第6話「町への道」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
朝日が山際から顔を出した頃、村は完全な静寂に包まれていた。
血だまりが黒く乾いた路地。壊された扉。散らばる衣服の切れ端。誰も立ち止まらない。誰も振り返らない。
俺たち——ゾンビの群れは、ただ歩いていた。
足音が揃わない。ズル、ズル、と地面を引きずる音。時折、誰かが低くうなる。喉の奥から絞り出される、言葉にならないうめき声。
「……ァ……ァァ……」
俺の口からも、それは漏れていた。
意識はある。考えることもできる。だが体は止まらない。足は前へ、前へと進み続ける。
そして——俺は、群れの先頭にいた。
村を出た一本道は、まっすぐ町へと続いている。田んぼの緑が広がり、あぜ道の雑草が風に揺れている。セミの声が、どこか遠くで鳴き始めた。
いつもと同じ、夏の朝。
だが、この道を歩いているのは——もう人間じゃない。
俺の視界の端に、仲間の姿が映る。引きずる足。だらりと垂れた腕。血で汚れた服。昨日まで隣人だった人々が、今は同じ「何か」になっている。
空は青い。雲はゆっくりと流れている。世界は何も変わっていないのに、俺たちだけが変わってしまった。
◇
この道を、俺は何度も通った。
いや——俺たちは、何度も通った。
「京くん、早く早く!」
澪の声が、頭の中で響く。
藤宮澪。俺より二歳年上の、幼馴染。
いつも俺の手を引いて、この道を歩いてくれた。買い物に行く時も、祭りに行く時も、学校の帰り道も。
「ほら、また遅れてる。そんなんじゃ夏祭り終わっちゃうよ?」
浴衣姿の澪が振り返って、笑う。黒髪が夕暮れの風に揺れて、俺の胸がドキドキする。
「待ってよ、澪ちゃん……」
「澪ちゃんじゃなくて、澪さんでしょ? お姉さんなんだから」
そう言いながら、また手を引いてくれる。温かい手。優しい手。
母と一緒に買い物に行った時も、澪が一緒だった。自転車のカゴに野菜を詰め込んで、三人で笑いながら帰った。
「京くんは将来、どんな大人になるのかなー」
「……わかんない」
「澪さんは知ってるよ。きっと優しい大人になるって」
そう言って、澪は俺の頭を撫でた。
あの日の空も、今日みたいに青かった。
あの日の風も、今日みたいに優しかった。
「……ァ……ゥゥ……」
喉から漏れる声は、もう言葉じゃない。何かを伝えようとしても、出てくるのはうめき声だけ。舌が動かない。唇が震えない。
澪は今、どこにいるんだろう。
確か——大学を卒業して、海外に行くって言ってた。
「京くんも、いつか外の世界を見に行きなよ。この村も好きだけど、世界はもっと広いんだから」
最後に会ったのは、いつだっただろう。
俺が高校を卒業する前? それとも後?
思い出せない。
でも、澪の笑顔だけは、はっきりと覚えている。
群れの中から、ガシャン、と音がした。誰かがあぜ道の脇に置いてあった農具を蹴り倒したのだ。クワが地面に転がり、刃先が朝日を反射する。
誰も気にしない。誰も拾わない。
ただ、進む。
アスファルトの道に出た。靴底が硬い地面を叩く音が、リズムを刻む。ズッ、ズッ、ズッ。不揃いな足音が重なり合い、奇妙な行進曲を奏でている。
道の両脇には、田んぼが広がっている。苗が風に揺れ、水面がキラキラと光っている。カエルの鳴き声。トンボの羽音。
平和だ。
あまりにも平和すぎる。
「……澪……」
心の中で、名前を呼ぶ。
「……俺、どうしちゃったんだろうな……」
答えは返ってこない。
澪は、もうこの村にはいない。海の向こう、遠い世界にいる。
俺がこんな姿になったことも、知らないだろう。
知らない方が、いい。
「……止まれよ……」
心の中で叫ぶ。
「止まってくれ……頼むから……」
だが足は止まらない。本能が、俺の体を支配している。肉を求める衝動が、脳を焼き尽くしている。
町が近い。
もうすぐ、人がいる。
そして俺は——群れの先頭で、最初に町の人間と出会うことになる。
◇
同じ頃、町では朝が始まっていた。
バス停に立つ高校生たちが、スマホを見ながら笑っている。
「マジで? 昨日のドラマ見た?」
「見た見た! 最後ヤバかったよね!」
制服姿の女子生徒が声を弾ませ、男子生徒がイヤホンを片耳に突っ込んだまま頷いている。バスを待つ列は、いつもと変わらない。誰も焦っていない。誰も恐れていない。
商店街では、シャッターが次々と開いていく。
ガラガラ、という金属音。八百屋のおばさんが店先に野菜を並べ始める。パン屋からは甘い匂いが漂い、出勤前のサラリーマンが立ち寄っていく。
「おはようございます」
「暑くなりそうですね」
「そうですねえ、今日も三十度超えるって言ってましたよ」
何気ない会話。何気ない笑顔。
町は、いつもと同じ朝を迎えていた。
交差点では、信号が青に変わり、横断歩道を人々が渡っていく。ベビーカーを押す母親。ランドセルを背負った小学生。犬の散歩をする老人。
平和だ。
この町には、まだ何も起きていない。
だが——
「……なんか、サイレン多くない?」
バス停の男子生徒が、ふとつぶやいた。
「え?」
「ほら、さっきから救急車とか消防車とか、やたら通ってる気がするんだけど」
確かに、遠くでサイレンの音が鳴り響いている。ピーポーピーポー。ウーウー。断続的に、何度も何度も。
「どっかで火事?」
「いや、救急車だから事故じゃない?」
「でも多すぎない? さっきから五台くらい通ったよ」
女子生徒が不安そうに眉を寄せる。男子生徒がスマホでニュースを検索し始める。
「……あれ、何も出てないな」
「ローカルニュースは?」
「それも特に……」
首を傾げる。だが、バスが来たことで話題は途切れた。扉が開き、生徒たちが乗り込んでいく。
何事もなかったかのように、日常は続く。
だが——町の外れでは、異変が始まっていた。
町へ続く農道。田んぼと住宅地の境界あたり。
買い物袋を手に提げた主婦が、ゆっくりと歩いていた。五十代くらいの女性。エプロン姿で、朝の食材を買いに行く途中なのだろう。
「暑いわねえ……」
額の汗を拭いながら、彼女はつぶやく。
そして——彼女は気づいた。
前方から、人の群れが歩いてくる。
◇
「……あら?」
主婦は足を止めた。
前から歩いてくる人々。十人、いや二十人以上はいる。みんな、同じ方向へゆっくりと歩いている。
「何かあったのかしら……?」
不思議そうに首を傾げる。だが、彼女はまだ気づいていない。その群れが何なのか、理解していない。
距離が縮まる。
五十メートル。
四十メートル。
三十メートル。
「……え?」
主婦の表情が、強ばった。
群れの先頭を歩く青年——俺の姿が、彼女の視界に入ったのだ。
血まみれの服。引きずる足。虚ろな目。
「……何、あれ……?」
声が震える。買い物袋を持つ手が、わずかに揺れる。
だが、彼女はまだ逃げなかった。
「ちょっと、大丈夫!? 怪我してるの!?」
彼女は駆け寄ろうとした。
善意だった。
心配だった。
助けようとした。
——その瞬間、俺の頭の中で、声が響いた。
「京くん、やめて」
澪の声だ。
「お願い、それ以上近づかないで」
幻聴だとわかっている。澪はここにいない。海の向こうにいる。
でも——
「……やめろ……」
心の中で叫ぶ。
「……澪、見ないでくれ……」
——それが、最悪の選択だった。
「ァァァアアアッ!!」
俺の喉から、獣のような咆哮が迸った。
体が勝手に動く。足が地面を蹴る。腕が前に伸びる。
主婦の目が、恐怖で見開かれる。
「え——」
言葉が途切れた。
俺の手が、彼女の肩に食い込む。爪が服を裂き、肉に突き刺さる。
「いやああああああっ!!」
悲鳴が響く。
買い物袋が地面に落ち、中身が転がる。トマト。キュウリ。卵のパックが割れて、黄身が地面に広がる。
そして——群れが一斉に襲いかかった。
ドッ、ドッ、ドッ、という足音が重なる。二十体以上のゾンビが、一人の女性に殺到する。
「やめて! やめてえええ!!」
彼女の悲鳴が、一瞬だけ空気を震わせた。
そして——
ブチッ。
肉が裂ける音。
ゴキッ。
骨が砕ける音。
「ァ……あ……ァ……」
主婦の声が、途切れ途切れになる。目が焦点を失い、口から血が溢れ出す。
俺の口に、温かい何かが流れ込んでくる。
肉だ。
人間の肉だ。
「……やめろ……やめてくれ……」
心の中で叫ぶ。だが口は、噛み続ける。飲み込み続ける。
頭の中で、また澪の声が響く。
「京くん……どうして……」
悲しそうな声。
泣いているような声。
「……見るなよ……」
心の中で叫ぶ。
「……澪、こんな姿……見ないでくれ……」
主婦の体が、ピクリ、と痙攣する。そして——動かなくなる。
いや、違う。
動かなくなったのではない。
「……ゥゥ……ァ……」
彼女の口から、うめき声が漏れ始めた。
感染したのだ。
数秒で。
噛まれた瞬間に。
主婦の目が、虚ろになる。体が起き上がる。そして——群れの一員になる。
俺たちは、また歩き始めた。
二十体だった群れが、二十一体になった。
◇
「……何、今の……」
遠くから、男の声がした。
農道の向こう側。住宅地の入り口あたりに、数人の人影が見える。
主婦の悲鳴を聞きつけて、駆けつけてきたのだろう。
「おい、あれ……」
「何やってんだ、あいつら……」
「血……血だらけだぞ……」
声が震えている。足が竦んでいる。
だが、彼らはまだ理解していない。
「まさか……映画みたいな……」
一人が、震える声でつぶやいた。
映画。
そう、映画だ。
テレビで見た、ゾンビ映画。
だが、これは映画じゃない。
現実だ。
「ァァァアアアッ!!」
群れが、一斉にうなり声を上げた。二十一体の喉から響く、獣の咆哮。
それが合図だった。
群れが、走り出す。
いや、「走る」というより「殺到する」という表現の方が正しい。統制の取れていない、ただ肉を求めて突進する獣の群れ。
「うわああああ!!」
男たちが逃げ出す。だが、遅い。
群れの速度は、人間の全力疾走には及ばない。だが、油断していた人間には十分すぎる速さだった。
「助けて! 誰か!!」
悲鳴が響く。
住宅地の路地で、一人の男が群れに飲み込まれる。そして、また一体増える。
窓から覗いていた住人が、悲鳴を上げて窓を閉める。
「警察! 警察呼んで!」
「何なの!? 何が起きてるの!?」
パニックの声が、あちこちから上がり始める。
俺は、その全てを見ていた。
止められない。
止まらない。
群れの先頭で、俺はただ町の中へと進んでいく。
住宅地の路地。商店街の入り口。人々が逃げ惑う交差点。
町が、呑み込まれていく。
「……すまない……」
心の中で、何度も謝る。
「すまない……すまない……」
母さん、すまない。
村のみんな、すまない。
そして——
「……澪、すまない……」
俺の口から出るのは、ただのうめき声だけ。
「ァァ……ゥゥ……」
澪の顔が、頭の中に浮かぶ。
笑顔の澪。
手を振る澪。
「京くん、また会おうね」
そう言って、バスに乗り込んだ澪。
あれが、最後だった。
もう二度と、会えない。
いや——会えたとしても、俺はもう人間じゃない。
澪に、この姿を見せることはできない。
群れは進む。
町は、崩れていく。
平和だった朝が、地獄に変わっていく。
◇
空は、相変わらず青かった。
セミは、相変わらず鳴いていた。
風は、相変わらず優しく吹いていた。
だが——
町には、もううめき声しか響いていない。
群れは進む。
俺は進む。
止まれない。
止まらない。
これが、始まりだった。
町が呑まれる、序章だった。
そして俺は——人間だった頃の自分を、少しずつ失っていく。
澪の顔も、いつか忘れるのだろうか。
澪の声も、いつか消えるのだろうか。
「……忘れたくない……」
心の中で、祈る。
「……澪だけは……忘れたくない……」
だが、群れは進む。
俺は進む。
人間の記憶を抱えたまま、怪物として。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




