第29話「残響」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
ヘリのプロペラ音が、耳を劈く。
ゴォゴォゴォ。
風が顔を叩く。髪が乱れる。目を細める。金属の匂いと、機械油の匂い。そして、血の匂い。
神谷刃は、ヘリの座席に身を沈めていた。体が、座席に押し付けられる。振動が全身に伝わる。ガタガタと揺れる。
隣には老人が座り、その向かいには中年女性が座っている。皆、疲れ切った顔をしている。目は虚ろで、唇は乾き、肩が落ちている。誰も喋らない。ただ、呼吸をしている。生きている。それだけで精一杯だ。
窓の外、燃え盛る避難ビルが遠ざかっていく。炎が夜空を照らし、黒煙が立ち上っている。まるで墓標のように。オレンジ色の光が、雲を下から照らしている。
刃は、左腕を押さえた。シャツの下、包帯に隠された傷が熱い。ズキズキと脈打つ。汗が額を伝う。喉が渇く。唾を飲み込もうとするが、口の中がカラカラだ。
大丈夫だ。
まだ、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。でも、心の奥では——わかっている。時間がないことを。
反対側の座席には、藤宮澪が座っていた。ユイを膝に乗せ、小さな体を抱きしめている。ユイは眠っている。疲れ果てて、意識を失ったように。小さな胸が、かすかに上下している。
澪は、窓の外を見つめていた。その目は、炎の向こうを見ている。金色の瞳を探しているかのように。眉が寄り、唇が震えている。
刃は、澪を見た。
彼女も、何かを感じている。
あの金色の瞳のゾンビ——いや、ゾンビではない何か——に。
ヘリが高度を上げる。街が小さくなる。崩れたビル、動かない車、燃える建物。地獄のような光景が、眼下に広がっている。人の営みが、すべて灰になっていく。
刃は、目を閉じた。
金色の瞳が、瞼の裏に浮かぶ。
あれは——誰だ。
人間か。ゾンビか。それとも——
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海沿いの臨時キャンプ地に、ヘリが着陸した。
プロペラの風が砂を巻き上げる。ジャリジャリという音。目を細める。手で顔を覆う。潮の匂い。夜の海の匂い。そして、焚き火の煙の匂い。
キャンプ地には、既に多くの避難民がいた。テントが並び、焚き火が燃え、兵士たちが警備をしている。遠くで波の音が聞こえる。ザザー、ザザー。規則正しい音。
刃は、ヘリから降りた。足が地面につく。砂が靴底に当たる。体が重い。まるで鉛を飲み込んだかのように。
澪もユイを抱えて降りた。すぐに、他の兵士が駆け寄ってくる。ブーツが砂を踏む音。
「藤宮軍曹! 無事でしたか!」
若い兵士が敬礼する。澪は頷いた。
「負傷者を手当てして。この子も、医療テントへ」
ユイを兵士に渡す。ユイは、まだ眠っている。小さな寝息。
澪は、周囲を見渡した。負傷した避難民が、次々と運ばれてくる。血まみれの人、骨折した人、ショックで動けない人。悲鳴、うめき声、泣き声。
「医療班! こっちに担架を!」
澪が指示を飛ばす。兵士たちが動く。テキパキとした動き。訓練された動き。
「止血を優先! 感染の疑いがある者は隔離!」
澪の声が、キャンプ地に響く。
刃は、その光景を見ていた。自分は、ここにいるべきではない気がした。
孤立している。
誰とも繋がっていない。
避難民たちは家族で抱き合い、兵士たちは仲間と言葉を交わし、子供たちは親に抱きしめられている。
でも、刃には——誰もいない。
刃は、キャンプ地の端へ歩いていった。誰にも声をかけず、誰にも声をかけられず。砂を踏む音だけが、後ろに残る。
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キャンプ地の端。
海が見える場所。
刃は、岩に腰を下ろした。波の音が、近くで聞こえる。ザザー、ザザー。月が海を照らしている。銀色の光。波間がキラキラと光る。
左腕が、また疼く。
刃は、周囲を確認した。誰もいない。見ている者はいない。
シャツをまくり上げた。包帯を外す。布が、傷に張り付いている。ゆっくりと剥がす。痛い。
傷が、見える。
噛み跡だ。
小さな傷。でも、深い。皮膚が赤く腫れ上がっている。熱を持っている。周囲の血管が、黒ずんでいる。紫色の筋が、腕を這うように広がっている。
刃は、息を呑んだ。
これは——
感染の兆候だ。
間違いない。
体が重いのも、頭がぼんやりするのも、喉が渇くのも——すべて、感染の症状だ。
刃は、包帯を巻き直した。きつく巻く。血が止まるくらいに。シャツを下ろす。誰にも見られないように。
どれくらい、時間があるのか。
一日か。二日か。それとも、もっと短いのか。
母親と子供は、数時間で発症した。
だが、自分は——まだ意識がある。まだ、人間だ。
刃は、空を見上げた。星が見える。無数の星。遠く、冷たく、美しい。
頭の中に、金色の瞳が浮かぶ。
あの男——いや、あのゾンビ——
いや、違う。
ゾンビではない。
何か、別の存在だ。
意識がある。理性がある。でも、人間ではない。
刃は、拳を握りしめた。
もし、自分もあんな風になれるなら——
いや、ダメだ。
そんなことを考えるな。
人を守るために剣を振るってきた。人を喰うために剣を振るうなど——
刃は、頭を振った。
でも、心の奥底で——
少しだけ、期待している自分がいた。
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同じ頃。
炎上した避難ビルの廃墟。
火は、まだ燃えていた。小さな炎が、瓦礫の間でチラチラと揺れている。焦げた木材の匂い。溶けたプラスチックの匂い。焼けた肉の匂い。死の匂い。
ビルの屋上——いや、かつて屋上だった場所。コンクリートが砕け、鉄骨が剥き出しになっている。
そこに、影があった。
動かない影。
倒れている影。
それは——藤原京だった。
京の体は、焼け焦げていた。服はボロボロで、皮膚は黒く焦げ、髪は焼け落ちている。右腕が、肘から先がない。ちぎれている。断面から、白い骨が見えている。
死んでいるように見えた。
動かない。
呼吸もしていない。
でも——
胸が、わずかに上下した。
一度。
また一度。
呼吸している。
生きている。
いや、生きている、とは言えないかもしれない。
でも、死んでもいない。
京の体の中で、何かが起きていた。
ウイルスが、増殖している。細胞を侵食している。神経を再構築している。筋肉を強化している。骨を硬化している。
脳が——変化している。
人間の脳ではなく、ゾンビの脳でもなく、何か——新しい形へ。
京の指が、ピクリと動いた。
焼けた指。黒く焦げた指。でも、動く。
次に、足が動いた。膝が曲がる。
そして——目が開いた。
金色の瞳。
でも、以前とは違う。
もっと深い金色。もっと輝く金色。まるで太陽のような。まるで溶けた金属のような。
京は、ゆっくりと体を起こした。焼けた皮膚が剥がれ落ちる。パラパラと音を立てて。その下から、新しい皮膚が現れる。白い皮膚。滑らかな皮膚。傷一つない皮膚。
右腕——ちぎれた右腕の断面から、何かが生えてきた。
肉が盛り上がり、骨が伸び、筋肉が絡みつき、皮膚が覆う。
再生している。
人間には不可能な再生。
指が五本、生える。関節ができる。爪が生える。
京は、新しい右手を見た。握る。開く。完璧に動く。
再生している。
京は、立ち上がった。
体が、軽い。
力が、溢れている。
視界が、クリアだ。
音が、よく聞こえる。遠くの波の音。風の音。虫の鳴き声。
匂いが、鮮明だ。焦げた木。海の潮。そして——人間の匂い。
すべてが——研ぎ澄まされている。
京は、自分の手を見た。
新しく生えた右手。五本の指。関節が動く。拳を握る。開く。
これは——
自分の手だ。
でも、人間の手ではない。
ゾンビの手でもない。
何か——別の存在の手だ。
京は、頭を押さえた。
記憶が、溢れてくる。
村での感染。母の死。群れとの旅。ユイとの出会い。避難ビルでの戦い。金色の瞳の女性——澪。
澪——
その名前が、頭の中で響く。
誰——
知っている気がする。
でも、思い出せない。
京は、空を見上げた。
月が、雲の間から覗いている。明るい月。
どこかへ、行かなければ。
何かを、しなければ。
でも、何を——
京の中で、声が響いた。
——海を、渡れ。
誰の声——
わからない。
本能か。ウイルスか。それとも——
でも、従わなければならない気がした。
京は、ビルの端へ歩いていった。
そして——飛び降りた。
五階の高さ。
人間なら、即死だ。
でも、京は——着地した。
膝を曲げ、衝撃を吸収し、そのまま立ち上がる。
何事もなかったかのように。
地面に、足跡がついた。深い足跡。それだけが、衝撃の大きさを物語っている。
京は、歩き出した。
海の方角へ。
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海沿いのキャンプ地。
医療テントの中。
澪は、ユイのベッドの横に座っていた。ユイは、まだ眠っている。小さな胸が、規則正しく上下している。熱はない。怪我もない。ただ、疲れているだけだ。
澪は、ユイの手を握った。小さな手。温かい手。
この子を、守らなければ。
そう思った。
澪は、窓の外を見た。夜の海。月の光。波の音。
そして——頭の中に、金色の瞳が浮かんだ。
あの男——
いや、あのゾンビ——
いや——
澪は、目を閉じた。
記憶が、蘇る。
古い記憶。
幼い頃の記憶。
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浜辺だった。
夏の日。
太陽が眩しく、波が優しく、砂が温かかった。空は青く、雲は白く、風は爽やかだった。
澪は、小さかった。五歳か、六歳か。白いワンピースを着て、麦わら帽子を被っている。裸足。砂が足の指の間に入る。
隣に、少年がいた。
澪より少し小さい。四歳くらい。半袖のシャツと短パン。裸足。日焼けした肌。
二人は、波打ち際で遊んでいた。
貝殻を拾ったり、砂の城を作ったり。波が来ると、キャッキャと逃げたり。
少年が、笑っていた。
澪も、笑っていた。
幸せな時間。
平和な時間。
戻れない時間。
少年が、澪を見上げた。
その瞳が——
金色だった。
太陽の光を反射して、キラキラと輝く金色。琥珀のような色。
澪は、その瞳を見つめた。
綺麗だな、と思った。
少年が言った。
「澪ちゃん、いつか、また海に来ようね」
澪が頷いた。
「うん。また来よう」
少年が微笑んだ。
「約束だよ」
澪も微笑んだ。
「約束」
二人は、小指を絡めた。
指切りげんまん。
嘘ついたら、針千本飲ます。
指切った。
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澪は、目を開けた。
医療テントの天井が見える。白い布。
涙が、頬を伝った。
少年の名前——
思い出した。
藤原京。
幼馴染だった。
一緒に遊んだ。一緒に笑った。一緒に海を見た。
でも、澪が引っ越してから、会っていなかった。
何年も。
そして——
あの金色の瞳のゾンビ。
もしかして——
いや、まさか——
でも——
澪は、立ち上がった。テントの外へ出る。
夜の空気が、顔に当たる。冷たい風。潮の匂い。
澪は、海を見つめた。
波が、月の光で輝いている。
「京——」
名前を、呟いた。
風が、その声を運んでいった。
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夜明け前。
空が、わずかに明るくなってきた。地平線が、青白く光り始めている。
刃は、まだ岩に座っていた。一睡もしていない。目が冴えている。眠れない。
左腕が、熱い。
もう、隠せないかもしれない。
刃は、海を見つめた。
波が、静かに打ち寄せている。
その時——
気配を感じた。
刃は、振り返った。
誰もいない。
でも、何かがいる。
そんな気がした。
刃は、立ち上がった。剣の柄に手をかける。
視線を、キャンプ地の外へ向ける。
闇の中——
何かが、動いた気がした。
金色の光。
一瞬だけ。
でも、確かに見えた。
刃は、息を呑んだ。
「……奴は、まだ生きてる」
呟いた。
確信があった。
あの金色の瞳のゾンビ——いや、あの存在——は、まだ生きている。
いや、生きている、という表現は正しくないかもしれない。
でも——存在している。
そして——近づいてくる。
刃は、剣を抜いた。
刃が、月の光で鈍く光る。
夜明けの風が、吹いた。
海の匂い。
血の匂い。
そして——何か、別の匂い。
刃は、前を見据えた。
三人の運命は、再び収束へ向かっている。
それを、刃は感じていた。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




