第3話「崩れ始めた村」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
朝日が、村を照らしていた。
優しい光。温かい光。田んぼの水面が、キラキラと輝いている。稲穂が風に揺れて、ざわざわと音を立てる。黄金色に染まった稲穂。もうすぐ収穫の時期だ。遠くの山々は、朝靄に包まれている。白い霧が、ゆっくりと流れている。空は青く、雲は白く、鳥が鳴いている。チュンチュン。ヒヨドリの声。カラスの声。全てが、いつもと同じだった。
いつもの朝。
平和な朝。
何も変わらない朝。
村の人々は、いつものように動き始めていた。農家の人たちが、畑に向かう。長靴を履いて、鍬を肩に担いで。麦わら帽子をかぶって。「おはよう」と挨拶を交わす声が、あちこちから聞こえる。「いい天気だね」「今日も暑くなりそうだ」「稲の様子はどう?」そんな、他愛もない会話。子供たちが、ランドセルを背負って学校に向かう。元気な声。笑い声。「行ってきまーす!」母親たちが、「気をつけてね」「忘れ物ない?」と手を振っている。
誰も気づいていない。
この村が、もう——終わり始めていることに。
京は、その光景を見ていた。道の端に立って、ぼんやりと村を眺めている。いや、「眺めている」というのは正しくない。京の体は、ふらふらと揺れている。まるで、風に吹かれる草のように。首が傾き、腕がだらりと垂れている。口が半開きで、喉の奥から「ウゥ……」という低い音が漏れている。
でも、京の目は——村を見ていた。
意識だけは、ここにある。
畑に向かう田中さん。いつも京に野菜をくれる、優しいおじいさん。「京くん、これ持ってけ」と、トマトや茄子を分けてくれた。郵便配達の鈴木さん。毎朝、京の家の前を通って、「おはよう」と声をかけてくれる人。赤いバイクに乗って、村中を回る。子供たちの中には、京の知っている顔もある。近所の小学生。名前は——思い出せない。でも、見覚えがある。京が中学生の頃、よく一緒に遊んだ。
みんな、いつもの朝を過ごしている。
何も知らずに。
何も気づかずに。
死が、すぐそこまで来ているのに。
京の心が、叫んだ。
逃げろ。
ここから逃げろ。
村を出ろ。
今すぐに。
でも、声は出ない。ただ、喉の奥から「アァ……」という、低いうなり声が漏れるだけ。誰も、京に気づかない。いや、気づいても——ただの病人だと思うだろう。二日酔いか、風邪か、それとも熱中症か。まさか、ゾンビだとは思わないだろう。そんなもの、映画の中だけの存在だと思っているだろう。
その時、京の鼻に匂いが届いた。
血の匂い。
人肉の匂い。
生々しい、濃い匂い。風に乗って、運ばれてくる。
京の体が、ピクリと反応した。首が動く。匂いの方向を探る。体が、勝手にそちらを向く。本能が、それを求めている。抑えられない衝動。
やめろ。
そっちを見るな。
行くな。
でも、体は止まらない。
村の中心。広場の方から、匂いは来ている。そして——かすかに、うめき声が聞こえる。人間のものではない、低いうなり声。獣のような、でも獣ではない声。
始まっている。
もう、始まっている。
京の体が、歩き始める。広場に向かって。ふらふらと、でも確実に。
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広場には、人が集まっていた。
いや、「人」と呼ぶべきかどうか、わからない存在が。
京の体は、広場に向かって歩いていた。ふらふらと、でも確実に。足が、砂利道を踏む。ザク、ザク。その音が、朝の静けさに響く。一歩ごとに、血の匂いが濃くなる。体が、興奮している。飢えが、激しくなる。
広場に着くと、京は——いや、京の体は——立ち止まった。
そこには、地獄があった。
老人が倒れていた。村で一番の年寄り、山田さん。八十過ぎの老人。いつも広場のベンチに座って、新聞を読んでいる人。「若いもんは元気でいいねぇ」と笑う人。でも、今は——倒れている。地面に這いつくばって、うめいている。「ウゥ……ウゥ……」という、人間のものではない声。口から、何か黒いものが垂れている。
その周りに、数人の村人が集まっていた。
「山田さん! 大丈夫ですか!」
若い男性が、駆け寄る。農協で働いている、佐藤さん。三十代半ば。妻と子供がいる。いつも笑顔の、優しい人。彼は山田さんの肩に手をかけた。「しっかりしてください! 救急車呼びますから!」
やめろ。
触るな。
逃げろ。
京の心が叫ぶ。でも、声は届かない。
山田さんが、突然動いた。
佐藤さんの腕に、噛みついた。
ガブリ。
鈍い音。肉を噛み砕く音。佐藤さんの悲鳴。「うわああああ!」血が飛び散る。赤い血。それが、朝日に照らされて、キラキラと光る。まるで、ルビーのように。
周りの人々が、凍りつく。一瞬の沈黙。誰も動けない。誰も、何が起きたのか理解できない。目の前で起きていることが、現実だと信じられない。
そして——
「佐藤さん!」
別の村人が、駆け寄る。主婦の田村さん。四十代の女性。優しい人。いつも笑顔で挨拶してくれる人。彼女は佐藤さんを助けようと、山田さんを引き離そうとする。「離して! 山田さん、何してるんですか!」でも——
佐藤さんが、彼女に噛みついた。
もう、佐藤さんは人間じゃない。
感染は、一瞬だった。
噛まれた瞬間、何かが体の中に入り込む。ウイルスか、ナノマシンか、それとも何か別のものか。それが、神経を乗っ取り、筋肉を再構築する。意識は残るが、体は——もう、自分のものじゃない。自分の意志では動かない。ただ、本能のままに。
田村さんの悲鳴。
山田さんのうめき声。
佐藤さんの低いうなり声。
それが、広場に響く。
そして——
連鎖が始まった。
田村さんが、近くにいた子供に噛みつく。小学生の男の子。ランドセルを背負ったまま。子供が悲鳴を上げる。「お母さん!」母親が駆け寄る。「太郎!」その母親が、噛まれる。父親が助けに入る。「やめろ! 離せ!」その父親も、噛まれる。
次々に。
止まらない。
誰も止められない。
広場が、地獄に変わっていく。
京は、その全てを見ていた。体は動かない。ただ、立っているだけ。群れの端で、じっと見ている。でも、目は——全てを見ている。
知っている顔。
知っている名前。
知っている声。
それが、次々と——化け物に変わっていく。
京の心は、悲鳴を上げていた。
やめろ。
やめてくれ。
誰か、止めてくれ。
でも、止まらない。
誰も、止められない。
これが、感染だ。
これが、終わりの始まりだ。
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広場から、人々が逃げ出した。
まだ噛まれていない人々。まだ人間の人々。彼らは、必死に走る。悲鳴を上げながら、涙を流しながら。足がもつれても、転んでも、立ち上がって走る。
「助けて!」
「誰か!」
「警察を呼んで!」
「これは夢だ! 夢に決まってる!」
でも、ここは田舎だ。警察署は、隣の町にある。車で三十分。救急車も、消防車も、全て遠い。助けは、すぐには来ない。そして——来た頃には、もう遅い。
そして——
ゾンビたちが、追いかける。
ふらふらと、でも確実に。人間よりも遅いが、止まらない。疲れない。諦めない。ただ、獲物を追い続ける。本能のままに。飢えのままに。
京の体も、動き始めた。
いつの間にか、京はゾンビの群れの一部になっていた。周りには、山田さんがいる。佐藤さんがいる。田村さんがいる。太郎くんもいる。その母親も、父親もいる。みんな、うめき声を上げながら、人間を追いかけている。
京も、追いかけている。
体が、勝手に。
本能が、命じるままに。
やめろ!
俺は違う!
俺は、こいつらとは違う!
俺には意識がある!
心の中で叫ぶ。でも、体は止まらない。足が動く。腕が動く。喉から、うめき声が漏れる。「アァ……アァ……」
京の視界に、逃げる人間の背中が映る。
誰かは、わからない。でも、人間だ。生きている人間だ。温かい血が流れている。柔らかい肉がある。骨がある。脳がある。
京の体が、加速する。
やめろ!
でも、止まらない。
距離が縮まる。手が伸びる。指が、その人の肩に触れる。柔らかい感触。温かい感触。
その人が、振り返る。
顔が見える。
知っている顔。
村で一番優しい、花屋のおばさん。五十代の女性。いつも京に花をくれた。「京くん、元気?」と笑いかけてくれた。京が中学生の頃、母親が入院した時、毎日花を届けてくれた。「お母さん、きっと元気になるよ」と励ましてくれた。
その顔が、今は——恐怖で歪んでいる。
「いや……京くん? 京くんなの? いやああああ!」
悲鳴。
京の心が、引き裂かれる。
おばさん。
逃げて。
お願いだから、逃げて。
でも——
京の体が、彼女に噛みつく。
首に。
血が、口の中に広がる。温かい。甘い。美味しい。鉄の味。生命の味。
快感が、脳を貫く。
京の心は、壊れそうだった。
やめろ。
やめてくれ。
俺じゃない。
これは、俺じゃない。
でも——
俺の牙だ。
俺の口だ。
俺の体だ。
俺が、殺している。
花屋のおばさんの体から、力が抜けていく。血が流れ出る。赤い血。それが、地面に染み込んでいく。砂利に吸い込まれていく。
京の体は、肉を食らう。
骨を砕く。
血を飲む。
全てが、本能のままに。
そして——
花屋のおばさんが、動き始めた。
もう、彼女は人間じゃない。
ゾンビだ。
京と同じ、ゾンビだ。
彼女は立ち上がり、ふらふらと歩き始める。新しい獲物を探して。新しい人間を探して。血の匂いを追って。
連鎖。
止まらない連鎖。
京の周りには、もう——人間はいなかった。
いるのは、ゾンビだけ。
うめき声を上げる、ゾンビの群れ。
その中に、京もいる。
群れの一部として。
化け物の一部として。
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村の路地裏から、悲鳴が聞こえる。
家の中から、助けを求める声が聞こえる。
ガラスの割れる音。
ドアを叩く音。
「開けて! お願い!」
「中に入れて!」
でも——もう、遅い。
村は、崩れ始めている。
ゆっくりと、でも確実に。
朝日は、まだ優しく村を照らしている。空は、まだ青い。雲は、まだ白い。鳥は、まだ鳴いている。風は、まだ稲穂を揺らしている。でも——
村は、もう——
京は、群れと一緒に歩いていた。
ふらふらと。
どこに向かうのか、わからない。
ただ、歩く。
血の匂いを追って。
人肉の匂いを追って。
群れの中には、知っている顔がたくさんある。昨日まで人間だった顔。昨日まで笑っていた顔。今は、全員がゾンビだ。意識があるのかないのか、わからない。でも、京と同じなのかもしれない。意識を保ったまま、体だけがゾンビになっている。そう思うと——
京の心は、もう——何も感じなくなっていた。
いや、感じているのかもしれない。
悲しみ。
絶望。
罪悪感。
でも、それらは——もう、遠い。
まるで、水の底に沈んでいくような。
意識が、だんだんと薄れていく。
俺は、ここにいない。
俺は、ただの傍観者だ。
これは、夢だ。
悪い夢だ。
目が覚めれば、全て元に戻る。
そう、自分に言い聞かせる。
でも——
体は、現実を知っている。
口の中に残る、血の味。
喉を通った、肉の感触。
胃の中に広がる、満足感。
それは、全て現実だ。
逃げられない現実だ。
群れは、進む。
村の中を。
家々の間を。
畑の間を。
そして——
次の獲物を探す。
まだ生き残っている人間を。
まだ感染していない人間を。
村の端で、誰かが叫んでいる。
「逃げろ! みんな逃げろ! 村を出るんだ!」
男性の声。
力強い声。
でも、もう遅い。
ゾンビの群れは、その声に向かって動く。
京も、一緒に。
群れの一部として。
化け物の一部として。
そして、京は悟った。
村が、終わる。
この小さな村が、地図から消える。
人間が住む場所ではなく——
ゾンビが徘徊する、死の場所になる。
それが、今日。
この朝。
優しい朝日の下で。
空が青い、この日に。
全てが、終わる。
京の意識の奥底で、小さな声が囁いた。
これは、始まりに過ぎない。
村が終われば、次は町だ。
町が終われば、次は都市だ。
そして——
世界が、終わる。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




