第51話「赤い海」
北海道。函館。
津軽海峡を望む防衛拠点。
そこには、日本最後の軍事力が集結していた。
自衛隊残存部隊——約三千名。
戦車——十二両。
装甲車——三十両。
火砲——二十門。
そして——海上自衛隊の護衛艦三隻。
それが——人類最後の防衛線だった。
司令部となった函館市役所の屋上に、防衛隊司令官——陸上自衛隊一佐の黒田真は立っていた。
四十五歳。北部方面隊出身。イラク派遣経験あり。
だが——彼が経験したどんな戦場も、これほど絶望的ではなかった。
黒田は、双眼鏡で海峡を見る。
津軽海峡。
幅、最短で十九キロメートル。
本州と北海道を隔てる、最後の防壁。
だが——もうすぐ、それも意味をなさなくなる。
彼らが——来る。
黒田の背後で、副官の声が響く。
「司令。偵察機からの報告です。敵群、本州側海岸に到達。推定数——五十万」
五十万。
その数字に、黒田は表情を変えない。
もう、驚く感覚すら失っていた。
「距離は?」
「海峡まで、三十キロメートル。このまま進めば——六時間後に、海に到達します」
六時間。
黒田は、時計を見る。
午前六時。
正午には——戦いが始まる。
いや、戦いではない。
虐殺だ。
一方的な、虐殺。
黒田は、双眼鏡を下ろす。
そして——部下たちを見る。
誰もが、疲労困憊していた。
だが——諦めてはいない。
まだ——戦う意志がある。
それが——人間の、最後の誇りだった。
「全隊に伝達」
黒田が、静かに命令する。
「敵は正午、津軽海峡に到達する。我々は、この地で迎え撃つ。撤退はない。ここが——最終防衛線だ」
副官が、敬礼する。
「了解しました」
黒田は、再び海峡を見つめた。
青い海。
穏やかな波。
だが——数時間後、この海は赤く染まる。
血で。
黒田は——それを知っていた。
◆
本州側。青森県。
海岸から二十キロ内陸。
群れは、進んでいた。
五十万の大軍。
それは、もはや群れではなかった。
軍隊だった。
整然と列を組み、秩序を保ち、一糸乱れぬ行進。
その先頭を、藤原京は歩く。
彼の眼は、金色に光っている。
視線は、北を向いている。
津軽海峡。
その向こうの、北海道。
三万人の人間が、逃げ込んでいる。
日本最後の、生存者たち。
京の口元が、わずかに歪む。
笑ったのか。
それとも——。
「まだ——抵抗するのか」
その声は、低く、冷たかった。
だが——そこには、何かがあった。
敬意か。
それとも——哀れみか。
京は、群れに命令を送る。
波動で。
精神波で。
「速度を上げろ。正午までに、海岸に到達する」
群れが、応答する。
五十万の意識が、同時に返答する。
歩調が、速まる。
時速三キロメートルから、五キロメートルへ。
それは、人間の早歩きに匹敵する速度。
だが——彼らは疲れない。
永遠に、その速度を維持できる。
群れの中に、Z-03がいた。
彼は、周囲を監視している。
遅れる者はいないか。
列を乱す者はいないか。
彼の眼が、光る。
金色に。
そして——命令を送る。
——左翼、速度低下。修正しろ。
——右翼、間隔が開きすぎている。詰めろ。
ゾンビたちが、即座に反応する。
列が、整う。
速度が、揃う。
Z-03は、満足する。
彼は——指揮官として、機能していた。
王の意志を、実行する存在として。
群れは、進む。
森を抜け。
川を渡り。
町を通過し。
全てを踏みつけて。
破壊して。
前進する。
◆
正午。
本州側海岸。
群れは、海に到達した。
五十万のゾンビが、波打ち際に立ち並ぶ。
それは——壮観だった。
地平線まで続く、死者の軍勢。
その数は、圧倒的だった。
京は、最前列に立つ。
海を見る。
向こう岸——函館の街が、小さく見える。
そこに——人間がいる。
最後の、抵抗者たち。
京の眼が、金色に輝く。
そして——。
彼は、海に足を踏み入れた。
水面が、彼を支える。
重力操作。
京は、海の上を歩く。
背後で——群れが動く。
一斉に。
五十万のゾンビが、海に入る。
沈む。
そして——海底を歩き始める。
津軽海峡、横断開始。
◆
函館。防衛拠点。
レーダー室で、オペレーターが叫ぶ。
「敵群、海峡進入! 数——推定五十万!」
黒田は、無言で頷く。
彼は、通信機を取る。
「全隊、戦闘配置。海上自衛隊、砲撃準備」
応答が返ってくる。
「護衛艦『いかづち』、準備完了」
「護衛艦『いなづま』、準備完了」
「護衛艦『あきづき』、準備完了」
黒田は、深く息を吸う。
「——撃て」
その瞬間。
三隻の護衛艦が、一斉に砲撃を開始した。
127ミリ砲。
砲弾が、空を飛ぶ。
音速で。
海峡に——着弾する。
水柱が上がる。
爆発が、海面を揺らす。
だが——。
海底では、群れが進んでいた。
砲弾は、水中で威力を失う。
衝撃波は、水に吸収される。
ゾンビたちは——無傷だった。
黒田は、歯噛みする。
「対潜爆雷、投下しろ!」
護衛艦から、爆雷が投下される。
円筒形の爆弾。
それが、海に落ちる。
一定の深度で——爆発する。
ドン、という重い音。
海面が、盛り上がる。
水中で、衝撃波が広がる。
ゾンビたちが、吹き飛ばされる。
身体が、ばらばらになる。
だが——。
次の瞬間。
ばらばらになった身体が、再生し始めた。
腕が、生える。
脚が、繋がる。
頭が、元に戻る。
Z-Virusの再生能力。
爆雷すら——無効だった。
黒田は、絶望する。
「……効かない」
副官が、震える声で報告する。
「敵群、進行中。速度——時速五キロメートル。到達予測時刻——四時間後」
四時間。
黒田は、時計を見る。
午後四時。
その時——戦いが始まる。
いや、終わる。
◆
海底。
深度五十メートル。
群れは、整然と進んでいた。
爆雷の攻撃を受けても、止まらない。
再生して、前進する。
それは——止められない軍勢だった。
Z-03は、周囲を見回す。
数百体が、爆雷で破壊された。
だが——既に再生している。
損失は、ゼロ。
彼は、京に報告する。
波動で。
——被害軽微。前進続行。
京からの返答。
——了解。速度維持。
Z-03は、命令を実行する。
群れは、進む。
止まらない。
止められない。
◆
午後四時。
北海道側海岸。
函館の防衛線。
兵士たちは、全員が銃を構えていた。
64式小銃。
89式小銃。
機関銃。
手榴弾。
ありとあらゆる武器を持って。
だが——誰もが知っていた。
これでは、勝てない。
黒田は、最前線に立つ。
彼の手には、拳銃。
南部十四年式。
祖父から受け継いだ、形見。
彼は、それを握りしめる。
そして——海を見る。
波打ち際から、何かが現れ始めた。
頭。
肩。
胴体。
ゾンビたちが、上陸してくる。
一体。
十体。
百体。
千体。
万体。
無数の、死者たち。
黒田は、叫ぶ。
「撃て! 全力で撃て!」
一斉射撃。
銃声が、響き渡る。
弾丸が、ゾンビたちに殺到する。
頭を撃ち抜く。
胴体を貫く。
腕を吹き飛ばす。
ゾンビたちが、倒れる。
だが——次の波が来る。
その次も。
その次も。
終わらない。
弾薬が、尽きる。
兵士たちが、叫ぶ。
「弾切れだ!」
「予備弾も!」
「もう——撃てない!」
黒田は、拳銃を構える。
最後の弾丸。
それを——。
ゾンビの頭に、撃ち込む。
一体が、倒れる。
だが——意味がない。
次のゾンビが、黒田に迫る。
黒田は、拳銃を投げ捨てる。
そして——日本刀を抜く。
祖父の形見。
それを、振るう。
ゾンビの首を、斬る。
だが——。
次のゾンビが、黒田を掴む。
引き倒す。
黒田は、地面に叩きつけられる。
ゾンビが、覆いかぶさる。
噛みつこうとする。
黒田は、刀で喉を突く。
ゾンビが、動きを止める。
黒田は、立ち上がる。
周囲を見る。
兵士たちが、次々と倒れている。
食われている。
感染している。
防衛線が——崩壊していた。
黒田は、叫ぶ。
「撤退! 全軍、撤退だ!」
だが——もう遅かった。
群れは、防衛線を突破していた。
五十万の軍勢が、函館に雪崩れ込む。
街が、飲み込まれる。
ビルが、占拠される。
人々が、逃げ惑う。
だが——逃げ場はない。
北海道は——陥落した。
◆
黒田は、走っていた。
血まみれで。
左腕は、噛まれている。
感染した。
もう——助からない。
だが——まだ死んでいない。
彼は、市役所に戻る。
屋上に。
そこから、街を見下ろす。
函館の街が、赤く染まっている。
血で。
炎で。
死で。
それは——地獄だった。
黒田は、ポケットから手榴弾を取り出す。
最後の一つ。
彼は、ピンを抜く。
そして——。
自分の口に、押し込んだ。
爆発。
黒田の頭部が、吹き飛ぶ。
彼の身体が、屋上から落下する。
地面に——叩きつけられる。
日本最後の司令官は、自ら命を絶った。
ゾンビになるくらいなら。
人間として、死ぬ。
それが——彼の選択だった。
◆
海。
津軽海峡。
そこは——赤く染まっていた。
血で。
無数の死体が、浮かんでいる。
人間の死体。
兵士たちの死体。
避難民の死体。
海が——墓場になった。
そして——その海を、ゾンビたちが渡る。
まだ——数十万が残っている。
彼らは、止まらない。
北海道へ。
最後の人間たちへ。
京は、函館の街に立っていた。
彼の足元には、黒田の死体。
京は、それを見下ろす。
そして——。
わずかに、頭を下げた。
敬意。
敵への、敬意。
戦士への、敬意。
それは——一瞬だった。
次の瞬間、京は顔を上げる。
そして——北を見る。
札幌。
旭川。
稚内。
まだ——人間がいる。
三万人。
最後の、抵抗者たち。
京の眼が、金色に光る。
「進め」
その命令が、波動となって広がる。
群れが、動き出す。
函館を通過し。
北へ。
さらに北へ。
止まらない。
止められない。
赤い海を越えて。
死者の軍勢は、進む。
人類最後の砦へ。
◆
その夜。
津軽海峡は、静かだった。
波も、穏やかだった。
だが——海は、赤かった。
月明かりに照らされて。
血で染まった海が、不気味に光っている。
死体が、波に揺られている。
何百。
何千。
全てが——人間だった。
戦った者たち。
守ろうとした者たち。
そして——敗れた者たち。
彼らの死体が、海を漂う。
やがて——沈んでいく。
海底へ。
暗闇へ。
そして——忘れ去られる。
誰も、覚えていない。
誰も、弔わない。
彼らは——ただ死んだ。
それだけ。
赤い海。
それは——人類の敗北の、象徴だった。
そして——新種族の勝利の、証だった。
月が、海を照らす。
赤い海を。
死者の海を。
その光景を——誰も、忘れないだろう。
生き残った者たちは。
これが——人類の終焉の、始まりだと。
(了)




