第27話「交錯」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
炎が、まだ燃えていた。
浄水場の跡地。黒煙が立ち上り、瓦礫が散乱している。爆発の痕跡。ゾンビの死体が、焼け焦げて転がっている。焦げた肉の匂いが、風に乗って漂ってくる。吐き気がする。
神谷刃は、生存者たちを連れて歩いていた。五人。老人、母親と子供、中年女性、そして——噛まれた若い女性。
刃は、左腕を押さえていた。シャツで隠している。傷がある。浅い傷。いつ負ったのか、正確には覚えていない。戦闘中か。それとも——
熱い。腕が、熱い。まるで火傷したかのように。ズキズキと脈打つ。
刃は、歯を食いしばった。大丈夫だ。ただの傷だ。感染じゃない。そう信じたい。
でも、体が重い。足が鉛のように重い。頭がぼんやりする。視界が、時々揺れる。二重に見える。
老人が、刃を見た。心配そうな顔で。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ。熱があるんじゃないか」
「大丈夫だ。疲れてるだけだ」
刃が答える。声が、かすれている。喉が渇いている。唾を飲み込もうとするが、口の中がカラカラだ。
老人は、何か言いかけたが、黙った。
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避難ビルが、見えてきた。
五階建て。窓が割れている。壁に亀裂が走っている。でも、構造は頑丈だ。まだ立っている。フェンスに囲まれている。
刃は、フェンスの門を開けた。錆びた金属が軋む。ギィ、という音。中に入る。生存者たちが続く。
ビルの入り口。ドアが開いている。中は暗い。埃の匂い。カビの匂い。でも、ゾンビの気配はない。血の匂いもない。
「ここで休む」
刃が言う。声が震えている。自分でもわかる。
生存者たちが、一階のロビーに入る。床に座り込む。誰もが、もう限界だ。
母親が、子供を膝に乗せる。子供は、ぐったりしている。疲れ切っている。小さな胸が、上下している。まだ、生きている。
若い女性は、壁にもたれて座っている。顔は青白く、唇の色が悪い。首の傷から血が滲んでいる。もう、時間がない。彼女も、わかっている。
刃は、窓から外を見た。
夕日が、街を照らしている。赤い光。血のような光。崩れたビルのシルエット。動かない車。死体。
刃の頭に、声が響いた。
——お前も、感染している。
女性の声。誰の声——
刃は、頭を振った。
幻聴だ。疲れてるだけだ。そうだ、疲れているだけ。
でも、声はまた響く。
——もうすぐ、お前もゾンビになる。
刃は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛い。これは現実だ。幻じゃない。
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夜になった。
刃は、ロビーの隅に座っていた。壁に背中をつけ、刀を膝の上に置いている。
生存者たちは、眠っている。老人のいびき。中年女性の寝息。若い女性のうめき声。苦しそうな声。
でも——
母親と子供がいない。
刃は、立ち上がった。頭がくらくらする。壁に手をついて、体を支える。
周りを見渡す。いない。どこへ行った。
刃は、老人を起こした。肩を揺する。
「母親と子供は?」
老人が、目を覚ます。まぶたが重そうだ。
「え……? さっきまで、ここにいたが……トイレか何かじゃないのか」
「探す」
刃は、ビルの中を探し始めた。
廊下を歩く。暗い。懐中電灯を使う。光が、壁を照らす。落書き。血痕。
階段を上がる。足音が響く。自分の足音なのに、まるで誰かがついてきているような錯覚。
二階。誰もいない。
三階。空っぽだ。
呼びかける。
「どこだ! 返事をしろ! 無事か!」
でも、返事はない。風の音だけが聞こえる。
刃の頭に、また声が響く。
——もう、遅い。
——彼女たちは、死んだ。
——お前のせいで。
刃は、頭を振った。壁を殴る。ガン、という音。拳が痛い。
四階に上がる。息が上がっている。汗が額を伝う。
廊下の奥——
扉が、開いている。わずかに。
刃は、その部屋に入った。
懐中電灯の光が、部屋の中を照らす。
そして——
息を呑んだ。
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部屋の中。
母親と子供が、床に座っていた。
でも、動かない。背中を壁につけて、座っている。
刃は、近づいた。足音が、床に響く。
母親の首に、噛まれた痕がある。新しい傷。血が流れている。シャツが赤く染まっている。
子供も、腕に噛まれた痕がある。小さな腕。そこに、大きな歯形。
窓が開いている。ゾンビが、侵入したのか。それとも——彼女たちが、自ら窓を開けたのか。
刃は、二人を見つめた。
まだ、生きている。呼吸している。胸が、わずかに上下している。でも——
もう、助からない。
母親が、目を開けた。刃を見る。虚ろな目。でも、まだ意識がある。
「神谷さん……」
弱々しい声。かすれた声。
「すまない……子供を……守れなかった……」
涙が、頬を伝う。透明な涙。
「私……窓を……開けてしまって……ゾンビが……入ってきて……」
母親が、子供を見る。愛おしそうに。
「この子……まだ……生きたかったのに……」
刃は、何も言えなかった。喉が詰まる。言葉が出てこない。
母親が、小さく笑った。悲しい笑顔。
「お願い……私たちが……ゾンビになる前に……」
母親が、手を伸ばす。刃の手を握る。冷たい手。
「お願い……します……」
刃は、刀の柄を握った。
震える手で。涙が、目に浮かぶ。でも、流さない。
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同じ頃。
港町。
藤原京とユイは、倒壊した橋の下を歩いていた。
橋桁が折れ、コンクリートが崩れている。鉄筋が剥き出しになっている。瓦礫が散乱している。ガラスの破片が、月明かりで光っている。
その中に——
死体があった。
中年男性。作業服を着ている。顔は血まみれ。目は開いたまま。動かない。もう、冷たくなっている。
京は、その前で立ち止まった。
ユイが、京の手を握る。小さな手。温かい手。
「お兄さん……?」
京は、死体の前に膝をついた。瓦礫が膝に当たる。でも、気にしない。
手を合わせる。
祈る。
目を閉じる。
人間として、死者を弔う。この人にも、家族がいた。友人がいた。人生があった。それを、敬う。
ユイも、京の隣で手を合わせた。
「安らかに……天国で……」
ユイが、小さく呟く。澄んだ声。
風が吹く。髪が揺れる。二人の祈りを、風が運んでいく。
その時——
足音が聞こえた。
複数の足音。ザッザッザ。規則的な足音。訓練された足音。
京は、顔を上げた。
兵士たちだ。
五人。迷彩服を着て、銃を構えている。ヘルメットを被り、防護マスクをつけている。ブーツが地面を踏む音。金属の音。
その中の一人——
女性兵士。細身。でも、銃の構え方が正確だ。
藤宮澪だった。
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澪は、京を見た。
血まみれの男。ボロボロの服。汚れた顔。虚ろな目——
いや、虚ろじゃない。
金色の瞳。
澪は、息を呑んだ。心臓が、跳ねる。
その瞳に、見覚えがあった。
でも、誰——
どこかで、見たことがある。この色。この光。
隊長が、銃を構えた。四十代の男性。傷だらけの顔。
「感染体だ! 撃て!」
他の兵士たちも、銃を構える。照準を合わせる。赤いレーザーサイトが、京の胸を照らす。
京に、照準を合わせる。
京は、ユイを背中に隠した。体で庇う。
澪は、銃を構えた。
でも——
引き金に、指がかからない。震えている。
この男——
何か、違う。
ただのゾンビじゃない。
祈っていた。死者に。
ゾンビが、そんなことをするか?
隊長が、発砲しようとした——
その瞬間——
うめき声が響いた。
「グアアアア!」
ゾンビの群れだ。
橋の向こうから、数十体のゾンビが現れた。走ってくる。速い。
兵士たちに向かって、殺到する。
隊長が、叫んだ。
「ゾンビだ! 迎撃しろ! 陣形を組め!」
兵士たちが、ゾンビに向かって発砲する。
パンパンパン。
銃声が響く。火花が散る。薬莢が地面に落ちる。カラカラという音。
ゾンビが倒れる。でも、止まらない。次から次へと来る。
澪は、ユイを見た。
少女が、怯えている。京の背中に隠れている。小さな体を震わせている。
澪は、走った。
ユイに向かって。
「こっちへ! 早く!」
澪が叫ぶ。
京は、澪を見た。
金色の瞳が、澪を見つめる。
澪は、その瞳に——
何かを感じた。
懐かしさ。温かさ。でも、それが何なのか、わからない。
ユイが、澪に駆け寄った。
「助けて! お姉さん!」
澪は、ユイを抱きしめた。小さな体。温かい体。
「大丈夫! 守るから!」
京は、ゾンビの群れに向かって走り出した。
ゾンビを迎え撃つ。兵士たちを守るために。ユイを守るために。
一体目のゾンビが飛びかかる。京は、体を低くする。
首を掴み、捻る。
結果——
ゴキン。骨が砕ける音。
ゾンビが倒れる。動かなくなる。
二体目が襲いかかる。京は、腕を引く。
腕を引き千切る。
結果——
ズブリ。肉が裂ける音。血が飛び散る。
ゾンビが、腕を失って倒れる。
三体目。京は、拳を握る。
頭を殴る。
結果——
ガン。頭蓋骨が砕ける。脳漿が飛び散る。
ゾンビが、崩れ落ちる。
京の動きは、速い。正確だ。理性を保ったまま、戦っている。
澪は、その姿を見つめた。銃を構えたまま。
これは——
人間じゃない。
でも、ゾンビでもない。
何——
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その時、遠くで爆発音が響いた。
ドォン。
地面が揺れる。
避難ビルの方角だ。北東。
京は、その音を聞いた。
そして——
その方向を見る。
何かが、呼んでいる。
京は、その方向へ走り出した。
ユイを残して。澪を残して。
澪は、京の背中を見送った。
金色の瞳の男。血まみれの男。でも——
優しい目をしていた。
誰——
隊長が、澪に声をかけた。
「藤宮! その子供を連れて撤退するぞ! ゾンビが多すぎる!」
澪は、ユイを抱えたまま走り出した。兵士たちと共に。
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避難ビル。
神谷刃は、四階から一階に降りてきた。
階段を、ゆっくりと降りる。足が重い。
手には、血がついている。まだ、温かい血。
母親と子供を——
斬った。
約束を果たした。
でも——
刃の心は、空っぽだった。
もう、何も感じない。
ただ、歩く。
ロビーに戻る。
老人が、刃を見た。その顔を見て、すべてを悟る。
「神谷……お前……」
刃は、何も答えなかった。言葉が出てこない。
窓の外を見る。
そして——
何かが、走ってくるのが見えた。
人影。
いや、ゾンビか——
でも、動きが違う。速すぎる。
刃は、刀を構えた。血がついたまま。
その人影が、近づいてくる。
月明かりの下、その姿がはっきり見える。
血まみれで、服がボロボロで——
でも、動きが違う。
速い。正確だ。
そして——
金色の瞳。
刃は、息を呑んだ。
これは——
人間か? ゾンビか?
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藤原京は、避難ビルに到達した。
中を覗く。割れた窓から。
人間がいる。
生存者だ。疲れ切った人々。
その中に——
刀を持った男がいた。
血まみれの刀。疲れ切った顔。でも、目は鋭い。
その男と、目が合った。
刃は、京を見た。
京は、刃を見た。
二人の視線が、交差した。
人間と——
ゾンビでも人間でもない、何か。
互いに、何かを感じる。
同じ匂い。血の匂い。戦いの匂い。
その瞬間——
遠くから、また足音が聞こえた。
兵士たちだ。
澪が、ユイを抱えて走ってくる。他の兵士たちと共に。
三人が——
刃と、京と、澪が——
同じ場所に、集まった。
視界の中で、交錯した。
刃は、刀を握りしめる。この金色の瞳の男は、何者だ。
京は、金色の瞳で見つめる。この刀を持った男は、強い。
澪は、銃を構える。そして、二人を見る。刀の男と、金色の瞳の男。
誰も、動かない。
ただ、見つめ合う。
時間が、止まったようだ。
そして——
物語は、新たな段階へ突入する。
三人の運命が、ついに交わった。
それぞれの道が、一つになる。
これから、何が起きるのか——
誰にも、わからない。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




