第41話「沈黙の契約」
渋谷。
かつて若者の街と呼ばれた場所。
今は、死者の街でしかない。
109ビルは、外壁が剥がれ落ちている。
中のブティックは、荒らされている。
マネキンが倒れ、服が散乱している。
もう誰も、ファッションを楽しむことはない。
スクランブル交差点は、放置された車で埋まっている。
タクシー。
バス。
トラック。
全てが、錆び始めている。
センター街は、崩れた店舗で塞がれている。
カラオケ店。
ゲームセンター。
居酒屋。
全ての看板が、色褪せている。
道路には、ゴミが散乱している。
ペットボトル。
ビニール袋。
そして――骨。
人間の、骨。
もう、肉はない。
全て、食い尽くされた。
全てが、静寂に包まれていた。
風が吹けば、ゴミが舞う。
それだけが、動くもの。
だが――
今日は、違った。
そこに、二つの群れが集まっていた。
東から来た群れ。
藤原京が率いる、数千のゾンビ。
彼らは整然と並び、静かに立っている。
まるで、軍隊のように。
規律正しく。
統制されて。
一糸乱れぬ隊列。
その中心に、京が立つ。
金色の瞳が、前を見ている。
西から来た群れ。
神谷刃が率いる、数千のゾンビ。
彼らは不規則に蠢き、低く唸っている。
まるで、獣の群れのように。
本能のままに。
野性的に。
だが、それでも刃に従っている。
その中心に、刃が立つ。
紅色の瞳が、敵を睨んでいる。
二つの群れが、向かい合っていた。
交差点を挟んで。
百メートルの距離を置いて。
その中心に――
二人の王が、立っていた。
⸻
藤原京。
金色の瞳を持つ、理性の王。
彼は、動かない。
ただ、相手を見ている。
冷静に。
観察するように。
分析している。
この相手の力を。
危険度を。
そして――可能性を。
京の周囲には、力場が展開されている。
虚界展開。
半径五十メートル。
その中では、京の意思が絶対だ。
神谷刃。
紅色の瞳を持つ、破壊の鬼。
彼も、動かない。
だが、その体は緊張している。
いつでも、動ける姿勢。
筋肉が、張り詰めている。
呼吸が、浅く速い。
本能が、警告している。
危険だ、と。
この相手は、自分と同格だ、と。
刃の周囲には、見えない刃がある。
空間を切り裂く、斬撃。
いつでも、放てる。
二人の距離は、十メートル。
その間には、何もない。
ただ、空気だけがある。
だが――その空気が、重い。
二人から発せられる圧力で。
見えないエネルギーで。
空間そのものが、歪んでいる。
まるで、ガラスが歪むように。
光が、屈折している。
音が、遅れて届く。
重力さえも、狂っている。
これは――
二つの力場の、衝突。
虚界と、斬界の。
支配と、破壊の。
⸻
先に口を開いたのは、京だった。
「……お前が、Z-02か」
低く、静かな声。
だが、その声には力があった。
刃は、何も答えない。
ただ、京を睨んでいる。
紅い瞳が、金色を映す。
「人間は、お前を紅の鬼神と呼んでいる」
京が続ける。
「だが、お前は……何だ」
刃の口が、開く。
「……知らん」
掠れた声。
「お前は?」
「藤原京」
京が答える。
「かつて、人間だった」
「……俺も、だ」
刃が呟く。
「神谷刃」
沈黙。
二人は、互いを見つめる。
理解しようとする。
相手が、何者なのかを。
⸻
京の周囲に、力場が展開される。
虚界展開。
空間が、歪む。
刃は、それを感じ取る。
本能で。
(……これは)
危険だ。
この領域に入れば、自分は自由に動けない。
刃の体が、熱を持ち始める。
紅い瞳が、強く光る。
対抗するために。
自分も、力を解放する。
刃の周囲の空気が、震える。
見えない刃が、空間を切り裂く。
京は、それを感じ取る。
(……斬撃か)
空間を切る力。
危険だ。
この距離なら、一瞬で届く。
⸻
二人の力が、拮抗する。
支配と破壊。
秩序と混沌。
理性と本能。
どちらも、譲らない。
どちらも、引かない。
空気が、ピンと張り詰める。
まるで、糸のように。
いつ、切れてもおかしくない。
群れが、ざわめく。
双方の群れが、主の緊張を感じ取っている。
いつでも、戦える態勢。
だが――
⸻
京が、一歩前に出た。
刃の領域に、踏み込む。
群れが、一斉に唸り声を上げる。
ウォオオオオ……
刃の群れが、警告している。
近づくな、と。
主を脅かすな、と。
彼らは、動こうとする。
京を、襲おうとする。
だが――
刃が、手を上げる。
制止の、合図。
群れが、止まる。
従順に。
即座に。
刃は、京を見ている。
(……何のつもりだ)
近づいてくる。
敵意はない。
だが、油断もできない。
この距離なら、一瞬で攻撃できる。
だが――
京は止まらない。
もう一歩。
また一歩。
距離が、五メートルになる。
刃の手が、動く。
わずかに。
いつでも、斬れる。
空間ごと、両断できる。
だが――
刃は、動かない。
ただ、京を見ている。
何をするつもりだ、と。
なぜ、近づく、と。
京の顔が、はっきり見える。
若い顔。
二十代前半。
だが、その目は――
老人のように、深い。
多くを見てきた、目。
多くを経験した、目。
⸻
京が、立ち止まる。
距離、三メートル。
互いの顔が、はっきり見える距離。
京の瞳が、刃を捉える。
金色の光が、揺れる。
「……戦うつもりか?」
京が聞く。
刃は、答えない。
ただ、睨んでいる。
京は続ける。
「戦えば、どちらかが死ぬ」
「……だから、何だ」
刃が呟く。
「それが、この世界だ」
「違う」
京がきっぱりと言う。
「もう、違う」
⸻
京が、腕を広げる。
周囲を示すように。
廃墟を。
死んだ街を。
そして、二つの群れを。
「人間は、もう終わった」
京の声は、静かだ。
だが、確信に満ちている。
「……知ってる」
刃が答える。
「俺が、終わらせた」
「お前だけじゃない」
京が首を横に振る。
「俺も。そして、他の覚醒体も。みんなで、終わらせた」
「他?」
刃が眉をひそめる。
「他にも、いるのか」
「ああ」
京が頷く。
「世界中に。数十、いや、数百。覚醒している個体がいる」
刃は、驚く。
自分と京だけではない。
もっと、いる。
同じような、存在が。
「……それで」
刃が促す。
「だから、何だ」
「だから――」
京が、刃を真っ直ぐ見る。
「今は、我々の時代だ」
「我々?」
「そうだ」
京が言い切る。
「人間ではない。ゾンビでもない。新しい種族。我々、覚醒体の時代だ」
⸻
刃は、黙っている。
京の言葉を、噛み締めている。
我々の時代。
それは、何を意味する?
京が続ける。
「お前と俺が戦えば、多くの仲間が死ぬ」
「……仲間?」
刃が眉をひそめる。
「ゾンビが、仲間?」
「そうだ」
京が頷く。
「お前の群れも、俺の群れも。みんな、同じ種族だ」
「……」
刃は、何も言えない。
種族。
その言葉が、胸に刺さる。
そうか。
もう、人間ではない。
だが、ゾンビでもない。
新しい、何かだ。
⸻
京が、手を差し出す。
右手を。
刃に向かって。
「……何だ、それは」
刃が聞く。
「契約だ」
京が答える。
「お前と俺。戦わない。互いの領域を尊重する」
「……領域?」
「そうだ」
京が頷く。
「お前は西。俺は東。それでいい」
刃は、京の手を見る。
差し出された、手。
人間のような、仕草。
だが、意味は理解できる。
これは――
同盟の申し出だ。
⸻
刃は、迷う。
受け入れるべきか。
それとも、拒絶するべきか。
本能は、叫んでいる。
戦え、と。
この敵を、倒せ、と。
強者は、一人でいい。
二人は、いらない。
だが――
理性が、囁く。
待て、と。
考えろ、と。
この相手は、敵か?
本当に、敵なのか?
刃は、自分の中で戦っている。
本能と理性が。
破壊と創造が。
過去と未来が。
刃は、京を見た。
金色の瞳。
そこには、敵意がない。
殺意もない。
ただ――
理解がある。
同じ存在としての、理解。
仲間としての、認識。
(……仲間)
その言葉が、刃の胸に響く。
そうか。
もう、一人ではないのか。
孤独ではないのか。
同じ存在が、いる。
理解し合える、存在が。
刃の手が、動く。
ゆっくりと。
まるで、何か重いものを持ち上げるように。
躊躇いながら。
だが、確実に。
⸻
刃が、手を伸ばす。
ゆっくりと。
京の手に向かって。
群れが、静まる。
双方の群れが、息を呑む。
刃の手が、京の手に触れる。
握手。
人間のような、握手。
だが、その意味は――
契約。
無言の、契約。
二人の王が、同盟を結んだ。
理性と暴力が、手を取り合った。
⸻
その瞬間。
空間の緊張が、解ける。
張り詰めていた空気が、緩む。
群れが、安堵する。
戦わなくて、済む。
死ななくて、済む。
京が、手を離す。
刃も、手を引く。
二人は、向かい合っている。
だが、もう敵ではない。
同盟者だ。
「……これから、どうする」
刃が聞く。
「北だ」
京が答える。
「まだ、人間がいる。北海道に」
「……行くのか」
「ああ」
京が頷く。
「お前は?」
「……わからん」
刃が呟く。
「ただ……動きたい」
「なら、来い」
京が言う。
「一緒に、行こう」
⸻
刃は、考える。
一緒に、行く?
なぜ?
理由は?
だが――
悪くない。
一人よりも、二人。
二人の方が、強い。
刃が、頷く。
「……わかった」
京が、微笑む。
わずかに。
だが、確かに。
「では、行こう」
京が、踵を返す。
北へ。
刃も、それに従う。
二人が、並んで歩き始める。
京が右。
刃が左。
同じ歩幅で。
同じ速度で。
まるで、長年の戦友のように。
群れが、それに従う。
東からの群れ。
西からの群れ。
それらが、混ざり始める。
最初は、警戒していた。
互いの群れを。
だが、やがて理解する。
同じだ、と。
仲間だ、と。
敵ではない、と。
群れが、一つになる。
境界線が、消える。
もう、東も西もない。
ただ、一つの群れ。
一つの種族。
数千、数万のゾンビが、北へ進む。
その先頭に、二人の王。
金色と紅色。
理性と本能。
支配と破壊。
相反する二つが、並び立つ。
だが、それは矛盾ではない。
補完だ。
京には、刃の力が必要だ。
刃には、京の知恵が必要だ。
二人で、完全になる。
⸻
渋谷の廃墟を、黒い波が進んでいく。
その先頭に、二人の王。
金色の瞳と、紅色の瞳。
理性と暴力。
支配と破壊。
相反する二つが、並び立つ。
それは、新しい時代の象徴。
人間の時代は、終わった。
これからは――
覚醒体の時代。
そして、その時代の頂点に立つ、二人の王。
彼らが、世界を変える。
人類を、終わらせる。
そして――
新しい何かを、始める。
⸻
遠く、北の空。
そこには、まだ人間がいる。
抵抗している。
生き延びようとしている。
だが――
もう、時間の問題だ。
二人の王が、向かっている。
数万の群れを率いて。
人類最後の砦も、やがて陥落する。
それは、避けられない運命。
だが――
京と刃は、知らない。
その先に、何が待っているのかを。
新しい時代が、どうなるのかを。
ただ、進むだけ。
本能に従って。
運命に導かれて。
⸻
沈黙の契約。
それは、言葉ではなく。
誓いでもなく。
ただ、理解だけで結ばれた。
互いを認め合う、理解。
これが、新しい種族の流儀。
人間のような、複雑な契約はいらない。
ただ、意思だけで。
心だけで。
十分だ。
二人の王は、歩き続ける。
並んで。
同じ速度で。
同じ方向へ。
その姿は――
まるで、友のように見えた。
⸻
(了)




