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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第1部「黎明《れいめい》」

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第3話「崩れ始めた村」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 朝日が、村を照らしていた。


 優しい光。温かい光。田んぼの水面が、キラキラと輝いている。稲穂が風に揺れて、ざわざわと音を立てる。黄金色に染まった稲穂。もうすぐ収穫の時期だ。遠くの山々は、朝靄あさもやに包まれている。白い霧が、ゆっくりと流れている。空は青く、雲は白く、鳥が鳴いている。チュンチュン。ヒヨドリの声。カラスの声。全てが、いつもと同じだった。


 いつもの朝。


 平和な朝。


 何も変わらない朝。


 村の人々は、いつものように動き始めていた。農家の人たちが、畑に向かう。長靴を履いて、くわを肩に担いで。麦わら帽子をかぶって。「おはよう」と挨拶を交わす声が、あちこちから聞こえる。「いい天気だね」「今日も暑くなりそうだ」「稲の様子はどう?」そんな、他愛もない会話。子供たちが、ランドセルを背負って学校に向かう。元気な声。笑い声。「行ってきまーす!」母親たちが、「気をつけてね」「忘れ物ない?」と手を振っている。


 誰も気づいていない。


 この村が、もう——終わり始めていることに。


 京は、その光景を見ていた。道の端に立って、ぼんやりと村を眺めている。いや、「眺めている」というのは正しくない。京の体は、ふらふらと揺れている。まるで、風に吹かれる草のように。首が傾き、腕がだらりと垂れている。口が半開きで、喉の奥から「ウゥ……」という低い音が漏れている。


 でも、京の目は——村を見ていた。


 意識だけは、ここにある。


 畑に向かう田中さん。いつも京に野菜をくれる、優しいおじいさん。「京くん、これ持ってけ」と、トマトや茄子なすを分けてくれた。郵便配達の鈴木さん。毎朝、京の家の前を通って、「おはよう」と声をかけてくれる人。赤いバイクに乗って、村中を回る。子供たちの中には、京の知っている顔もある。近所の小学生。名前は——思い出せない。でも、見覚えがある。京が中学生の頃、よく一緒に遊んだ。


 みんな、いつもの朝を過ごしている。


 何も知らずに。


 何も気づかずに。


 死が、すぐそこまで来ているのに。


 京の心が、叫んだ。


 逃げろ。


 ここから逃げろ。


 村を出ろ。


 今すぐに。


 でも、声は出ない。ただ、喉の奥から「アァ……」という、低いうなり声が漏れるだけ。誰も、京に気づかない。いや、気づいても——ただの病人だと思うだろう。二日酔いか、風邪か、それとも熱中症か。まさか、ゾンビだとは思わないだろう。そんなもの、映画の中だけの存在だと思っているだろう。


 その時、京の鼻に匂いが届いた。


 血の匂い。


 人肉の匂い。


 生々しい、濃い匂い。風に乗って、運ばれてくる。


 京の体が、ピクリと反応した。首が動く。匂いの方向を探る。体が、勝手にそちらを向く。本能が、それを求めている。抑えられない衝動。


 やめろ。


 そっちを見るな。


 行くな。


 でも、体は止まらない。


 村の中心。広場の方から、匂いは来ている。そして——かすかに、うめき声が聞こえる。人間のものではない、低いうなり声。獣のような、でも獣ではない声。


 始まっている。


 もう、始まっている。


 京の体が、歩き始める。広場に向かって。ふらふらと、でも確実に。


-----


 広場には、人が集まっていた。


 いや、「人」と呼ぶべきかどうか、わからない存在が。


 京の体は、広場に向かって歩いていた。ふらふらと、でも確実に。足が、砂利道を踏む。ザク、ザク。その音が、朝の静けさに響く。一歩ごとに、血の匂いが濃くなる。体が、興奮している。飢えが、激しくなる。


 広場に着くと、京は——いや、京の体は——立ち止まった。


 そこには、地獄があった。


 老人が倒れていた。村で一番の年寄り、山田さん。八十過ぎの老人。いつも広場のベンチに座って、新聞を読んでいる人。「若いもんは元気でいいねぇ」と笑う人。でも、今は——倒れている。地面にいつくばって、うめいている。「ウゥ……ウゥ……」という、人間のものではない声。口から、何か黒いものが垂れている。


 その周りに、数人の村人が集まっていた。


 「山田さん! 大丈夫ですか!」


 若い男性が、駆け寄る。農協で働いている、佐藤さん。三十代半ば。妻と子供がいる。いつも笑顔の、優しい人。彼は山田さんの肩に手をかけた。「しっかりしてください! 救急車呼びますから!」


 やめろ。


 触るな。


 逃げろ。


 京の心が叫ぶ。でも、声は届かない。


 山田さんが、突然動いた。


 佐藤さんの腕に、噛みついた。


 ガブリ。


 鈍い音。肉を噛み砕く音。佐藤さんの悲鳴。「うわああああ!」血が飛び散る。赤い血。それが、朝日に照らされて、キラキラと光る。まるで、ルビーのように。


 周りの人々が、凍りつく。一瞬の沈黙。誰も動けない。誰も、何が起きたのか理解できない。目の前で起きていることが、現実だと信じられない。


 そして——


 「佐藤さん!」


 別の村人が、駆け寄る。主婦の田村さん。四十代の女性。優しい人。いつも笑顔で挨拶してくれる人。彼女は佐藤さんを助けようと、山田さんを引き離そうとする。「離して! 山田さん、何してるんですか!」でも——


 佐藤さんが、彼女に噛みついた。


 もう、佐藤さんは人間じゃない。


 感染は、一瞬だった。


 噛まれた瞬間、何かが体の中に入り込む。ウイルスか、ナノマシンか、それとも何か別のものか。それが、神経を乗っ取り、筋肉を再構築する。意識は残るが、体は——もう、自分のものじゃない。自分の意志では動かない。ただ、本能のままに。


 田村さんの悲鳴。


 山田さんのうめき声。


 佐藤さんの低いうなり声。


 それが、広場に響く。


 そして——


 連鎖が始まった。


 田村さんが、近くにいた子供に噛みつく。小学生の男の子。ランドセルを背負ったまま。子供が悲鳴を上げる。「お母さん!」母親が駆け寄る。「太郎!」その母親が、噛まれる。父親が助けに入る。「やめろ! 離せ!」その父親も、噛まれる。


 次々に。


 止まらない。


 誰も止められない。


 広場が、地獄に変わっていく。


 京は、その全てを見ていた。体は動かない。ただ、立っているだけ。群れの端で、じっと見ている。でも、目は——全てを見ている。


 知っている顔。


 知っている名前。


 知っている声。


 それが、次々と——化け物に変わっていく。


 京の心は、悲鳴を上げていた。


 やめろ。


 やめてくれ。


 誰か、止めてくれ。


 でも、止まらない。


 誰も、止められない。


 これが、感染だ。


 これが、終わりの始まりだ。


-----


 広場から、人々が逃げ出した。


 まだ噛まれていない人々。まだ人間の人々。彼らは、必死に走る。悲鳴を上げながら、涙を流しながら。足がもつれても、転んでも、立ち上がって走る。


 「助けて!」


 「誰か!」


 「警察を呼んで!」


 「これは夢だ! 夢に決まってる!」


 でも、ここは田舎だ。警察署は、隣の町にある。車で三十分。救急車も、消防車も、全て遠い。助けは、すぐには来ない。そして——来た頃には、もう遅い。


 そして——


 ゾンビたちが、追いかける。


 ふらふらと、でも確実に。人間よりも遅いが、止まらない。疲れない。あきらめない。ただ、獲物を追い続ける。本能のままに。飢えのままに。


 京の体も、動き始めた。


 いつの間にか、京はゾンビの群れの一部になっていた。周りには、山田さんがいる。佐藤さんがいる。田村さんがいる。太郎くんもいる。その母親も、父親もいる。みんな、うめき声を上げながら、人間を追いかけている。


 京も、追いかけている。


 体が、勝手に。


 本能が、命じるままに。


 やめろ!


 俺は違う!


 俺は、こいつらとは違う!


 俺には意識がある!


 心の中で叫ぶ。でも、体は止まらない。足が動く。腕が動く。喉から、うめき声が漏れる。「アァ……アァ……」


 京の視界に、逃げる人間の背中が映る。


 誰かは、わからない。でも、人間だ。生きている人間だ。温かい血が流れている。柔らかい肉がある。骨がある。脳がある。


 京の体が、加速する。


 やめろ!


 でも、止まらない。


 距離が縮まる。手が伸びる。指が、その人の肩に触れる。柔らかい感触。温かい感触。


 その人が、振り返る。


 顔が見える。


 知っている顔。


 村で一番優しい、花屋のおばさん。五十代の女性。いつも京に花をくれた。「京くん、元気?」と笑いかけてくれた。京が中学生の頃、母親が入院した時、毎日花を届けてくれた。「お母さん、きっと元気になるよ」と励ましてくれた。


 その顔が、今は——恐怖で歪んでいる。


 「いや……京くん? 京くんなの? いやああああ!」


 悲鳴。


 京の心が、引き裂かれる。


 おばさん。


 逃げて。


 お願いだから、逃げて。


 でも——


 京の体が、彼女に噛みつく。


 首に。


 血が、口の中に広がる。温かい。甘い。美味しい。鉄の味。生命の味。


 快感が、脳を貫く。


 京の心は、壊れそうだった。


 やめろ。


 やめてくれ。


 俺じゃない。


 これは、俺じゃない。


 でも——


 俺の牙だ。


 俺の口だ。


 俺の体だ。


 俺が、殺している。


 花屋のおばさんの体から、力が抜けていく。血が流れ出る。赤い血。それが、地面に染み込んでいく。砂利に吸い込まれていく。


 京の体は、肉を食らう。


 骨を砕く。


 血を飲む。


 全てが、本能のままに。


 そして——


 花屋のおばさんが、動き始めた。


 もう、彼女は人間じゃない。


 ゾンビだ。


 京と同じ、ゾンビだ。


 彼女は立ち上がり、ふらふらと歩き始める。新しい獲物を探して。新しい人間を探して。血の匂いを追って。


 連鎖。


 止まらない連鎖。


 京の周りには、もう——人間はいなかった。


 いるのは、ゾンビだけ。


 うめき声を上げる、ゾンビの群れ。


 その中に、京もいる。


 群れの一部として。


 化け物の一部として。


-----


 村の路地裏から、悲鳴が聞こえる。


 家の中から、助けを求める声が聞こえる。


 ガラスの割れる音。


 ドアを叩く音。


 「開けて! お願い!」


 「中に入れて!」


 でも——もう、遅い。


 村は、崩れ始めている。


 ゆっくりと、でも確実に。


 朝日は、まだ優しく村を照らしている。空は、まだ青い。雲は、まだ白い。鳥は、まだ鳴いている。風は、まだ稲穂を揺らしている。でも——


 村は、もう——


 京は、群れと一緒に歩いていた。


 ふらふらと。


 どこに向かうのか、わからない。


 ただ、歩く。


 血の匂いを追って。


 人肉の匂いを追って。


 群れの中には、知っている顔がたくさんある。昨日まで人間だった顔。昨日まで笑っていた顔。今は、全員がゾンビだ。意識があるのかないのか、わからない。でも、京と同じなのかもしれない。意識を保ったまま、体だけがゾンビになっている。そう思うと——


 京の心は、もう——何も感じなくなっていた。


 いや、感じているのかもしれない。


 悲しみ。


 絶望。


 罪悪感。


 でも、それらは——もう、遠い。


 まるで、水の底に沈んでいくような。


 意識が、だんだんと薄れていく。


 俺は、ここにいない。


 俺は、ただの傍観者だ。


 これは、夢だ。


 悪い夢だ。


 目が覚めれば、全て元に戻る。


 そう、自分に言い聞かせる。


 でも——


 体は、現実を知っている。


 口の中に残る、血の味。


 喉を通った、肉の感触。


 胃の中に広がる、満足感。


 それは、全て現実だ。


 逃げられない現実だ。


 群れは、進む。


 村の中を。


 家々の間を。


 畑の間を。


 そして——


 次の獲物を探す。


 まだ生き残っている人間を。


 まだ感染していない人間を。


 村の端で、誰かが叫んでいる。


 「逃げろ! みんな逃げろ! 村を出るんだ!」


 男性の声。


 力強い声。


 でも、もう遅い。


 ゾンビの群れは、その声に向かって動く。


 京も、一緒に。


 群れの一部として。


 化け物の一部として。


 そして、京は悟った。


 村が、終わる。


 この小さな村が、地図から消える。


 人間が住む場所ではなく——


 ゾンビが徘徊はいかいする、死の場所になる。


 それが、今日。


 この朝。


 優しい朝日の下で。


 空が青い、この日に。


 全てが、終わる。


 京の意識の奥底で、小さな声がささやいた。


 これは、始まりに過ぎない。


 村が終われば、次は町だ。


 町が終われば、次は都市だ。


 そして——


 世界が、終わる。


-----


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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