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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
ゾンビサイド第3部「蠢動《しゅんどう》」

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第48話「黒き王と紅き鬼」

 東京湾。


 夜明け前。


 海は静かだった。


 波一つ立たない。風もない。空は暗く、星も見えない。核爆発の煙が上層大気を覆い、光を遮断している。


 世界は、灰色だった。


 その海面に、影が立っていた。


 藤原京。


 Z-01。


 彼は、海の上を歩いていた。


 いや——歩いているのではない。海面が、彼を支えていた。


 水が凍っているわけではない。固まっているわけでもない。ただ——そこに、何かがあった。


 見えない力。空間そのものを支配する力。


 京の足が、海面に触れる。その瞬間、水面が波紋を描く。だが、波紋は広がらない。一定の範囲——半径五メートルで止まり、そこから先には進まない。


 まるで——見えない壁があるかのように。


 実際、壁があった。重力の壁。京の意志が作り出した、空間の歪み。


 彼の周囲では、物理法則が書き換えられている。重力定数が変化し、水の表面張力が増幅され、海面は固体のような性質を持つ。


 京は、ゆっくりと歩く。


 一歩、また一歩。


 彼の足元で、水面が微かに沈む。だが、沈み込まない。彼の体重——六十キログラムは、見えない力によって分散され、水面全体で支えられている。


 京は、東京を見つめていた。


 廃墟と化した都市。炎上する街。立ち上るきのこ雲。高度一万メートルに達した灰色の塔が、ゆっくりと崩れ始めている。


 放射性物質を含んだ雲。それが風に乗って拡散し、関東全域を汚染する。


 人間なら、即死する濃度。


 だが——京には、無関係だった。


 Z-Virusは、放射線を無効化する。細胞の損傷を瞬時に修復し、DNAの破壊を防ぐ。


 彼らは、核の炎にすら耐える存在だった。


 そして——その中心で輝く、赤い光。


 神谷刃。紅の鬼神が、覚醒した。


 京は、その光を見つめている。表情は、変わらない。だが——その眼が、わずかに細められた。


 分析。


 彼は、刃の力を測っている。


 エネルギー出力——覚醒前の十倍以上。破壊半径——半径一キロメートル。持続時間——無制限。


 刃は、核を超えた。


 いや——核と同等の破壊力を、単独で行使できる存在になった。


 人類にとって、それは悪夢だった。


 だが、京にとっては——。


 京の口元が、わずかに動く。


「……来たか」


 低く、静かな声。それは誰に向けたものでもなかった。独白。あるいは——確認。


 京は、一歩を踏み出す。


 海面が、きしむ。


 いや、きしんでいるのは海ではなかった。空間が、きしんでいた。


 京の周囲で、空気が歪む。重力が、曲がる。光が、屈折する。


 彼の身体から、黒いオーラが滲み出していた。


 それは煙のように揺らめき、周囲に広がっていく。だが、煙ではない。可視化されたエネルギー。重力場の歪みが、光の屈折によって黒く見えている。


 オーラが触れた海面が、陥没する。


 水が、圧力で押し下げられる。まるで巨大な手が、海を押しつぶしているかのように。


 半径十メートルの範囲で、海面が三十センチ沈む。


 そこだけ、重力が二倍になっている。


 京の眼が、金色に光る。


 かつてない強さで。かつてない威圧感で。


 彼は——進化していた。


 大陸で過ごした一年間。彼は、何をしていたのか。


 戦っていた。


 中国、ロシア、モンゴル。数百万のゾンビと、数十万の人間を相手に。


 彼は、無数の戦いを経験した。


 軍隊と戦い、戦車を破壊し、戦闘機を撃墜し、核攻撃を回避した。


 そして——学んだ。


 戦術を。戦略を。支配を。


 彼は、もはや本能だけで動く獣ではなかった。


 思考する。計算する。予測する。


 彼は——王になっていた。


 京は、再び歩き出す。


 東京へ。刃の元へ。


 二つの頂点が、出会う時が来た。


   ◆


 東京。皇居跡。


 核爆発から十二時間が経過していた。


 クレーターの中心に、刃は立っている。


 彼の周囲には、何もない。ゾンビすらいない。全てが、彼の力で吹き飛ばされていた。


 半径五百メートル。そこは完全な空白地帯。生命の気配が、一切ない。


 刃は、刀を抜いていた。


 刃先を地面に向け、片手で構えている。その眼は、紅く光っている。


 だが——焦点が定まっていない。彼は、何も見ていなかった。


 いや、何かを見ていた。だが、それは目の前の景色ではなかった。もっと遠くの何か。もっと深い何か。


 刃の感覚は、研ぎ澄まされていた。


 半径十キロメートル内の全ての動きを感知できる。空気の流れ、地面の振動、生命の気配。


 そして——。


 来る。


 何かが、近づいている。


 いや、誰かが。


 刃の口が、動く。


「……来るか」


 誰もいない。だが——彼は、知っていた。


 その瞬間。


 刃の背後、十メートルの位置で、空気が揺れた。


 音もなく。気配もなく。だが——確実に、そこに何かがいた。


 いや、誰かが。


 刃は、振り向かない。ただ——口元を歪める。笑ったのか。それとも——。


「遅かったな、王」


 その声は、低く、掠れていた。人間の声ではなかった。だが——言葉だった。明確な、意志を持った言葉。


 背後から、声が返ってくる。


「遅くはない。丁度いい時だ、鬼神」


 京の声。それは冷静で、静かで、しかし——圧倒的な存在感を持っていた。


 刃が、ゆっくりと振り向く。


 そこに、京が立っていた。


 海水に濡れた黒いコートを纏い、金色の眼で刃を見つめている。その顔には、表情がない。だが——その眼には、全てがあった。


 観察。分析。評価。


 京は、刃を測っている。


 二人は、無言で向き合った。


 距離、十メートル。お互いの視線が、交錯する。


 金色と、紅。理性と、破壊。王と、鬼神。


 空気が、凍りつく。


 いや——凍りついているのではない。固まっているのだ。


 二人の放つオーラが、空間そのものを圧縮している。黒と赤の二色のオーラが、ぶつかり合い、混ざり合わずに境界線を作っている。


 その境界線の上で、空間が歪んでいる。


 光が屈折し、空気が震え、地面に細かい亀裂が走る。


 二人の力が、均衡している。


 どちらも、相手を圧倒できない。


 どちらも、相手に屈しない。


 対等。


 完全な、対等。


 やがて。


 刃が、刀を鞘に収めた。


 ゆっくりと。だが、確実に。カチン、という小さな音が響く。


 京が、わずかに頷く。


「お前は、進化した」


「お前もな」


 刃が答える。


「俺たちは——同じだ」


「同じではない」


 京が即座に否定する。


 その声は、冷たかった。だが、敵意はない。ただ——事実を述べている。


「お前は破壊。俺は支配。お前は力。俺は秩序。お前は混沌。俺は理性。違う」


「だが——」


 刃が続ける。


 その眼は、京を真っ直ぐ見つめている。


「同じ場所に立っている」


 京は、答えなかった。


 答える必要がなかった。それは、真実だった。


 二人は、同じ高みに到達していた。


 人間を超え、ゾンビを超え、覚醒体を超えた存在。新種族の、頂点。


 この星で、彼ら二人に並ぶ者はいない。


 彼らは——孤独だった。


 いや、孤独ではなくなった。


 今、ここに。


 同じ高みに立つ存在が、二人いる。


 それは——奇妙な安堵だった。


 京が、口を開く。


「群れを、統合する」


 刃が、眉をひそめる。


「統合?」


「そうだ」


 京が頷く。


 その眼は、遠くを見ている。東京の廃墟の向こう。日本の、その先。世界の、果て。


「バラバラだった群れを、一つにする。本能だけで動いていた獣を、意志を持った種族にする。それが——俺の役目だ」


「役目?」


 刃が問い返す。


「誰が決めた?」


「俺が」


 京が答える。


 その声には、迷いがない。


「俺が王になると、俺が決めた。群れを統べると、俺が決めた。新しい種族を作ると、俺が決めた」


 刃は、しばらく黙っていた。


 やがて——短く言う。


「勝手にしろ」


 京が、わずかに笑う。


 それは、この一年間で初めての笑みだった。


「許可は求めていない。ただ——お前に知らせただけだ」


 刃が、再び前を向く。


「なら、さっさとやれ。俺は——」


 彼は、刀の柄に手を置く。


「俺のやり方で、進む」


 京は、頷いた。


「それでいい」


 彼は、踵を返す。


「お前は破壊しろ。俺が、その後を統べる」


 京が、歩き出す。一歩、また一歩。その足音は、地面を震わせる。


 刃は、見送らない。ただ——空を見上げた。


 灰色の雲が、流れている。その向こうに、何があるのか。


 刃には、分からなかった。


 だが——。


 何かが、変わろうとしている。


 世界が、動き出す。


 それだけは、確かだった。


   ◆


 東京郊外。多摩地区。


 そこには、数万のゾンビが蠢いていた。


 群れ。


 秩序のない、本能だけの集団。


 彼らは獲物を求めて彷徨い、見つければ襲いかかり、食い尽くす。


 それだけの存在だった。


 だが——。


 その群れの上空に、京が現れた。


 跳躍。


 彼は、ビルの屋上から屋上へと跳び移り、群れを見下ろしている。


 金色の眼が、輝く。


 その瞬間。


 群れが、動きを止めた。


 一斉に。


 まるで時間が止まったかのように。


 数万のゾンビが、完全に静止した。


 京が、口を開く。


「聞こえるか」


 その声は、小さかった。


 だが——全員に届いた。


 声ではない。


 波動。


 精神に直接響く、波動。


 ゾンビたちの眼が、一斉に京を向く。


 無数の視線。


 それは恐怖ではなく、服従だった。


 京が、続ける。


「お前たちは、群れだ。だが、今日から——種族になる」


 京の身体から、黒いオーラが噴き出す。


 それは波のように広がり、群れ全体を覆っていく。


 オーラに触れたゾンビたちの身体が、震える。


 そして——。


 彼らの眼が、光り始めた。


 微かに。


 だが、確実に。


 意識が、芽生えている。


 理性が、戻っている。


 京の波動が、彼らの脳を再構築している。


 本能だけだった神経回路に、新しい経路が形成される。


 前頭葉が活性化する。


 大脳皮質が再編成される。


 彼らは——思考し始めた。


 一人のゾンビが、自分の手を見る。


 動かす。


 開く。


 閉じる。


 ——これは、俺の手だ。


 別のゾンビが、周囲を見回す。


 仲間がいる。


 いや、仲間ではない。


 同じ存在。


 同じ種族。


 ——俺たちは、何だ?


 答えが、返ってくる。


 京の声。


 いや、京の意志。


「お前たちは、新人類だ」


 その言葉が、全員の脳に刻まれる。


 新人類。


 ホモ・サピエンスではない。


 だが、人類の後継者。


 進化した存在。


 ゾンビたちの眼が、さらに光る。


 そして——。


 彼らは、動き出した。


 だが、以前とは違う。


 バラバラに動くのではない。


 統制されている。


 秩序がある。


 意志がある。


 京が、手を上げる。


 その瞬間——。


 数万のゾンビが、一斉に跪いた。


 全員が。


 同時に。


 それは服従の証。


 いや——契約の証。


 彼らは、京を王として認めた。


 京は、彼らを民として受け入れた。


 群れが、国家になった瞬間だった。


   ◆


 京は、ビルの屋上に立っている。


 眼下には、跪くゾンビたちの海。


 彼の眼が、金色に輝く。


 そして——。


 彼は、両腕を広げた。


 その瞬間。


 京の身体から、黒いオーラが爆発的に噴き出した。


 それは巨大な球体となり、半径十キロメートルを覆う。


 オーラの中で、空間が歪む。


 重力が、変化する。


 地面が、わずかに沈む。


 ビルが、軋む。


 空気が、圧縮される。


 そして——。


 全てのゾンビが、同時に立ち上がった。


 彼らの眼が、一斉に光る。


 金色に。


 京と同じ色に。


 それは——繋がった証。


 精神が、共有された証。


 群体知性。


 個々の意識を保ちながら、全体として一つの意志を持つ存在。


 京の声が、響く。


 それは音ではなく、波動だった。


 全員の脳に、直接響く波動。


「——《重奏領域グラヴィティ・コード》」


 技名が、空間に刻まれる。


 重力と精神波を束ね、群れの理性を統合する技。


 過程技。


 完全覚醒の証。


 京の周囲で、空間が歪む。


 重力が、可視化される。


 黒い糸のようなものが、京から全てのゾンビへと伸びている。


 それは——支配の糸。


 いや、繋がりの糸。


 個と全体を結ぶ、絆。


 京が、手を下ろす。


 その瞬間——。


 オーラが、収束した。


 だが、消えたわけではない。


 全てのゾンビの中に、京の力が宿っている。


 彼らは、京の一部になった。


 京は、彼らの全てになった。


 これが——新種族の形。


   ◆


 東京。皇居跡。


 刃は、その光景を見ていた。


 遠くに見える、黒いオーラの球体。


 それが消えた後も、刃は動かなかった。


 ただ——呟いた。


「……始まったか」


 新しい時代が。


 新しい世界が。


 刃は、刀を抜く。


 そして——。


 一閃。


 その斬撃が、空間を切り裂く。


 赤い光が、夜空を貫く。


 それは——応答だった。


 京への、応答。


 お前が王なら、俺は鬼だ。


 お前が統べるなら、俺は壊す。


 お前が秩序なら、俺は混沌だ。


 だが——。


 俺たちは、同じ場所に立っている。


 同じ高みに。


 同じ未来に。


 刃の眼が、紅く光る。


 京の眼が、金色に光る。


 二つの光が、東京の空で交錯した。


 黒と紅。


 王と鬼。


 秩序と破壊。


 それは——対立ではなかった。


 均衡だった。


 双璧だった。


 この日。


 人類の時代が、完全に終わった。


 そして——。


 新種族の時代が、始まった。


 その頂点に立つのは。


 金眼の黒き王、藤原京。


 紅眼の紅き鬼、神谷刃。


 二人が統べる世界。


 それが——これからの地球だった。


   ◆


 北海道。最北端の避難施設。


 そこでは、最後の人類が息を潜めていた。


 三万人。


 日本に残された、最後の生存者たち。


 彼らは、モニター越しに東京を見ていた。


 衛星映像。


 そこには——二つの光が映っていた。


 金色と、紅。


 ある者が、呟く。


「……終わったんだ」


 別の者が、頷く。


「ああ。人間の時代は、終わった」


 絶望ではなかった。


 諦念でもなかった。


 ただ——事実の確認。


 現実の受容。


 彼らは、知っていた。


 もう、勝てない。


 もう、戻れない。


 人類は——敗北した。


 モニターの中で、二つの光が輝いている。


 それは——新しい支配者の宣言だった。


 この星は、もう人間のものではない。


 この星は、新種族のもの。


 藤原京と神谷刃。


 黒と紅の双璧が統べる、新世界。


 人類は——ただ見ているしかなかった。


 自分たちの終焉を。


 そして——新しい時代の幕開けを。


(了)

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