第39話「紅の鬼神」
横浜。
かつての都市は、今や廃墟と化していた。
みなとみらいの高層ビル群は、半壊している。
ガラスは全て割れ、鉄骨が剥き出しになっている。
風が吹けば、ビルが軋む音がする。
今にも崩れそうな、不安定な音。
ランドマークタワーは、中腹から折れ曲がっていた。
今や、巨大な墓標でしかない。
赤レンガ倉庫は、炎に焼かれて黒く変色している。
中華街は、完全に崩壊していた。
色鮮やかだった門は、倒れている。
店の看板は、地面に転がっている。
もう誰も、ここで食事をすることはない。
港には、無数の船が放置されている。
タンカー、貨物船、漁船、ヨット。
錆び、朽ち、沈みかけている。
海面には、油が浮いている。
虹色に光る、死の海。
街には、ゾンビが溢れていた。
数万。
いや、数十万。
東京から流れてきた群れが、この街に集結していた。
彼らは、何かを待っている。
命令を。
導きを。
そして、その群れの中心に――
神谷刃が、立っていた。
⸻
刃の周囲には、数千のゾンビが従っている。
彼らは、刃を王として認めていた。
本能で。
理屈ではなく。
ただ、感じるのだ。
この個体は、自分たちとは違う。
より強く。
より速く。
より進化した存在だと。
刃は横浜港を見渡す。
灰色の海。
曇り空。
そして――
遠くに見える、黒い影。
⸻
それは、航空機だった。
自衛隊のF-15戦闘機。
六機編隊。
最後の空軍力。
彼らは、横浜を爆撃するために飛んできた。
ゾンビの群れを、一掃するために。
人類最後の、空からの反撃。
コックピット内。
パイロットの名は、佐々木。
三十代半ば。
ベテランのパイロットだ。
彼は、これまで何度も出撃してきた。
東京で。
大阪で。
名古屋で。
だが、どこも失敗に終わった。
ゾンビは、爆撃では止められなかった。
数が多すぎる。
そして、すぐに再生する。
それでも、やるしかない。
これが、最後の希望だから。
佐々木の手が、スイッチに触れる。
「目標、確認」
無線に声が流れる。
冷静な声。
だが、その奥に緊張がある。
「横浜港、ゾンビ群集結地点。推定数、十万」
「了解。爆撃開始」
佐々木の指が、ボタンを押す。
機体が、わずかに揺れる。
爆弾が、切り離される。
重量五百キロの爆弾。
それが、二十四発。
六機が、一斉に投下する。
空から、死が降ってくる。
佐々木は祈った。
これで、終わってくれ、と。
この悪夢が、終わってくれ、と。
⸻
刃は空を見上げた。
群れが、ざわめく。
本能が、危険を感じ取っている。
だが、逃げられない。
爆弾の速度は、音速に近い。
人間でも、ゾンビでも、避けることはできない。
パイロットたちは確信していた。
これで、終わる、と。
横浜の群れは、壊滅する、と。
だが――
⸻
刃の瞳が、光った。
鈍い赤から、鮮やかな紅へ。
まるで、炎のように。
いや――それ以上に、熱く。
刃の体が、熱を持ち始める。
皮膚が、赤く染まる。
血管が、浮き上がる。
血液が、沸騰する。
まるで、体内に溶岩が流れているかのように。
筋肉が、膨張する。
ミシミシと音を立てて。
服が裂ける。
骨が、軋む。
全身の骨格が、再構築されていく。
痛い。
だが、刃は耐える。
歯を食いしばり、拳を握りしめる。
全身の細胞が、覚醒していく。
一つ一つが、活性化していく。
これは、進化だ。
新しい段階への、到達。
刃の周囲の空気が、歪む。
熱で。
いや、それだけではない。
何か別の力。
目には見えない、エネルギー。
それが、刃の体から溢れ出している。
刃の口から、声が漏れた。
「……来るな」
低く、掠れた声。
だが、その声には力があった。
拒絶の力。
空そのものを、拒む力。
そして――
刃が、地面を蹴った。
⸻
爆発的な加速。
コンクリートが砕け、クレーターができる。
刃の体が、垂直に跳躍する。
十メートル。
二十メートル。
三十メートル。
人間では、ありえない高さ。
だが、刃は跳んだ。
空中で、刃は腕を振るう。
何も持っていない。
武器はない。
ただ、腕を。
右腕を、水平に。
その瞬間――
刃の体内で、何かが弾けた。
細胞が。
いや、それ以上に深い何かが。
エネルギーが、腕に集中する。
見えない力が、凝縮される。
刃の腕が、光る。
いや、光っているように見える。
紅い、薄い光。
そして――
空間が、裂けた。
⸻
ヒュンッ。
鋭い音。
それは、空気が切り裂かれる音。
いや――空気だけではない。
空間そのものが、切断されている。
刃の腕の軌跡に沿って、空間に亀裂が走る。
目には見えない。
だが、確かに存在する。
空間の裂け目。
それは、刃の意思に従って伸びていく。
十メートル。
二十メートル。
三十メートル。
見えない刃が、落下してくる爆弾に向かう。
まるで、透明な剣のように。
だが、その切れ味は――
絶対だ。
パイロットが、目を見開く。
「何だ、あれは……!」
佐々木の声が、震えている。
計器に、異常な反応。
レーダーが、狂ったように点滅している。
何かが、爆弾に接触した。
だが、何も見えない。
ミサイルでもない。
対空砲火でもない。
ただ――
空間が、歪んでいる。
そして――
爆弾が、真っ二つに切断された。
⸻
ズバァッ!
金属が裂ける音。
五百キロの爆弾が、空中で両断される。
まるで、巨大な刃物で切られたかのように。
だが、何も見えない。
ただ、切断面だけが、鋭く光っている。
その切断面は、完璧だ。
一ミリの狂いもなく、真っ直ぐ。
機械で切ったよりも、正確に。
佐々木は理解できない。
(何が起きた……?)
爆弾が、勝手に切れた?
そんなことが、ありえるのか?
切られた爆弾が、地面に落ちる。
ドスン、ドスン。
爆発はしない。
信管が、切断されているから。
完璧に。
まるで、それを狙ったかのように。
佐々木が叫ぶ。
「馬鹿な……!」
汗が、額から滴る。
手が、震えている。
これは、現実なのか?
それとも、悪夢なのか?
だが、それは始まりに過ぎなかった。
⸻
刃が、もう一度腕を振るう。
ヒュンッ。
また空間が裂ける。
二発目の爆弾が、切断される。
三発目。
四発目。
五発目。
刃は止まらない。
腕を振るい続ける。
その度に、空間が裂ける。
その度に、爆弾が切断される。
まるで、見えない刃で空を切っているかのように。
パイロットたちは、言葉を失った。
これは、悪夢だ。
現実ではありえない。
だが、目の前で起きている。
⸻
二十四発の爆弾。
全てが、切断された。
地面に転がる、金属の塊。
もう、爆発することはない。
刃は地面に着地する。
ドンッ。
コンクリートが砕ける。
刃は立ち上がり、空を見上げた。
その瞳は、さらに強く光っている。
紅く。
鮮烈に。
まるで、太陽のように。
⸻
パイロットが無線で叫ぶ。
「本部! 爆撃失敗! 目標、健在! いや、目標は……」
言葉が続かない。
何と報告すればいいのか。
化け物?
悪魔?
それとも――
「全機、退避! 繰り返す、全機退避!」
司令部からの命令。
戦闘機が、一斉に旋回する。
逃げるために。
だが――
刃が、腕を振り上げた。
⸻
ヒュンッ。
空間が裂ける。
その裂け目が、空へ向かって伸びる。
百メートル。
二百メートル。
三百メートル。
刃の意思が、空間を切り裂く。
目には見えない刃が、戦闘機を襲う。
「回避! 回避――」
佐々木が操縦桿を倒す。
だが、遅い。
見えない刃は、既に到達していた。
戦闘機の左翼に。
そして――
ズバァッ!
金属が裂ける音。
佐々木の叫びが、途切れる。
戦闘機が、真っ二つに切断された。
翼が、胴体が、コックピットが。
全てが、綺麗に両断されている。
まるで、精密機械で切ったかのように。
佐々木は、最期に見た。
自分の機体が、二つに分かれていくのを。
そして――
爆発。
炎が、空を染める。
オレンジ色の、巨大な花火。
一機。
二機。
三機。
次々と、戦闘機が落ちていく。
全て、同じように切断されて。
全て、同じように燃えて。
パイロットたちの悲鳴が、無線に響く。
そして、途切れる。
死の、沈黙。
⸻
残った三機が、必死で逃げる。
だが、刃は追わない。
ただ、空を見上げている。
その瞳の光が、次第に弱くなる。
紅から、鈍い赤へ。
刃の体が、よろめく。
膝をつく。
呼吸が、荒い。
(……何だ、今の……)
刃は自分の手を見る。
震えている。
何をしたのか。
どうやったのか。
わからない。
ただ、体が勝手に動いた。
本能が、導いた。
そして――
力が、溢れ出た。
⸻
刃の周囲に、群れが集まってくる。
彼らは、刃を見ている。
畏怖の目で。
崇拝の目で。
刃は、ただの王ではない。
神だ。
空を切り裂く、神。
死を拒絶する、神。
群れが、一斉に唸り声を上げる。
ウォオオオオ……
それは、咆哮ではない。
賛美だ。
刃という存在への、賛美。
⸻
刃は立ち上がる。
まだ、体は重い。
だが、動ける。
進める。
刃は北を向いた。
まだ、人間がいる。
まだ、終わっていない。
群れに、命じる。
言葉ではなく。
意思で。
群れが動き出す。
数千、数万のゾンビが、一斉に北へ進む。
その先頭に、刃が立つ。
紅い瞳の、鬼神が。
⸻
横浜港。
切断された爆弾が、転がっている。
戦闘機の残骸が、燃えている。
人間の最後の反撃は、無に帰した。
もう、何も止められない。
刃の進軍を。
群れの侵攻を。
新しい時代の、到来を。
空は、灰色のまま。
だが、その空に――
一筋の紅い光が、残っていた。
刃の瞳の光。
それが、消えることはない。
⸻
自衛隊司令部。
地下深くの指揮所。
コンクリートの壁。
冷たい空気。
緊張に満ちた、空間。
モニターには、横浜の映像が映っている。
衛星からの、リアルタイム映像。
将校たちは、言葉を失っていた。
全員が、画面を見つめている。
誰も、動かない。
誰も、声を出さない。
ただ、見ているだけ。
信じられない光景を。
「……何だ、あれは」
誰かが呟く。
若い将校だ。
声が、震えている。
「化け物だ」
別の誰かが答える。
年配の将校。
彼の顔は、蒼白だ。
「いや……神だ」
また別の声。
その声には、恐怖があった。
畏怖が。
司令官が立ち上がる。
白髪の老人。
階級は大将。
名を、山崎という。
彼は、この国の最後の軍事指導者だ。
山崎は、画面を見つめる。
そこには、刃が映っている。
紅い瞳の、化け物が。
山崎は、長い軍歴の中で多くのものを見てきた。
戦争。
災害。
テロ。
だが、こんなものは初めてだ。
人間を超えた、何か。
「全軍に告ぐ」
山崎の声は、震えていた。
だが、それでも命令を下す。
それが、彼の責任だから。
「横浜の個体を、最優先排除目標とする。コードネームは……」
彼は、モニターを見た。
紅い瞳が、こちらを見ているような錯覚。
まるで、画面を通して睨まれているような。
山崎は、言葉を選ぶ。
この化け物を、何と呼ぶべきか。
そして――
「……Z-02。紅の鬼神」
その言葉が、記録される。
人類史上、最も恐るべき敵の名として。
部屋に、沈黙が戻る。
重い、絶望的な沈黙。
山崎は座り込む。
もう、立っている力もない。
(……終わりだ)
彼は悟っていた。
人類は、もう勝てない。
この化け物には。
⸻
刃は、知らない。
自分がそう呼ばれていることを。
自分が、人類の悪夢となったことを。
ただ、進むだけ。
本能に従って。
そして――
遠く、東京の彼方から。
もう一つの波が、近づいていた。
金色の瞳を持つ、別の王が。
二つの王が、出会う日。
それは、もうすぐだ。
⸻
(了)




