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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第2部「裂け目」

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第30話「裂け目」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 夜明け前。


 海沿いのキャンプ地、司令テントの中で、緊急会議が開かれていた。


 ランプの明かりが、将校たちの顔を照らす。疲弊した顔、血走った目、荒い呼吸。誰もが、限界だった。無精髭を生やし、制服は汚れ、目の下には深いクマができている。


 テーブルを囲む軍幹部たち。その中央に、司令官が立っていた。五十代の男。白髪混じりの短髪。深い皺が刻まれた顔。


 司令官が地図を広げる。パサリ、という音。日本列島の地図。赤い線が、いくつも引かれている。感染拡大の経路だ。そのほとんどが、本州を覆っている。まるで血管のように。まるで傷口のように。


「諸君」


 司令官が口を開く。低く、重い声。喉が枯れている。


「政府から、正式な命令が下った」


 テント内が、静まり返る。誰もが、息を呑む。


「本州防衛を——放棄する」


 誰かが、椅子を倒しそうになった。ガタン、という音。


「青函トンネル、瀬戸大橋、明石海峡大橋、関門橋——これらすべてに、爆薬を設置する。本州を完全に孤立させ、北海道、四国、九州を防衛拠点とする」


 司令官が地図を指す。指が震えている。


「本州に残る国民は——見捨てる」


 沈黙。


 長い、重い沈黙。


 誰も、言葉を発しない。発せない。


 ある将校が、拳をテーブルに叩きつけた。ドン、という音。テーブルが揺れる。ランプの火が揺らぐ。


「ふざけるな! まだ本州には数千万の国民がいるんだぞ!」


 将校が立ち上がる。椅子が倒れる。


「わかっている」


 司令官が目を伏せる。


「だが、選択肢はない。感染の拡大速度は、我々の想定を遥かに超えている。このままでは、日本全土が——いや、世界が——」


「それでも!」


 将校が叫ぶ。


「それでも、諦めるのか! 見捨てるのか!」


「諦めるのではない」


 司令官が顔を上げる。その目には、涙が浮かんでいた。


「生き残るために、選ぶのだ。苦渋の選択だ。だが——これしか、道はない」


 テント内が、再び沈黙に包まれる。


 別の将校が、口を開いた。


「作戦名は?」


「三島隔離」


 司令官が答える。


「本州を切り離し、残る三島で国家を再建する。爆破は——七十二時間後だ」


 七十二時間。


 三日。


 その間に、本州から脱出できる者は——ほんの一握りだろう。


 そして、残された者たちは——


 将校の一人が、頭を抱えた。


「神よ……我々は、何をしているんだ……」


 誰も、答えなかった。


-----


 同じ頃。


 キャンプ地の端。


 神谷刃は、岩の上に座ったまま、朝焼けを見ていた。


 空が、赤く染まっている。血のような赤。オレンジと紫が混じり、雲が燃えているように見える。


 美しい朝焼けだ。


 でも——もう、見られないかもしれない。


 左腕が、熱い。もう、耐えられないほどに。シャツの下、包帯の中で、傷が脈打っている。ドクドクと。心臓のように。


 体が重い。鉛を飲み込んだような重さ。


 視界が、時々二重になる。


 頭が、ぼんやりする。


 喉が渇く。どれだけ水を飲んでも、渇く。


 これが——感染だ。


 刃は、シャツをまくった。


 包帯を外す。布が、傷に張り付いている。ゆっくりと剥がす。痛い。


 傷が——広がっていた。


 紫色の筋が、腕全体を這っている。まるで蛇のように。肩まで達している。いや——胸まで来ている。皮膚が、わずかに青白く変色している。血管が、黒く浮き出ている。


 時間がない。


 もう、数時間かもしれない。


 いや——もっと短いかもしれない。


 刃は、包帯を巻き直した。きつく、きつく。血が止まるくらいに。そして、シャツを下ろす。


 足音が聞こえた。


 ブーツが砂を踏む音。ザッ、ザッ、ザッ。


 刃は、振り返った。


 兵士が一人、立っていた。若い兵士。二十代前半だろうか。緊張した顔で敬礼する。


「神谷さん。司令官がお呼びです」


 刃は、立ち上がった。体がふらつく。でも、踏ん張る。


「わかった」


-----


 司令テントの中。


 司令官が、刃を見た。その目は、疲れ切っていた。


「神谷刃。君の戦闘能力は、報告で聞いている」


 刃は、黙って頷いた。


「避難ビルでの戦い。一人で、数十体のゾンビを倒したと」


「運が良かっただけです」


「謙遜するな」


 司令官が、地図を広げる。


「我々は、本州から撤退する。だが——最後まで、避難民を守る部隊が必要だ」


 司令官が地図を指す。


「ここに、まだ孤立した避難所がある。百人ほどの市民が取り残されている。君に、彼らの救出を頼みたい」


 刃は、地図を見た。


 避難所の位置。キャンプ地から、北へ二十キロ。ゾンビの群れが、その周辺を取り囲んでいる。赤い丸が、群れの位置を示している。数が多い。


「生きて帰れる保証は——ない」


 司令官が言う。


「だが、君なら——もしかしたら」


「行きます」


 刃が即答した。


 司令官が、目を見開く。


「即答か。考える時間は——」


「必要ありません」


 刃が頷く。


「俺が最後まで人間でいられるうちに——戦います」


 司令官は、刃の目を見た。そして——何かを悟ったような顔をした。


「……そうか」


 司令官が、深く息を吐く。


「君も——」


「ええ」


 刃が、小さく笑う。


「でも、まだ大丈夫です。まだ、人を守れます」


 司令官は、しばらく黙っていた。そして——敬礼した。


「武運を」


 刃も、敬礼を返した。


「ありがとうございます」


-----


 医療テント。


 藤宮澪は、ユイを抱いて、避難船のリストを確認していた。


 ユイを、四国へ送る。そこなら、まだ安全だ。避難所がある。食料がある。医療がある。そして——未来がある。


「澪ちゃん……」


 ユイが、澪の服を握る。小さな手。震えている手。


「一緒に、来ないの……?」


 澪は、微笑んだ。作り笑いだ。でも、ユイには見せない。


「私は、ここに残るの。でも、大丈夫。また会えるから」


「本当……?」


「本当」


 澪が、ユイの頭を撫でる。柔らかい髪。温かい頭。


「約束……?」


「約束」


 澪が、ユイの額にキスをする。


 ユイが、涙を流した。


「澪ちゃん……怖いよ……」


「大丈夫」


 澪が、ユイを抱きしめる。


「ユイは強い子だから。一人でも、大丈夫」


「でも……」


「信じて」


 澪が、ユイの目を見る。


「私を、信じて。また会えるから」


 ユイが、こくりと頷いた。


 その時、テントの入口が開いた。


 将校が一人、入ってくる。四十代の男。冷たい目をしている。


「藤宮軍曹」


 澪が敬礼する。


「新たな任務だ。感染者処理班への転属を命じる」


 澪の顔が、こわばった。


「感染者——処理班……?」


「そうだ」


 将校が、無表情で言う。


「感染の疑いがある者を隔離し、発症した者を——処分する」


 処分。


 殺す、という意味だ。


「君は海外での訓練経験がある。この任務に適任だ」


 将校が、書類を差し出す。


 澪は、その書類を受け取った。手が、震える。


「拒否権は——ありません」


 将校が付け加える。


 澪は、黙って頷いた。


「了解しました」


 将校が、敬礼して去る。


 澪は、書類を見つめた。


 感染者処理班。


 これから、何人の命を——奪うのだろう。


-----


 同じ頃。


 港の外れ。


 人気のない岸壁。波が、コンクリートを叩く音。ザザー、ザザー。


 藤原京は、そこに立っていた。


 朝日が、京を照らす。金色の光。


 京の体は、完全に再生していた。焼けた皮膚は剥がれ落ち、新しい皮膚が全身を覆っている。白く、滑らかな皮膚。傷一つない。髪も、再び生えている。黒い髪。風に揺れる。


 右腕も、完全に再生している。五本の指。関節。爪。すべてが、元通りだ。


 いや——元通りではない。


 より強く。より速く。より鋭く。


 京は、手を握った。開いた。拳を作った。


 力が、溢れている。


 視界が、クリアだ。遠くの波まで、はっきり見える。鳥が飛ぶ姿が、スローモーションのように見える。羽ばたきの一つ一つが、見える。


 音が、聞こえる。波の音。風の音。遠くのエンジン音。人の声。心臓の鼓動。自分の心臓。いや——遠くの人間の心臓も。


 匂いが、わかる。潮の匂い。魚の匂い。油の匂い。そして——人間の匂い。血の匂い。汗の匂い。恐怖の匂い。


 京は、海を見つめた。


 波が、打ち寄せている。


 その向こうに——何かがある。


 呼んでいる。


 来い、と。


 渡れ、と。


 京は、一歩を踏み出した。


 波の中へ。


 水が、足首まで来る。冷たい。でも、気にならない。


 また一歩。


 膝まで来る。


 また一歩。


 腰まで来る。


 波が、体を押す。でも、倒れない。


 京は、歩き続けた。


 海の中へ。


 深く、深く。


 やがて、足が地面から離れた。


 浮いている。


 いや——泳いでいる。


 本能的に。自然に。腕を動かし、足を蹴る。


 体が、水を切る。


 速い。


 人間の泳ぎではない。


 まるで、魚のように。まるで、海の生き物のように。


 京は、海を渡り始めた。


-----


 夜明け。


 キャンプ地。


 澪は、ユイを避難船に乗せた。小さな手を、離す。


「また、会おうね」


 澪が微笑む。涙を堪えて。


 ユイが、涙を浮かべて頷く。


「また……会おう……」


 船が、出発する。エンジン音が響く。


 澪は、手を振った。ユイも、手を振る。小さな手。


 船が、遠ざかっていく。


 やがて、見えなくなる。


 澪は、手を下ろした。


 そして——振り返った。


 刃が、そこに立っていた。


 剣を背負い、荷物を持ち、出発の準備をしている。


「神谷さん」


 澪が声をかける。


 刃が、振り返った。


「藤宮さん」


 二人は、向き合った。


 澪は、刃の顔を見た。


 疲れた顔。青白い顔。額に浮かぶ汗。


 そして——


 首筋に、わずかに見える噛み跡。シャツの隙間から。


 澪は、息を呑んだ。


「神谷さん……あなた……」


「わかってる」


 刃が、小さく笑った。悲しい笑顔。


「でも、まだ大丈夫だ。まだ、俺は人間だ」


 澪は、何も言えなかった。喉が詰まる。


「俺が最後まで人間でいられるうちに——戦う」


 刃が言う。


「それが、俺にできることだ」


 澪は、唇を噛んだ。


「……無茶、しないで」


 刃が、頷いた。


「あんたもな」


 二人は、しばらく見つめ合った。


 そして——刃が、背を向けた。


「じゃあな」


 歩き出す。砂を踏む音。


 澪は、その背中を見送った。


 刃の姿が、遠ざかっていく。


 やがて、見えなくなる。


 澪は、空を見上げた。


 朝焼けが、消えていく。


 青い空が、広がっている。


-----


 海の上。


 藤原京は、泳いでいた。


 腕を動かし、足を蹴る。


 体が、水を切る。


 速い。


 人間の泳ぎではない。


 まるで、魚のように。


 波が、京を押す。


 風が、京を運ぶ。


 太陽が、京を照らす。


 金色の瞳が、輝く。


 海の向こうに——何かが見える。


 陸地だ。


 大陸だ。


 京は、そこを目指す。


 泳ぎ続ける。


 止まらない。


 疲れない。


 ただ、進む。


 波間で、金色の光が瞬く。


 京が、海を渡っている。


-----


 キャンプ地。


 司令官が、部下に命令を下す。


「青函トンネルに、爆薬設置班を派遣しろ。瀬戸大橋、明石海峡大橋、関門橋も同様だ」


「了解」


 部下が敬礼し、走り去る。


 司令官は、地図を見つめた。


 本州が、赤く塗られている。


 感染地域。


 もう、取り戻せない。


「すまない……」


 司令官が、呟いた。


「本当に、すまない……」


 誰に向けた言葉なのか——


 本州に残された国民か。


 それとも、これから死ぬであろう兵士たちか。


 わからなかった。


-----


 刃は、北へ向かって歩いていた。


 剣を背負い、一人で。


 左腕が、熱い。


 視界が、時々揺れる。


 でも、止まらない。


 まだ、戦える。


 まだ、人を守れる。


 それが、俺の——最後の務めだ。


 刃は、前を見据えた。


-----


 澪は、感染者処理班のテントへ向かっていた。


 重い足取り。


 これから、何人の命を——奪うのだろう。


 感染した人々を。


 まだ意識がある人々を。


 殺すのだ。


 澪は、拳を握りしめた。


 これが、軍人の務めなのか——


 わからなかった。


 でも——やらなければならない。


-----


 海の上。


 京は、まだ泳いでいた。


 波が、高くなってきた。


 風が、強くなってきた。


 でも、止まらない。


 金色の瞳が、前を見つめる。


 海を、渡る。


 新しい地へ。


 新しい戦いへ。


-----


 三人の運命は、それぞれの道を進んでいた。


 刃は、北へ。


 澪は、処理班へ。


 京は、海を越えて。


 やがて、再び交わる時が来る。


 それまで——


 それぞれが、生き延びなければならない。


 

日本が、裂けようとしていた。


-----


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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