第5話「沈黙する村」
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ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
村が、燃えていた。
家々から立ち上る炎。それが、昼間の空を赤く染めている。煙が、黒い柱となって空に昇っていく。風が吹くたびに、炎が揺れる。メラメラと、木材が燃える音。バチバチと、何かが弾ける音。
地面には、倒れた人々がいた。
動かない人々。血まみれの人々。もう、息をしていない人々。道端に、家の前に、田んぼの脇に。あちこちに、散らばっている。
血の臭いが、村全体を覆っていた。
甘く、鉄の臭い。それに混じって、煙の臭い。焦げた木の臭い。全てが混ざり合って、吐き気を催すような臭い。
京は、その中を歩いていた。
群れの一部として。ふらふらと、ぎこちなく。足が、血の溜まりを踏む。ピチャ、ピチャ。その音が、静かな村に響く。周りには、他のゾンビたちがいる。何十人も。いや、何百人も。全員、うめき声を上げながら歩いている。
「ウゥ……アァ……」
それが、村に響く唯一の「人間の声」だった。
いや、もう人間の声じゃない。
化け物の声だ。
京の心は、叫んでいた。
これは、夢だ。
悪い夢だ。
こんなことが、現実なわけがない。
でも——
地面に染み込んだ血は、本物だ。
燃え上がる家の熱は、本物だ。
空に立ち上る煙は、本物だ。
全てが、現実だ。
京の目に、見覚えのある家が映った。
隣の山本さんの家。いつもニコニコしていた山本さん。夏には、スイカをくれた。冬には、餅をついて、分けてくれた。
その家が、今——炎に包まれている。
窓から火が吹き出している。屋根が崩れている。もう、誰も住めない。山本さんは——どこにいる? 生きているのか? それとも——
京の視界の端に、動く影が見えた。
山本さんだった。
ゾンビになった山本さん。血まみれで、服はボロボロで、片腕がない。それでも、歩いている。ふらふらと。うめき声を上げながら。
京の心が、崩れた。
山本さん。
優しかった山本さん。
いつも笑顔だった山本さん。
それが——
遠くから、声が聞こえた。
人間の声。
「助けて! 誰か!」
女性の声。まだ、生きている人がいる。まだ、人間がいる。
京の体が、その声に反応した。首が動く。声の方向を向く。群れ全体が、その声に引き寄せられるように動き始める。
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村の中心、神社の前に、車が停まっていた。
軽トラック。荷台には、数人の村人が乗っている。男性が二人、女性が三人。全員、恐怖で顔が歪んでいる。泥だらけ、血だらけで、息を切らしている。
運転席には、村で一番若い男性——大学生の高橋がいた。彼は、ハンドルを握りしめている。手が震えている。汗が額を伝っている。
「早く! 早く乗れ!」
高橋が叫ぶ。荷台の村人たちが、周りを警戒している。ゾンビの群れが、じわじわと近づいてくる。あちこちから。ゆっくりと、でも確実に。
「もう誰もいない! 行くぞ!」
高橋が、エンジンをふかす。ブロロロロ。軽トラックが動き出す。砂利道を走る。タイヤが石を跳ね上げる。
荷台の村人たちが、振り返る。ゾンビの群れが、追ってくる。走るわけではない。ただ、歩いている。でも、その数が多すぎる。村中のゾンビが、こちらに集まってくるかのように。
「速く! もっと速く!」
荷台の男性が叫ぶ。
「これ以上は無理だ! 荷台に人が乗ってるんだぞ!」
高橋が叫び返す。軽トラックは、村の外れに向かう。そこを抜ければ、町に続く道路がある。町まで行けば、助けがある。警察がある。自衛隊がある。
そう、信じていた。
その時——
道の真ん中に、ゾンビの群れが現れた。
何十人もの群れ。道を塞いでいる。うめき声を上げながら、こちらに向かってくる。
「くそっ!」
高橋が、ハンドルを切る。軽トラックが急カーブを描く。荷台の村人たちが、悲鳴を上げる。バランスを崩す。一人の女性が、荷台から落ちそうになる。
「掴まれ!」
男性が、その女性の手を掴む。引き上げる。でも——
軽トラックのタイヤが、石につまずいた。
車体が揺れる。バランスを失う。
そして——
横転した。
ガシャーン!
金属が地面に叩きつけられる音。ガラスが割れる音。人々の悲鳴。
軽トラックは、道の脇に転がった。タイヤが空を向いて、回り続けている。
運転席から、高橋が這い出してくる。額から血を流している。意識は、ある。立ち上がろうとする。でも、足に力が入らない。
「みんな……大丈夫か……」
荷台から、村人たちが出てくる。一人、二人、三人。全員、怪我をしている。でも、生きている。
その時——
ゾンビの群れが、到着した。
道の両側から。前方から。後方から。四方から、ゾンビたちが集まってくる。
「逃げろ!」
高橋が叫ぶ。立ち上がろうとする。でも、足が動かない。骨が折れているのかもしれない。痛みが走る。
村人たちが、走り出す。でも、怪我をしている。速く走れない。一人の女性が、つまずいて転ぶ。ゾンビが、その上に覆いかぶさる。
悲鳴。
血。
もう一人の男性が、女性を助けようとする。でも、彼もゾンビに掴まれる。腕を掴まれ、引き倒される。
噛まれる。
次々に。
高橋は、その光景を見ていた。動けない。ただ、見ているしかない。
そして——
ゾンビの群れが、高橋にも迫る。
京もいた。
群れの一部として。高橋に向かって歩いている。
高橋の顔が、京の視界に入る。知っている顔。村で一番若い、大学生。東京の大学に通っていて、夏休みに帰ってきていた。母親が、いつも自慢していた。「うちの息子は、頭がいいのよ」と。
その高橋が、今——地面に座り込んで、絶望の顔をしている。
「京……くん?」
高橋が、京を見た。その目には、希望が——わずかな希望が、浮かんでいた。「助けて……くれ……」
京の心が、叫んだ。
逃げろ!
俺から逃げろ!
でも——
京の体は、高橋に掴みかかった。
そして——
噛みついた。
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どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。
京が気づいた時、辺りは静かだった。
悲鳴は、もう聞こえない。
助けを求める声も、聞こえない。
エンジンの音も、聞こえない。
聞こえるのは——
炎が燃える音。メラメラと。
風が吹く音。ヒュー、ヒュー。
そして、ゾンビたちのうめき声。「ウゥ……アァ……」
それだけだった。
村が、死んだ。
完全に。
京の周りには、もう——人間はいなかった。
いるのは、ゾンビだけ。
何百人ものゾンビ。それが、村の中を徘徊している。獲物を探して。でも、もう獲物はいない。
京の視界に、村の光景が広がる。
燃え尽きかけた家。煙を上げる家。崩れた屋根。割れた窓。血まみれの道。倒れた死体。それが、次々と立ち上がり、ゾンビになっていく。
田んぼも、ゾンビだらけだ。稲穂の間を、ゾンビたちが歩いている。黄金色の稲穂を踏みつけながら。
畑も、ゾンビだらけだ。野菜を踏みつけながら、ゾンビたちが歩いている。
神社の前も、ゾンビだらけだ。鳥居の下を、ゾンビたちが通り過ぎていく。
村全体が——
死者の世界になった。
鳥の声が、聞こえない。
いつもなら、カラスが鳴いている。スズメが鳴いている。でも、今は——静かだ。鳥たちは、逃げたのだろう。この村の異変を察して。
虫の声も、聞こえない。
いつもなら、蝉が鳴いている。コオロギが鳴いている。でも、今は——静かだ。
生きているものは、もう——この村にはいない。
京の心が、呟いた。
終わった。
全てが、終わった。
俺が生まれ育った村は、もうない。
あの温かい村は、もうない。
笑い声が響いていた村は、もうない。
祭りで賑わった村は、もうない。
母さんと一緒に歩いた道は、もう——
京の意識が、揺れた。
これは、夢だ。
夢に決まっている。
こんなことが、現実なわけがない。
目を覚ませば、全て元に戻る。
母さんが、朝ごはんを作っている。
「京、起きなさい」と、笑顔で。
友達が、家の前で待っている。
「京、遊びに行こうぜ」と、笑いながら。
村は、いつもと同じ。
平和で、温かい村。
でも——
現実は、違う。
地面に染み込んだ血。
空に立ち上る煙。
うめき声を上げる、ゾンビの群れ。
それが、全て現実だ。
京の心が、崩れていく。
罪悪感が、押し寄せる。波のように。何度も、何度も。
俺が殺した。
母さんを。
村人たちを。
高橋を。
全員、俺が——
いや、違う。
俺だけじゃない。
俺は、ただの一人だ。
群れの中の、ただの一人だ。
でも——
それが、何の慰めにもならない。
京の体は、群れと一緒に動き続けている。獲物を探して。でも、もう獲物はいない。
だから——
群れは、動き始めた。
村の外へ。
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夕暮れが近づいていた。
空が、オレンジ色に染まっている。太陽が、山の向こうに沈もうとしている。その光が、村を照らしている。優しい光。でも、その光が照らすのは——地獄の光景だ。
ゾンビの群れが、村の外れに集まっていた。
何百人もの群れ。それが、道路に向かって歩いている。ゆっくりと、でも確実に。
京も、その中にいる。
群れの一部として。ただ、歩いている。足が、勝手に動く。前へ、前へ。
道路が見えた。
村から町へ続く、一本道。アスファルトの道。両側には、田んぼが広がっている。その向こうには、山が見える。
群れは、その道を歩き始める。
ゾンビの足音が、道路に響く。ズル、ズル。引きずるような音。何百人分の足音が重なって、不気味な音楽のように響く。
京の心は、もう——何も感じなかった。
いや、感じているのかもしれない。
でも、それは——もう、遠い。
まるで、水の底に沈んでいくような。
意識が、薄れていく。
俺は、誰だ。
俺は、何だ。
俺は——
ただの、群れの一部だ。
ただの、化け物だ。
群れは、進む。
町に向かって。
人間がいる場所に向かって。
まだ生きている人間がいる場所に向かって。
空には、煙が立ち上り続けている。村から立ち上る煙。それが、夕焼けの空に溶けていく。
後ろを振り返れば——村が見える。
燃え尽きた村。
静かな村。
死んだ村。
でも、京は振り返らない。
いや、振り返れない。
体は、ただ前を向いている。
群れと一緒に。
町へ。
次の獲物へ。
京の心の奥底で、小さな声が囁いた。
これは、終わりじゃない。
始まりだ。
村が終わった。
でも、それは——
ただの始まりに過ぎない。
次は、町だ。
町が終われば、都市だ。
都市が終われば——
世界が、終わる。
群れは、夕暮れの道を歩き続ける。
ズル、ズル、ズル。
その音が、静かな田園地帯に響く。
遠くに、町の灯が見える。
まだ平和な町。
まだ何も知らない町。
その町に——
死が、近づいている。
ゆっくりと、でも確実に。
京は、ただ——歩き続けた。
群れの一部として。
化け物の一部として。
人間だった記憶を抱えたまま。
心の中で、小さく——祈りながら。
誰か、俺たちを止めてくれ。
誰か、この地獄を終わらせてくれ。
でも、その祈りは——
届かない。
空に消えていく。
煙と一緒に。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




