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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
ゾンビサイド第3部「蠢動《しゅんどう》」

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第38話「灰色の空」

東京湾。


灰色の海が、静かに波打っている。


空も灰色。


海も灰色。


世界から、色が消えたかのようだった。


その海に、一隻の船が浮かんでいた。


海上保安庁の巡視船「しらかば」。


全長六十メートル。


本来の定員は三十名。


だが、もう白い船体は汚れ、煤けている。


甲板には、人が溢れていた。


避難民。


東京から逃げてきた、最後の生存者たち。


その数、二百名以上。


船の許容量を、はるかに超えている。


人々は肩を寄せ合い、身を縮めていた。


老人、女性、子供。


誰の顔も、疲労と恐怖で歪んでいる。


ある者は毛布に包まり、震えている。


ある者は虚ろな目で海を見つめている。


ある者は、ただ黙って祈っている。


生き延びられるように、と。


甲板の隅では、老婆が孫を抱いていた。


女の子は、もう泣く力もないのか、ぐったりとしている。


老婆の唇が動く。


何かを呟いている。


子守唄だろうか。


それとも、祈りだろうか。



藤宮澪ふじみや みおは、船尾に立っていた。


二十代後半の女性。


かつては新聞記者だった。


東京の中堅新聞社。


社会部所属。


事件を追い、真実を書く。


それが、彼女の仕事だった。


感染が始まった日も、澪は取材に出ていた。


田舎の村で起きた「謎の集団昏睡事件」。


それが、全ての始まりだった。


澪は見た。


人が、ゾンビになる瞬間を。


仲間が、家族が、次々と化け物になっていく様を。


そして――自分も、死にかけた。


だが、運良く逃げ延びた。


それから、澪は記録し続けている。


見たものを。


聞いたことを。


全てを。


それが、記者としての最後の仕事だと思っている。


今は――ただの避難民の一人に過ぎない。


だが、使命だけは捨てていない。


澪の手には、ノートがある。


ボロボロになったノート。


そこには、びっしりと文字が書き込まれていた。


記録。


彼女が見てきた、全ての記録。


感染が始まった日。


街が崩壊した日。


人々が死んでいった日。


全てを、澪は書き留めてきた。


それが、彼女にできる唯一のことだった。



澪は東京を見た。


遠くに見える、灰色の街。


もう、そこには人間はいない。


全てがゾンビに支配された。


黒い煙が、あちこちから上がっている。


燃えているのだ。


人間の時代が。


澪はノートを開く。


ペンを走らせる。


『20XX年X月X日。東京、陥落。推定生存者、千名未満。我々は北方への避難を開始した。だが、希望は薄い。もう、どこにも安全な場所はないのかもしれない』


文字が、震えている。


澪の手が、震えているのだ。


恐怖で。


絶望で。


それでも、書き続ける。


誰かが、記録しなければならない。


人類が滅びゆく様を。


この世界で何が起きたのかを。



「澪さん」


声がした。


振り返ると、一人の男が立っていた。


四十代、痩せた体に汚れた作業服。


名を、坂本さかもとという。


彼も避難民の一人だ。


「船長が呼んでます。会議だそうです」


「わかった」


澪はノートを閉じ、坂本に従う。


二人は船内に入った。


狭い廊下。


壁には、人が寄りかかって座っている。


みんな、疲れ切った顔をしていた。


ある男は、うつろな目で天井を見ている。


何も考えていないのだろう。


考えれば、絶望しかないから。


ある女性は、写真を握りしめている。


家族の写真だ。


もう、その人たちは生きていないのだろう。


女性の目からは、涙が流れている。


だが、声は出さない。


泣く気力も、もう残っていない。


子供の泣き声が、どこからか聞こえる。


母親が、必死であやしている。


「大丈夫よ、大丈夫……すぐに着くから……」


だが、子供は泣き止まない。


当然だ。


この状況で、安心できる子供などいない。


母親の声も、震えている。


自分でも、信じていない言葉。


それでも、言い続けるしかない。


廊下の奥では、若い男が壁を殴っていた。


「くそっ……くそっ……!」


拳から、血が滲む。


だが、止めない。


痛みで、現実を忘れようとしているのかもしれない。


誰も、止めようとしない。


みんな、同じように壊れかけているから。



船長室。


小さな部屋に、十人ほどが集まっていた。


船長、坂本、そして避難民の代表たち。


澪も、その一人として呼ばれている。


部屋の空気は、重かった。


誰もが、悪い知らせを予感している。


「全員揃ったな」


船長が口を開く。


六十代の男。


顔には深い皺が刻まれている。


元は海上保安庁のベテラン。


定年間近だったが、この事態で最前線に戻された。


「これから、我々の進路について話し合いたい」


船長が海図を広げる。


古びた紙の海図。


電子機器は、もう使えない。


電力を節約するために、最小限しか動かしていないのだ。


「現在地は、ここだ」


指が、東京湾の中央を指す。


「このまま北上すれば、三日で北海道に到達できる」


「北海道は……安全なんですか?」


若い女性が聞く。


二十代前半。


名を、佐藤さとうという。


元看護師だ。


船長は首を横に振る。


「わからん。だが、本州よりはマシだろう」


「根拠は?」


別の男が聞く。


四十代、眼鏡をかけた男。


元教師の、田村たむらという。


「根拠などない」


船長が正直に答える。


「だが、本州は完全に陥落した。北海道は、まだ抵抗しているという情報があった」


「いつの情報です?」


「……二週間前だ」


沈黙。


二週間。


その間に、何が起きたかわからない。


「では、他に選択肢は……」


「ない」


船長がきっぱりと言う。


「燃料は、あと五日分しかない。北海道以外に行ける場所はない」


「四国は?」


田村が聞く。


「九州は? そちらの方が近いのでは?」


「四国も九州も、もう連絡が取れない」


船長が地図を指す。


「恐らく、陥落している。我々の選択肢は、北しかない」


沈黙。


誰も、何も言えない。


希望のない選択。


だが、それしかない。



澪が口を開く。


「北海道には、自衛隊の拠点がありましたね」


「ああ」


船長が頷く。


「だが、連絡は取れていない。生きているかどうかも……」


「それでも、行くしかない」


坂本が言う。


「ここに留まれば、いずれ燃料が尽きる。そうなれば、餓死するだけだ」


「その通りだ」


船長が立ち上がる。


「我々は、北海道を目指す。それが、唯一の選択肢だ」


誰も反対しなかった。


反対したところで、他に選択肢はないのだから。



会議が終わり、澪は甲板に戻った。


風が、冷たい。


もう秋だ。


いや、冬が近い。


このまま冬になれば、食料も燃料も足りなくなる。


北海道に着いたとしても、生き延びられる保証はない。


だが――


(それでも、生きなければ)


澪は拳を握る。


自分が死ねば、この記録も失われる。


誰も、この時代のことを知らなくなる。


それだけは、避けなければならない。


澪はノートを取り出す。


書き続ける。


『我々は、北を目指す。希望はない。だが、それでも進むしかない。人間とは、そういう生き物だから』



その時。


船が、大きく揺れた。


「きゃあっ!」


悲鳴が上がる。


澪も、手すりに掴まる。


何が起きた?


船内から、船員が飛び出してくる。


「船長! 大変です!」


「どうした?」


「海中に……何かが……」


船員の顔は、恐怖で青ざめていた。


船長が船縁に駆け寄る。


澪も、後に続く。


そして――


海を見て、息を呑んだ。



海中に、影がある。


巨大な、黒い影。


それが、船の下を通過していく。


いや――巨大な一つの影ではない。


無数の、小さな影の集合体だ。


まるで、魚の群れのように。


だが、魚ではない。


「何だ、あれは……」


船長が呟く。


澪は目を凝らす。


影が、水面近くまで浮上してくる。


そして――


人の顔が、見えた。


いや、人ではない。


ゾンビだ。


灰色に変色した肌。


白濁した目。


開いたままの口。


それが、水中を進んでいる。


「まさか……」


澪が呟く。


隣にいた佐藤が、悲鳴を上げる。


「嘘……嘘でしょ……!」


影は、一つではない。


二つ、三つ、十、百。


無数の影が、海中を進んでいる。


北へ。


船と同じ方向へ。


ゾンビたちは、歩いているのだ。


海底を。


呼吸もせずに。


ただ、ひたすら北へ。


「嘘だろ……」


坂本が呻く。


「ゾンビが……海を渡っている……」


「どうやって……」


田村が震える声で言う。


「呼吸は……酸素は……」


「もう、必要ないんだ」


澪が答える。


「彼らは、生きていない。だから、溺れることもない」


その言葉に、全員が凍りつく。


死んでいるのに、動いている。


それが、ゾンビの本質だ。


ならば、海も障害にはならない。


ただ、歩き続ければいい。


海底を。


何日でも。


何週間でも。


船長の顔が、蒼白になる。


「速度を上げろ! 全速で北へ!」


船員たちが駆け出す。


エンジンの音が大きくなる。


船が加速する。


だが――



海中の影も、速度を上げた。


まるで、船を追いかけるかのように。


澪は理解した。


(……もう、逃げられない)


海を渡るゾンビ。


それは、進化の証だ。


彼らは、適応している。


環境に。


生存に。


人間よりも、速く。


「澪さん!」


坂本が叫ぶ。


「何をぼんやりしてるんだ! 早く船内に!」


澪は首を横に振る。


「いいえ。私は、ここにいます」


「何を言って……危険だぞ!」


坂本が澪の腕を掴む。


だが、澪は動かない。


「記録するんです」


澪がノートを掲げる。


「これを、残さなければ」


「そんなもの、今は……」


「今だからこそ、です」


澪が坂本を見る。


その目には、強い意志があった。


「誰かが、見届けなければならない。人類が、どう終わったのか。何が起きたのか。それを、残さなければ」


「だが……」


「私は、記者です」


澪が言う。


「真実を書く。それが、私の仕事だった。そして、今でもそうです」


坂本は何も言えない。


ただ、澪を見つめる。


やがて、小さく頷いた。


「……わかった。だが、無茶はするなよ」


「ええ」


澪が微笑む。


弱々しいが、確かな笑顔。


坂本が船内に戻る。


澪は一人、甲板に残った。


風が、髪を撫でる。


冷たい。


体が震える。


だが、ここにいなければ。


見ていなければ。



澪はノートを開く。


ペンを走らせる。


『ゾンビが海を渡っている。数は、数百か数千か。もはや陸だけの問題ではない。海も、彼らの支配下に入りつつある。人類の逃げ場は、どんどん狭まっている』


風が強くなる。


波が高くなる。


空は、ますます暗くなっていく。


まるで、世界そのものが死にゆくかのように。


澪は空を見上げた。


灰色の空。


光のない、絶望の空。


だが――


(それでも)


澪は書き続ける。


震える手で。


凍える指で。


『我々は、まだ生きている。まだ、希望を捨ててはいない。人間という種が、完全に滅びるまで。私は、記録し続ける』



船は北へ進む。


追いかけてくる影を振り切ろうと、必死に。


だが、影は離れない。


まるで、獲物を狙う狼のように。


船内では、人々が祈っていた。


神に。


仏に。


あるいは、何かわからないものに。


ただ、助かりたいと。


生きたいと。


だが、その祈りが届くかどうか。


誰にも、わからない。



夜が来た。


月は出ていない。


星も見えない。


ただ、暗闇だけがある。


澪は甲板に座り込んでいた。


寒い。


体が震える。


だが、船内には入らない。


ここで、見ていなければ。


記録しなければ。


澪はノートを抱きしめる。


これが、自分の使命。


最後まで、書き続ける。


人類の終焉を。


そして――もしかしたら、新しい始まりを。



遠く、水平線の向こう。


何かが光った。


オーロラ?


いや、違う。


もっと不自然な、青白い光。


それが、空を染めている。


「……あれは」


澪が呟く。


船長が双眼鏡で確認する。


「わからん。だが……何か、異常なことが起きている」


光は、次第に強くなる。


まるで、空そのものが発光しているかのように。


美しい。


だが、不気味だ。


澪はノートに書く。


『北の空に、異常な光を確認。原因不明。だが、これもまた、新しい時代の兆しなのかもしれない』



船は進み続ける。


光に向かって。


そして、その先にあるものへ。


生か。


死か。


それとも、全く別の何かか。


誰にも、わからない。


ただ一つだけ確かなことは――


人類の時代は、確実に終わりに近づいている。


そして、澪は、その最期を見届ける者として選ばれた。


記録者として。


証人として。


灰色の空の下で。


絶望の海の上で。


澪は、ペンを走らせ続ける。


最後の一瞬まで。



(了)

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