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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第2部「裂け目」

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第28話「交差点」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 避難ビルの三階。


 窓から差し込む夕陽が、床に長い影を落としている。埃の匂いと、血の臭い。そして、かすかに混じる汗と恐怖の臭い。神谷刃は廊下の奥、階段の前に立っていた。腰の真剣に手を添える。柄の感触が、掌に馴染む。背後には避難民が三十人ほど。子供の泣き声が、ときおり壁に反響する。


「……来るぞ」


 刃の呟きに、隣にいた自衛隊員が息を呑んだ。喉が鳴る音が聞こえる。


 外から響く音。足音ではない。引きずる音、喉を鳴らす呻き、無数の肉体が壁に、地面に、ぶつかりながら這い寄る音。それは波のように押し寄せ、ビル全体を揺らしている。


 窓の外、通りを埋め尽くすゾンビの群れ。刃は目を細めた。夕陽に照らされた群れが、まるで動く海のように見える。その数は数えきれない。


 その時、階下から銃声が響いた。


 パン、パン、パパパパン。


 ビル正面で交戦中の兵士たちだ。刃は視線を廊下の反対側へ向ける。そこには軍服を着た女性兵士が一人、ライフルを構えて窓際に立っていた。


 藤宮澪。


 海外から派遣された特殊部隊の一員だと、先ほど自己紹介された。


 澪の表情は硬い。引き締まった唇、冷たく鋭い瞳。だが、その目の奥に何かが揺れている。不安か、それとも——刃にはわからなかった。


 外の咆哮が強まる。群れが、ビルを取り囲み始めている。壁が軋む音。窓ガラスが震える音。


 刃は、左腕をそっと押さえた。シャツの下、包帯に隠された傷が疼く。熱を持っている。ズキズキと脈打つ。


 まだ、大丈夫だ。


 そう自分に言い聞かせる。


-----


 その時だった。


 階段の下から、異質な気配が昇ってきた。


 刃の背筋が、ぞくりと粟立つ。足音ではない。呼吸でもない。ただ、“何か”が近づいている。それだけで空気が変わった。温度が下がったような錯覚。


 階段の踊り場に、影が現れた。


 ゾンビだ。


 いや——違う。


 刃の目が見開かれる。それは確かにゾンビの外見をしていた。血に汚れた服、青白い肌、引きつった表情。だが、その動きが違う。ふらついていない。這っていない。まっすぐに、人間のように、階段を昇ってくる。


 一歩、また一歩。


 規則正しい足音。


 そして——その瞳が、金色に輝いていた。


「……なんだ、あれは」


 刃の横で、自衛隊員が震える声を漏らした。他の避難民も気づき始める。ざわめきが広がる。


 刃は剣の柄を握り締める。指先に汗が滲む。心臓が、ゆっくりと強く打つ。


 ゾンビ——いや、それは藤原京だった——が、階段を昇りきり、廊下に姿を現した。その視線が、刃を、避難民を、そして澪を、静かに見渡す。


 まるで、観察しているような目だ。


 評価しているような目だ。


 ただのゾンビとは、明らかに違う。


 瞬間、廊下の奥から怒号が飛んだ。


「感染体だ! 撃て!」


 兵士隊長が叫び、銃口を京へ向ける。引き金に指がかかる——その刹那、刃が動いた。


「待て!」


 声と同時に、刃の身体が兵士の前に滑り込む。剣を抜かず、ただ手を広げて立ち塞がった。


 兵士隊長が目を剝く。


「どけ! 何をしている!」


「まだ撃つな」


 刃の声は低く、だが揺るがなかった。


「見ろ。あいつは襲ってこない」


 隊長が息を呑む。確かに、京は動かなかった。ただそこに立ち、金色の瞳で一同を見つめている。その目には、敵意も飢えも、何も宿っていない。


 静かな瞳だ。


 人間のような瞳だ。


「喋る感染体の報告は受けている」


 隊長が歯噛みする。


「だが、それでも奴らはゾンビだ。人を喰う化け物に変わりはない!」


「それでも——」


 刃が言葉を継ごうとした時、横から別の声が割り込んだ。


「……待って」


 澪だった。


 彼女はライフルを下げ、じっと京を見つめていた。その表情が、微かに歪んでいる。眉が寄り、唇が震えている。


「その目……」


 澪の唇が、震えた。


「その、金色の目……どこかで……」


 京が、ゆっくりと澪へ視線を向ける。二人の視線が交錯する。


 時間が、止まったようだった。


 澪の指が、引き金から離れた。


-----


 その瞬間、ビルの外壁が轟音とともに揺れた。


 ドガァン。


 群れが、正面玄関を突破したのだ。


 階下から悲鳴と銃声が響く。兵士たちの怒号、避難民の叫び、そしてゾンビの咆哮が折り重なり、ビル全体が地獄の坩堝と化した。床が震える。天井から埃が落ちる。


「くそっ!」


 隊長が舌打ちし、無線機を握る。


「一階防衛線、崩壊! 全員三階へ撤退! 繰り返す、三階へ——」


 返答はノイズだけだった。ザザザ、という雑音。そして、遠くで聞こえる悲鳴。


 刃が窓の外を見る。通りを埋め尽くすゾンビ。その数、数百——いや、千を超えているかもしれない。ビルは完全に包囲されていた。


「階段を塞げ! バリケードだ!」


 隊長が叫ぶ。兵士たちが机や棚を引きずり始めた。金属が床を擦る音。ガタガタと物が倒れる音。


 だが——間に合わない。


 階段の下から、濁流のような足音が押し寄せる。ゾンビの群れが、階段を這い上がってくる。その速度は、人間の想像を超えていた。


 そしてその時、廊下の奥——隔離されていた部屋から、悲鳴が上がった。


「助けて! 誰か——!」


 女性の声だ。引き裂かれるような叫び。


 刃が振り返ると、隔離部屋の扉が内側から激しく叩かれている。ドン、ドン、ドン。木が軋む。


「開けないで!」


 兵士の一人が叫ぶ。


「あの中には感染疑いの——」


 言葉が途切れた。


 扉が、内側から破られた。


 バキン。


 木片が飛び散る。


 現れたのは、白衣を着た女性——いや、かつて女性だったゾンビだった。目は濁り、口から血を垂らし、喉を引き裂くような呻き声を上げている。


「グアアアア!」


「発症した!」


 避難民がパニックに陥る。子供が泣き叫び、大人が悲鳴を上げ、廊下が大混乱に包まれた。誰かが転び、誰かが押され、誰かが叫ぶ。


 白衣のゾンビが、最も近くにいた老人へ飛びかかろうとした——


 刃が剣を抜こうとした——その時、京が動いた。


 京の足が、床を蹴る。


 人間の目では追えない速度で、京が白衣のゾンビへ踏み込む。そして——その首を、片手で掴んだ。


 結果。


 ゴキリ、と鈍い音。骨が砕ける音。


 白衣のゾンビが、動きを止めた。京がそれを床に放り投げる。ドサリ、と重い音。


 京が静かに振り返る。


 避難民が、息を呑んだ。


 澪が、目を見開いた。


 刃が——笑った。


「……協力、するか」


 京が、小さく頷いた。


-----


 刃が階段へ駆ける。その背を追うように、京も動いた。二人は無言で、だが息の合った動きで階段の入口へ並ぶ。


「お前ら、屋上へ逃げろ!」


 刃が避難民へ怒鳴る。


「俺たちがここを塞ぐ!」


 兵士隊長が歯噛みしながらも頷く。


「……全員、屋上へ! ヘリを呼ぶ!」


 避難民が動き出す。足音が階段に響く。澪も、彼らを誘導しながら屋上への階段へ向かった。だが、その途中で足を止める。


 床に、小さな女の子が座り込んでいた。


 ユイだ。


 母親とはぐれ、泣きじゃくっている。小さな手で目を擦り、肩を震わせている。


「……っ」


 澪が駆け寄り、ユイを抱き上げる。軽い体。温かい体。


「大丈夫。私がいるから」


 ユイが澪の首にしがみつく。その重みを感じながら、澪は再び走り出した。


 背後で、轟音が響いた。


 ドガガガガ。


 ゾンビの群れが、三階へ到達したのだ。


 刃が剣を構える。京が、低く唸る。


「来い」


 刃の一言と同時に、群れが雪崩れ込んだ。


 刃の剣が閃く。


 一閃。首が飛ぶ。


 また一閃。腕が落ちる。


 血飛沫が宙を舞い、首が転がり、ゾンビが次々と崩れ落ちる。だが、その後ろから、また次が、次が、次が——


「……きりがない!」


 刃の額に汗が流れる。呼吸が荒くなる。腕が重い。左腕の傷が、熱く疼く。


 その時、京が前に出た。


 そして——咆哮した。


「ガアアアアッ!」


 ゾンビとは思えない、獣のような、だが明確な意思を宿した叫び。それは命令だった。警告だった。宣言だった。


 音が、廊下中に響く。壁が震える。


 群れが、一瞬、動きを止めた。


 その隙に、刃が扉を蹴り倒す。ガシャン。重い金属製の扉が、階段の入口を塞いだ。刃と京が、その扉を押さえる。


 背後から、ゾンビの拳が扉を叩く。ガン、ガン、ガン。金属が軋む。ギシギシと音を立てる。


「……もたない」


 刃が呟く。扉が押される。じりじりと後退する。


 京が、刃を見た。


 そして——押し返した。


 人間の力ではない。ゾンビの、いや、覚醒しつつあるゾンビの超人的な膂力。扉が軋み、ヒビが入り、だが——押し返される。群れが、わずかに後退する。


「今だ! 行け!」


 刃が叫ぶ。


 京が頷き、扉から離れる。刃も後を追う。二人は階段を駆け上がり、屋上へ——


-----


 屋上には、既に避難民と兵士たちが集まっていた。


 ヘリの音が遠くから聞こえる。だが、まだ遠い。プロペラの音が、風に混じって届く。


「梁を渡るぞ!」


 隊長が叫ぶ。


「隣のビルへ!」


 屋上の端には、隣のビルへ続く細い鉄骨の梁が渡されていた。幅は、わずか三十センチ。下を見れば、五階分の高さ。落ちれば即死だ。風が吹き、梁が微かに揺れている。


「無理だ!」


 避難民の一人が叫ぶ。


「渡れるわけがない!」


 だが、選択肢はなかった。


 階下から、ゾンビの咆哮が響く。扉を突破する音。階段を昇る音。迫ってくる。


「俺が先に行く」


 刃が言い、梁へ足をかけた。剣を背に背負い、腕を広げて、慎重に一歩、また一歩。


 風が吹く。刃の身体が揺れる。だが、止まらない。視線は前だけを見る。


 そして——渡りきった。


「次!」


 刃が叫ぶ。


 兵士が一人、また一人と渡り始める。避難民も、恐怖に震えながらも、従う。ある者は這うように、ある者は目を瞑って。


 澪は、ユイを抱いたまま梁を見つめた。


「……大丈夫」


 自分に言い聞かせるように呟き、一歩を踏み出す。


 足元が揺れる。ユイが悲鳴を上げる。澪は唇を噛み、前だけを見て、歩く。


 風が強く吹く。体が傾く。バランスを取り直す。また一歩、また一歩。


 その時、屋上の扉が破られた。


 バァン。


 ゾンビが、雪崩れ込んでくる。


「急げ!」


 隊長が叫ぶ。


 澪が走る。梁の上を、バランスを崩しながらも、走る。ユイを抱く腕に力を込め、歯を食いしばり——


 渡りきった。


 刃が澪とユイを受け止める。


「よくやった」


 澪が息を整える。そして——振り返った。


 屋上には、まだ数人が残っていた。そして——京がいた。


 京は、ゾンビの群れと避難民の間に立ち、群れを押さえていた。その背中が、夕陽を浴びて金色に輝いている。


「……京?」


 澪の唇から、名前が零れた。


 京が、振り返った。


 金色の瞳が、澪を見つめる。


 その瞬間、ビルの下で爆発音が響いた。


 ドォォォン。


 火柱が昇り、ビル全体が揺れる。ガス管が破裂したのだ。熱風が吹き上がる。


 炎が、屋上へ吹き上がる。オレンジ色の光。黒煙。焦げた匂い。


 京が、梁へ飛び乗った。そして——駆けた。


 人間には不可能な速度で、バランスを崩すことなく、まっすぐに。


 そして——飛んだ。


 空中で身体を捻り、隣のビルの屋上へ着地する。その身体能力は、もはや人間のそれではなかった。


 京が立ち上がり、澪を見つめる。


 澪も、京を見つめ返す。


「……あなた、本当に——」


 言葉が、途切れた。


 爆炎が、二つのビルの間を埋め尽くし、視界を奪った。


-----


 炎が収まった時、京の姿は消えていた。


 澪は、ただ立ち尽くしていた。ユイを抱いたまま、金色の残像を目に焼き付けたまま。


 刃が、澪の隣に立つ。その顔には、うっすらと汗が浮かんでいる。だが、それは疲労だけではなかった。


 刃の首筋に、小さな噛み跡があった。


 それを、刃は服で隠した。


「……行くぞ」


 刃が言う。


「ヘリが来る」


 澪が頷く。だが、その目は、まだ炎の向こうを見つめていた。


 金色の瞳。


 あの瞳を、どこかで見た気がする。


 いや——知っている。


 ずっと昔、一緒に海を見た、あの日の——


「……京」


 名前を、もう一度、呟いた。


 風が、その声を運んでいった。


 三人の運命が、臨界点で繋がった瞬間だった。


-----


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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