第2話「孤独の始まり」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
血の匂いが、部屋に充満していた。
甘く、鉄の匂い。吐き気がするほど濃い匂い。でも、京の体は——その匂いに酔っていた。もっと欲しい。もっと。そう、体が叫んでいる。細胞の一つ一つが、その匂いを求めている。血管を流れる何かが、熱く脈打っている。
京は、母親の死体の前に立ち尽くしていた。
いや、「立ち尽くしている」というのは正しくない。体は、まだ動いている。ゆっくりと、ぎこちなく。首が左右に揺れる。腕がだらりと垂れ下がっている。足が、わずかに震えている。まるで、次の獲物を探すかのように。でも、京の意識は——動けなかった。心が、その場に釘付けにされていた。
母さん。
心の中で、その名前を呼ぶ。何度も、何度も。でも、声は出ない。ただ、喉の奥から低いうなり声が漏れるだけ。「アァ……アァ……」という、人間のものではない音。
床には、母親が倒れていた。もう動かない。目を開いたまま、天井を見つめている。その目には、何も映っていない。血が、床に広がっている。赤黒い染み。それが、じわじわと広がっていく。畳の目に沿って、染み込んでいく。朝日が窓から差し込んで、その血を照らしている。キラキラと、まるで宝石のように光っている。
美しい、と思った。
いや、違う。美しくなんかない。これは、地獄だ。
京の心は、引き裂かれていた。体は満足している。飢えが満たされている。口の中に残る、肉の味。鉄の味。それが、快楽として脳に届いている。でも、心は——悲鳴を上げている。胸が、いや、胸があるのかもわからないが、何かが激しく痛んでいる。
俺が殺した。
俺の手で。
俺の牙で。
母さんを。
リビングの時計が、チクタクと音を立てている。いつもの音。機械的で、正確な音。秒針が動くたびに、小さな音が響く。いつもの朝。でも、何もかもが違う。テーブルの上には、朝ごはんが並んでいる。ご飯、味噌汁、焼き魚、ほうれん草のおひたし。全て、母親の手で作られたもの。湯気が立っている。まだ温かい。母親が、京のために作ってくれた朝ごはん。「京、起きなさい」という声が、聞こえてきそうな。
もう、誰も食べない。
もう、誰も座らない。
この食卓は、もう——
京の視界が、ぼやける。いや、涙が出ているのか? よくわからない。ゾンビになっても、涙は出るのだろうか。それとも、これは目の錯覚なのか。体の感覚が曖昧で、何が本当なのかわからない。ただ、胸の奥が——何かが、壊れていくような感覚だけが、確かにあった。
体が動く。母親の死体から離れる。ふらふらと、リビングを歩く。テーブルの前を通り過ぎる。味噌汁の匂いが、鼻をくすぐる。温かい匂い。優しい匂い。出汁の香り。母親がいつも使っていた、煮干しの出汁。
でも、もう——その匂いは、京を満足させない。
京の体が求めているのは、別のもの。
人肉。
血。
それだけ。
体の奥底から湧き上がる、抑えきれない飢え。それは、人間だった頃に感じた空腹とは、まるで違う。もっと原始的で、もっと暴力的で、もっと——絶対的なもの。拒否できない。抗えない。
体が、階段を上がっていく。一歩、一歩。ぎこちない動き。足が、階段を踏み外しそうになる。手すりに手をかける。冷たい手すり。でも、京の手は——もう、温かくない。京の意識は、ただその様子を眺めているだけ。まるで、映画を見ているかのように。いや、映画よりも酷い。自分の体なのに、自分じゃない。自分の手なのに、自分のものじゃない。
二階に上がる。廊下を歩く。木の床が、ギシギシと音を立てる。古い家だから、床がきしむ。いつもの音。でも、今日は——その音が、まるで京を責めているかのように聞こえる。
京の部屋の前を通り過ぎる。ドアが少し開いていて、中が見える。ベッド。机。本棚。ゲーム機。昨日まで、京が使っていたもの。昨日まで、当たり前だったもの。机の上には、宿題が広げられたまま。シャーペン。消しゴム。ノート。全て、そのまま。
でも、もう——京のものじゃない。
京が、それを使うことは、もう二度とない。
体が、母親の部屋に入っていく。なぜここに来たのか、わからない。本能が、そう命じたのか。それとも、京の意識の奥底に、何か残っているのか。最後に、母親の匂いを感じたかったのか。
母親の部屋は、いつもと変わらなかった。整理されたベッド。窓際の観葉植物。カーテンから差し込む朝日。壁に飾られた、家族の写真。父親が死んでから、この家には母親と京の二人だけだった。小さな家。小さな家族。でも、幸せだった。笑い声が絶えない家だった。母親の作る料理の匂いが、いつも満ちていた。
幸せだった。
過去形だ。
もう、戻らない。
写真の中で、京と母親が笑っている。夏祭りの写真。京が中学生の頃。浴衣を着た母親と、Tシャツ姿の京。二人とも笑顔だ。本当に、幸せそうに笑っている。背景には、提灯が並んでいる。夜店の灯り。人々の笑い声。あの日は、楽しかった。金魚すくいをして、たこ焼きを食べて、花火を見た。母親の笑顔を、京は覚えている。「京、楽しいね」と言った、あの笑顔を。
京の心が、軋んだ。
俺は、何をしたんだ。
なんで、こんなことに。
あの笑顔を、俺が——
体が、写真に手を伸ばす。でも、手は震えている。いや、震えているというより、痙攣しているような動き。関節がうまく動かない。指が、写真の額縁に触れる。ガタン、と音を立てて、額縁が傾く。
体が、それを直そうとする。でも、指がうまく動かない。細かい動作ができない。人間だった頃のような、器用さがない。額縁が、床に落ちた。ガシャン。ガラスが割れる音。鋭い音が、部屋に響く。写真が、割れたガラスの上に落ちる。
京の心は、叫んだ。
やめろ。触るな。汚すな。
でも、声は届かない。体は、写真を拾い上げる。ガラスの破片が、床に散らばる。キラキラと光る破片。それが、朝日を反射している。写真には、血がついていた。京の手についていた、母親の血。乾きかけた、赤黒い血。
それが、写真の上で、赤く広がる。
母親の笑顔に、血が染み込んでいく。
京の意識が、暗闇に沈んでいく。
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どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。
京は、家の外にいた。いつの間にか、玄関を出ていた。庭に立っている。朝の光が、眩しい。空は青く、雲が流れている。白い雲。ゆっくりと、風に流されている。鳥が鳴いている。チュンチュン。スズメの声。風が、木々を揺らしている。葉がざわざわと音を立てている。
いつもの朝。
平和な朝。
でも、京にとっては——もう、いつもの朝じゃない。
家を振り返る。小さな平屋。古いけれど、温かい家。壁は日に焼けて、少し色褪せている。庭には、母親が植えた花が咲いている。赤い花。黄色い花。名前は知らない。でも、母親が大切に育てていた花。京が生まれ育った家。でも、もう——京の家じゃない。
中には、母親の死体がある。
京が殺した、母親の死体が。
家には、もう居られない。
京の体が、歩き始める。門を出て、道に出る。砂利道。足が、砂利を踏む。ザク、ザク。その音が、静かな朝に響く。昨日、自転車で走った道。犬に噛まれた道。全ての始まりの道。あの時、あの犬を避けていれば。あの時、違う道を通っていれば。でも、もう遅い。全ては、もう——
村は、まだ静かだった。朝早い時間だからか、人の気配はない。家々の窓は閉まっている。煙突から、煙が上がっている家もある。朝ごはんを作っているのだろう。遠くで、鶏が鳴いている。コケコッコー。いつもの音。いつもの村。平和な村。
でも、京には——もう、この村の一部じゃない。
体が歩く。どこに向かっているのか、わからない。ただ、歩く。ふらふらと、ぎこちなく。まるで、酔っ払いのように。道の真ん中を、ふらふらと。もし、誰かに見られたら——きっと、おかしいと思うだろう。病気だと思うだろう。
そして、逃げるだろう。
京の心は、ただ呆然としていた。
俺は、誰だ。
俺は、何だ。
俺は、生きているのか。
死んでいるのか。
体は動いている。足が動いている。でも、心臓は——動いているのか? よくわからない。胸に手を当てようとしても、体は言うことを聞かない。呼吸は——しているのか? 息を吸っている感覚がない。でも、喉からうなり声は出る。これも、よくわからない。でも、意識はある。考えることはできる。感じることもできる。痛みも、悲しみも、恐怖も——全て、感じることができる。
じゃあ、俺は生きている?
でも、俺は人間じゃない。
人間は、母親を殺さない。
人間は、人肉を食べない。
だから、俺は——
ゾンビだ。
その言葉が、京の心に重くのしかかる。鉛のように重い。
ゾンビ。
映画で見た、あの化け物。死体が動いているだけの、あの化け物。人を襲い、肉を食らう、あの化け物。意識のない、ただの怪物。
でも、俺には意識がある。
俺は、考えることができる。
俺は、苦しむことができる。
それは、もっと——酷いことなのかもしれない。
体が、突然止まった。道の真ん中で、動かなくなる。なぜ止まったのか、わからない。でも、京の心は——わかった気がした。
飢えている。
また、飢えている。
母親の肉を食べたばかりなのに。血を飲んだばかりなのに。もう、飢えている。胃が、いや、胃があるのかもわからないが、体の奥底から飢えが湧き上がってくる。もっと。もっと。体が、次の獲物を求めている。
やめろ。
もう、誰も殺したくない。
もう、誰も傷つけたくない。
でも、体は言うことを聞かない。
体が動く。村の中心に向かって、歩き始める。そこには、人がいる。朝早くから働いている農家の人。散歩している老人。登校する子供たち。みんな、京の知っている人たち。京に笑いかけてくれた人たち。京を可愛がってくれた人たち。
やめろ!
心の中で叫ぶ。でも、体は止まらない。
足が、一歩ずつ進んでいく。砂利を踏む音。ザク、ザク。その音が、京の心を責める。
殺人者。
化け物。
お前は、もう人間じゃない。
京の視界が、揺れる。空が、地面が、木々が、全てが揺れる。世界が、壊れていくような感覚。いや、壊れたのは世界じゃない。壊れたのは、京自身だ。
俺は、終わった。
人間としての俺は、昨日の夜に終わった。
犬に噛まれた、あの瞬間に。
その時、遠くから音が聞こえた。
犬の遠吠え。
アオーン。アオーン。
京の体が、ピクリと反応する。遠吠えは、村の外れから聞こえてくる。一匹じゃない。何匹もの犬が、吠えている。重なり合う、不気味な遠吠え。
そして——
悲鳴。
人間の悲鳴。
女性の声。「助けて!」という叫び。老人の声。「誰か!」という叫び。子供の声。泣き叫ぶ声。それが、遠くから聞こえてくる。風に乗って、届いてくる。
京の心が、凍りついた。
始まった。
感染が、広がっている。
犬に噛まれた人が、ゾンビになる。そのゾンビが、また人を噛む。そして、その人もゾンビになる。連鎖。止まらない連鎖。雪崩のように、広がっていく。
村が、崩壊していく。
京の体は、その悲鳴に反応していた。獲物がいる。そう、本能が告げている。そちらに向かえ。肉を食らえ。血を飲め。体が、それを求めている。
でも、京の心は——
もう、何も感じなかった。
ただ、空虚だった。
俺だけじゃない。
俺だけが、化け物になったんじゃない。
村全体が、化け物になっていく。
世界が、終わっていく。
その中で、京はただ——歩き続けるしかなかった。
体が命じるままに。
本能が導くままに。
人間だった記憶を抱えたまま、ゾンビとして。
孤独の中で。
京は、遠くの悲鳴を聞きながら、ただ前に進んだ。
村の中心へ。
人々の待つ場所へ。
そして、心の奥底で——小さく、祈った。
誰か、俺を止めてくれ。
誰か、俺を殺してくれ。
この地獄を、終わらせてくれ。
でも、その祈りが届くことは、なかった。
空は青く、雲は流れ、鳥は鳴き——
世界は、何事もなかったかのように、朝を迎えていた。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




