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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第1部「黎明《れいめい》」

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第8話「群れ」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 町は、まだ平和だった。


 朝の陽光が建物の間を縫い、アスファルトを照らしている。通勤ラッシュが始まり、駅前のロータリーは人であふれていた。スーツ姿のサラリーマンが足早に歩き、イヤホンをつけた学生たちが自転車をぐ。スーパーの前では、開店を待つ主婦たちが世間話に花を咲かせている。コンビニの自動ドアが開閉を繰り返し、ベーカリーからはパンの焼ける匂いが漂ってくる。


 空は青く、風は穏やかだった。


 いつもと変わらない朝。


 だが、その平和は、あと数分で終わる。


 


 藤原京は、群れの先頭にいた。


 村を出て、町へ続く一本道を歩いてきた。足が地面を踏みしめ、砂利がジャリジャリと音を立てる。背後には、数十体のゾンビたちが続いている。足音が重なり合い、ズルズルと引きずるような音が響く。低いうめき声、喉の奥から漏れるうなり声。それらが混ざり合い、不気味な合唱となって空気を震わせていた。


 視界に、町の入り口が見えた。


 住宅地が広がり、二階建ての家々が並んでいる。煙突から朝の煙がゆらゆらと立ち上り、庭先では洗濯物が風に揺れている。犬が庭で吠え、子供の笑い声が遠くから聞こえてくる。


 京の意識は、それを見ていた。


(まだ間に合う——誰か、逃げて——!)


 心の中で叫ぶ。だが、その声は誰にも届かない。


 身体は止まらない。


 足が勝手に動き、群れは町へ流れ込んだ。


 


 最初の悲鳴は、住宅地の奥から上がった。


「きゃあああああっ——!!」


 甲高い女性の声が、静かな朝を引き裂いた。


 ゴミ出しをしていた主婦が、群れに囲まれていた。彼女は両手でゴミ袋を振り回し、必死に抵抗する。ビニール袋がバサバサと音を立て、中身が飛び散る。だが、それは何の意味もなかった。


 数秒後、彼女は倒れていた。


 ゾンビたちが群がり、噛みつく。ブチリ、ブチリと肉が裂ける音。主婦の悲鳴が途切れ、やがて呼吸が止まる。


 血が地面に広がった。


 赤黒い液体が、アスファルトに染み込んでいく。鉄のような匂いが鼻を刺す。


 そして、主婦の身体が痙攣けいれんした。


 ビクン、ビクンと震え、やがて静止する。


 数秒の沈黙。


 そして——動いた。


 主婦はゆっくりと起き上がる。目が濁り、瞳孔が開いている。口から唾液がダラダラと垂れ、あごが震えている。


 彼女は、隣の家へ歩き出した。


 群れが、また一人増えた。


 


 京の群れは、住宅地を進んでいく。


 玄関先で新聞を取っていた老人が、群れを見て凍りついた。新聞が手から滑り落ち、風に舞う。老人は叫ぼうとするが、声が出ない。次の瞬間、群れに飲み込まれていた。


 犬の散歩中だった男性が走って逃げる。リードを引きずりながら、必死に角を曲がろうとする。だが、別の群れが路地から現れ、行く手をふさいだ。男性の悲鳴が響き、犬が吠え、そして——静かになった。


 自転車に乗っていた高校生が、ペダルを全力で漕ぐ。だが、前方にもゾンビがいた。ブレーキをかけ、転倒する。自転車が地面に倒れ、ガシャンと金属音が響く。高校生が起き上がろうとした瞬間、群れに囲まれた。


 次々と襲われ、次々と仲間になっていく。


 群れはふくれ上がった。


 五十体、百体、そしてもっと。


 住宅地の路地という路地から、別の群れも合流してくる。彼らも村や他の地域から来たのだろう。服は血に染まり、目は濁り、ただ獲物を求めて歩いている。


 町は、急速に侵食されていった。


 


 スーパーの前に、群れが到達した。


 開店直後で、店内には数十人の客がいた。野菜コーナーでキャベツを選ぶ母親、カゴいっぱいに商品を詰め込んだ老人、レジに並ぶサラリーマン。店内放送が流れ、BGMが軽快に響いている。


 そこへ、ゾンビたちが雪崩なだれ込んだ。


 自動ドアがシュッと開き、群れが店内へ流れ込む。


 最初、客たちは状況を理解できなかった。


「え……?」


「何、あれ……?」


 だが、すぐに理解した。


 血まみれの人々が、よろめきながら近づいてくる。目が濁り、口から唾液を垂らし、手を伸ばしてくる。


 悲鳴が響いた。


「ぎゃああああああっ——!!」


「逃げろ——!!」


「裏口だ、裏口へ——!!」


 客たちが一斉に走り出す。カートが倒れ、カゴが床に叩きつけられる。商品が散乱し、足元で缶詰が転がる。


 だが、裏口にも群れが回り込んでいた。


 店内は混乱した。


 陳列棚が倒れ、ガシャーンと大きな音を立てる。野菜が床に転がり、トマトがつぶれて赤い汁を飛び散らせる。牛乳パックが破裂し、白い液体が床一面に広がる。誰かが滑って転び、悲鳴を上げる。


 ゾンビたちが、その上を歩いていく。


 ズルズルと足を引きずり、獲物に向かって手を伸ばす。


 


 京は、その中を歩いていた。


 視界に映るのは、逃げ惑う人々。


 泣き叫ぶ女性、椅子を振り回す男性、パンコーナーの陰に隠れる子供。


 そして、肉。


 生きた、温かい肉。


 脈打つ心臓、流れる血液、熱を持った身体。


 


 身体が反応した。


 腹の奥から、激しい渇望が湧き上がる。それは今までとは違う強さだった。もう我慢できない。もう抑えられない。


 細胞が叫んでいる。


 食え、食え、食え——!


 京のゾンビ化した身体は、一人の女性に飛びかかった。


 彼女は買い物カゴを振り回し、抵抗する。カゴが京の頭に当たり、ガンッと鈍い音が響く。だが、痛みは感じない。


 京の手が、その腕をつかんだ。


 ギュッと強く握り、引き倒す。女性が床に倒れ、頭を打つ。


「いやああああっ——!!」


 女性の悲鳴が店内に響く。


 そして、京は——噛みついた。


 


 肉が、口の中に広がった。


 熱く、柔らかく、そして甘い。


 繊維が歯の間で引き裂かれ、血が舌を濡らす。喉を流れ落ち、胃へと落ちていく。


 細胞が歓喜した。


 身体中が熱を帯び、心臓が激しく打つ。ドクン、ドクン、ドクンと耳の奥で響く。筋肉が震え、骨がきしむ。


(やめろ——!!)


 京の意識が絶叫する。


(これは——これは人間だ——!!)


 だが、身体は止まらない。


 むしろ、加速した。


 もっと、もっと食べたい。


 本能が、理性を完全に押しつぶしていた。


 


 その瞬間、何かが変わった。


 京の視界が、鮮明になった。


 ぼやけていた輪郭が、くっきりと見える。遠くの棚に並んだ商品の文字まで読める。床に転がった缶詰のラベル、天井の蛍光灯の細かい傷、逃げる人々の表情の一つ一つ。


 全てが、鮮やかに見えた。


 周囲の音が、はっきりと聞こえるようになった。


 人々の足音——パタパタと走る音、ドンと壁にぶつかる音、ガタガタと震える呼吸音。


 心臓の鼓動——ドクドクドクと速く打つリズム。


 血管を流れる血液の音——サラサラと静脈を巡る音。


 全てが、耳に届く。


 身体が軽くなった。


 筋肉が引き締まり、無駄な力が抜ける。関節がスムーズに動き、骨格が最適な位置に収まる。反射が速くなり、周囲の動きがスローモーションのように見える。


 これは——覚醒だった。


 


 京は立ち上がった。


 周囲では、他のゾンビたちが人々を襲っていた。だが、京の動きは彼らとは違った。


 素早く、正確で、無駄がない。


 逃げようとする男性に、一瞬で追いつく。足が地面を蹴り、三歩で距離を詰める。投げられた商品——缶詰が飛んでくる。京は体をらし、鼻先をかすめて避ける。振り下ろされた棒——モップの柄が頭上から来る。京は首を傾け、髪をなぞるようにして回避する。


 周囲のゾンビたちより、明らかに速かった。


(何だ——これ——)


 京の意識が戸惑う。


(俺、何なんだ——)


 身体が変わった。強くなった。速くなった。


 だが、それは——人間から遠ざかったということだ。


(もう、戻れない——)


 絶望が、心を満たす。


 だが、身体は答えない。


 ただ、本能のままに動き続ける。


 


 スーパーの外では、警察が到着していた。


 パトカーが三台、急ブレーキで止まる。タイヤが地面をこすり、キーッと甲高い音が響く。警官たちがドアを開け、飛び出してくる。


 彼らは拳銃を構え、群れに向けて叫んだ。


「動くな——! 撃つぞ——!!」


 だが、ゾンビたちは止まらない。


 ズルズルと足を引きずり、警官たちに向かって歩いてくる。


 警官たちは発砲した。


 パン、パン、パン!


 銃声が響き、火薬の匂いが漂う。


 数体のゾンビが倒れる。頭を撃ち抜かれ、地面に崩れ落ちる。だが、それだけだった。


 群れは止まらなかった。


 百体以上のゾンビが、警官たちに向かって歩いてくる。前の列が倒れても、後ろから新しいゾンビが現れる。終わりがない。


 弾が尽きた。


 警官たちは後ずさる。


「増援を——増援を呼べ——!!」


 無線が飛び交う。だが、増援が来る前に、群れが到達した。


 警官たちが囲まれる。


 彼らは警棒を振るい、必死に抵抗する。ゴツン、ゴツンと鈍い音が響く。だが、数の差は圧倒的だった。


 一人が倒れ、噛まれる。悲鳴が上がり、やがて止まる。


 また一人倒れ、仲間になる。


 数分後、警官たちは全員、群れの一員になっていた。


 制服を着たまま、目を濁らせ、仲間を増やすために歩き出す。


 


 消防車も到着した。


 サイレンを鳴らしながら、赤い車体が止まる。消防士たちが飛び降り、ホースを展開する。


「放水——!!」


 号令が響き、高圧の水流が群れに叩きつけられた。


 ゴオオオオッ——!


 水が壁のようになり、ゾンビたちを押し流す。数体が倒れ、地面を転がる。


 だが、それだけだった。


 ゾンビたちは起き上がり、再び歩き出す。


 水では止まらない。頭を破壊しなければ、止まらない。


 消防士たちは斧を手に取った。


 刃が陽光を反射し、キラリと光る。


「来るぞ——! 構えろ——!!」


 彼らは接近戦を挑んだ。


 斧を振り下ろし、ゾンビの頭を叩き割る。ズガン、と重い音が響き、頭蓋骨が砕ける。一体、また一体と倒していく。


 だが、数の差は圧倒的だった。


 疲労が蓄積し、動きが鈍くなる。呼吸が荒くなり、腕が上がらなくなる。


 そして、囲まれた。


 一人が噛まれ、倒れる。また一人が引き倒され、群れに飲み込まれる。


 悲鳴が響き、やがて静かになる。


 そして——起き上がる。


 町の防衛線は、瞬く間に崩壊した。


 


 京は、その光景を見ていた。


 警官も、消防士も、皆倒れていく。


 そして、群れに加わっていく。


 意識を持ったまま、仲間を増やしていく。


(これが——俺たちなのか——)


 京の心がうめく。


(これが、新しい種族——)


 


 その時、声が聞こえた。


 澪の声だった。


「京……それでも人間でいられるの?」


 それは、優しい声ではなかった。


 責めるような、悲しむような、そして——あきらめたような声。


 京の視界に、記憶が浮かんだ。


 夏祭りの夜。浴衣を着た澪が金魚すくいをしている。ポイが破れて、彼女が笑う。「また失敗しちゃった」と、頬を染めながら振り返る。


 手を繋いで歩いた帰り道。花火が夜空に咲き、澪が「きれい」とつぶやく。


 笑顔で振り返る彼女の顔。「ねえ京、来年もまた来ようね」


 だが、その記憶は今、京を苦しめるやいばだった。


(澪——)


 京の意識が呼びかける。


(俺、もう——人間じゃない)


(澪が見たら——嫌悪するだろう)


(もう、戻れない——)


 だが、その言葉は、最後まで形にならなかった。


 


 町は、ゾンビであふれていた。


 駅前、商店街、学校、病院。どこもかしこも、群れに飲み込まれていく。


 サイレンが鳴り響き、悲鳴が絶えない。炎が上がり、黒煙が空を覆う。ガラスが割れる音、車が衝突する音、建物が崩れる音。


 だが、それももうすぐ終わる。


 町全体が、ゾンビの支配下に入ろうとしていた。


 


 京は、群れの先頭に立っていた。


 彼の身体は、今までとは違った。速く、鋭く、そして——強かった。


 覚醒の兆候。


 それは、ゾンビとしての進化の始まりだった。


 人肉を食らい、力を得た。


 だが、京の心は——まだ人間だった。


 苦しみ、叫び、そして絶望していた。


 


 遠くで、ヘリコプターの音が聞こえた。


 ドドドドドと空気を震わせる音。


 報道か、軍か。


 だが、それが何の意味を持つのか、京にはわからなかった。


 ただ、群れは進み続ける。


 次の獲物を求めて。


 次の仲間を増やすために。


 そして——世界を染めるために。


 京は、もう止まれなかった。


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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