第26話「浄水場防衛戦」
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ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
浄水場のフェンスが、目の前にあった。
高さ三メートルほどの金属製フェンス。有刺鉄線が上部に張り巡らされている。錆びているが、まだ頑丈だ。門は閉まっている。鍵がかかっている。
神谷刃は、フェンスに近づいた。生存者たちが、その後ろに続く。八人。トンネルで一人失った。今は、八人だけだ。
刃は、門の鍵を調べた。南京錠。古い錠。刃は、刀の柄で叩いた。ガン、ガン。金属音が響く。三回目で、錠が砕けた。
門を開ける。ギィ、と錆びた音。
「入れ。中は安全だ」
刃が言う。生存者たちが、フェンスの中に入る。
刃は、最後に入り、門を閉めた。鎖で縛る。即席の鍵だ。でも、ないよりはマシだ。
浄水場の敷地内。広い。建物がいくつか並んでいる。管理棟、ポンプ室、バルブ室。すべてコンクリート造り。窓は小さく、ドアは鉄製。要塞のようだ。
刃は、管理棟に向かった。ドアを開ける。中は暗い。でも、ゾンビの気配はない。
「ここで休む。交代で見張りを立てる」
刃が言う。生存者たちが、建物に入る。
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管理棟の中。
床にマットを敷き、生存者たちが座り込む。誰もが、疲れ切っている。
母親が、子供を膝に乗せている。子供は眠っている。母親の腕の中で、安心しきって。
老人が、壁にもたれて座っている。目を閉じている。でも、眠っていない。息が荒い。
中年女性が、窓の外を見ている。不安そうな顔。何かを探している。でも、何も見えない。
若い女性が、カバンの中を漁っている。缶詰を取り出す。一つだけ。それを、子供に渡す。「食べて」。優しい声。
そして——
作業服の男性——篠原が、壁にもたれて座っている。
肩を押さえている。血が染み出している。シャツが赤黒く変色している。顔は青白く、額に汗が浮かんでいる。呼吸が荒い。ハァ、ハァ。
刃は、篠原に近づいた。
「大丈夫か?」
篠原が、顔を上げる。目が充血している。
「痛い……熱い……体が……おかしい……」
篠原の声が、震えている。
刃は、篠原の額に手を当てた。
熱い。異常に熱い。
感染だ。
刃の心が、沈む。
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他の生存者たちも、篠原を見ている。
中年女性が、後ずさりした。
「また、か……また感染者……」
若い女性も、不安そうに言う。
「どうするんですか……?」
老人が、前に出た。
「この人を、どうする気だ、神谷」
刃は、深く息を吸った。
「隔離する。別の部屋に移す」
「また同じことを言うのか!」
中年女性が叫ぶ。
「あんた、学ばないのか! トンネルで何があった! この人のせいで、一人死んだんだぞ!」
「違う。ゾンビのせいだ」
刃が言い返す。
「同じだ! 感染者はゾンビになる! 殺すべきだ!」
中年女性が、ナイフを取り出した。震える手で、握りしめる。
「やめろ」
刃が、刀の柄に手をかける。
「どけ! こいつを殺さないと、俺たちが死ぬ!」
「どかない」
刃の目が、鋭く光る。
老人が、二人の間に入った。
「やめろ。争ってる場合か」
老人が、刃を見る。
「神谷、お前の気持ちはわかる。でも、現実を見ろ。この人は、もう助からん」
「わからない。まだ、発症していない」
「時間の問題だ」
老人が、静かに言う。
「それでも、俺は殺さない」
刃が言い切る。
篠原が、小さく笑った。苦しそうに。
「いいよ……殺してくれ……俺も……怖いんだ……ゾンビになるのが……」
篠原の声が、震える。涙が頬を伝う。
「お願いだ……神谷さん……俺が……人間のうちに……」
刃は、答えられなかった。
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刃は、篠原を別の部屋に移した。
小さな部屋。窓がない部屋。ドアに鍵がかかる部屋。
篠原を床に座らせ、水と缶詰を置いた。
「すまない……迷惑かけて……」
篠原が言う。
「いい。休め」
刃が答える。
「神谷さん……もし……俺が……ゾンビになったら……」
「わかってる。その時は、俺が斬る」
刃が、静かに言う。
篠原が、頷いた。
「ありがとう……」
刃は、部屋を出た。ドアを閉め、鍵をかける。
廊下に立ち、深く息を吐く。
また、か。
また、同じことを——
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夜が、訪れた。
浄水場の敷地内は、静かだった。月明かりが、建物を照らしている。風が吹き、木々が揺れる。
刃は、管理棟の窓から外を見ていた。
フェンスの向こう——
何かが、動いている。
影。複数の影。
ゾンビだ。
一体、二体、三体——
いや、もっとだ。十体、二十体——
数えきれない。
ゾンビの群れが、フェンスに向かって歩いてくる。
刃の背筋に、冷たいものが走った。
「来た……」
刃が呟く。
老人が、刃の隣に来た。
「数が……多い……」
老人の声が、震える。
ゾンビたちが、フェンスに到達した。
そして、フェンスを押し始めた。
ガシャン、ガシャン。金属が軋む音。
一体、また一体。ゾンビがフェンスに手をかけ、押す。力を込めて、押す。
フェンスが、揺れる。ミシミシと音を立てる。
刃は、刀を握りしめた。
「みんな、起きろ! ゾンビだ!」
刃が叫ぶ。
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生存者たちが、目を覚ました。窓から外を見る。
そして、絶望する。
フェンスの向こうに、無数のゾンビ。百体以上。いや、もっとかもしれない。
月明かりの下、その姿がはっきり見える。血まみれで、服がボロボロで、目が虚ろで——
「終わりだ……」
誰かが呟く。
「こんなに……こんなに来るなんて……」
母親が、子供を抱きしめる。子供が泣き出す。
フェンスが、さらに揺れる。ミシミシ、ギシギシ。金属が悲鳴を上げている。
もう、持たない。
その時——
建物の中から、音が聞こえた。
ドンドンドン。
ドアを叩く音。
篠原を隔離した部屋だ。
刃は、そちらを見た。
「まさか……」
刃が走る。廊下を駆け抜ける。
部屋の前に立つ。
ドアの向こうから、うめき声が聞こえる。
「グルルル……アアアア……」
人間の声じゃない。
ゾンビの声だ。
刃は、鍵を開けた。ドアを開ける。
部屋の中——
篠原が立っていた。
いや、篠原だったものが。
顔は血まみれで、目は虚ろ。口からは唾液が垂れている。
ゾンビだ。
完全に、ゾンビになっていた。
篠原ゾンビが、刃に向かって飛びかかる。
刃は、刀を抜いた。
シャキン。
そして、振るった。
一閃。
篠原の首が飛ぶ。血が噴き出す。体が崩れ落ちる。
すべてが、終わった。
刃は、刀を下ろした。
また、殺した。
また、仲間を——
その時、後ろから悲鳴が聞こえた。
「いやあああ!」
若い女性の声。
刃は、振り返った。
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管理棟の廊下。
若い女性が、床に倒れている。
その上に、ゾンビが覆いかぶさっている。
どこから入った——
窓だ。窓が割れている。ゾンビが、窓から侵入していた。
刃は、走った。
ゾンビに斬りかかる。刀が、ゾンビの背中を切り裂く。ゾンビが倒れる。
でも、遅かった。
若い女性の首に、噛まれた痕がある。血が流れている。
「いやだ……いやだ……」
女性が、震える声で言う。
刃は、女性を抱き起こした。
「大丈夫だ……大丈夫……」
嘘だ。大丈夫じゃない。
女性は、刃を見た。涙を流しながら。
「殺して……お願い……ゾンビになる前に……」
刃は、何も言えなかった。
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外では、フェンスがついに破られた。
ガシャーンという音と共に、フェンスが倒れる。
ゾンビの群れが、敷地内に侵入してくる。
管理棟に向かって、歩いてくる。
刃は、窓から外を見た。
終わりだ。もう、逃げられない。
でも——
刃は、諦めなかった。
「みんな、バルブ室へ逃げろ!」
刃が叫ぶ。
「バルブ室?」
「あそこは鉄の扉だ! 頑丈だ! そこに籠城する!」
刃が生存者たちを誘導する。
老人が、母親と子供を連れて走る。中年女性も走る。
刃は、若い女性を抱えた。
「行くぞ」
女性が、小さく頷く。
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バルブ室に到着した。
鉄製の扉。頑丈な扉。刃は、全員を中に入れた。
そして、扉を閉める。内側から鍵をかける。
バルブ室の中。狭い。機械が並び、パイプが走っている。
生存者たちが、床に座り込む。
刃は、部屋を見渡した。
配管。バルブ。そして——
爆薬?
いや、違う。ガスボンベだ。
刃は、それを見た。
そして——
決断した。
「ここを爆破する」
刃が言う。
老人が、目を見開いた。
「何を言ってるんだ!」
「ゾンビを一掃する。ガスボンベを爆発させれば、ゾンビを吹き飛ばせる」
「俺たちも死ぬぞ!」
「裏口から逃げる。時間を稼ぐ」
刃が、裏口を指差す。小さな扉。非常口だ。
「やるしかない」
刃が言い切る。
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刃は、ガスボンベのバルブを開けた。
シューという音。ガスが漏れ始める。
そして、ライターを取り出した。
「全員、裏口から出ろ! 走れ!」
刃が叫ぶ。
生存者たちが、裏口から飛び出す。老人、母親と子供、中年女性——
刃は、若い女性を抱えて走る。
裏口を出る。
そして——
ライターに火をつける。
投げる。
バルブ室に向かって。
走る。全力で。
三秒後——
ドォォォン。
爆発。
炎が噴き出し、衝撃波が襲う。刃たちは吹き飛ばされる。地面に叩きつけられる。
耳が、キーンと鳴る。何も聞こえない。
でも、生きている。
刃は、顔を上げた。
バルブ室が、燃えている。炎が立ち上り、煙が広がる。
そして——
ゾンビたちが、炎に包まれている。倒れている。動かない。
一掃できた。
刃は、深く息を吐いた。
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生存者を数えた。
五人。
老人、母親と子供、中年女性、そして——
若い女性。
女性は、まだ生きている。でも、噛まれている。時間の問題だ。
刃は、自分の腕を見た。
傷がある。浅い傷。いつついたのか、わからない。戦闘中か。
血が滲んでいる。
刃は、傷を見つめた。
これは——
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同じ頃。
海辺の港町。
藤原京は、ユイを連れて歩いていた。
覚醒後の体に、まだ慣れていない。力が強すぎる。物を掴むと、壊れる。歩くと、地面に足跡が残る。
でも、少しずつ、制御できるようになってきた。
ユイが、京の手を握っている。小さな手。温かい手。
「お兄さん、すごいね。強いね」
ユイが言う。
京は、頷いた。
「ユイを……守る……」
その時——
前方から、ゾンビが現れた。
一体。中年女性のゾンビ。血まみれで、服がボロボロ。
ユイが、京の後ろに隠れた。
京は、前に出た。
ゾンビが、襲いかかってくる。
京は——
理性を保ったまま、ゾンビの首を掴んだ。
そして、捻った。
ゴキン、という音。首の骨が砕ける。
ゾンビが、動かなくなる。倒れる。
京は、それを見下ろした。
理性を保ったまま、ゾンビを倒した。
殺さずに、守った。
人を守る力。
それが、自分にはある。
京は、ユイを見た。
「大丈夫……もう……安全……」
ユイが、笑った。
「ありがとう、お兄さん」
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その頃。
日本沿岸。
輸送機が、爆撃を受けていた。
ドォン、ドォン。爆発音。機体が揺れる。
藤宮澪は、座席にしがみついていた。
「緊急着陸! 全員、準備しろ!」
パイロットの声。
機体が、急降下する。
澪の心臓が、激しく鼓動する。
そして——
ドスン。
着陸。いや、墜落に近い。
機体が地面を滑る。ガガガガ。金属が軋む音。
やがて、止まった。
澪は、シートベルトを外した。
外に出る。
周りを見る。
兵士たちは、散り散りになっている。誰もいない。
澪は、一人だった。
銃を握りしめ、歩き出す。
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三人の運命が、近づいている。
刃は、傷を抱えて。
京は、力を得て。
澪は、一人で。
それぞれが、同じ方向へ——
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




