  作者: 浦賀やまみち
風の章

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12/27

幕 間 山本勘助、月に誓う




「ふぅーー……。」



 廊下を歩く足取りは重く、隠しきれない疲労がため息となって漏れた。


 振り返れば、今日は実に長く、そして苦しい一日だった。

 もしあの者のように時を遡る力があるのなら、昨日へ戻りたい。そう思わずにはいられない。



「いや、朝でもいい……。」



 今朝、腹を満たしていた最中、長尾景虎の軍勢が鶴翼陣を敷く我が左翼を襲った。


 本陣前の前衛は慌てふためき、勝手に左翼の援軍へ駆け出す。その瞬間こそ、悪夢の始まりだった。

 その隙間を狙い、長尾景虎はまるで矢のように突き刺さる鋒矢の陣で、我が軍を切り裂いた。


 もし相手が長尾景虎以外であったなら、敵の総大将を包囲し殲滅する絶好の機会だったろう。


 しかし、長尾景虎は一騎当千の猛者。

 そのうえ、傍らには『鬼』と恐れられる小島弥太郎が控えている。


 そんな相手を容易に仕留められるはずがない。



「……晴信様の判断は間違っていない」



 晴信様は、味方が総崩れになる前に退却を即座に決断した。


 善光寺の南にある犀川を渡り、茶臼山の麓に集結する。

 長尾勢の動向次第では、そこから再び戦いを挑むつもりだった。


 だが、犀川を渡ろうとしたその直前、突如立ち込めた霧が全ての予定を狂わせた。


 霧は瞬く間に濃くなり、新月の夜のように視界を奪った。

 勘だけを頼りに進むうち、味方は散り散りになり、気づけば周囲にいるのはわずか数人だけという有様だった。



「間違っていたのは……。儂だ」



 慌てて、儂は晴信様の姿を探した。

 声を張り上げ、霧の中を必死に駆け回った。


 しかし、これが大きな誤りだった。


 声を掛け合い、儂が晴信様を見つけたその時、長尾景虎の刀は馬上から振り下ろされていた。

 信繁様を庇おうとした晴信様の首に深々と突き立てられ、真っ赤な鮮血が噴き出していた。


 信繁様は、自分が晴信様を殺したと自分を責めている。


 だが、違う。晴信様を殺したのは儂だ。

 濃霧の中、晴信様を虎視眈々と狙う長尾景虎を、儂はまんまと晴信様のもとへ呼び寄せてしまったのだから。


 そして、悲嘆に暮れる間もなく、あの者が儂と信繁様の前に現れた。

 晴信様と瓜二つの容姿どころか、同じ声で語るあの者が。



「すまーとふぉーん、だったか? 

 あの欄干の朱は、実に見事だったな……。」


「四百年後、この地を治める者はよほどの実力者に違いない。

 あれほどの朱を塗るとなれば、相当な財を投じたことだろう」



 ふと立ち止まり、廊下の欄干に手を触れながら思い出す。


 晴信様は北信濃を訪れる際、必ずこの生島足島神社に立ち寄り、その度にこう言った。

 『神域にふさわしい見事な朱だ。これほど立派な社は京にもあるまい』と、いつも嬉しそうに。


 しかし、あの者が持つ『すまーとふぉーん』なる小さな黒い板に映された生島足島神社の朱は、比べものにならないほど見事だった。

 目の前の欄干のように色が薄れた箇所もなく、掠れた部分もない。朱色そのものがより鮮やかで、隅々まで均一に塗られていた。



『三年、我が死を隠せ』



 武田家を存続させるため、あの者を晴信様の影武者として立てる。

 晴信様が命の限り残した遺命の意味は、すぐに理解できた。


 晴信様が亡くなった今、後継者は嫡子である義信様しかいない。


 だが、今の義信様では甲斐信濃の支配者は務まらない。

 これは義信様に問題があるのではなく、晴信様があまりにも偉大すぎたためである。


 統治の浅い信濃はもちろんのこと、甲斐の家臣たちでさえ離反の恐れがあった。



「そう、それだけは……。何としても避けなければならん」



 そうなれば、武田家は終わりだ。

 もう二度と芽が出ることはない。信濃は長尾景虎の手に落ち、やがて国力の差から服従を余儀なくされるか、滅びの道を歩むほかない。


 現状の強固な武田家を維持しつつ、さらに高みを目指すには、晴信様の死を隠さねばならない。


 しかし、あの者がどれほど晴信様に瓜二つであっても、それは表面だけの話だ。

 人目に触れれば触れるほど、ボロが出る可能性は高まる。


 つまり、晴信様の影武者は家督を義信様に譲り、隠居する。


 これこそ最上の策である。

 これにより、晴信様に従っていた家臣たちへの牽制も十分に効くだろう。



「……とはいえ、400年後か。

 今から、400年前といえば……。鎌倉の世になるのか」  



 だが、それもこれも、あの者が立場を弁えた人物であることが大前提だ。


 今述べた通り、晴信様の影響力は絶大。

 下手に野心を抱いたり、性根が歪んだ者であれば、悪手を打つよりも、晴信様の死を公にしたほうが遥かに安全である。


 そう信繁様を説き、あの者を探る面談に臨んだが、結果は予想を遥かに超えていた。

 まさか、約四百年もの未来から訪れた者だとは夢にも思わず、さらにあの者が語った戦国乱世の結末や、『すまーとふぉーん』なる小さな黒い板の動く絵に、度肝を抜かれっぱなしだった。



「晴信様……。」



 神社を囲む池で水音が響いた。魚でも跳ねたのだろうか。


 篝火は絶やされておらず、明かりは煌々と灯っている。

 不寝番の者たちを除けば、皆寝静まったのだろう。辺りは静まり返っていた。


 この際だ。心の内を正直に明かそう。

 晴信様が討ち死にされたあの瞬間、儂には、すべてが終わったように思えた。


 儂もまた、晴信様あってこそ武田家に仕えていた一人である。

 武田家そのものに忠誠を誓っていたわけではない。


 ゆえに晴信様の遺命を果たし、影武者の件が落ち着いたなら、武田家を出奔するつもりでいた。

 東北へでも流れ、その後は身を隠しながら田畑を耕し、晴信様の冥福を静かに祈って生きていくつもりだった。



「あの日、共に誓った夢……。必ず、果たしてみせまする」



 しかし、あの者の話を聞いているうちに、儂の心は次第に揺れ動いた。


 あの者が持つ知識は、儂と晴信様が描いた夢を叶えるための強力な武器となる。

 あの者が語った戦国乱世は、晴信様が討ち死にした時点ですでに相違が生じているが、それを差し引いても、あの者の知識には計り知れぬ価値があった。



『甲斐を……。いや、日ノ本すべてを豊かな国に……。

 乱世に終止符を打ち、誰もが明日の不安なく、安らかに暮らせる太平の世を!』



 そう、儂と晴信様が抱いた夢は、まだ決して途切れてはいない。

 途切れていないどころか、あの者が持つ知識のおかげで、目的地までの道は大きく縮まった。


 この上は、あの者を助けることこそ、儂にできる晴信様への忠義である。


 それに、あの者が時を遡った原因と考えられる八幡神社の八幡様は、我ら武家にとって武運を司る神である。

 晴信様が亡くなる直前、晴信様と瓜二つのあの者が現れた。これを神のお導きと言わずして、何と言うべきか。



「ええ、必ずや……。

 ですから、今はそちらへ参るのを、まだお待ちくださいませ」



 水面に揺れる月をしばし見つめた後、止めていた足を動かす。

 今すぐ床に就き、疲れ果てた心と身体を休めたいところだが、それは最後の一仕事を終えてからだ。



「そのためにも、信繁様を説かねば……。」



 信繁様はあの者を影武者に立てる覚悟を決めたが、心の底から納得しているわけではない。


 もしそれが、晴信様の死を利用して権力を握ろうとする野心ゆえなら、儂も対応は容易だった。

 いかに晴信様の弟であろうと、獅子身中の虫は斬り捨てるだけのことだ。


 甲斐の本拠地『躑躅ヶ崎館』では困難でも、ここは遠く離れた戦地。

 つい数刻前まで長尾景虎の軍勢と実際に激戦を交わしていたのだから、理由などいくらでも作れる。



「……できる、できないではない。やるのだ」



 だが、信繁様は一切の野心を抱いていない。

 もし武田家の当主を狙う意志があるなら、その意思は先代『信虎様』の時点で明確に示されていたことだろう。


 駿河に追放されている信虎様は、晴信様には冷淡でありながら、信繁様には深い愛情を注いだ。

 長子を嫡子とする古来の慣習など意に介さず、信繁様を嫡子とする考えを周囲に隠すことさえしなかったという。



「儂とて、悔しさはある……。

 だが、納得してもらわねばならない」



 信繁様の納得のいかぬ理由は、ひとえに晴信様への慕情にある。


 晴信様の死を隠すということは、葬儀を挙げることもできず、墓すらも秘さねばならぬということを意味する。

 本来ならば、武田家当主にふさわしい盛大な葬儀が行われ、平安の世より続く歴代当主の墓と並び、武田家中興の祖として眠るべきであったのだ。


 さらに、晴信様の遺体は今も戦場に取り残されている。


 急を要したため、持ち帰られたのは晴信様の首と、あの者に纏わせた甲冑のみ。

 残された遺体が、明日には鳥や獣の餌となるであろうことを思うと、あまりにも悲惨な末期の姿である。


 だが、儂も信繁様も後戻りは出来ない。

 晴信様への謝罪は、武田家が今以上に栄え、その名を揺るがないものにしてからだ。


 儂は武田家が滅ぶ未来を断じて許さない。



「信繁様、勘助にございます」

「ああ、入ってくれ」



 深く息を整え、覚悟を胸に刻みながら、信繁様が待つ部屋の戸を静かに開けた。




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