第30話「裂け目」
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どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
夜明け前。
海沿いのキャンプ地、司令テントの中で、緊急会議が開かれていた。
ランプの明かりが、将校たちの顔を照らす。疲弊した顔、血走った目、荒い呼吸。誰もが、限界だった。無精髭を生やし、制服は汚れ、目の下には深いクマができている。
テーブルを囲む軍幹部たち。その中央に、司令官が立っていた。五十代の男。白髪混じりの短髪。深い皺が刻まれた顔。
司令官が地図を広げる。パサリ、という音。日本列島の地図。赤い線が、いくつも引かれている。感染拡大の経路だ。そのほとんどが、本州を覆っている。まるで血管のように。まるで傷口のように。
「諸君」
司令官が口を開く。低く、重い声。喉が枯れている。
「政府から、正式な命令が下った」
テント内が、静まり返る。誰もが、息を呑む。
「本州防衛を——放棄する」
誰かが、椅子を倒しそうになった。ガタン、という音。
「青函トンネル、瀬戸大橋、明石海峡大橋、関門橋——これらすべてに、爆薬を設置する。本州を完全に孤立させ、北海道、四国、九州を防衛拠点とする」
司令官が地図を指す。指が震えている。
「本州に残る国民は——見捨てる」
沈黙。
長い、重い沈黙。
誰も、言葉を発しない。発せない。
ある将校が、拳をテーブルに叩きつけた。ドン、という音。テーブルが揺れる。ランプの火が揺らぐ。
「ふざけるな! まだ本州には数千万の国民がいるんだぞ!」
将校が立ち上がる。椅子が倒れる。
「わかっている」
司令官が目を伏せる。
「だが、選択肢はない。感染の拡大速度は、我々の想定を遥かに超えている。このままでは、日本全土が——いや、世界が——」
「それでも!」
将校が叫ぶ。
「それでも、諦めるのか! 見捨てるのか!」
「諦めるのではない」
司令官が顔を上げる。その目には、涙が浮かんでいた。
「生き残るために、選ぶのだ。苦渋の選択だ。だが——これしか、道はない」
テント内が、再び沈黙に包まれる。
別の将校が、口を開いた。
「作戦名は?」
「三島隔離」
司令官が答える。
「本州を切り離し、残る三島で国家を再建する。爆破は——七十二時間後だ」
七十二時間。
三日。
その間に、本州から脱出できる者は——ほんの一握りだろう。
そして、残された者たちは——
将校の一人が、頭を抱えた。
「神よ……我々は、何をしているんだ……」
誰も、答えなかった。
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同じ頃。
キャンプ地の端。
神谷刃は、岩の上に座ったまま、朝焼けを見ていた。
空が、赤く染まっている。血のような赤。オレンジと紫が混じり、雲が燃えているように見える。
美しい朝焼けだ。
でも——もう、見られないかもしれない。
左腕が、熱い。もう、耐えられないほどに。シャツの下、包帯の中で、傷が脈打っている。ドクドクと。心臓のように。
体が重い。鉛を飲み込んだような重さ。
視界が、時々二重になる。
頭が、ぼんやりする。
喉が渇く。どれだけ水を飲んでも、渇く。
これが——感染だ。
刃は、シャツをまくった。
包帯を外す。布が、傷に張り付いている。ゆっくりと剥がす。痛い。
傷が——広がっていた。
紫色の筋が、腕全体を這っている。まるで蛇のように。肩まで達している。いや——胸まで来ている。皮膚が、わずかに青白く変色している。血管が、黒く浮き出ている。
時間がない。
もう、数時間かもしれない。
いや——もっと短いかもしれない。
刃は、包帯を巻き直した。きつく、きつく。血が止まるくらいに。そして、シャツを下ろす。
足音が聞こえた。
ブーツが砂を踏む音。ザッ、ザッ、ザッ。
刃は、振り返った。
兵士が一人、立っていた。若い兵士。二十代前半だろうか。緊張した顔で敬礼する。
「神谷さん。司令官がお呼びです」
刃は、立ち上がった。体がふらつく。でも、踏ん張る。
「わかった」
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司令テントの中。
司令官が、刃を見た。その目は、疲れ切っていた。
「神谷刃。君の戦闘能力は、報告で聞いている」
刃は、黙って頷いた。
「避難ビルでの戦い。一人で、数十体のゾンビを倒したと」
「運が良かっただけです」
「謙遜するな」
司令官が、地図を広げる。
「我々は、本州から撤退する。だが——最後まで、避難民を守る部隊が必要だ」
司令官が地図を指す。
「ここに、まだ孤立した避難所がある。百人ほどの市民が取り残されている。君に、彼らの救出を頼みたい」
刃は、地図を見た。
避難所の位置。キャンプ地から、北へ二十キロ。ゾンビの群れが、その周辺を取り囲んでいる。赤い丸が、群れの位置を示している。数が多い。
「生きて帰れる保証は——ない」
司令官が言う。
「だが、君なら——もしかしたら」
「行きます」
刃が即答した。
司令官が、目を見開く。
「即答か。考える時間は——」
「必要ありません」
刃が頷く。
「俺が最後まで人間でいられるうちに——戦います」
司令官は、刃の目を見た。そして——何かを悟ったような顔をした。
「……そうか」
司令官が、深く息を吐く。
「君も——」
「ええ」
刃が、小さく笑う。
「でも、まだ大丈夫です。まだ、人を守れます」
司令官は、しばらく黙っていた。そして——敬礼した。
「武運を」
刃も、敬礼を返した。
「ありがとうございます」
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医療テント。
藤宮澪は、ユイを抱いて、避難船のリストを確認していた。
ユイを、四国へ送る。そこなら、まだ安全だ。避難所がある。食料がある。医療がある。そして——未来がある。
「澪ちゃん……」
ユイが、澪の服を握る。小さな手。震えている手。
「一緒に、来ないの……?」
澪は、微笑んだ。作り笑いだ。でも、ユイには見せない。
「私は、ここに残るの。でも、大丈夫。また会えるから」
「本当……?」
「本当」
澪が、ユイの頭を撫でる。柔らかい髪。温かい頭。
「約束……?」
「約束」
澪が、ユイの額にキスをする。
ユイが、涙を流した。
「澪ちゃん……怖いよ……」
「大丈夫」
澪が、ユイを抱きしめる。
「ユイは強い子だから。一人でも、大丈夫」
「でも……」
「信じて」
澪が、ユイの目を見る。
「私を、信じて。また会えるから」
ユイが、こくりと頷いた。
その時、テントの入口が開いた。
将校が一人、入ってくる。四十代の男。冷たい目をしている。
「藤宮軍曹」
澪が敬礼する。
「新たな任務だ。感染者処理班への転属を命じる」
澪の顔が、こわばった。
「感染者——処理班……?」
「そうだ」
将校が、無表情で言う。
「感染の疑いがある者を隔離し、発症した者を——処分する」
処分。
殺す、という意味だ。
「君は海外での訓練経験がある。この任務に適任だ」
将校が、書類を差し出す。
澪は、その書類を受け取った。手が、震える。
「拒否権は——ありません」
将校が付け加える。
澪は、黙って頷いた。
「了解しました」
将校が、敬礼して去る。
澪は、書類を見つめた。
感染者処理班。
これから、何人の命を——奪うのだろう。
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同じ頃。
港の外れ。
人気のない岸壁。波が、コンクリートを叩く音。ザザー、ザザー。
藤原京は、そこに立っていた。
朝日が、京を照らす。金色の光。
京の体は、完全に再生していた。焼けた皮膚は剥がれ落ち、新しい皮膚が全身を覆っている。白く、滑らかな皮膚。傷一つない。髪も、再び生えている。黒い髪。風に揺れる。
右腕も、完全に再生している。五本の指。関節。爪。すべてが、元通りだ。
いや——元通りではない。
より強く。より速く。より鋭く。
京は、手を握った。開いた。拳を作った。
力が、溢れている。
視界が、クリアだ。遠くの波まで、はっきり見える。鳥が飛ぶ姿が、スローモーションのように見える。羽ばたきの一つ一つが、見える。
音が、聞こえる。波の音。風の音。遠くのエンジン音。人の声。心臓の鼓動。自分の心臓。いや——遠くの人間の心臓も。
匂いが、わかる。潮の匂い。魚の匂い。油の匂い。そして——人間の匂い。血の匂い。汗の匂い。恐怖の匂い。
京は、海を見つめた。
波が、打ち寄せている。
その向こうに——何かがある。
呼んでいる。
来い、と。
渡れ、と。
京は、一歩を踏み出した。
波の中へ。
水が、足首まで来る。冷たい。でも、気にならない。
また一歩。
膝まで来る。
また一歩。
腰まで来る。
波が、体を押す。でも、倒れない。
京は、歩き続けた。
海の中へ。
深く、深く。
やがて、足が地面から離れた。
浮いている。
いや——泳いでいる。
本能的に。自然に。腕を動かし、足を蹴る。
体が、水を切る。
速い。
人間の泳ぎではない。
まるで、魚のように。まるで、海の生き物のように。
京は、海を渡り始めた。
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夜明け。
キャンプ地。
澪は、ユイを避難船に乗せた。小さな手を、離す。
「また、会おうね」
澪が微笑む。涙を堪えて。
ユイが、涙を浮かべて頷く。
「また……会おう……」
船が、出発する。エンジン音が響く。
澪は、手を振った。ユイも、手を振る。小さな手。
船が、遠ざかっていく。
やがて、見えなくなる。
澪は、手を下ろした。
そして——振り返った。
刃が、そこに立っていた。
剣を背負い、荷物を持ち、出発の準備をしている。
「神谷さん」
澪が声をかける。
刃が、振り返った。
「藤宮さん」
二人は、向き合った。
澪は、刃の顔を見た。
疲れた顔。青白い顔。額に浮かぶ汗。
そして——
首筋に、わずかに見える噛み跡。シャツの隙間から。
澪は、息を呑んだ。
「神谷さん……あなた……」
「わかってる」
刃が、小さく笑った。悲しい笑顔。
「でも、まだ大丈夫だ。まだ、俺は人間だ」
澪は、何も言えなかった。喉が詰まる。
「俺が最後まで人間でいられるうちに——戦う」
刃が言う。
「それが、俺にできることだ」
澪は、唇を噛んだ。
「……無茶、しないで」
刃が、頷いた。
「あんたもな」
二人は、しばらく見つめ合った。
そして——刃が、背を向けた。
「じゃあな」
歩き出す。砂を踏む音。
澪は、その背中を見送った。
刃の姿が、遠ざかっていく。
やがて、見えなくなる。
澪は、空を見上げた。
朝焼けが、消えていく。
青い空が、広がっている。
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海の上。
藤原京は、泳いでいた。
腕を動かし、足を蹴る。
体が、水を切る。
速い。
人間の泳ぎではない。
まるで、魚のように。
波が、京を押す。
風が、京を運ぶ。
太陽が、京を照らす。
金色の瞳が、輝く。
海の向こうに——何かが見える。
陸地だ。
大陸だ。
京は、そこを目指す。
泳ぎ続ける。
止まらない。
疲れない。
ただ、進む。
波間で、金色の光が瞬く。
京が、海を渡っている。
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キャンプ地。
司令官が、部下に命令を下す。
「青函トンネルに、爆薬設置班を派遣しろ。瀬戸大橋、明石海峡大橋、関門橋も同様だ」
「了解」
部下が敬礼し、走り去る。
司令官は、地図を見つめた。
本州が、赤く塗られている。
感染地域。
もう、取り戻せない。
「すまない……」
司令官が、呟いた。
「本当に、すまない……」
誰に向けた言葉なのか——
本州に残された国民か。
それとも、これから死ぬであろう兵士たちか。
わからなかった。
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刃は、北へ向かって歩いていた。
剣を背負い、一人で。
左腕が、熱い。
視界が、時々揺れる。
でも、止まらない。
まだ、戦える。
まだ、人を守れる。
それが、俺の——最後の務めだ。
刃は、前を見据えた。
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澪は、感染者処理班のテントへ向かっていた。
重い足取り。
これから、何人の命を——奪うのだろう。
感染した人々を。
まだ意識がある人々を。
殺すのだ。
澪は、拳を握りしめた。
これが、軍人の務めなのか——
わからなかった。
でも——やらなければならない。
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海の上。
京は、まだ泳いでいた。
波が、高くなってきた。
風が、強くなってきた。
でも、止まらない。
金色の瞳が、前を見つめる。
海を、渡る。
新しい地へ。
新しい戦いへ。
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三人の運命は、それぞれの道を進んでいた。
刃は、北へ。
澪は、処理班へ。
京は、海を越えて。
やがて、再び交わる時が来る。
それまで——
それぞれが、生き延びなければならない。
日本が、裂けようとしていた。
-----
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




