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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
ゾンビサイド第3部「蠢動《しゅんどう》」

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第37話「鉄と血の防衛線」

新宿御苑跡地。


かつて緑豊かだった公園は、今やコンクリートと鉄条網に覆われていた。


自衛隊第一師団残党――最後の防衛拠点。


兵士の数は、わずか二百。


弾薬は底をつきかけている。


食料は、あと三日分。


水は、濾過装置が壊れて汚染されている。


医療品はゼロ。


負傷者は、応急処置すらできない状態で放置されていた。


それでも、彼らは戦い続けていた。


理由は単純だ。


ここを抜かれれば、北方への避難ルートが断たれる。


まだ生きている民間人を、守らなければならない。


最後の使命。


それだけが、彼らを支えていた。



防衛線には、土嚢が積み上げられている。


その隙間から、銃口が覗く。


兵士たちの顔は、疲労と恐怖で歪んでいた。


もう何日、まともに眠っていないだろう。


目の下には深いクマ。


頬は痩せこけ、唇は乾いている。


それでも、彼らは持ち場を離れない。


離れれば、死ぬ。


いや――それ以上に、守るべきものを失う。


まだ拠点の奥には、民間人が百名ほど避難していた。


女性、子供、老人。


彼らを、見捨てるわけにはいかない。



司令部テント内。


地図を囲んで、四人の将校が立っていた。


テーブルには、コーヒーカップが並んでいる。


だが、中身はとっくに冷めていた。


誰も、飲もうとしない。


喉を通らないのだ。


「状況は?」


隊長の声が、疲労で掠れている。


五十代の男。


階級章は大佐。


名を、立花誠たちばな まことという。


かつては第一師団の精鋭部隊を率いていた。


だが、今や率いるのは疲弊した残党だけ。


「西側防衛線、崩壊寸前です」


情報将校が答える。


三十代の若い男。


名を、黒木くろきという。


彼の手は、震えていた。


「ゾンビの数は推定五千。いえ、もっと多いかもしれません」


「弾薬は?」


「小銃弾があと三千発。手榴弾が二十。迫撃砲弾は……ゼロです」


沈黙。


誰も何も言えない。


それは、死刑宣告に等しかった。


立花は地図を見つめる。


赤い印が、拠点を取り囲んでいる。


まるで、首を絞める縄のように。


「……撤退も、できないな」


誰かが呟いた。


補給将校だ。


四十代、眼鏡をかけた男。


立花は頷く。


「ああ。もう、逃げ場はない」


黒木が口を開く。


「民間人を、先に避難させることは……」


「無理だ」


立花が遮る。


「避難ルートは既にゾンビで埋まっている。出れば、全滅する」


「では……」


「ここで、守り切るしかない」


立花の声に、迷いはなかった。


ただ、諦念だけがあった。



西側防衛線。


土嚢とバリケードで作られた、粗末な陣地。


兵士たちが銃を構えている。


誰の顔も、土と血で汚れていた。


疲労と恐怖で、目は虚ろだ。


だが、それでも引き金から指を離さない。


その中に、一人の若い兵士がいた。


二十代前半。


階級は二等陸士。


名を、田中たなかという。


彼は震えていた。


銃を持つ手が、止まらない。


隣の兵士が声をかける。


「大丈夫か、田中」


「は、はい……なんとか……」


嘘だ。


全然大丈夫ではない。


怖い。


怖くてたまらない。


もう何度も、仲間が死ぬのを見てきた。


次は、自分の番かもしれない。


「来るぞ……!」


見張りが叫ぶ。


田中の心臓が、バクバクと音を立てた。


遠くから、うめき声が聞こえてくる。


ウォオオオ……


地を這うような、低い音。


それが、次第に大きくなる。


兵士たちの手が、震え始めた。


何度経験しても、慣れない。


あの音を聞くたびに、背筋が凍る。


死が、近づいてくる音。


田中は唾を飲み込む。


喉が、カラカラに乾いている。


銃を握り直す。


(落ち着け……落ち着け……)


自分に言い聞かせる。


だが、体は言うことを聞かない。



霧の向こうから、影が現れた。


一体。


二体。


十体。


百体。


数え切れないほどの、ゾンビの群れ。


彼らはゆっくりと、だが確実に近づいてくる。


まるで津波のように。


「撃て!」


命令が飛ぶ。


一斉射撃。


ダダダダダッ!


銃声が響き渡る。


火薬の匂いが、空気を満たす。


ゾンビが倒れる。


頭を撃ち抜かれ、地面に崩れ落ちる。


だが――


その後ろから、また新しい群れが現れる。


倒しても、倒しても、終わらない。


まるで、湧いて出てくるかのように。


「弾が足りない……!」


誰かが叫ぶ。


マガジンを交換する手が、震えている。


恐怖が、兵士たちを侵食していく。



その時。


群れの動きが、変わった。


今までバラバラだった動きが、一つに揃う。


まるで、指揮官の命令を受けたかのように。


兵士たちが息を呑む。


(何だ……?)


群れが、左右に分かれ始めた。


道を開けるように。


そして――


その中央から、一体のゾンビが現れた。



神谷刃。


異形の存在。


周囲のゾンビとは明らかに違う。


立ち方。


歩き方。


全てが、人間に近い。


だが、その瞳は紅く光っている。


刃は防衛線を見た。


土嚢。


バリケード。


そして、怯える兵士たち。


彼の口が、わずかに動く。


「……邪魔だ」


掠れた声。


だが、その言葉には明確な意思があった。



立花が無線で怒鳴る。


「全火力、中央に集中しろ! あれを撃て!」


兵士たちが一斉に刃を狙う。


田中も、銃を向ける。


照準器の中に、刃の姿が映る。


紅い瞳。


それが、こちらを見ていた。


田中の指が、引き金にかかる。


(頼む……当たってくれ……)


引き金が引かれる。


銃弾が、刃に向かって飛ぶ。


ダダダダダッ!


数十発。


いや、数百発。


全ての弾が、刃を襲う。


火薬の煙が、視界を覆う。


兵士たちが息を呑む。


(当たったか……?)


煙が晴れる。


そして――


だが――


刃は、立っていた。


服は裂けている。


体には、無数の傷。


血が、滴り落ちている。


だが、倒れていない。


それどころか――


刃が、笑った。


口角が、わずかに上がる。


まるで、獲物を見つけた獣のように。


田中の背筋に、冷たいものが走る。


(化け物だ……)



刃が動いた。


一瞬の動き。


人間の目には、ほとんど見えない速度。


銃弾が、刃の体を掠める。


服が裂ける。


皮膚が削れる。


だが、致命傷には至らない。


刃は避けている。


正確に、最小限の動きで。


まるで、弾道が見えているかのように。


兵士たちが凍りつく。


「嘘だろ……」


誰かが呟いた。


それは、もはや人間の動きではなかった。



刃が地面を蹴る。


爆発的な加速。


一瞬で、二十メートルの距離を詰める。


バリケードに手をかける。


そして――


引き千切った。


鉄製のバリケードを、素手で。


ギャリッ!


金属が軋む音。


ボルトが弾け飛ぶ。


重さ百キロ以上のバリケードが、まるで紙のように宙を舞った。


ドガァッ!


バリケードが兵士たちを押し潰す。


悲鳴が上がる。


「うわああああっ!」


骨が折れる音。


肉が潰れる音。


それらが、混ざり合う。



刃が防衛線に踏み込む。


田中が銃を向ける。


だが、手が震えて狙えない。


刃が、こちらを見た。


紅い瞳が、田中を捉える。


(動け……動け……!)


体が、金縛りにあったように動かない。


刃が近づいてくる。


一歩。


また一歩。


田中の横にいた兵士が、叫びながら銃を撃つ。


だが、刃の方が速い。


腕が一閃。


兵士の首が飛ぶ。


血が噴き出す。


生暖かい液体が、田中の顔にかかった。


「ひっ……」


田中が後退る。


銃を落とす。


もう、無理だ。


戦えない。


逃げなければ。


田中は走り出した。


背後から、悲鳴が聞こえる。


仲間が、次々と殺されている。


だが、振り返らない。


振り返れば、自分も死ぬ。


田中は必死で走る。


息が切れる。


足が縺れる。


それでも、走る。


生きるために。



刃は次の兵士に手を伸ばす。


頭を掴み、地面に叩きつける。


ズガッ!


頭蓋骨が砕ける音。


また次。


また次。


刃は止まらない。


一秒に一人。


正確に、冷徹に、殺していく。


まるで、訓練された兵士のように。


いや――それ以上に、洗練された動きで。


防衛線にいた三十名の兵士。


それが、わずか一分で半分になった。



残った兵士たちが逃げ出す。


だが、その背後から群れが襲いかかる。


刃が道を開けたことで、防衛線は完全に崩壊していた。


ゾンビたちが、なだれ込んでくる。


悲鳴。


銃声。


うめき声。


それらが混ざり合い、地獄の音楽を奏でる。


西側防衛線は、わずか五分で陥落した。



司令部テント。


立花が状況を把握する。


「西側、壊滅……」


無線からは、もう悲鳴しか聞こえてこない。


副官が立花を見る。


「隊長、撤退を……」


「どこへだ」


立花が遮る。


「もう、逃げ場はない」


副官は何も言えない。


それが、真実だった。


立花は銃を手に取る。


「最後まで、戦う。それだけだ」



刃は司令部に向かって歩いていた。


足元には、無数の死体。


兵士たちの、ゾンビたちの。


区別なく、転がっている。


刃の軍服は血で染まっていた。


だが、その表情には何の感情もない。


ただ、前を見ている。


目的を果たすために。


障害を排除するために。


それだけのために。



司令部前。


最後の二十名が、銃を構えていた。


その中央に、立花が立つ。


彼の手には、拳銃。


もう、それしか残っていない。


黒木が立花の隣に立つ。


「隊長、まだ間に合います。裏口から――」


「お前たちは逃げろ」


立花が遮る。


「私が、時間を稼ぐ」


「しかし……」


「これは、命令だ」


立花の声は、静かだった。


だが、その目には強い意志があった。


黒木は何も言えない。


ただ、敬礼する。


「……了解しました」


他の兵士たちも、敬礼する。


立花は頷いた。


「行け。生き延びろ」


兵士たちが走り去る。


立花は一人、刃を待つ。



刃が近づいてくる。


群れを従えて。


まるで、王のように。


立花は刃を見た。


(……こいつは)


わかる。


普通のゾンビではない。


何か、別の存在。


進化した、何か。


立花は銃を構える。


「来い」


静かな声。


だが、その声には覚悟があった。


刃が立ち止まる。


立花を見る。


そして――


「……お前、一人か」


掠れた声が、聞こえた。


立花が目を見開く。


「喋った……?」


刃が頷く。


「……他は、逃がした、か」


「そうだ」


立花が答える。


「お前を止めるのは、私だけで十分だ」


刃の口が、わずかに歪む。


笑っているのか。


それとも――


「……無理、だ」


刃が言う。


「お前では……止められない」


「やってみなければ、わからん」


立花が引き金を引く。


刃は避けない。


ただ、腕を前に出す。


銃弾が、刃の腕に命中する。


肉が裂ける。


骨が砕ける。


だが――


刃は止まらない。


そのまま、突進する。


立花の目の前まで。


そして、拳を振るった。



ドガァッ!


立花の体が吹き飛ぶ。


地面に叩きつけられ、転がる。


肋骨が折れている。


内臓が、激痛を訴える。


だが、立花は立ち上がる。


銃を拾い、刃に向ける。


「まだ……だ……」


引き金を引く。


カチッ。


弾切れ。


立花が笑う。


「……そうか」


刃が近づいてくる。


立花は銃を投げ捨てた。


そして、真っ直ぐに刃を見る。


「お前は……何だ」


刃が止まる。


その瞳が、立花を見た。



「……知らん」


掠れた声。


だが、そこには確かに意識があった。


立花は頷く。


「そうか……」


もう、何も言うことはない。


刃の手が、立花の首を掴む。


「……すまん」


刃が呟いた。


立花が目を見開く。


「何が……すまない……?」


刃の瞳が、揺れた。


紅い光が、一瞬弱くなる。


「……わからん」


掠れた声。


「ただ……そう、思った」


立花は笑った。


血を吐きながら。


「そうか……お前も……まだ、人間の心が……」


「……違う」


刃が首を横に振る。


「俺は、もう……人間じゃ、ない」


「だが……謝罪の言葉を、知っている」


立花が言う。


「それは……人間だけが、持つものだ」


刃は何も答えない。


ただ、立花を見ている。


立花は微笑んだ。


「お前は……何になる……?」


「……知らん」


刃が答える。


「だが……人間の、時代は……終わる」


「そうか……」


立花が目を閉じる。


「なら……後は……頼んだぞ……」


「……何を」


「この……世界を……」


立花の声が、途切れる。


「壊すだけじゃ……駄目だ……何か……新しいものを……」


刃は黙っている。


立花の手が、力なく落ちる。


呼吸が、止まった。



刃は立花の死体を見下ろす。


しばらく、動かない。


そして――


首を捻る。


ゴキッ。


せめて、苦しまないように。


それだけが、刃にできることだった。



司令部が、炎に包まれる。


残った兵士たちも、全て倒れた。


自衛隊第一師団残党。


最後の防衛拠点。


それは、完全に陥落した。


刃は燃える司令部を見上げる。


炎が、夜空を赤く染めている。


その光の中で、刃の瞳がより鮮やかに光った。


紅く。


鮮烈に。



群れが集まってくる。


数千のゾンビが、刃の周りを囲む。


彼らは待っている。


次の命令を。


刃は東を向いた。


そこには、まだ多くの人間がいる。


まだ、終わっていない。


刃が一歩踏み出す。


群れが、それに従う。


新宿の廃墟を、黒い波が進んでいく。


その先頭に立つ紅い瞳の男。


人間の時代を終わらせる、死神。


軍事力は、もう意味を成さない。


銃も、戦車も、戦闘機も。


全てが、無力だった。


新しい支配者が、生まれた。


そして、その支配者は進み続ける。



遠く、皇居方面。


そこでは、また別の戦いが始まろうとしていた。


だが、それもすぐに終わるだろう。


人間の抵抗は、もう長くは続かない。


東京は、完全にゾンビの支配下に入る。


それは、時間の問題だった。


空に、黒い煙が立ち上る。


燃える街。


死んだ街。


そして――生まれ変わろうとしている、街。


新宿御苑跡地の炎は、夜通し燃え続けた。


人間の時代の、葬送の炎として。



(了)

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