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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第2部「裂け目」

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第29話「残響」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 ヘリのプロペラ音が、耳を劈く。


 ゴォゴォゴォ。


 風が顔を叩く。髪が乱れる。目を細める。金属の匂いと、機械油の匂い。そして、血の匂い。


 神谷刃は、ヘリの座席に身を沈めていた。体が、座席に押し付けられる。振動が全身に伝わる。ガタガタと揺れる。


 隣には老人が座り、その向かいには中年女性が座っている。皆、疲れ切った顔をしている。目は虚ろで、唇は乾き、肩が落ちている。誰も喋らない。ただ、呼吸をしている。生きている。それだけで精一杯だ。


 窓の外、燃え盛る避難ビルが遠ざかっていく。炎が夜空を照らし、黒煙が立ち上っている。まるで墓標のように。オレンジ色の光が、雲を下から照らしている。


 刃は、左腕を押さえた。シャツの下、包帯に隠された傷が熱い。ズキズキと脈打つ。汗が額を伝う。喉が渇く。唾を飲み込もうとするが、口の中がカラカラだ。


 大丈夫だ。


 まだ、大丈夫だ。


 そう自分に言い聞かせる。でも、心の奥では——わかっている。時間がないことを。


 反対側の座席には、藤宮澪が座っていた。ユイを膝に乗せ、小さな体を抱きしめている。ユイは眠っている。疲れ果てて、意識を失ったように。小さな胸が、かすかに上下している。


 澪は、窓の外を見つめていた。その目は、炎の向こうを見ている。金色の瞳を探しているかのように。眉が寄り、唇が震えている。


 刃は、澪を見た。


 彼女も、何かを感じている。


 あの金色の瞳のゾンビ——いや、ゾンビではない何か——に。


 ヘリが高度を上げる。街が小さくなる。崩れたビル、動かない車、燃える建物。地獄のような光景が、眼下に広がっている。人の営みが、すべて灰になっていく。


 刃は、目を閉じた。


 金色の瞳が、瞼の裏に浮かぶ。


 あれは——誰だ。


 人間か。ゾンビか。それとも——


-----


 海沿いの臨時キャンプ地に、ヘリが着陸した。


 プロペラの風が砂を巻き上げる。ジャリジャリという音。目を細める。手で顔を覆う。潮の匂い。夜の海の匂い。そして、焚き火の煙の匂い。


 キャンプ地には、既に多くの避難民がいた。テントが並び、焚き火が燃え、兵士たちが警備をしている。遠くで波の音が聞こえる。ザザー、ザザー。規則正しい音。


 刃は、ヘリから降りた。足が地面につく。砂が靴底に当たる。体が重い。まるで鉛を飲み込んだかのように。


 澪もユイを抱えて降りた。すぐに、他の兵士が駆け寄ってくる。ブーツが砂を踏む音。


「藤宮軍曹! 無事でしたか!」


 若い兵士が敬礼する。澪は頷いた。


「負傷者を手当てして。この子も、医療テントへ」


 ユイを兵士に渡す。ユイは、まだ眠っている。小さな寝息。


 澪は、周囲を見渡した。負傷した避難民が、次々と運ばれてくる。血まみれの人、骨折した人、ショックで動けない人。悲鳴、うめき声、泣き声。


「医療班! こっちに担架を!」


 澪が指示を飛ばす。兵士たちが動く。テキパキとした動き。訓練された動き。


「止血を優先! 感染の疑いがある者は隔離!」


 澪の声が、キャンプ地に響く。


 刃は、その光景を見ていた。自分は、ここにいるべきではない気がした。


 孤立している。


 誰とも繋がっていない。


 避難民たちは家族で抱き合い、兵士たちは仲間と言葉を交わし、子供たちは親に抱きしめられている。


 でも、刃には——誰もいない。


 刃は、キャンプ地の端へ歩いていった。誰にも声をかけず、誰にも声をかけられず。砂を踏む音だけが、後ろに残る。


-----


 キャンプ地の端。


 海が見える場所。


 刃は、岩に腰を下ろした。波の音が、近くで聞こえる。ザザー、ザザー。月が海を照らしている。銀色の光。波間がキラキラと光る。


 左腕が、また疼く。


 刃は、周囲を確認した。誰もいない。見ている者はいない。


 シャツをまくり上げた。包帯を外す。布が、傷に張り付いている。ゆっくりと剥がす。痛い。


 傷が、見える。


 噛み跡だ。


 小さな傷。でも、深い。皮膚が赤く腫れ上がっている。熱を持っている。周囲の血管が、黒ずんでいる。紫色の筋が、腕を這うように広がっている。


 刃は、息を呑んだ。


 これは——


 感染の兆候だ。


 間違いない。


 体が重いのも、頭がぼんやりするのも、喉が渇くのも——すべて、感染の症状だ。


 刃は、包帯を巻き直した。きつく巻く。血が止まるくらいに。シャツを下ろす。誰にも見られないように。


 どれくらい、時間があるのか。


 一日か。二日か。それとも、もっと短いのか。


 母親と子供は、数時間で発症した。


 だが、自分は——まだ意識がある。まだ、人間だ。


 刃は、空を見上げた。星が見える。無数の星。遠く、冷たく、美しい。


 頭の中に、金色の瞳が浮かぶ。


 あの男——いや、あのゾンビ——


 いや、違う。


 ゾンビではない。


 何か、別の存在だ。


 意識がある。理性がある。でも、人間ではない。


 刃は、拳を握りしめた。


 もし、自分もあんな風になれるなら——


 いや、ダメだ。


 そんなことを考えるな。


 人を守るために剣を振るってきた。人を喰うために剣を振るうなど——


 刃は、頭を振った。


 でも、心の奥底で——


 少しだけ、期待している自分がいた。


-----


 同じ頃。


 炎上した避難ビルの廃墟。


 火は、まだ燃えていた。小さな炎が、瓦礫の間でチラチラと揺れている。焦げた木材の匂い。溶けたプラスチックの匂い。焼けた肉の匂い。死の匂い。


 ビルの屋上——いや、かつて屋上だった場所。コンクリートが砕け、鉄骨が剥き出しになっている。


 そこに、影があった。


 動かない影。


 倒れている影。


 それは——藤原京だった。


 京の体は、焼け焦げていた。服はボロボロで、皮膚は黒く焦げ、髪は焼け落ちている。右腕が、肘から先がない。ちぎれている。断面から、白い骨が見えている。


 死んでいるように見えた。


 動かない。


 呼吸もしていない。


 でも——


 胸が、わずかに上下した。


 一度。


 また一度。


 呼吸している。


 生きている。


 いや、生きている、とは言えないかもしれない。


 でも、死んでもいない。


 京の体の中で、何かが起きていた。


 ウイルスが、増殖している。細胞を侵食している。神経を再構築している。筋肉を強化している。骨を硬化している。


 脳が——変化している。


 人間の脳ではなく、ゾンビの脳でもなく、何か——新しい形へ。


 京の指が、ピクリと動いた。


 焼けた指。黒く焦げた指。でも、動く。


 次に、足が動いた。膝が曲がる。


 そして——目が開いた。


 金色の瞳。


 でも、以前とは違う。


 もっと深い金色。もっと輝く金色。まるで太陽のような。まるで溶けた金属のような。


 京は、ゆっくりと体を起こした。焼けた皮膚が剥がれ落ちる。パラパラと音を立てて。その下から、新しい皮膚が現れる。白い皮膚。滑らかな皮膚。傷一つない皮膚。


 右腕——ちぎれた右腕の断面から、何かが生えてきた。


 肉が盛り上がり、骨が伸び、筋肉が絡みつき、皮膚が覆う。


 再生している。


 人間には不可能な再生。


 指が五本、生える。関節ができる。爪が生える。


 京は、新しい右手を見た。握る。開く。完璧に動く。


 再生している。


 京は、立ち上がった。


 体が、軽い。


 力が、溢れている。


 視界が、クリアだ。


 音が、よく聞こえる。遠くの波の音。風の音。虫の鳴き声。


 匂いが、鮮明だ。焦げた木。海の潮。そして——人間の匂い。


 すべてが——研ぎ澄まされている。


 京は、自分の手を見た。


 新しく生えた右手。五本の指。関節が動く。拳を握る。開く。


 これは——


 自分の手だ。


 でも、人間の手ではない。


 ゾンビの手でもない。


 何か——別の存在の手だ。


 京は、頭を押さえた。


 記憶が、溢れてくる。


 村での感染。母の死。群れとの旅。ユイとの出会い。避難ビルでの戦い。金色の瞳の女性——澪。


 澪——


 その名前が、頭の中で響く。


 誰——


 知っている気がする。


 でも、思い出せない。


 京は、空を見上げた。


 月が、雲の間から覗いている。明るい月。


 どこかへ、行かなければ。


 何かを、しなければ。


 でも、何を——


 京の中で、声が響いた。


 ——海を、渡れ。


 誰の声——


 わからない。


 本能か。ウイルスか。それとも——


 でも、従わなければならない気がした。


 京は、ビルの端へ歩いていった。


 そして——飛び降りた。


 五階の高さ。


 人間なら、即死だ。


 でも、京は——着地した。


 膝を曲げ、衝撃を吸収し、そのまま立ち上がる。


 何事もなかったかのように。


 地面に、足跡がついた。深い足跡。それだけが、衝撃の大きさを物語っている。


 京は、歩き出した。


 海の方角へ。


-----


 海沿いのキャンプ地。


 医療テントの中。


 澪は、ユイのベッドの横に座っていた。ユイは、まだ眠っている。小さな胸が、規則正しく上下している。熱はない。怪我もない。ただ、疲れているだけだ。


 澪は、ユイの手を握った。小さな手。温かい手。


 この子を、守らなければ。


 そう思った。


 澪は、窓の外を見た。夜の海。月の光。波の音。


 そして——頭の中に、金色の瞳が浮かんだ。


 あの男——


 いや、あのゾンビ——


 いや——


 澪は、目を閉じた。


 記憶が、蘇る。


 古い記憶。


 幼い頃の記憶。


-----


 浜辺だった。


 夏の日。


 太陽が眩しく、波が優しく、砂が温かかった。空は青く、雲は白く、風は爽やかだった。


 澪は、小さかった。五歳か、六歳か。白いワンピースを着て、麦わら帽子を被っている。裸足。砂が足の指の間に入る。


 隣に、少年がいた。


 澪より少し小さい。四歳くらい。半袖のシャツと短パン。裸足。日焼けした肌。


 二人は、波打ち際で遊んでいた。


 貝殻を拾ったり、砂の城を作ったり。波が来ると、キャッキャと逃げたり。


 少年が、笑っていた。


 澪も、笑っていた。


 幸せな時間。


 平和な時間。


 戻れない時間。


 少年が、澪を見上げた。


 その瞳が——


 金色だった。


 太陽の光を反射して、キラキラと輝く金色。琥珀のような色。


 澪は、その瞳を見つめた。


 綺麗だな、と思った。


 少年が言った。


「澪ちゃん、いつか、また海に来ようね」


 澪が頷いた。


「うん。また来よう」


 少年が微笑んだ。


「約束だよ」


 澪も微笑んだ。


「約束」


 二人は、小指を絡めた。


 指切りげんまん。


 嘘ついたら、針千本飲ます。


 指切った。


-----


 澪は、目を開けた。


 医療テントの天井が見える。白い布。


 涙が、頬を伝った。


 少年の名前——


 思い出した。


 藤原京。


 幼馴染だった。


 一緒に遊んだ。一緒に笑った。一緒に海を見た。


 でも、澪が引っ越してから、会っていなかった。


 何年も。


 そして——


 あの金色の瞳のゾンビ。


 もしかして——


 いや、まさか——


 でも——


 澪は、立ち上がった。テントの外へ出る。


 夜の空気が、顔に当たる。冷たい風。潮の匂い。


 澪は、海を見つめた。


 波が、月の光で輝いている。


「京——」


 名前を、呟いた。


 風が、その声を運んでいった。


-----


 夜明け前。


 空が、わずかに明るくなってきた。地平線が、青白く光り始めている。


 刃は、まだ岩に座っていた。一睡もしていない。目が冴えている。眠れない。


 左腕が、熱い。


 もう、隠せないかもしれない。


 刃は、海を見つめた。


 波が、静かに打ち寄せている。


 その時——


 気配を感じた。


 刃は、振り返った。


 誰もいない。


 でも、何かがいる。


 そんな気がした。


 刃は、立ち上がった。剣の柄に手をかける。


 視線を、キャンプ地の外へ向ける。


 闇の中——


 何かが、動いた気がした。


 金色の光。


 一瞬だけ。


 でも、確かに見えた。


 刃は、息を呑んだ。


「……奴は、まだ生きてる」


 呟いた。


 確信があった。


 あの金色の瞳のゾンビ——いや、あの存在——は、まだ生きている。


 いや、生きている、という表現は正しくないかもしれない。


 でも——存在している。


 そして——近づいてくる。


 刃は、剣を抜いた。


 刃が、月の光で鈍く光る。


 夜明けの風が、吹いた。


 海の匂い。


 血の匂い。


 そして——何か、別の匂い。


 刃は、前を見据えた。


 三人の運命は、再び収束へ向かっている。


 それを、刃は感じていた。


-----


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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