第25話「暗闇の咆哮」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
トンネルの中は、暗かった。
懐中電灯の光だけが、闇を切り裂いている。細い光の筋。それが、唯一の頼りだ。光は届かず、すぐに闇に呑み込まれる。壁は見えない。天井も見えない。ただ、足元だけが、かろうじて見える。
神谷刃は、刀を構えたまま立っていた。
前方——十数の眼が、闇の中で光っている。ゾンビだ。十体以上。いや、もっといるかもしれない。暗闇の奥に、まだ潜んでいるかもしれない。目だけが見える。虚ろな目。濁った目。でも、こちらを見ている。確実に。
うめき声が、トンネルに響く。
「グルルル……アアアア……」
低い声。複数の声。それが重なり合い、まるで獣の咆哮のように聞こえる。音が反響し、四方八方から聞こえてくる。どこから来るのか、わからない。
刃の背筋に、冷たい汗が流れる。握る刀の柄が、汗で滑りそうになる。
刃は、後ろを振り返った。
「全員、後退しろ!」
刃が叫ぶ。声が、トンネルに響く。エコーして、何度も繰り返される。
生存者たちが、後ろに下がろうとする——
その時、後方から声が上がった。
「後ろにも来た!」
若い女性の悲鳴。恐怖で声が裏返っている。
刃は、懐中電灯を後方に向けた。
入り口——そこにも、ゾンビの影が見える。五体、六体。シルエットだけが見える。こちらに向かって歩いてくる。ズシン、ズシン。不規則な足音。でも、確実に近づいている。
挟み撃ちだ。
刃の心が、沈む。胃が、ひっくり返りそうになる。
やばい。完全に、やばい。
生存者たちが、パニックになり始める。
「どうするんだ!」
「逃げられない!」
「死ぬのか! ここで死ぬのか!」
悲鳴、怒鳴り声、泣き声——すべてが混ざり合い、トンネルに響く。母親が子供を抱きしめる。子供が泣き叫ぶ。老人が杖を落とす。カラン、という音が響く。
刃は、深く息を吸った。
落ち着け。冷静になれ。パニックになったら、全員死ぬ。
刃は、懐中電灯を前方に戻した。そして、生存者たちに向かって叫ぶ。
「俺が前を抑える! お前たちは後方のゾンビを突破しろ! 数が少ない! 走れ! 今すぐだ!」
刃が言い切る。声に、力を込める。迷いを消す。
老人が、刃を見た。震える声で。
「お前は……一人で……」
「いい! 行け! 俺は後から行く! 信じろ!」
刃は、前方のゾンビに向かって走り出した。
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刃は、最初のゾンビに斬りかかった。
溜め——
刃は、足を踏み込む。重心を落とす。刀を引く。
動作——
刀を振るう。一閃。空気を切り裂く音。シュッ。
結果——
刀が、ゾンビの首を切り裂く。肉を断つ感触。骨を断つ感触。ザクッ、という音。血が飛び散り、首が飛ぶ。
余波——
体が崩れ落ちる。ドサリ、と重い音。血が壁に飛び散る。
次のゾンビ。
溜め——刃は、体を捻る。
動作——胴を薙ぎ払う。横一閃。
結果——内臓が溢れ出る。ズルリ、という音。
余波——ゾンビが倒れ、内臓が床に散らばる。
次。
溜め——刀を頭上に構える。
動作——振り下ろす。
結果——頭が真っ二つに割れる。ガキン、と骨が砕ける音。脳漿が飛び散る。
余波——体が前に倒れる。
刃は、必死に戦い続ける。一体、また一体。刀を振るう。血が飛び散り、体が倒れる。床が血で濡れる。滑りそうになる。でも、踏ん張る。
トンネルの中は、血と鉄の匂いで充満している。吐き気がする。でも、耐える。
でも、終わらない。次から次へと、ゾンビが襲いかかる。
トンネルは狭い。回避する余地がない。左右は壁。上は天井。ゾンビを斬るしかない。
刃の息が上がる。ハァ、ハァ、と荒い呼吸。汗が額を伝う。目に入る。痛い。視界がぼやける。腕が重い。肩が痛い。筋肉が悲鳴を上げる。でも、止まらない。止まったら、死ぬ。
後ろでは、生存者たちが後方のゾンビと戦っている。
作業服の男性が、バットでゾンビの頭を殴る。溜め——バットを振りかぶる。動作——振り下ろす。結果——ガン、という鈍い音。ゾンビの頭が陥没する。余波——ゾンビが倒れる。
中年女性が、石を投げる。ゾンビの顔に当たる。ゴツン、という音。でも、効果はない。ゾンビは止まらない。
母親が、子供を抱きしめながら走る。出口へ、必死に。子供が泣いている。「ママ! 怖い!」。母親が答える。「大丈夫、大丈夫よ」。でも、その声も震えている。
その時——
作業服の男性が、悲鳴を上げた。
「ぐあっ!」
ゾンビが、男性の肩に噛みついた。ガブリ、と音がして、血が飛び散る。肉を食い破る音。ズブリ。
男性が、ゾンビを突き飛ばす。でも、遅い。もう、噛まれた。肩から血が溢れる。シャツが赤く染まる。
老人が、男性を支える。
「大丈夫か! しっかりしろ!」
「噛まれた……俺……噛まれた……終わりだ……」
男性の声が、震えている。顔が青ざめる。唇の色が悪くなる。
老人は、男性の腕を引っ張った。
「今は逃げろ! 考えるのは後だ! 生きるんだ!」
生存者たちが、出口へ走る。足音が響く。悲鳴が響く。
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刃は、まだ戦い続けていた。
五体、六体、七体——斬っても、斬っても、まだ来る。
トンネルの奥から、また新しいゾンビが現れる。終わらない。無限に湧いてくるかのようだ。
刃は、後ろを見た。生存者たちが、出口から出ていくのが見える。母親が子供を抱えて走る。老人が男性を支えて走る。中年女性が必死に走る。
よし。みんな、逃げた。
刃は、後退を始めた。一歩、また一歩。ゾンビを斬りながら、出口へ向かう。後ろ向きに走る。
ゾンビが、追いかけてくる。手を伸ばし、口を開け、うなり声を上げる。「グアアア!」
一体が、刃に飛びかかる。刃は、横に跳ぶ。壁に手をついて、体を支える。そして、刀を振るう。ゾンビの首が飛ぶ。
また一体。刃は、振り下ろす。頭が割れる。
刃は、最後のゾンビを斬った。首が飛ぶ。そして、出口へ飛び出す。
外に出た瞬間——
光が、目に飛び込んできた。眩しい。目がくらむ。でも、生きている。外に出た。
刃は、振り返ってトンネルの入り口を見た。
ゾンビたちが、まだ追いかけてくる。十体以上。トンネルから溢れ出す。光の中に、その姿が浮かび上がる。血まみれで、服がボロボロで、目が虚ろで——
刃は、生存者たちに叫んだ。
「走れ! 止まるな! 全力で走れ!」
刃も、走り出した。刀を握りしめたまま、全力で。
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しばらく走って、ようやく立ち止まった。
浄水場が、見えてきた。大きな建物。コンクリートの壁。フェンスに囲まれている。まだ無事だ。窓は割れていない。ドアも閉まっている。
生存者たちは、息を切らしながら立ち止まる。誰もが、疲れ切っている。地面に座り込む者もいる。咳き込む者もいる。吐く者もいる。
刃は、振り返った。ゾンビたちは、まだ遠くにいる。追いついてこない。走る速度が遅いから。
ひとまず、安全だ。
刃は、深く息を吐いた。膝に手をつく。体が震えている。手が震えている。足が笑っている。でも、生きている。まだ、生きている。
そして——
作業服の男性を見た。
男性は、地面に座り込んでいる。肩を押さえている。血が指の間から溢れている。シャツが赤く染まっている。顔は青白く、額に汗が浮かんでいる。呼吸が荒い。
噛まれた。
また、感染者が出た。
刃は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
また、か——
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同じ頃。
海辺。
藤原京は、砂浜に座り込んでいた。
手に刺さったナイフを抜き、傷を見つめる。血が流れている。赤い血。まだ、血が出る。まだ、生きている証。痛い。ズキズキと痛む。でも、耐えられる。
ユイが、京の隣に座っている。心配そうな顔で、京の手を見ている。小さな手で、京の袖を握っている。
「お兄さん……痛いよね……大丈夫? 血、止めなきゃ……」
京は、頷いた。ゆっくりと。
「大丈夫……ユイは……無事だから……それで……いい……」
言葉が、少しずつ滑らかになってきた。舌が、動くようになった。喉が、言葉を形にする。人間の言葉。
ユイが、小さく笑った。涙を浮かべながら。
「お兄さん、強いね。ありがとう。私、お兄さんに会えてよかった」
京は、海を見つめた。
太陽が、昇り始めている。水平線から、光が溢れてくる。オレンジ色の光。温かい光。空が、赤く染まっている。雲が、金色に輝いている。
その光が、京の顔を照らす。
その瞬間——
ユイを守りたいという想いが、京の体を突き動かした。その感情が、進化の引き金だった。
京の体に、異変が起きた。
心臓が、速く鼓動し始める。ドクン、ドクン、ドクン。まるで、太鼓を叩くような音。胸の中で、何かが激しく動いている。心臓が、膨らむような感覚。破裂しそうな感覚。
体が、熱くなる。内側から、燃えるような熱さ。血が、沸騰しているような感覚。血管が、熱い。まるで、溶岩が流れているかのような。
筋肉が、収縮する。ギュッと。力が、満ちてくる。腕が、太くなる。胸が、張る。背中が、広がる。
骨が、軋む。ミシミシと音がする。成長しているのか。それとも——
皮膚が、ピリピリする。まるで、電気が走っているかのような。
そして——
京の瞳が、変わった。
金色に、光り始めた。
まるで、太陽の光を反射しているかのように。でも、違う。これは、京自身の光だ。内側から、発光している。瞳孔が、金色に輝いている。
ユイが、京を見上げた。
そして、息を呑んだ。目を見開く。
「お兄さん……目が……光ってる……すごい……きれい……」
ユイの声が、小さく震えている。怖がっているのではない。驚いているのだ。感動しているのだ。
京は、自分の手を見た。
手が、震えている。でも、恐怖ではない。力が、溢れている。握ると、砂が指の間から溢れる。力の加減が、わからない。
これは——
覚醒だ。
人肉を食べたわけでもない。でも、何かが変わった。体が、進化している。ユイを守ろうとした意志が、体を変えたのか。
ゾンビでもない。
人間でもない。
何か、別の——
京は、立ち上がった。
ユイを見下ろす。金色の瞳で。その目は、優しい。でも、力強い。
「守る……俺が……ユイを……誰にも……渡さない……」
京の声は、低く、でも力強い。人間の声に、近づいている。
ユイが、頷いた。笑顔で。
「うん……信じてる……お兄さん、かっこいい……」
京は、海を見つめた。
太陽が、完全に昇った。朝だ。新しい日だ。光が、世界を照らしている。
そして——
京の中で、何かが目覚めた。新しい力。新しい自分。
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その頃。
空の上。
輸送機が、雲を抜けて飛んでいた。
巨大な機体。軍用の輸送機。エンジンが轟音を上げ、翼が空気を切り裂いている。機体が揺れる。ゴゴゴゴゴという音。
機内には、数十人の兵士が座っている。武装し、ヘルメットを被り、銃を抱えている。誰もが、緊張した顔をしている。これから、地獄に降りる。それを、わかっている。
その中に——
藤宮澪がいた。
軍服を着ている。髪を短く切り、顔には決意の色が浮かんでいる。目は真っ直ぐで、迷いがない。
窓の外を見る。
青い空。白い雲。そして、遠くに——
日本列島が見えてきた。
澪の心が、激しく鼓動する。ドクン、ドクン。胸が苦しい。でも、それは恐怖ではない。期待だ。
ついに、帰ってきた。
でも、その日本は——もう、以前の日本ではない。
崩壊した国。ゾンビに支配された国。煙が立ち上り、街が燃えている。
それでも、行く。
京を、探しに。
澪は、拳を握りしめた。手袋をした手。冷たい手。
窓の外、日本の海岸線が見える。煙が立ち上り、街が燃えている。ビルが崩れ、道路が血で染まっている。
地獄だ。
でも——
澪は、諦めない。
「京……待ってて……必ず、会いに行くから……生きてて……お願い……」
澪が、小さく呟く。声が震える。涙が、目に浮かぶ。でも、流さない。
輸送機は、日本列島へ向かって飛び続ける。高度を下げ始める。着陸準備。
隣に座る兵士が、澪に声をかけた。
「大丈夫か?」
澪は、頷いた。
「大丈夫です。行きます。必ず」
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光と闇が、交わる黎明。
神谷刃は、浄水場で新たな感染者と向き合っている。
藤原京は、海辺で覚醒を始めている。
藤宮澪は、空から日本へ降りようとしている。
三人の運命が、ついに一点に収束を始める。
それぞれの道が、交差する時が——近づいていた。
夜明けが、終わる。
そして、新しい戦いが——始まろうとしていた。
-----
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




