第8話「群れ」
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ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
町は、まだ平和だった。
朝の陽光が建物の間を縫い、アスファルトを照らしている。通勤ラッシュが始まり、駅前のロータリーは人で溢れていた。スーツ姿のサラリーマンが足早に歩き、イヤホンをつけた学生たちが自転車を漕ぐ。スーパーの前では、開店を待つ主婦たちが世間話に花を咲かせている。コンビニの自動ドアが開閉を繰り返し、ベーカリーからはパンの焼ける匂いが漂ってくる。
空は青く、風は穏やかだった。
いつもと変わらない朝。
だが、その平和は、あと数分で終わる。
藤原京は、群れの先頭にいた。
村を出て、町へ続く一本道を歩いてきた。足が地面を踏みしめ、砂利がジャリジャリと音を立てる。背後には、数十体のゾンビたちが続いている。足音が重なり合い、ズルズルと引きずるような音が響く。低い呻き声、喉の奥から漏れる唸り声。それらが混ざり合い、不気味な合唱となって空気を震わせていた。
視界に、町の入り口が見えた。
住宅地が広がり、二階建ての家々が並んでいる。煙突から朝の煙がゆらゆらと立ち上り、庭先では洗濯物が風に揺れている。犬が庭で吠え、子供の笑い声が遠くから聞こえてくる。
京の意識は、それを見ていた。
(まだ間に合う——誰か、逃げて——!)
心の中で叫ぶ。だが、その声は誰にも届かない。
身体は止まらない。
足が勝手に動き、群れは町へ流れ込んだ。
最初の悲鳴は、住宅地の奥から上がった。
「きゃあああああっ——!!」
甲高い女性の声が、静かな朝を引き裂いた。
ゴミ出しをしていた主婦が、群れに囲まれていた。彼女は両手でゴミ袋を振り回し、必死に抵抗する。ビニール袋がバサバサと音を立て、中身が飛び散る。だが、それは何の意味もなかった。
数秒後、彼女は倒れていた。
ゾンビたちが群がり、噛みつく。ブチリ、ブチリと肉が裂ける音。主婦の悲鳴が途切れ、やがて呼吸が止まる。
血が地面に広がった。
赤黒い液体が、アスファルトに染み込んでいく。鉄のような匂いが鼻を刺す。
そして、主婦の身体が痙攣した。
ビクン、ビクンと震え、やがて静止する。
数秒の沈黙。
そして——動いた。
主婦はゆっくりと起き上がる。目が濁り、瞳孔が開いている。口から唾液がダラダラと垂れ、顎が震えている。
彼女は、隣の家へ歩き出した。
群れが、また一人増えた。
京の群れは、住宅地を進んでいく。
玄関先で新聞を取っていた老人が、群れを見て凍りついた。新聞が手から滑り落ち、風に舞う。老人は叫ぼうとするが、声が出ない。次の瞬間、群れに飲み込まれていた。
犬の散歩中だった男性が走って逃げる。リードを引きずりながら、必死に角を曲がろうとする。だが、別の群れが路地から現れ、行く手を塞いだ。男性の悲鳴が響き、犬が吠え、そして——静かになった。
自転車に乗っていた高校生が、ペダルを全力で漕ぐ。だが、前方にもゾンビがいた。ブレーキをかけ、転倒する。自転車が地面に倒れ、ガシャンと金属音が響く。高校生が起き上がろうとした瞬間、群れに囲まれた。
次々と襲われ、次々と仲間になっていく。
群れは膨れ上がった。
五十体、百体、そしてもっと。
住宅地の路地という路地から、別の群れも合流してくる。彼らも村や他の地域から来たのだろう。服は血に染まり、目は濁り、ただ獲物を求めて歩いている。
町は、急速に侵食されていった。
スーパーの前に、群れが到達した。
開店直後で、店内には数十人の客がいた。野菜コーナーでキャベツを選ぶ母親、カゴいっぱいに商品を詰め込んだ老人、レジに並ぶサラリーマン。店内放送が流れ、BGMが軽快に響いている。
そこへ、ゾンビたちが雪崩込んだ。
自動ドアがシュッと開き、群れが店内へ流れ込む。
最初、客たちは状況を理解できなかった。
「え……?」
「何、あれ……?」
だが、すぐに理解した。
血まみれの人々が、よろめきながら近づいてくる。目が濁り、口から唾液を垂らし、手を伸ばしてくる。
悲鳴が響いた。
「ぎゃああああああっ——!!」
「逃げろ——!!」
「裏口だ、裏口へ——!!」
客たちが一斉に走り出す。カートが倒れ、カゴが床に叩きつけられる。商品が散乱し、足元で缶詰が転がる。
だが、裏口にも群れが回り込んでいた。
店内は混乱した。
陳列棚が倒れ、ガシャーンと大きな音を立てる。野菜が床に転がり、トマトが潰れて赤い汁を飛び散らせる。牛乳パックが破裂し、白い液体が床一面に広がる。誰かが滑って転び、悲鳴を上げる。
ゾンビたちが、その上を歩いていく。
ズルズルと足を引きずり、獲物に向かって手を伸ばす。
京は、その中を歩いていた。
視界に映るのは、逃げ惑う人々。
泣き叫ぶ女性、椅子を振り回す男性、パンコーナーの陰に隠れる子供。
そして、肉。
生きた、温かい肉。
脈打つ心臓、流れる血液、熱を持った身体。
身体が反応した。
腹の奥から、激しい渇望が湧き上がる。それは今までとは違う強さだった。もう我慢できない。もう抑えられない。
細胞が叫んでいる。
食え、食え、食え——!
京のゾンビ化した身体は、一人の女性に飛びかかった。
彼女は買い物カゴを振り回し、抵抗する。カゴが京の頭に当たり、ガンッと鈍い音が響く。だが、痛みは感じない。
京の手が、その腕を掴んだ。
ギュッと強く握り、引き倒す。女性が床に倒れ、頭を打つ。
「いやああああっ——!!」
女性の悲鳴が店内に響く。
そして、京は——噛みついた。
肉が、口の中に広がった。
熱く、柔らかく、そして甘い。
繊維が歯の間で引き裂かれ、血が舌を濡らす。喉を流れ落ち、胃へと落ちていく。
細胞が歓喜した。
身体中が熱を帯び、心臓が激しく打つ。ドクン、ドクン、ドクンと耳の奥で響く。筋肉が震え、骨が軋む。
(やめろ——!!)
京の意識が絶叫する。
(これは——これは人間だ——!!)
だが、身体は止まらない。
むしろ、加速した。
もっと、もっと食べたい。
本能が、理性を完全に押し潰していた。
その瞬間、何かが変わった。
京の視界が、鮮明になった。
ぼやけていた輪郭が、くっきりと見える。遠くの棚に並んだ商品の文字まで読める。床に転がった缶詰のラベル、天井の蛍光灯の細かい傷、逃げる人々の表情の一つ一つ。
全てが、鮮やかに見えた。
周囲の音が、はっきりと聞こえるようになった。
人々の足音——パタパタと走る音、ドンと壁にぶつかる音、ガタガタと震える呼吸音。
心臓の鼓動——ドクドクドクと速く打つリズム。
血管を流れる血液の音——サラサラと静脈を巡る音。
全てが、耳に届く。
身体が軽くなった。
筋肉が引き締まり、無駄な力が抜ける。関節がスムーズに動き、骨格が最適な位置に収まる。反射が速くなり、周囲の動きがスローモーションのように見える。
これは——覚醒だった。
京は立ち上がった。
周囲では、他のゾンビたちが人々を襲っていた。だが、京の動きは彼らとは違った。
素早く、正確で、無駄がない。
逃げようとする男性に、一瞬で追いつく。足が地面を蹴り、三歩で距離を詰める。投げられた商品——缶詰が飛んでくる。京は体を逸らし、鼻先をかすめて避ける。振り下ろされた棒——モップの柄が頭上から来る。京は首を傾け、髪をなぞるようにして回避する。
周囲のゾンビたちより、明らかに速かった。
(何だ——これ——)
京の意識が戸惑う。
(俺、何なんだ——)
身体が変わった。強くなった。速くなった。
だが、それは——人間から遠ざかったということだ。
(もう、戻れない——)
絶望が、心を満たす。
だが、身体は答えない。
ただ、本能のままに動き続ける。
スーパーの外では、警察が到着していた。
パトカーが三台、急ブレーキで止まる。タイヤが地面を擦り、キーッと甲高い音が響く。警官たちがドアを開け、飛び出してくる。
彼らは拳銃を構え、群れに向けて叫んだ。
「動くな——! 撃つぞ——!!」
だが、ゾンビたちは止まらない。
ズルズルと足を引きずり、警官たちに向かって歩いてくる。
警官たちは発砲した。
パン、パン、パン!
銃声が響き、火薬の匂いが漂う。
数体のゾンビが倒れる。頭を撃ち抜かれ、地面に崩れ落ちる。だが、それだけだった。
群れは止まらなかった。
百体以上のゾンビが、警官たちに向かって歩いてくる。前の列が倒れても、後ろから新しいゾンビが現れる。終わりがない。
弾が尽きた。
警官たちは後ずさる。
「増援を——増援を呼べ——!!」
無線が飛び交う。だが、増援が来る前に、群れが到達した。
警官たちが囲まれる。
彼らは警棒を振るい、必死に抵抗する。ゴツン、ゴツンと鈍い音が響く。だが、数の差は圧倒的だった。
一人が倒れ、噛まれる。悲鳴が上がり、やがて止まる。
また一人倒れ、仲間になる。
数分後、警官たちは全員、群れの一員になっていた。
制服を着たまま、目を濁らせ、仲間を増やすために歩き出す。
消防車も到着した。
サイレンを鳴らしながら、赤い車体が止まる。消防士たちが飛び降り、ホースを展開する。
「放水——!!」
号令が響き、高圧の水流が群れに叩きつけられた。
ゴオオオオッ——!
水が壁のようになり、ゾンビたちを押し流す。数体が倒れ、地面を転がる。
だが、それだけだった。
ゾンビたちは起き上がり、再び歩き出す。
水では止まらない。頭を破壊しなければ、止まらない。
消防士たちは斧を手に取った。
刃が陽光を反射し、キラリと光る。
「来るぞ——! 構えろ——!!」
彼らは接近戦を挑んだ。
斧を振り下ろし、ゾンビの頭を叩き割る。ズガン、と重い音が響き、頭蓋骨が砕ける。一体、また一体と倒していく。
だが、数の差は圧倒的だった。
疲労が蓄積し、動きが鈍くなる。呼吸が荒くなり、腕が上がらなくなる。
そして、囲まれた。
一人が噛まれ、倒れる。また一人が引き倒され、群れに飲み込まれる。
悲鳴が響き、やがて静かになる。
そして——起き上がる。
町の防衛線は、瞬く間に崩壊した。
京は、その光景を見ていた。
警官も、消防士も、皆倒れていく。
そして、群れに加わっていく。
意識を持ったまま、仲間を増やしていく。
(これが——俺たちなのか——)
京の心が呻く。
(これが、新しい種族——)
その時、声が聞こえた。
澪の声だった。
「京……それでも人間でいられるの?」
それは、優しい声ではなかった。
責めるような、悲しむような、そして——諦めたような声。
京の視界に、記憶が浮かんだ。
夏祭りの夜。浴衣を着た澪が金魚すくいをしている。ポイが破れて、彼女が笑う。「また失敗しちゃった」と、頬を染めながら振り返る。
手を繋いで歩いた帰り道。花火が夜空に咲き、澪が「きれい」と呟く。
笑顔で振り返る彼女の顔。「ねえ京、来年もまた来ようね」
だが、その記憶は今、京を苦しめる刃だった。
(澪——)
京の意識が呼びかける。
(俺、もう——人間じゃない)
(澪が見たら——嫌悪するだろう)
(もう、戻れない——)
だが、その言葉は、最後まで形にならなかった。
町は、ゾンビで溢れていた。
駅前、商店街、学校、病院。どこもかしこも、群れに飲み込まれていく。
サイレンが鳴り響き、悲鳴が絶えない。炎が上がり、黒煙が空を覆う。ガラスが割れる音、車が衝突する音、建物が崩れる音。
だが、それももうすぐ終わる。
町全体が、ゾンビの支配下に入ろうとしていた。
京は、群れの先頭に立っていた。
彼の身体は、今までとは違った。速く、鋭く、そして——強かった。
覚醒の兆候。
それは、ゾンビとしての進化の始まりだった。
人肉を食らい、力を得た。
だが、京の心は——まだ人間だった。
苦しみ、叫び、そして絶望していた。
遠くで、ヘリコプターの音が聞こえた。
ドドドドドと空気を震わせる音。
報道か、軍か。
だが、それが何の意味を持つのか、京にはわからなかった。
ただ、群れは進み続ける。
次の獲物を求めて。
次の仲間を増やすために。
そして——世界を染めるために。
京は、もう止まれなかった。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




