第28話「交差点」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
避難ビルの三階。
窓から差し込む夕陽が、床に長い影を落としている。埃の匂いと、血の臭い。そして、かすかに混じる汗と恐怖の臭い。神谷刃は廊下の奥、階段の前に立っていた。腰の真剣に手を添える。柄の感触が、掌に馴染む。背後には避難民が三十人ほど。子供の泣き声が、ときおり壁に反響する。
「……来るぞ」
刃の呟きに、隣にいた自衛隊員が息を呑んだ。喉が鳴る音が聞こえる。
外から響く音。足音ではない。引きずる音、喉を鳴らす呻き、無数の肉体が壁に、地面に、ぶつかりながら這い寄る音。それは波のように押し寄せ、ビル全体を揺らしている。
窓の外、通りを埋め尽くすゾンビの群れ。刃は目を細めた。夕陽に照らされた群れが、まるで動く海のように見える。その数は数えきれない。
その時、階下から銃声が響いた。
パン、パン、パパパパン。
ビル正面で交戦中の兵士たちだ。刃は視線を廊下の反対側へ向ける。そこには軍服を着た女性兵士が一人、ライフルを構えて窓際に立っていた。
藤宮澪。
海外から派遣された特殊部隊の一員だと、先ほど自己紹介された。
澪の表情は硬い。引き締まった唇、冷たく鋭い瞳。だが、その目の奥に何かが揺れている。不安か、それとも——刃にはわからなかった。
外の咆哮が強まる。群れが、ビルを取り囲み始めている。壁が軋む音。窓ガラスが震える音。
刃は、左腕をそっと押さえた。シャツの下、包帯に隠された傷が疼く。熱を持っている。ズキズキと脈打つ。
まだ、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
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その時だった。
階段の下から、異質な気配が昇ってきた。
刃の背筋が、ぞくりと粟立つ。足音ではない。呼吸でもない。ただ、“何か”が近づいている。それだけで空気が変わった。温度が下がったような錯覚。
階段の踊り場に、影が現れた。
ゾンビだ。
いや——違う。
刃の目が見開かれる。それは確かにゾンビの外見をしていた。血に汚れた服、青白い肌、引きつった表情。だが、その動きが違う。ふらついていない。這っていない。まっすぐに、人間のように、階段を昇ってくる。
一歩、また一歩。
規則正しい足音。
そして——その瞳が、金色に輝いていた。
「……なんだ、あれは」
刃の横で、自衛隊員が震える声を漏らした。他の避難民も気づき始める。ざわめきが広がる。
刃は剣の柄を握り締める。指先に汗が滲む。心臓が、ゆっくりと強く打つ。
ゾンビ——いや、それは藤原京だった——が、階段を昇りきり、廊下に姿を現した。その視線が、刃を、避難民を、そして澪を、静かに見渡す。
まるで、観察しているような目だ。
評価しているような目だ。
ただのゾンビとは、明らかに違う。
瞬間、廊下の奥から怒号が飛んだ。
「感染体だ! 撃て!」
兵士隊長が叫び、銃口を京へ向ける。引き金に指がかかる——その刹那、刃が動いた。
「待て!」
声と同時に、刃の身体が兵士の前に滑り込む。剣を抜かず、ただ手を広げて立ち塞がった。
兵士隊長が目を剝く。
「どけ! 何をしている!」
「まだ撃つな」
刃の声は低く、だが揺るがなかった。
「見ろ。あいつは襲ってこない」
隊長が息を呑む。確かに、京は動かなかった。ただそこに立ち、金色の瞳で一同を見つめている。その目には、敵意も飢えも、何も宿っていない。
静かな瞳だ。
人間のような瞳だ。
「喋る感染体の報告は受けている」
隊長が歯噛みする。
「だが、それでも奴らはゾンビだ。人を喰う化け物に変わりはない!」
「それでも——」
刃が言葉を継ごうとした時、横から別の声が割り込んだ。
「……待って」
澪だった。
彼女はライフルを下げ、じっと京を見つめていた。その表情が、微かに歪んでいる。眉が寄り、唇が震えている。
「その目……」
澪の唇が、震えた。
「その、金色の目……どこかで……」
京が、ゆっくりと澪へ視線を向ける。二人の視線が交錯する。
時間が、止まったようだった。
澪の指が、引き金から離れた。
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その瞬間、ビルの外壁が轟音とともに揺れた。
ドガァン。
群れが、正面玄関を突破したのだ。
階下から悲鳴と銃声が響く。兵士たちの怒号、避難民の叫び、そしてゾンビの咆哮が折り重なり、ビル全体が地獄の坩堝と化した。床が震える。天井から埃が落ちる。
「くそっ!」
隊長が舌打ちし、無線機を握る。
「一階防衛線、崩壊! 全員三階へ撤退! 繰り返す、三階へ——」
返答はノイズだけだった。ザザザ、という雑音。そして、遠くで聞こえる悲鳴。
刃が窓の外を見る。通りを埋め尽くすゾンビ。その数、数百——いや、千を超えているかもしれない。ビルは完全に包囲されていた。
「階段を塞げ! バリケードだ!」
隊長が叫ぶ。兵士たちが机や棚を引きずり始めた。金属が床を擦る音。ガタガタと物が倒れる音。
だが——間に合わない。
階段の下から、濁流のような足音が押し寄せる。ゾンビの群れが、階段を這い上がってくる。その速度は、人間の想像を超えていた。
そしてその時、廊下の奥——隔離されていた部屋から、悲鳴が上がった。
「助けて! 誰か——!」
女性の声だ。引き裂かれるような叫び。
刃が振り返ると、隔離部屋の扉が内側から激しく叩かれている。ドン、ドン、ドン。木が軋む。
「開けないで!」
兵士の一人が叫ぶ。
「あの中には感染疑いの——」
言葉が途切れた。
扉が、内側から破られた。
バキン。
木片が飛び散る。
現れたのは、白衣を着た女性——いや、かつて女性だったゾンビだった。目は濁り、口から血を垂らし、喉を引き裂くような呻き声を上げている。
「グアアアア!」
「発症した!」
避難民がパニックに陥る。子供が泣き叫び、大人が悲鳴を上げ、廊下が大混乱に包まれた。誰かが転び、誰かが押され、誰かが叫ぶ。
白衣のゾンビが、最も近くにいた老人へ飛びかかろうとした——
刃が剣を抜こうとした——その時、京が動いた。
京の足が、床を蹴る。
人間の目では追えない速度で、京が白衣のゾンビへ踏み込む。そして——その首を、片手で掴んだ。
結果。
ゴキリ、と鈍い音。骨が砕ける音。
白衣のゾンビが、動きを止めた。京がそれを床に放り投げる。ドサリ、と重い音。
京が静かに振り返る。
避難民が、息を呑んだ。
澪が、目を見開いた。
刃が——笑った。
「……協力、するか」
京が、小さく頷いた。
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刃が階段へ駆ける。その背を追うように、京も動いた。二人は無言で、だが息の合った動きで階段の入口へ並ぶ。
「お前ら、屋上へ逃げろ!」
刃が避難民へ怒鳴る。
「俺たちがここを塞ぐ!」
兵士隊長が歯噛みしながらも頷く。
「……全員、屋上へ! ヘリを呼ぶ!」
避難民が動き出す。足音が階段に響く。澪も、彼らを誘導しながら屋上への階段へ向かった。だが、その途中で足を止める。
床に、小さな女の子が座り込んでいた。
ユイだ。
母親とはぐれ、泣きじゃくっている。小さな手で目を擦り、肩を震わせている。
「……っ」
澪が駆け寄り、ユイを抱き上げる。軽い体。温かい体。
「大丈夫。私がいるから」
ユイが澪の首にしがみつく。その重みを感じながら、澪は再び走り出した。
背後で、轟音が響いた。
ドガガガガ。
ゾンビの群れが、三階へ到達したのだ。
刃が剣を構える。京が、低く唸る。
「来い」
刃の一言と同時に、群れが雪崩れ込んだ。
刃の剣が閃く。
一閃。首が飛ぶ。
また一閃。腕が落ちる。
血飛沫が宙を舞い、首が転がり、ゾンビが次々と崩れ落ちる。だが、その後ろから、また次が、次が、次が——
「……きりがない!」
刃の額に汗が流れる。呼吸が荒くなる。腕が重い。左腕の傷が、熱く疼く。
その時、京が前に出た。
そして——咆哮した。
「ガアアアアッ!」
ゾンビとは思えない、獣のような、だが明確な意思を宿した叫び。それは命令だった。警告だった。宣言だった。
音が、廊下中に響く。壁が震える。
群れが、一瞬、動きを止めた。
その隙に、刃が扉を蹴り倒す。ガシャン。重い金属製の扉が、階段の入口を塞いだ。刃と京が、その扉を押さえる。
背後から、ゾンビの拳が扉を叩く。ガン、ガン、ガン。金属が軋む。ギシギシと音を立てる。
「……もたない」
刃が呟く。扉が押される。じりじりと後退する。
京が、刃を見た。
そして——押し返した。
人間の力ではない。ゾンビの、いや、覚醒しつつあるゾンビの超人的な膂力。扉が軋み、ヒビが入り、だが——押し返される。群れが、わずかに後退する。
「今だ! 行け!」
刃が叫ぶ。
京が頷き、扉から離れる。刃も後を追う。二人は階段を駆け上がり、屋上へ——
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屋上には、既に避難民と兵士たちが集まっていた。
ヘリの音が遠くから聞こえる。だが、まだ遠い。プロペラの音が、風に混じって届く。
「梁を渡るぞ!」
隊長が叫ぶ。
「隣のビルへ!」
屋上の端には、隣のビルへ続く細い鉄骨の梁が渡されていた。幅は、わずか三十センチ。下を見れば、五階分の高さ。落ちれば即死だ。風が吹き、梁が微かに揺れている。
「無理だ!」
避難民の一人が叫ぶ。
「渡れるわけがない!」
だが、選択肢はなかった。
階下から、ゾンビの咆哮が響く。扉を突破する音。階段を昇る音。迫ってくる。
「俺が先に行く」
刃が言い、梁へ足をかけた。剣を背に背負い、腕を広げて、慎重に一歩、また一歩。
風が吹く。刃の身体が揺れる。だが、止まらない。視線は前だけを見る。
そして——渡りきった。
「次!」
刃が叫ぶ。
兵士が一人、また一人と渡り始める。避難民も、恐怖に震えながらも、従う。ある者は這うように、ある者は目を瞑って。
澪は、ユイを抱いたまま梁を見つめた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟き、一歩を踏み出す。
足元が揺れる。ユイが悲鳴を上げる。澪は唇を噛み、前だけを見て、歩く。
風が強く吹く。体が傾く。バランスを取り直す。また一歩、また一歩。
その時、屋上の扉が破られた。
バァン。
ゾンビが、雪崩れ込んでくる。
「急げ!」
隊長が叫ぶ。
澪が走る。梁の上を、バランスを崩しながらも、走る。ユイを抱く腕に力を込め、歯を食いしばり——
渡りきった。
刃が澪とユイを受け止める。
「よくやった」
澪が息を整える。そして——振り返った。
屋上には、まだ数人が残っていた。そして——京がいた。
京は、ゾンビの群れと避難民の間に立ち、群れを押さえていた。その背中が、夕陽を浴びて金色に輝いている。
「……京?」
澪の唇から、名前が零れた。
京が、振り返った。
金色の瞳が、澪を見つめる。
その瞬間、ビルの下で爆発音が響いた。
ドォォォン。
火柱が昇り、ビル全体が揺れる。ガス管が破裂したのだ。熱風が吹き上がる。
炎が、屋上へ吹き上がる。オレンジ色の光。黒煙。焦げた匂い。
京が、梁へ飛び乗った。そして——駆けた。
人間には不可能な速度で、バランスを崩すことなく、まっすぐに。
そして——飛んだ。
空中で身体を捻り、隣のビルの屋上へ着地する。その身体能力は、もはや人間のそれではなかった。
京が立ち上がり、澪を見つめる。
澪も、京を見つめ返す。
「……あなた、本当に——」
言葉が、途切れた。
爆炎が、二つのビルの間を埋め尽くし、視界を奪った。
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炎が収まった時、京の姿は消えていた。
澪は、ただ立ち尽くしていた。ユイを抱いたまま、金色の残像を目に焼き付けたまま。
刃が、澪の隣に立つ。その顔には、うっすらと汗が浮かんでいる。だが、それは疲労だけではなかった。
刃の首筋に、小さな噛み跡があった。
それを、刃は服で隠した。
「……行くぞ」
刃が言う。
「ヘリが来る」
澪が頷く。だが、その目は、まだ炎の向こうを見つめていた。
金色の瞳。
あの瞳を、どこかで見た気がする。
いや——知っている。
ずっと昔、一緒に海を見た、あの日の——
「……京」
名前を、もう一度、呟いた。
風が、その声を運んでいった。
三人の運命が、臨界点で繋がった瞬間だった。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




