第31話「漂流」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
北への道。
神谷刃は、崩れた街を歩いていた。
アスファルトが割れ、建物が傾き、車が放置されている。窓ガラスは砕け散り、看板は倒れ、電柱が折れている。
静かだ。
人の声がしない。車の音がしない。鳥の鳴き声すら、聞こえない。
ただ、風の音だけが響いている。
刃は、剣を背負ったまま歩く。足音が、静寂を破る。ザッ、ザッ、ザッ。
左腕が、熱い。
もう、我慢できないほどに。
視界が——歪んでいる。
二重に見える。時々、三重になる。焦点が合わない。まっすぐ歩いているつもりなのに、体がふらつく。
刃は、壁に手をついた。冷たいコンクリート。ザラザラとした感触。
深く息をする。
大丈夫だ。
まだ、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
でも——体は、嘘をつけない。
刃は、シャツをまくった。包帯を確認する。
紫色の筋が——首まで達していた。
胸から肩、肩から首へ。まるで蔦が這うように。皮膚が、青白く変色している。血管が浮き出ている。黒く、太く。
時間がない。
もう、数時間かもしれない。
いや——もっと短いかもしれない。
刃は、包帯を巻き直した。シャツを下ろす。
そして——歩き出す。
止まるわけにはいかない。
まだ、やることがある。
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倒壊したビルの前。
刃は、足を止めた。
瓦礫の山。鉄骨が剥き出しになり、コンクリートが砕け、ガラスが散乱している。
その中から——声が聞こえた。
「助けて……誰か……」
弱々しい声。女性の声。
刃は、瓦礫へ近づいた。
「どこだ!」
刃が叫ぶ。
「ここ……です……」
声の方向を探る。瓦礫の隙間。そこに、人影が見える。
女性だ。
三十代くらいだろうか。血まみれで、足が瓦礫に挟まれている。
刃は、瓦礫を動かし始めた。
重い。
コンクリートの塊。鉄骨の欠片。
でも——止まらない。
一つ、また一つ。
手が切れる。血が滲む。でも、気にしない。
やがて——女性の足が、自由になった。
「動けるか?」
刃が手を差し伸べる。
女性が、その手を握った。冷たい手。震えている手。
「ありがとう……ございます……」
女性が、涙を流す。
刃は、女性を抱え上げた。体が軽い。痩せている。
「避難所は、どこだ?」
「北に……二キロほど……」
刃が頷く。
「そこまで、連れて行く」
女性が、刃の顔を見た。そして——目を見開いた。
「あなた……顔色が……」
「大丈夫だ」
刃が、笑う。
「まだ、動ける」
女性は、何か言いかけたが——黙った。
刃は、女性を背負い、歩き出した。
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避難所。
古い小学校だった。校庭にテントが張られ、焚き火が焚かれている。人々が集まっている。老人、子供、女性。疲れ切った顔。
刃は、女性を下ろした。
「ここで、休め」
女性が、深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
刃は、頷いた。
そして——振り返ろうとした時、視界が揺れた。
ぐらり。
足元が、崩れる感覚。
刃は、膝をついた。手を地面につく。
「大丈夫ですか!」
女性が、駆け寄る。
「大丈夫だ……」
刃が、立ち上がろうとする。でも——体が、言うことを聞かない。
力が、入らない。
視界が、暗くなる。
これは——
刃は、自分の手を見た。
震えている。
そして——皮膚が、青白く変色している。
包帯の隙間から、紫の筋が見える。
もう——隠せない。
刃は、女性を見た。
「ここから、離れろ」
「え……?」
「早く!」
刃が叫ぶ。
女性が、後ずさる。
刃は、立ち上がった。ふらつきながら。
そして——避難所から、離れる。
人々が、刃を見ている。不安そうな目で。
刃は、歩く。
一歩、また一歩。
校庭の端。フェンスの外。
そこで——倒れた。
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同じ頃。
海沿いのキャンプ地。
感染者処理班のテント。
藤宮澪は、そこにいた。
テントの中は、暗い。ランプの明かりだけが、辺りを照らしている。
澪の前に——少年がいた。
十代前半。中学生くらいだろうか。痩せた体、青白い顔、虚ろな目。
首に、噛み跡がある。
発症寸前だ。
少年は、椅子に縛られている。ロープで、手首と足首を。動けないように。
でも——まだ、意識がある。
「お願い……します……」
少年が、か細い声で言う。
「殺して……ください……」
澪は、ライフルを構えていた。
銃口が、少年の額を向いている。
引き金に、指がかかっている。
でも——引けない。
「早く……」
少年が、涙を流す。
「俺が……化け物に……なる前に……」
澪の手が、震える。
これが——任務だ。
感染者を、処分する。
それが、自分の役割だ。
でも——
この少年は、まだ人間だ。
意識がある。感情がある。恐怖がある。
「お願い……」
少年が、懇願する。
澪は、目を閉じた。
深く息をする。
そして——目を開ける。
引き金に、力を込める。
でも——
撃てない。
澪は、銃を下ろした。
「すまない……」
澪が、呟く。
「私には……できない……」
少年が、目を見開いた。
「どうして……!」
少年が叫ぶ。
「早く殺してくれ! 俺は……俺は……!」
その時、少年の体が痙攣した。
ビクン、ビクン。
目が、濁り始める。
口から、泡を吹く。
発症だ。
澪は、後ずさった。
少年が——ゾンビになる。
ロープが、軋む。少年が暴れる。
「グアアアア!」
もう、言葉ではない。
獣の咆哮だ。
澪は、再び銃を構えた。
今度は——迷わない。
引き金を引く。
パン。
銃声が、テントに響く。
少年の頭に、穴が開く。
動きが、止まる。
澪は、銃を下ろした。
手が、震えている。
涙が、頬を伝う。
「ごめんなさい……」
澪が、呟いた。
「ごめんなさい……」
誰に向けた言葉なのか——
わからなかった。
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同じ頃。
海の上。
藤原京は、荒れ狂う海を泳いでいた。
波が高い。
三メートル、いや、五メートル。
風が強い。
体が、波に揉まれる。
でも——沈まない。
京は、泳ぎ続ける。
腕を動かし、足を蹴る。
人間なら、とうに溺れている。
でも、京は——違う。
もう、人間ではない。
ゾンビでもない。
何か——別の存在だ。
波が、京を飲み込む。
水の中。
暗い。
冷たい。
でも——恐怖はない。
京は、水中で目を開けた。
金色の瞳が、暗闇を見る。
魚が泳いでいる。
海藻が揺れている。
そして——何かが見える。
陸地だ。
島だ。
京は、そこへ向かって泳ぐ。
水面に顔を出す。
息を吸う。
肺が、空気を求める。
まだ、呼吸が必要だ。
完全に、ゾンビになったわけではない。
京は、泳ぎ続ける。
やがて——砂浜に、たどり着いた。
足が、砂を踏む。
ザクザクという音。
京は、岸に上がった。
全身、びしょ濡れだ。
でも——疲れていない。
京は、周囲を見渡した。
小さな島だ。
木が生い茂り、岩が転がり、鳥が鳴いている。
そして——何か、建物がある。
京は、その建物へ向かって歩いた。
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建物は——研究施設だった。
コンクリートの壁。鉄の扉。窓には、鉄格子。
放棄されている。
扉が、半開きになっている。
京は、中に入った。
廊下が続いている。
暗い。
でも、京の目には見える。金色の瞳が、暗闇を見通す。
壁に、文字が書かれている。
日本語だ。
「実験棟A」
実験——
何の実験だ。
京は、廊下を進んだ。
部屋がいくつもある。
一つ目の部屋。
機材が散乱している。顕微鏡、試験管、書類。
京は、書類を拾った。
読む。
「感染体と人間の融合実験——第三段階」
融合——
京の頭に、何かが引っかかる。
これは——
京は、次の部屋へ行った。
そこには——檻があった。
鉄の檻。
中に——骨がある。
人間の骨だ。
いや、違う。
人間の骨と——何か別の骨が、混ざっている。
変形している。
異常に長い腕の骨。巨大な頭蓋骨。鋭い牙。
これは——
京は、息を呑んだ。
実験の痕跡だ。
人間と、感染体を——融合させようとした。
そして——失敗した。
この骨は、その失敗作だ。
京は、檻から離れた。
次の部屋へ。
そこには——巨大な水槽があった。
ガラスが割れ、中の水は抜けている。
でも——底に、何かがいる。
京は、近づいた。
それは——人間の形をしていた。
いや、していない。
半分、人間で、半分——ゾンビだ。
右半身は、人間の肌。左半身は、腐った肌。
顔も、半分だけ人間。半分は、ゾンビ。
死んでいる。
動かない。
でも——その姿は、京に何かを語りかけていた。
これが——融合の結果だ。
成功ではない。
失敗だ。
京は、水槽から離れた。
そして——最後の部屋へ。
そこには——壁一面に、文字が書かれていた。
血で。
人間の血で。
「我々は神を目指した」
「だが、神は我々を見捨てた」
「残されたのは、化け物だけだ」
京は、その文字を見つめた。
そして——理解した。
この施設で、何が行われたのか。
人間と感染体の融合。
新しい生命体の創造。
神の領域への挑戦。
そして——失敗。
すべてが、失敗だった。
京は、施設を出た。
外の空気を吸う。
海の匂い。
潮の匂い。
そして——血の匂い。
この島には、まだ何かがいる。
京は、感じた。
でも——それが何なのか、わからない。
京は、海を見つめた。
また、泳がなければならない。
次の陸地へ。
次の場所へ。
京は、再び海へ入った。
波が、京を包む。
金色の瞳が、輝く。
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北方の避難所。
刃は、フェンスの外で倒れていた。
意識が、薄れていく。
視界が、暗くなる。
そして——
夢か、記憶か。
燃える街が見えた。
炎が建物を包み、煙が空を覆い、悲鳴が響き渡る。
倒れた仲間たち。血まみれの体。動かない手。開いたまま閉じない目。
血の匂い。焼けた肉の匂い。死の匂い。
刃は、その中を歩いている。
剣を握ったまま。
誰かを探している。
誰——
その時、前方に人影が現れた。
金色の瞳。
輝く瞳。
人間でもゾンビでもない、何か——
その影が、口を開いた。
「立て、人間」
低く、静かな声。
「お前はまだ終わっていない」
刃は、その影を見つめた。
顔が——藤原京に似ている。
いや、違う。
京でもあり、京ではない。
何か、別の存在だ。
「お前は——」
刃が問いかけようとした時、影が消えた。
闇が、刃を包む。
そして——
刃は、目を開けた。
フェンスの外。
夜空が見える。星が瞬いている。
意識が——戻った。
刃は、体を起こした。
傷の痛みが——消えている。
いや、痛みはある。でも、鋭くない。鈍い。
代わりに——鼓動が強くなっている。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、激しく打っている。
力が、溢れている。
視界が、クリアだ。さっきまで歪んでいたのに。
音が、よく聞こえる。遠くの波の音。風の音。人の息遣い。
矛盾している。
感染が進んでいるのに——力が増している。
刃は、左腕を見た。
紫の筋が、まだある。
でも——広がっていない。
止まっている。
これは——
恐怖が、背筋を走る。
俺は、人間なのか。
それとも——
刃は、拳を握った。
まだ、人間だ。
まだ、戦える。
そう信じる。
信じなければ——終わりだ。
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キャンプ地。
澪は、テントの中で膝をついていた。
涙が、止まらない。
これが、自分の役割なのか。
これが、軍人の務めなのか。
澪は、わからなかった。
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海の上。
京は、泳いでいた。
金色の瞳が、前を見つめる。
三人の運命が——
再び、一つの渦へと収束し始めていた。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




