第38話「灰色の空」
東京湾。
灰色の海が、静かに波打っている。
空も灰色。
海も灰色。
世界から、色が消えたかのようだった。
その海に、一隻の船が浮かんでいた。
海上保安庁の巡視船「しらかば」。
全長六十メートル。
本来の定員は三十名。
だが、もう白い船体は汚れ、煤けている。
甲板には、人が溢れていた。
避難民。
東京から逃げてきた、最後の生存者たち。
その数、二百名以上。
船の許容量を、はるかに超えている。
人々は肩を寄せ合い、身を縮めていた。
老人、女性、子供。
誰の顔も、疲労と恐怖で歪んでいる。
ある者は毛布に包まり、震えている。
ある者は虚ろな目で海を見つめている。
ある者は、ただ黙って祈っている。
生き延びられるように、と。
甲板の隅では、老婆が孫を抱いていた。
女の子は、もう泣く力もないのか、ぐったりとしている。
老婆の唇が動く。
何かを呟いている。
子守唄だろうか。
それとも、祈りだろうか。
⸻
藤宮澪は、船尾に立っていた。
二十代後半の女性。
かつては新聞記者だった。
東京の中堅新聞社。
社会部所属。
事件を追い、真実を書く。
それが、彼女の仕事だった。
感染が始まった日も、澪は取材に出ていた。
田舎の村で起きた「謎の集団昏睡事件」。
それが、全ての始まりだった。
澪は見た。
人が、ゾンビになる瞬間を。
仲間が、家族が、次々と化け物になっていく様を。
そして――自分も、死にかけた。
だが、運良く逃げ延びた。
それから、澪は記録し続けている。
見たものを。
聞いたことを。
全てを。
それが、記者としての最後の仕事だと思っている。
今は――ただの避難民の一人に過ぎない。
だが、使命だけは捨てていない。
澪の手には、ノートがある。
ボロボロになったノート。
そこには、びっしりと文字が書き込まれていた。
記録。
彼女が見てきた、全ての記録。
感染が始まった日。
街が崩壊した日。
人々が死んでいった日。
全てを、澪は書き留めてきた。
それが、彼女にできる唯一のことだった。
⸻
澪は東京を見た。
遠くに見える、灰色の街。
もう、そこには人間はいない。
全てがゾンビに支配された。
黒い煙が、あちこちから上がっている。
燃えているのだ。
人間の時代が。
澪はノートを開く。
ペンを走らせる。
『20XX年X月X日。東京、陥落。推定生存者、千名未満。我々は北方への避難を開始した。だが、希望は薄い。もう、どこにも安全な場所はないのかもしれない』
文字が、震えている。
澪の手が、震えているのだ。
恐怖で。
絶望で。
それでも、書き続ける。
誰かが、記録しなければならない。
人類が滅びゆく様を。
この世界で何が起きたのかを。
⸻
「澪さん」
声がした。
振り返ると、一人の男が立っていた。
四十代、痩せた体に汚れた作業服。
名を、坂本という。
彼も避難民の一人だ。
「船長が呼んでます。会議だそうです」
「わかった」
澪はノートを閉じ、坂本に従う。
二人は船内に入った。
狭い廊下。
壁には、人が寄りかかって座っている。
みんな、疲れ切った顔をしていた。
ある男は、うつろな目で天井を見ている。
何も考えていないのだろう。
考えれば、絶望しかないから。
ある女性は、写真を握りしめている。
家族の写真だ。
もう、その人たちは生きていないのだろう。
女性の目からは、涙が流れている。
だが、声は出さない。
泣く気力も、もう残っていない。
子供の泣き声が、どこからか聞こえる。
母親が、必死であやしている。
「大丈夫よ、大丈夫……すぐに着くから……」
だが、子供は泣き止まない。
当然だ。
この状況で、安心できる子供などいない。
母親の声も、震えている。
自分でも、信じていない言葉。
それでも、言い続けるしかない。
廊下の奥では、若い男が壁を殴っていた。
「くそっ……くそっ……!」
拳から、血が滲む。
だが、止めない。
痛みで、現実を忘れようとしているのかもしれない。
誰も、止めようとしない。
みんな、同じように壊れかけているから。
⸻
船長室。
小さな部屋に、十人ほどが集まっていた。
船長、坂本、そして避難民の代表たち。
澪も、その一人として呼ばれている。
部屋の空気は、重かった。
誰もが、悪い知らせを予感している。
「全員揃ったな」
船長が口を開く。
六十代の男。
顔には深い皺が刻まれている。
元は海上保安庁のベテラン。
定年間近だったが、この事態で最前線に戻された。
「これから、我々の進路について話し合いたい」
船長が海図を広げる。
古びた紙の海図。
電子機器は、もう使えない。
電力を節約するために、最小限しか動かしていないのだ。
「現在地は、ここだ」
指が、東京湾の中央を指す。
「このまま北上すれば、三日で北海道に到達できる」
「北海道は……安全なんですか?」
若い女性が聞く。
二十代前半。
名を、佐藤という。
元看護師だ。
船長は首を横に振る。
「わからん。だが、本州よりはマシだろう」
「根拠は?」
別の男が聞く。
四十代、眼鏡をかけた男。
元教師の、田村という。
「根拠などない」
船長が正直に答える。
「だが、本州は完全に陥落した。北海道は、まだ抵抗しているという情報があった」
「いつの情報です?」
「……二週間前だ」
沈黙。
二週間。
その間に、何が起きたかわからない。
「では、他に選択肢は……」
「ない」
船長がきっぱりと言う。
「燃料は、あと五日分しかない。北海道以外に行ける場所はない」
「四国は?」
田村が聞く。
「九州は? そちらの方が近いのでは?」
「四国も九州も、もう連絡が取れない」
船長が地図を指す。
「恐らく、陥落している。我々の選択肢は、北しかない」
沈黙。
誰も、何も言えない。
希望のない選択。
だが、それしかない。
⸻
澪が口を開く。
「北海道には、自衛隊の拠点がありましたね」
「ああ」
船長が頷く。
「だが、連絡は取れていない。生きているかどうかも……」
「それでも、行くしかない」
坂本が言う。
「ここに留まれば、いずれ燃料が尽きる。そうなれば、餓死するだけだ」
「その通りだ」
船長が立ち上がる。
「我々は、北海道を目指す。それが、唯一の選択肢だ」
誰も反対しなかった。
反対したところで、他に選択肢はないのだから。
⸻
会議が終わり、澪は甲板に戻った。
風が、冷たい。
もう秋だ。
いや、冬が近い。
このまま冬になれば、食料も燃料も足りなくなる。
北海道に着いたとしても、生き延びられる保証はない。
だが――
(それでも、生きなければ)
澪は拳を握る。
自分が死ねば、この記録も失われる。
誰も、この時代のことを知らなくなる。
それだけは、避けなければならない。
澪はノートを取り出す。
書き続ける。
『我々は、北を目指す。希望はない。だが、それでも進むしかない。人間とは、そういう生き物だから』
⸻
その時。
船が、大きく揺れた。
「きゃあっ!」
悲鳴が上がる。
澪も、手すりに掴まる。
何が起きた?
船内から、船員が飛び出してくる。
「船長! 大変です!」
「どうした?」
「海中に……何かが……」
船員の顔は、恐怖で青ざめていた。
船長が船縁に駆け寄る。
澪も、後に続く。
そして――
海を見て、息を呑んだ。
⸻
海中に、影がある。
巨大な、黒い影。
それが、船の下を通過していく。
いや――巨大な一つの影ではない。
無数の、小さな影の集合体だ。
まるで、魚の群れのように。
だが、魚ではない。
「何だ、あれは……」
船長が呟く。
澪は目を凝らす。
影が、水面近くまで浮上してくる。
そして――
人の顔が、見えた。
いや、人ではない。
ゾンビだ。
灰色に変色した肌。
白濁した目。
開いたままの口。
それが、水中を進んでいる。
「まさか……」
澪が呟く。
隣にいた佐藤が、悲鳴を上げる。
「嘘……嘘でしょ……!」
影は、一つではない。
二つ、三つ、十、百。
無数の影が、海中を進んでいる。
北へ。
船と同じ方向へ。
ゾンビたちは、歩いているのだ。
海底を。
呼吸もせずに。
ただ、ひたすら北へ。
「嘘だろ……」
坂本が呻く。
「ゾンビが……海を渡っている……」
「どうやって……」
田村が震える声で言う。
「呼吸は……酸素は……」
「もう、必要ないんだ」
澪が答える。
「彼らは、生きていない。だから、溺れることもない」
その言葉に、全員が凍りつく。
死んでいるのに、動いている。
それが、ゾンビの本質だ。
ならば、海も障害にはならない。
ただ、歩き続ければいい。
海底を。
何日でも。
何週間でも。
船長の顔が、蒼白になる。
「速度を上げろ! 全速で北へ!」
船員たちが駆け出す。
エンジンの音が大きくなる。
船が加速する。
だが――
⸻
海中の影も、速度を上げた。
まるで、船を追いかけるかのように。
澪は理解した。
(……もう、逃げられない)
海を渡るゾンビ。
それは、進化の証だ。
彼らは、適応している。
環境に。
生存に。
人間よりも、速く。
「澪さん!」
坂本が叫ぶ。
「何をぼんやりしてるんだ! 早く船内に!」
澪は首を横に振る。
「いいえ。私は、ここにいます」
「何を言って……危険だぞ!」
坂本が澪の腕を掴む。
だが、澪は動かない。
「記録するんです」
澪がノートを掲げる。
「これを、残さなければ」
「そんなもの、今は……」
「今だからこそ、です」
澪が坂本を見る。
その目には、強い意志があった。
「誰かが、見届けなければならない。人類が、どう終わったのか。何が起きたのか。それを、残さなければ」
「だが……」
「私は、記者です」
澪が言う。
「真実を書く。それが、私の仕事だった。そして、今でもそうです」
坂本は何も言えない。
ただ、澪を見つめる。
やがて、小さく頷いた。
「……わかった。だが、無茶はするなよ」
「ええ」
澪が微笑む。
弱々しいが、確かな笑顔。
坂本が船内に戻る。
澪は一人、甲板に残った。
風が、髪を撫でる。
冷たい。
体が震える。
だが、ここにいなければ。
見ていなければ。
⸻
澪はノートを開く。
ペンを走らせる。
『ゾンビが海を渡っている。数は、数百か数千か。もはや陸だけの問題ではない。海も、彼らの支配下に入りつつある。人類の逃げ場は、どんどん狭まっている』
風が強くなる。
波が高くなる。
空は、ますます暗くなっていく。
まるで、世界そのものが死にゆくかのように。
澪は空を見上げた。
灰色の空。
光のない、絶望の空。
だが――
(それでも)
澪は書き続ける。
震える手で。
凍える指で。
『我々は、まだ生きている。まだ、希望を捨ててはいない。人間という種が、完全に滅びるまで。私は、記録し続ける』
⸻
船は北へ進む。
追いかけてくる影を振り切ろうと、必死に。
だが、影は離れない。
まるで、獲物を狙う狼のように。
船内では、人々が祈っていた。
神に。
仏に。
あるいは、何かわからないものに。
ただ、助かりたいと。
生きたいと。
だが、その祈りが届くかどうか。
誰にも、わからない。
⸻
夜が来た。
月は出ていない。
星も見えない。
ただ、暗闇だけがある。
澪は甲板に座り込んでいた。
寒い。
体が震える。
だが、船内には入らない。
ここで、見ていなければ。
記録しなければ。
澪はノートを抱きしめる。
これが、自分の使命。
最後まで、書き続ける。
人類の終焉を。
そして――もしかしたら、新しい始まりを。
⸻
遠く、水平線の向こう。
何かが光った。
オーロラ?
いや、違う。
もっと不自然な、青白い光。
それが、空を染めている。
「……あれは」
澪が呟く。
船長が双眼鏡で確認する。
「わからん。だが……何か、異常なことが起きている」
光は、次第に強くなる。
まるで、空そのものが発光しているかのように。
美しい。
だが、不気味だ。
澪はノートに書く。
『北の空に、異常な光を確認。原因不明。だが、これもまた、新しい時代の兆しなのかもしれない』
⸻
船は進み続ける。
光に向かって。
そして、その先にあるものへ。
生か。
死か。
それとも、全く別の何かか。
誰にも、わからない。
ただ一つだけ確かなことは――
人類の時代は、確実に終わりに近づいている。
そして、澪は、その最期を見届ける者として選ばれた。
記録者として。
証人として。
灰色の空の下で。
絶望の海の上で。
澪は、ペンを走らせ続ける。
最後の一瞬まで。
⸻
(了)




