第24話「黎明の兆し」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
朝日が、廃ビルを照らしていた。
神谷刃は、生存者たちの前に立っていた。九人。昨夜、一人を失った。今は、九人だけだ。母親と子供、老人、作業服の男性、中年女性、若い女性、そして他の男性数名。みんな、疲れ切った顔をしている。
刃は、地図を広げた。紙の地図。破れかけている。
「ここから北東に、浄水場がある。そこに防災倉庫がある。食料と水が備蓄されているはずだ」
刃が指を指す。生存者たちが、地図を覗き込む。
「本当にあるのか?」
作業服の男性が尋ねる。疑念が声に滲んでいる。昨夜の対立が、まだ尾を引いている。
「ある。俺も、以前見たことがある」
刃が答える。
「でも、そこまで、どうやって? ゾンビだらけだろ」
中年女性が不安そうに言う。
「裏ルートを使う。旧工場地帯を抜けて、トンネルを通る。人通りが少ない道だ。ゾンビも少ないはずだ」
刃が説明する。
老人が、頷いた。
「わしは、お前を信じる。行こう」
母親も、子供を抱きしめながら頷く。
「私も……行きます」
他の生存者たちも、次第に頷き始める。全員ではない。でも、ほとんどが。
刃は、刀を腰に差した。
「じゃあ、行こう。俺が先頭を行く。何かあったら、すぐに声をかけろ」
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廃ビルを出て、街を歩く。
朝の東京。崩壊した東京。朝日が、瓦礫を照らす。影が長く伸びている。煙が立ち上り、遠くで炎が燃えている。
道には、死体が転がっている。ゾンビになったもの、ならなかったもの。みんな、動かない。血が乾き、黒く変色している。
生存者たちは、それを避けながら歩く。誰も、何も言わない。ただ、黙々と歩く。足音だけが、静かな街に響く。
遠くで、うめき声が聞こえる。ゾンビだ。でも、遠い。まだ、大丈夫だ。
刃は、周囲を警戒しながら進む。刀の柄に手をかけたまま。いつでも抜けるように。
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旧工場地帯に入った。
錆びた工場が並んでいる。窓は割れ、壁は崩れている。放棄されて、何年も経つ。誰も使っていない。草が生え、木が伸びている。
静かだ。不気味なほど、静かだ。
刃は、先頭を歩く。一歩一歩、慎重に。足音を立てないように。
その時——
建物の中から、音が聞こえた。
ガタン、という音。
刃は、手を上げて生存者たちを止めた。
「待て」
刃が囁く。
音が、また聞こえる。何かが動いている。
刃は、建物に近づいた。窓から中を覗く。
暗い。でも、何かがいる。
人影。
動いている。でも、ゾンビの動きじゃない。人間の動きだ。
刃は、建物に入った。ドアを開け、中に入る。
薄暗い工場。機械が並び、ベルトコンベアが止まっている。埃が積もり、蜘蛛の巣が張っている。
奥に、人がいた。
若い男性。二十代前半。作業着を着ている。床に座り込み、足を抱えている。
刃が近づく。
「大丈夫か?」
男性が顔を上げる。顔は青白く、額に汗が浮かんでいる。
「助けて……噛まれた……」
男性が腕を見せる。左腕に、噛まれた痕がある。血が滲んでいる。まだ、新しい傷だ。
刃の背筋に、冷たいものが走った。
また、か——
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刃は、男性を連れて外に出た。
生存者たちが、男性を見る。そして、噛まれた腕を見る。
作業服の男性が、後ずさりした。
「おい、また感染者か! 殺せ!」
昨夜、救えなかった顔が脳裏をよぎる。もう二度と、同じことは繰り返さない。
「待て」
刃が制止する。
「昨夜と同じだ。また、同じことをするのか!」
「違う。この人は、まだ発症していない。助けられるかもしれない」
「助けられる? どうやって! 昨夜の男はどうなった! ゾンビになっただろ!」
作業服の男性が叫ぶ。他の生存者たちも、ざわめき始める。
「殺すべきだ」
「いや、隔離だ」
「隔離してどうする。また同じことになる」
刃は、拳を握りしめた。
またこれか。
でも——
刃は、諦めない。
「俺は、この人を連れて行く。嫌なら、お前たちだけで行け」
刃が言い切る。
生存者たちが、黙る。
老人が、前に出た。
「わしは、お前についていく。この人も助ける」
母親も、頷く。
「私も……です」
他の生存者たちも、次第に頷き始める。作業服の男性は、まだ不満そうだが、何も言わなかった。
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刃たちは、噛まれた男性を連れて歩き出した。
男性は、まだ歩ける。熱も、まだ出ていない。でも、時間の問題だ。
刃は、男性を支えながら歩く。
「名前は?」
「田中……田中健太です……」
「田中、俺は神谷刃だ。大丈夫、助ける」
「ありがとう……ございます……」
田中が、小さく笑った。でも、その笑顔は、恐怖で歪んでいる。
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トンネルが、見えてきた。
古いトンネル。鉄道のトンネル。もう使われていない。線路は錆び、枕木は腐っている。
刃は、トンネルの入り口に立った。
暗い。真っ暗だ。中が見えない。
「ここを抜ければ、浄水場だ」
刃が言う。
生存者たちが、トンネルを見る。不安そうな顔。
「暗いな……」
「懐中電灯はあるか?」
刃が尋ねる。
若い女性が、カバンから懐中電灯を取り出した。
「これ、一つだけ……」
「十分だ。ありがとう」
刃が受け取り、スイッチを入れる。光が、トンネルの中を照らす。
刃は、トンネルに入った。一歩、また一歩。慎重に。
生存者たちが、後ろについてくる。
トンネルの中は、冷たい。ひんやりとした空気。湿っている。水が滴る音がする。ポタリ、ポタリ。
懐中電灯の光が、壁を照らす。古いレンガ。苔が生えている。
刃は、前を見据える。
その時——
奥から、音が聞こえた。
ズシン、ズシン。
足音。
でも、一つじゃない。複数だ。
刃は、立ち止まった。
「待て」
刃が囁く。
生存者たちが、止まる。息を殺す。
懐中電灯の光を、奥に向ける。
そして——
刃は、息を呑んだ。
闇の中に、十数の”眼”が光っていた。
ゾンビだ。
十体以上。いや、もっとかもしれない。トンネルの中に、群れがいる。
刃は、刀を抜いた。
「戻れ!」
刃が叫ぶ。
でも、遅かった。
ゾンビたちが、こちらに向かって走り出した。
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同じ頃。
海辺。
藤原京は、朝日の中で目を覚ました。
少女——ユイが、まだ眠っている。京の肩に頭をもたれかけたまま。穏やかな寝息。
京は、ユイを起こさないように、ゆっくりと体を動かした。
海を見る。朝日が、海を照らしている。キラキラと光る。美しい。
京の心が、温かくなる。
人間の感覚。美しいと思う感覚。
戻ってきている。
ユイが、目を覚ました。
「ん……おはよう、お兄さん」
ユイが、目をこすりながら言う。
京は、口を開いた。
「お……は……よう……」
声が出た。
言葉が出た。
ユイが、目を見開いた。
「お兄さん! 喋れたの! すごい!」
ユイが拍手する。
京は、また言葉を試す。
「ユイ……おはよう……」
少しずつ、言葉が戻ってくる。舌が、動くようになってきた。喉が、言葉を形にする。
ユイが、笑った。
「お兄さん、よかったね! 元気になったんだ!」
京は、頷いた。
でも、その時——
遠くから、声が聞こえた。
「おい、あそこに人がいるぞ!」
男の声。複数。
京は、振り返った。
防波堤の向こうから、三人の男性が近づいてくる。武装している。バットを持ち、ナイフを持ち、銃を持っている。
生存者だ。人間だ。
でも——
その目は、狂っている。血走っている。
「女の子だ! 生きてるぞ!」
男たちが、走ってくる。
ユイが、京の後ろに隠れた。
「お兄さん……怖い……」
京は、立ち上がった。ユイの前に立つ。守る。
男たちが、近づいてくる。
「おい、そのガキ、よこせ」
一人の男が言う。四十代くらい。髭が伸び、目が濁っている。
京は、首を横に振った。
「や……めろ……」
言葉が出た。
男が、笑った。
「喋ったぞ、こいつ。でも、ゾンビだな。顔見ろよ。血まみれだ」
別の男が、銃を構えた。
「ゾンビは殺せ。ガキは連れて行く」
京の中で、何かが燃え上がった。
本能。
でも、それだけじゃない。
理性も。
ユイを守る。
人間を守る。
京は、叫んだ。
「や……めろ! ユイに……手を出すな!」
声が、大きくなった。人間の声に、近づいた。
男たちが、一瞬ひるむ。
でも、すぐに笑った。
「ゾンビが喋るのか。面白い。でも、死ね」
男が、引き金を引いた。
パン、という音。
銃弾が、京の肩を掠めた。痛い。でも、致命傷じゃない。
京は、男に向かって走った。本能が、叫んでいる。殺せ。でも、理性が、それを抑える。殺すな。ただ、止めろ。
京は、男に体当たりした。男が、倒れる。銃が、砂に落ちる。
他の二人の男が、京に襲いかかる。バットが振り下ろされる。京は、それを避ける。反射が、速い。覚醒の力。
京は、男の腕を掴んだ。そして、投げ飛ばす。男が、砂浜に転がる。
三人目の男が、ナイフで襲いかかる。京は、それを掴んだ。ナイフが、手に食い込む。血が流れる。でも、構わない。
京は、男を押し返した。男が、よろめく。
三人の男が、立ち上がる。そして、逃げ出した。
「化け物だ! 逃げろ!」
男たちが、走り去っていく。
京は、その場に立ち尽くした。
ユイが、京に駆け寄る。
「お兄さん! 大丈夫!?」
ユイが、京の手を見る。血が流れている。
「痛くない……の?」
京は、首を横に振った。
「大丈夫……ユイは……無事か?」
ユイが、頷いた。涙を浮かべながら。
「ありがとう……お兄さん……」
京は、ユイを抱きしめた。
人間を、守った。
殺さなかった。
理性が、勝った。
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その頃。
海外。
軍の基地。
藤宮澪は、指揮官の前に立っていた。
「日本に、帰ります」
澪が言った。
指揮官が、眉をひそめた。
「日本は、もう終わっている。行っても、死ぬだけだ」
「それでも、行きます。探さなければ……大切な人を……」
澪の目には、強い意志が宿っている。
指揮官は、ため息をついた。
「わかった。輸送機を手配する。でも、保証はできない」
「ありがとうございます」
澪が、頭を下げた。
窓の外を見る。青い空。白い雲。
京、待ってて。
必ず、会いに行く。
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夜明けと共に、三人の運命が動き出した。
刃は、ゾンビの群れと対峙している。
京は、ユイを守り、人間性を取り戻している。
澪は、日本へ向かおうとしている。
三人の道が、交錯を始める。
それぞれの、黎明が——今、訪れようとしていた。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




