第49話「滅びの議会」
ニューヨーク。
国連本部ビル。
かつて世界の中心だった場所は、今や廃墟と化していた。
ガラス張りの外壁は半分が崩落し、内部には雨水が流れ込んでいる。ロビーには、腐敗したゾンビの死体が散乱している。
だが——地下は、まだ生きていた。
地下五階。核シェルター改装の会議室。
そこに、世界の指導者たちが集まっていた。
いや——かつての指導者たち、と言うべきか。
アメリカ大統領代理。イギリス首相代理。フランス暫定政府代表。ドイツ連邦議会議長。ロシア連邦保安庁長官。中国国務院残存メンバー。
かつて七十億人を統べていた者たちは、今や数千万の避難民を抱えて逃げ惑う敗残者に過ぎなかった。
会議室の照明は、薄暗い。発電機の燃料が底をついている。
モニターには、世界地図が映し出されていた。
赤く塗りつぶされた領域。
それは——感染地域。
日本列島、全域。
朝鮮半島、南部全域。
中国、沿岸部と北部。
ロシア、極東地域。
東南アジア、タイとベトナムの一部。
世界人口の三分の一——二十億人が、既に死んでいた。
いや、死んだのではない。
ゾンビになった。
そして——その中から、覚醒体が生まれている。
議長席のアメリカ大統領代理——ジョン・マクレーンが立ち上がった。
六十歳。元国防長官。三週間前に大統領が感染死し、彼が代理を務めている。
だが、もう大統領職に意味はなかった。
アメリカ合衆国は、既に機能していない。
首都ワシントンは放棄され、政府はカナダ国境の避難施設に逃げ込んでいる。
軍は四分の一が壊滅。残りも士気は地に落ちている。
マクレーンは、疲労で目の下に深いクマを作っていた。
彼は、全員を見回す。
そして——重い口を開いた。
「諸君。我々は、決断の時を迎えた」
誰も反応しない。
全員が、俯いている。
マクレーンは、続ける。
「三日前、日本列島への核攻撃は失敗した。五十二発の戦術核を投下したが——Z-01とZ-02は生存している」
彼はモニターを指差す。
そこには、衛星写真が映し出されていた。
東京の廃墟。その中心に立つ、二つの人影。
一つは黒く。
一つは紅く。
金色の眼と、紅い眼が、カメラを見上げている。
まるで——嘲笑うかのように。
「Z-01——藤原京は、群れの統合を完了した。彼の支配下にあるゾンビは、推定五百万体。そして——その全てが、群体知性を獲得している」
室内が、ざわめく。
群体知性。
それは、最悪のシナリオだった。
個々のゾンビが意識を保ちながら、全体として一つの意志を持つ。
それは——国家だった。
いや、国家を超えた何かだった。
マクレーンは、次のスライドに移る。
「Z-02——神谷刃は、単独行動を続けている。だが、その破壊力は核兵器に匹敵する。彼一人で、我々の艦隊を壊滅させた」
画面には、沈む空母の写真。
ジョージ・ワシントン。
全長三百メートルの巨艦が、真っ二つに斬られている。
その断面は、滑らかだった。
まるでナイフで切ったかのように。
ロシア代表——保安庁長官のイワン・クズネツォフが、机を叩いた。
「核が通じないなら、何が通じる! 我々には、もう手段がない!」
フランス代表——暫定政府のマリー・デュボワが、震える声で言う。
「生物兵器は? 化学兵器は? まだ試していない手段が——」
「全て試した」
マクレーンが遮る。
「エボラウイルス。VXガス。炭疽菌。全て無効だった。Z-Virusは、あらゆる毒素を無効化する。彼らには——効かない」
中国代表——国務院の劉次官が、冷たく言う。
「ならば、我々は敗北したということだ」
沈黙。
重く、長い沈黙。
誰も、反論できなかった。
それは——真実だった。
人類は、敗北した。
軍事力で勝てない。
科学力でも勝てない。
数でも勝てない。
もう——何も残っていなかった。
やがて。
イギリス代表——首相代理のエドワード・ハリソンが、口を開いた。
「一つ——提案がある」
全員が、彼を見る。
ハリソンは、ゆっくりと立ち上がった。
七十歳。白髪の老紳士。かつて外交官として数々の危機を乗り越えてきた男。
だが、今——その顔には、絶望しかなかった。
「我々は——人類抹消計画を、議題に挙げるべきだ」
室内が、凍りつく。
人類抹消。
その言葉の意味を、全員が理解した。
ドイツ代表——連邦議会議長のクラウス・シュミットが、立ち上がる。
「待て! お前は——我々自身を殺せと言うのか!」
「そうだ」
ハリソンが、静かに答える。
「我々が生き延びれば、感染は続く。避難民が感染すれば、ゾンビが増える。ゾンビが増えれば、Z-01の軍勢が強化される。悪循環だ」
彼は、全員を見回す。
「ならば——我々が消えれば、いい」
マリー・デュボワが、悲鳴のような声を上げる。
「狂ってる! あなたは正気なの!」
「正気だ」
ハリソンが答える。
「これ以上ないほど、正気だ。我々は——負けた。認めよう。そして——潔く退場すべきだ」
劉次官が、冷笑する。
「美しい言葉だ。だが——誰がそれを実行する? お前か? 私か? それとも、全人類に自殺を命じるのか?」
「命じない」
ハリソンが首を振る。
「選択肢を、提示するだけだ」
彼は、モニターを操作する。
画面が切り替わり、新しい地図が表示された。
南極大陸。
そこには、赤い点が一つ。
ハリソンが、説明する。
「南極の地下研究施設。そこには、致死性ウイルスの保管庫がある。スペイン風邪、天然痘、マールブルグ病——人類史上最悪の病原体が、全て眠っている」
彼は、続ける。
「それを——解放する」
室内が、騒然となる。
シュミットが、叫ぶ。
「お前は本当に狂った! それを解放すれば、人類は——」
「絶滅する」
ハリソンが、冷静に答える。
「だが、それは——我々の選択だ。ゾンビに食われて死ぬか、病気で死ぬか。どちらにせよ——死ぬ。ならば、せめて——人間として死にたい」
マクレーンが、割って入る。
「待て。落ち着け。我々は——まだ議論の段階だ。決定ではない」
彼は、ハリソンを見る。
「だが——お前の提案は、議事録に残す。いつか——それが必要になる時が、来るかもしれない」
ハリソンは、座った。
その背中は、ひどく小さく見えた。
マクレーンは、深く息を吸う。
そして——次の議題を告げた。
「では——次。避難民の選別について」
選別。
その言葉に、全員が顔を上げる。
マクレーンが、淡々と説明する。
「現在、世界各地の避難施設には、合計三千万人の生存者がいる。だが——食料は、あと三ヶ月分しかない」
彼は、モニターに数字を表示する。
備蓄食料:三ヶ月分。
生存者:三千万人。
一人当たりの食料:一日千五百カロリー。
このままでは、全員が餓死する。
「我々は——人数を減らす必要がある」
マリー・デュボワが、震える。
「減らすって——どうやって?」
「選別だ」
マクレーンが答える。
「若い者を優先する。子供を優先する。技術者を優先する。そして——それ以外は——」
彼は、言葉を濁した。
だが、全員が理解した。
それ以外は——捨てる。
老人を。病人を。無能力者を。
捨てる。
餓死させる。
あるいは——。
劉次官が、冷たく言う。
「安楽死、というわけか」
「そうだ」
マクレーンが頷く。
「薬物による、無痛の死。それが——我々にできる、最後の慈悲だ」
クズネツォフが、吐き捨てる。
「慈悲だと? 虐殺だろう!」
「虐殺だ」
マクレーンが認める。
「だが——必要な虐殺だ。三千万人を三ヶ月生かすより、千万人を一年生かす方が、まだ希望がある」
シュミットが、頭を抱える。
「神よ——我々は、何をしているんだ」
誰も、答えなかった。
答えられなかった。
彼らは——人類の指導者だった。
世界を統べ、平和を守り、未来を築く使命を持っていた。
だが、今——。
彼らは、ただの敗残者だった。
生き延びるために、仲間を切り捨てる。
人間性を捨てて、獣になる。
それが——人類の、最後の姿だった。
マクレーンが、採決を宣言する。
「では——投票に移る。避難民の選別計画に、賛成の者は——」
最初に手を挙げたのは、劉次官だった。
次にクズネツォフ。
ハリソンが続く。
マリー・デュボワが、泣きながら手を挙げる。
シュミットが、最後に——震える手を、上げた。
全員一致。
人類は、自らの手で仲間を殺すことを決めた。
マクレーンは、目を閉じた。
そして——呟く。
「神よ——我らを許したまえ」
それは、祈りではなかった。
呪いだった。
自分たちへの、呪い。
◆
会議が終わり、全員が退室する。
廊下を歩きながら、ハリソンはマクレーンに声をかけた。
「君は——信じているのか? 人類に、まだ未来があると」
マクレーンは、答えなかった。
しばらく歩いた後——ようやく口を開く。
「分からない」
その声は、疲れ切っていた。
「だが——諦めるわけにはいかない。我々が諦めれば、本当に終わる」
「もう終わっているよ」
ハリソンが、静かに言う。
「我々は——既に、人間ではない。獣だ。生き延びるためだけに、他者を殺す獣」
マクレーンは、立ち止まった。
そして——ハリソンを見る。
「それでも——生きる。それが、我々の使命だ」
ハリソンは、笑った。
それは、悲しい笑いだった。
「使命か。もう、そんなものはないよ」
彼は、歩き去る。
その背中を見送りながら、マクレーンは思った。
あの男は——もう、死んでいる。
肉体は生きているが、心は死んでいる。
そして——自分も、同じかもしれない。
この世界で、まだ生きている人間が、どれだけいるのか。
肉体だけではなく、心も生きている人間が。
マクレーンには、分からなかった。
◆
その夜。
ハリソンは、自室に戻った。
簡素な部屋。ベッドと机だけがある。
彼は、机の引き出しから、拳銃を取り出した。
ブローニング・ハイパワー。
かつて護身用に持っていたものだ。
弾倉を確認する。
九ミリ弾が、十三発。
一発あれば、十分だった。
ハリソンは、銃を見つめる。
そして——笑った。
「結局——これか」
彼は、銃口を自分の頭に向ける。
引き金に、指をかける。
冷たい金属の感触。
それは——解放の感触だった。
もう、考えなくていい。
もう、決断しなくていい。
もう——苦しまなくていい。
ハリソンは、目を閉じた。
そして——。
引き金を、引いた。
カチン、という音。
不発。
ハリソンは、目を開ける。
銃を確認する。
弾は、入っている。
だが——撃鉄が落ちていない。
故障か。
それとも——。
ハリソンは、笑った。
大きな声で、笑った。
「そうか——神は、まだ俺を殺さないのか」
彼は、銃を放り投げる。
そして——ベッドに倒れ込んだ。
涙が、流れる。
声を殺して、泣いた。
老いた外交官は、一人で泣いた。
誰も、見ていない部屋で。
誰も、聞いていない夜に。
彼は——まだ、人間だった。
心が、生きていた。
だから——苦しかった。
◆
翌朝。
国連本部の地下に、新しい命令が伝達された。
コードネーム「ノアの箱舟」。
避難民の選別計画。
生存者三千万人を、千万人に削減する。
二千万人を——処分する。
老人から。
病人から。
無能力者から。
順番に。
薬物注射による、安楽死。
それが——人類最後の慈悲だった。
そして——人類最大の罪だった。
計画は、即日実行された。
世界各地の避難施設で、選別が始まる。
泣き叫ぶ声。
懇願する声。
呪う声。
だが——誰も、止めなかった。
止められなかった。
これが——生き延びるための、代償だった。
人類は、自らの手で人類を殺し始めた。
ゾンビよりも先に。
人間が、人間を滅ぼし始めた。
それが——人類最後の、選択だった。
(了)




