第37話「鉄と血の防衛線」
新宿御苑跡地。
かつて緑豊かだった公園は、今やコンクリートと鉄条網に覆われていた。
自衛隊第一師団残党――最後の防衛拠点。
兵士の数は、わずか二百。
弾薬は底をつきかけている。
食料は、あと三日分。
水は、濾過装置が壊れて汚染されている。
医療品はゼロ。
負傷者は、応急処置すらできない状態で放置されていた。
それでも、彼らは戦い続けていた。
理由は単純だ。
ここを抜かれれば、北方への避難ルートが断たれる。
まだ生きている民間人を、守らなければならない。
最後の使命。
それだけが、彼らを支えていた。
⸻
防衛線には、土嚢が積み上げられている。
その隙間から、銃口が覗く。
兵士たちの顔は、疲労と恐怖で歪んでいた。
もう何日、まともに眠っていないだろう。
目の下には深いクマ。
頬は痩せこけ、唇は乾いている。
それでも、彼らは持ち場を離れない。
離れれば、死ぬ。
いや――それ以上に、守るべきものを失う。
まだ拠点の奥には、民間人が百名ほど避難していた。
女性、子供、老人。
彼らを、見捨てるわけにはいかない。
⸻
司令部テント内。
地図を囲んで、四人の将校が立っていた。
テーブルには、コーヒーカップが並んでいる。
だが、中身はとっくに冷めていた。
誰も、飲もうとしない。
喉を通らないのだ。
「状況は?」
隊長の声が、疲労で掠れている。
五十代の男。
階級章は大佐。
名を、立花誠という。
かつては第一師団の精鋭部隊を率いていた。
だが、今や率いるのは疲弊した残党だけ。
「西側防衛線、崩壊寸前です」
情報将校が答える。
三十代の若い男。
名を、黒木という。
彼の手は、震えていた。
「ゾンビの数は推定五千。いえ、もっと多いかもしれません」
「弾薬は?」
「小銃弾があと三千発。手榴弾が二十。迫撃砲弾は……ゼロです」
沈黙。
誰も何も言えない。
それは、死刑宣告に等しかった。
立花は地図を見つめる。
赤い印が、拠点を取り囲んでいる。
まるで、首を絞める縄のように。
「……撤退も、できないな」
誰かが呟いた。
補給将校だ。
四十代、眼鏡をかけた男。
立花は頷く。
「ああ。もう、逃げ場はない」
黒木が口を開く。
「民間人を、先に避難させることは……」
「無理だ」
立花が遮る。
「避難ルートは既にゾンビで埋まっている。出れば、全滅する」
「では……」
「ここで、守り切るしかない」
立花の声に、迷いはなかった。
ただ、諦念だけがあった。
⸻
西側防衛線。
土嚢とバリケードで作られた、粗末な陣地。
兵士たちが銃を構えている。
誰の顔も、土と血で汚れていた。
疲労と恐怖で、目は虚ろだ。
だが、それでも引き金から指を離さない。
その中に、一人の若い兵士がいた。
二十代前半。
階級は二等陸士。
名を、田中という。
彼は震えていた。
銃を持つ手が、止まらない。
隣の兵士が声をかける。
「大丈夫か、田中」
「は、はい……なんとか……」
嘘だ。
全然大丈夫ではない。
怖い。
怖くてたまらない。
もう何度も、仲間が死ぬのを見てきた。
次は、自分の番かもしれない。
「来るぞ……!」
見張りが叫ぶ。
田中の心臓が、バクバクと音を立てた。
遠くから、うめき声が聞こえてくる。
ウォオオオ……
地を這うような、低い音。
それが、次第に大きくなる。
兵士たちの手が、震え始めた。
何度経験しても、慣れない。
あの音を聞くたびに、背筋が凍る。
死が、近づいてくる音。
田中は唾を飲み込む。
喉が、カラカラに乾いている。
銃を握り直す。
(落ち着け……落ち着け……)
自分に言い聞かせる。
だが、体は言うことを聞かない。
⸻
霧の向こうから、影が現れた。
一体。
二体。
十体。
百体。
数え切れないほどの、ゾンビの群れ。
彼らはゆっくりと、だが確実に近づいてくる。
まるで津波のように。
「撃て!」
命令が飛ぶ。
一斉射撃。
ダダダダダッ!
銃声が響き渡る。
火薬の匂いが、空気を満たす。
ゾンビが倒れる。
頭を撃ち抜かれ、地面に崩れ落ちる。
だが――
その後ろから、また新しい群れが現れる。
倒しても、倒しても、終わらない。
まるで、湧いて出てくるかのように。
「弾が足りない……!」
誰かが叫ぶ。
マガジンを交換する手が、震えている。
恐怖が、兵士たちを侵食していく。
⸻
その時。
群れの動きが、変わった。
今までバラバラだった動きが、一つに揃う。
まるで、指揮官の命令を受けたかのように。
兵士たちが息を呑む。
(何だ……?)
群れが、左右に分かれ始めた。
道を開けるように。
そして――
その中央から、一体のゾンビが現れた。
⸻
神谷刃。
異形の存在。
周囲のゾンビとは明らかに違う。
立ち方。
歩き方。
全てが、人間に近い。
だが、その瞳は紅く光っている。
刃は防衛線を見た。
土嚢。
バリケード。
そして、怯える兵士たち。
彼の口が、わずかに動く。
「……邪魔だ」
掠れた声。
だが、その言葉には明確な意思があった。
⸻
立花が無線で怒鳴る。
「全火力、中央に集中しろ! あれを撃て!」
兵士たちが一斉に刃を狙う。
田中も、銃を向ける。
照準器の中に、刃の姿が映る。
紅い瞳。
それが、こちらを見ていた。
田中の指が、引き金にかかる。
(頼む……当たってくれ……)
引き金が引かれる。
銃弾が、刃に向かって飛ぶ。
ダダダダダッ!
数十発。
いや、数百発。
全ての弾が、刃を襲う。
火薬の煙が、視界を覆う。
兵士たちが息を呑む。
(当たったか……?)
煙が晴れる。
そして――
だが――
刃は、立っていた。
服は裂けている。
体には、無数の傷。
血が、滴り落ちている。
だが、倒れていない。
それどころか――
刃が、笑った。
口角が、わずかに上がる。
まるで、獲物を見つけた獣のように。
田中の背筋に、冷たいものが走る。
(化け物だ……)
⸻
刃が動いた。
一瞬の動き。
人間の目には、ほとんど見えない速度。
銃弾が、刃の体を掠める。
服が裂ける。
皮膚が削れる。
だが、致命傷には至らない。
刃は避けている。
正確に、最小限の動きで。
まるで、弾道が見えているかのように。
兵士たちが凍りつく。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。
それは、もはや人間の動きではなかった。
⸻
刃が地面を蹴る。
爆発的な加速。
一瞬で、二十メートルの距離を詰める。
バリケードに手をかける。
そして――
引き千切った。
鉄製のバリケードを、素手で。
ギャリッ!
金属が軋む音。
ボルトが弾け飛ぶ。
重さ百キロ以上のバリケードが、まるで紙のように宙を舞った。
ドガァッ!
バリケードが兵士たちを押し潰す。
悲鳴が上がる。
「うわああああっ!」
骨が折れる音。
肉が潰れる音。
それらが、混ざり合う。
⸻
刃が防衛線に踏み込む。
田中が銃を向ける。
だが、手が震えて狙えない。
刃が、こちらを見た。
紅い瞳が、田中を捉える。
(動け……動け……!)
体が、金縛りにあったように動かない。
刃が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
田中の横にいた兵士が、叫びながら銃を撃つ。
だが、刃の方が速い。
腕が一閃。
兵士の首が飛ぶ。
血が噴き出す。
生暖かい液体が、田中の顔にかかった。
「ひっ……」
田中が後退る。
銃を落とす。
もう、無理だ。
戦えない。
逃げなければ。
田中は走り出した。
背後から、悲鳴が聞こえる。
仲間が、次々と殺されている。
だが、振り返らない。
振り返れば、自分も死ぬ。
田中は必死で走る。
息が切れる。
足が縺れる。
それでも、走る。
生きるために。
⸻
刃は次の兵士に手を伸ばす。
頭を掴み、地面に叩きつける。
ズガッ!
頭蓋骨が砕ける音。
また次。
また次。
刃は止まらない。
一秒に一人。
正確に、冷徹に、殺していく。
まるで、訓練された兵士のように。
いや――それ以上に、洗練された動きで。
防衛線にいた三十名の兵士。
それが、わずか一分で半分になった。
⸻
残った兵士たちが逃げ出す。
だが、その背後から群れが襲いかかる。
刃が道を開けたことで、防衛線は完全に崩壊していた。
ゾンビたちが、なだれ込んでくる。
悲鳴。
銃声。
うめき声。
それらが混ざり合い、地獄の音楽を奏でる。
西側防衛線は、わずか五分で陥落した。
⸻
司令部テント。
立花が状況を把握する。
「西側、壊滅……」
無線からは、もう悲鳴しか聞こえてこない。
副官が立花を見る。
「隊長、撤退を……」
「どこへだ」
立花が遮る。
「もう、逃げ場はない」
副官は何も言えない。
それが、真実だった。
立花は銃を手に取る。
「最後まで、戦う。それだけだ」
⸻
刃は司令部に向かって歩いていた。
足元には、無数の死体。
兵士たちの、ゾンビたちの。
区別なく、転がっている。
刃の軍服は血で染まっていた。
だが、その表情には何の感情もない。
ただ、前を見ている。
目的を果たすために。
障害を排除するために。
それだけのために。
⸻
司令部前。
最後の二十名が、銃を構えていた。
その中央に、立花が立つ。
彼の手には、拳銃。
もう、それしか残っていない。
黒木が立花の隣に立つ。
「隊長、まだ間に合います。裏口から――」
「お前たちは逃げろ」
立花が遮る。
「私が、時間を稼ぐ」
「しかし……」
「これは、命令だ」
立花の声は、静かだった。
だが、その目には強い意志があった。
黒木は何も言えない。
ただ、敬礼する。
「……了解しました」
他の兵士たちも、敬礼する。
立花は頷いた。
「行け。生き延びろ」
兵士たちが走り去る。
立花は一人、刃を待つ。
⸻
刃が近づいてくる。
群れを従えて。
まるで、王のように。
立花は刃を見た。
(……こいつは)
わかる。
普通のゾンビではない。
何か、別の存在。
進化した、何か。
立花は銃を構える。
「来い」
静かな声。
だが、その声には覚悟があった。
刃が立ち止まる。
立花を見る。
そして――
「……お前、一人か」
掠れた声が、聞こえた。
立花が目を見開く。
「喋った……?」
刃が頷く。
「……他は、逃がした、か」
「そうだ」
立花が答える。
「お前を止めるのは、私だけで十分だ」
刃の口が、わずかに歪む。
笑っているのか。
それとも――
「……無理、だ」
刃が言う。
「お前では……止められない」
「やってみなければ、わからん」
立花が引き金を引く。
刃は避けない。
ただ、腕を前に出す。
銃弾が、刃の腕に命中する。
肉が裂ける。
骨が砕ける。
だが――
刃は止まらない。
そのまま、突進する。
立花の目の前まで。
そして、拳を振るった。
⸻
ドガァッ!
立花の体が吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられ、転がる。
肋骨が折れている。
内臓が、激痛を訴える。
だが、立花は立ち上がる。
銃を拾い、刃に向ける。
「まだ……だ……」
引き金を引く。
カチッ。
弾切れ。
立花が笑う。
「……そうか」
刃が近づいてくる。
立花は銃を投げ捨てた。
そして、真っ直ぐに刃を見る。
「お前は……何だ」
刃が止まる。
その瞳が、立花を見た。
⸻
「……知らん」
掠れた声。
だが、そこには確かに意識があった。
立花は頷く。
「そうか……」
もう、何も言うことはない。
刃の手が、立花の首を掴む。
「……すまん」
刃が呟いた。
立花が目を見開く。
「何が……すまない……?」
刃の瞳が、揺れた。
紅い光が、一瞬弱くなる。
「……わからん」
掠れた声。
「ただ……そう、思った」
立花は笑った。
血を吐きながら。
「そうか……お前も……まだ、人間の心が……」
「……違う」
刃が首を横に振る。
「俺は、もう……人間じゃ、ない」
「だが……謝罪の言葉を、知っている」
立花が言う。
「それは……人間だけが、持つものだ」
刃は何も答えない。
ただ、立花を見ている。
立花は微笑んだ。
「お前は……何になる……?」
「……知らん」
刃が答える。
「だが……人間の、時代は……終わる」
「そうか……」
立花が目を閉じる。
「なら……後は……頼んだぞ……」
「……何を」
「この……世界を……」
立花の声が、途切れる。
「壊すだけじゃ……駄目だ……何か……新しいものを……」
刃は黙っている。
立花の手が、力なく落ちる。
呼吸が、止まった。
⸻
刃は立花の死体を見下ろす。
しばらく、動かない。
そして――
首を捻る。
ゴキッ。
せめて、苦しまないように。
それだけが、刃にできることだった。
⸻
司令部が、炎に包まれる。
残った兵士たちも、全て倒れた。
自衛隊第一師団残党。
最後の防衛拠点。
それは、完全に陥落した。
刃は燃える司令部を見上げる。
炎が、夜空を赤く染めている。
その光の中で、刃の瞳がより鮮やかに光った。
紅く。
鮮烈に。
⸻
群れが集まってくる。
数千のゾンビが、刃の周りを囲む。
彼らは待っている。
次の命令を。
刃は東を向いた。
そこには、まだ多くの人間がいる。
まだ、終わっていない。
刃が一歩踏み出す。
群れが、それに従う。
新宿の廃墟を、黒い波が進んでいく。
その先頭に立つ紅い瞳の男。
人間の時代を終わらせる、死神。
軍事力は、もう意味を成さない。
銃も、戦車も、戦闘機も。
全てが、無力だった。
新しい支配者が、生まれた。
そして、その支配者は進み続ける。
⸻
遠く、皇居方面。
そこでは、また別の戦いが始まろうとしていた。
だが、それもすぐに終わるだろう。
人間の抵抗は、もう長くは続かない。
東京は、完全にゾンビの支配下に入る。
それは、時間の問題だった。
空に、黒い煙が立ち上る。
燃える街。
死んだ街。
そして――生まれ変わろうとしている、街。
新宿御苑跡地の炎は、夜通し燃え続けた。
人間の時代の、葬送の炎として。
⸻
(了)




