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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第2部「裂け目」

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第23話「崩れる静寂」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 夜が、深まっていた。


 廃ビルの中は、静かだった。生存者たちは眠っている。毛布にくるまり、床に横たわり、疲れ切った体を休めている。子供の寝息。老人のいびき。誰かの寝返りを打つ音。


 神谷刃は、二階の廊下に座っていた。


 隔離した男性の部屋の前。ドアに背中をつけ、刀を膝の上に置いている。目を閉じない。眠らない。耳を澄ます。


 ドアの向こうから、時折音が聞こえる。


 咳。苦しそうな咳。ゴホッ、ゴホッ。


 うめき声。低い、苦しそうな声。


 寝返りを打つ音。ガサガサと。


 まだ、人間の音だ。


 刃は、それを確認するたびに、わずかに安堵する。でも、その安堵は長く続かない。すぐに、不安が戻ってくる。


 もし、ゾンビになったら——


 その時は、俺が斬る。


 それが、約束だ。


 刃は、刀の柄を握りしめた。


-----


 時刻は、深夜二時を過ぎていた。


 月明かりが、廊下の窓から差し込んでいる。冷たい光。青白い光。影が濃く落ちている。


 刃は、目を開けたまま、じっと座っている。体が冷える。でも、動かない。ここを離れるわけにはいかない。


 その時——


 ドアの向こうから、声が聞こえた。


「う……うぅ……」


 苦しそうな声。スーツの男性の声。


 刃は、立ち上がった。ドアに耳を当てる。


「おい、大丈夫か?」


 刃が呼びかける。


 しばらく、沈黙。


 そして——


「痛い……痛いよ……頭が……体が……燃えてる……」


 男性の声。震えている。苦しんでいる。息が荒い。


「我慢しろ。もう少しだ。朝になれば、熱も下がるかもしれない」


 刃が言う。でも、自分でもわかっている。嘘だと。朝になっても、下がらない。むしろ——


「神谷さん……ありがとう……あなたは……いい人だ……俺を……信じてくれた……」


 男性の声が、途切れ途切れに聞こえる。


「俺は……もう……ダメかもしれない……でも……最後まで……人間でいたい……人間として……死にたい……」


 刃の胸が、締め付けられる。拳を握る。


「まだ、諦めるな。お前は生きる。絶対に」


「ありがとう……でも……もし……俺が……ゾンビに……なったら……」


 男性の声が、震える。


「頼む……すぐに……殺してくれ……苦しませないでくれ……一瞬で……頼む……」


 刃は、答えられなかった。喉が詰まる。言葉が出てこない。


 ただ、拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。痛い。


「約束する」


 刃が、ようやく言葉を絞り出す。


「苦しませない。一瞬で、終わらせる。俺が……必ず」


「ありがとう……神谷さん……あなたに……会えて……よかった……」


 男性の声が、小さくなる。


 そして、静かになった。


-----


 一時間が経った。


 刃は、まだドアの前に座っている。じっと、耳を澄ます。


 男性の声は、聞こえない。眠っているのか。それとも——


 その時——


 ドアの向こうから、音が聞こえた。


 ガタン、という音。何かが倒れた音。


 刃は、立ち上がった。


「おい! 大丈夫か!」


 返事はない。


 また、音がする。ドンドンドン。何かが壁を叩く音。力強く、執拗に。規則的ではない。乱暴に。


 刃の背筋に、冷たいものが走った。


 嫌な予感。


「おい! 返事をしろ!」


 刃が叫ぶ。


 でも、返ってくるのは——


「グルル……アアア……」


 うめき声。


 人間の声ではない。


 ゾンビの声だ。


 刃の心が、沈む。拳を握る。歯を食いしばる。


 やはり——


 刃は、鍵を開けた。ガチャリ、と音がする。そして、ドアを開ける。


-----


 部屋の中は、暗かった。


 月明かりだけが、窓から差し込んでいる。


 その光の中に——


 スーツの男性が立っていた。


 いや、立っているものは、もう男性ではなかった。


 顔は血まみれで、目は虚ろ。白目が濁り、瞳孔が開いている。口からは、唾液が垂れている。シャツは破れ、血で汚れている。爪が伸びている。


 ゾンビだ。


 完全に、ゾンビになっていた。


 それは、刃を見た瞬間——


 襲いかかってきた。


 手を伸ばし、口を開け、うめき声を上げる。


「グアアアア!」


 刃は、一瞬躊躇した。


 この男性を、昨日まで守っていた。信じていた。人間として、扱っていた。約束を交わした。


 でも——


 もう、人間じゃない。


 刃は、刀を抜いた。


 シャキン。


 一瞬の迷いが、消えた。


 刃は、刀を振るった。


 一閃。


 刀が、ゾンビの首を切り裂く。肉を断つ感触。骨を断つ感触。血が飛び散る。温かい血。


 首が飛ぶ。


 体が、崩れ落ちる。ドサリ、と重い音。


 すべてが、終わった。


 刃は、振り下ろした刀を握ったまま動けなかった。


 血の匂いが、鉄と腐臭を混ぜ合わせて鼻を刺す。


 だが、耳には何も届かない。世界から音が消えたようだった。


 風の音も、心臓の鼓動も、すべて遠のく。


 ただ、自分の息だけが、やけに大きく聞こえる。ハァ、ハァ、と。


 部屋の中、床に倒れているゾンビ——いや、元スーツの男性を見つめる。


 血が床に広がっていく。黒く、ゆっくりと。月明かりに照らされて、鈍く光っている。


 刃の目から、涙が一筋、流れた。


 拭わない。ただ、流れるままにする。温かい涙。頬を伝う。


「すまない……」


 刃が、小さく呟く。声が震えている。


「守れなかった……人間として……守れなかった……」


 約束は、守った。苦しませなかった。一瞬で、終わらせた。


 でも——


 人間として、守れなかった。


 刃は、刀を鞘に収めた。刀身に残る血を、布で拭う。ゆっくりと、丁寧に。そして、部屋を出た。ドアを閉める。


 廊下に立ち、深く息を吐く。


 体が震えている。手が震えている。膝が笑っている。


 これでよかったのか。


 人を信じた結果が、これなのか。


 答えは、出ない。


-----


 その頃。


 藤原京は、海辺を歩いていた。


 夜の海。月明かりが、波に反射している。キラキラと光る。風が吹き、髪を揺らす。潮の匂い。魚の匂。砂の匂い。


 京の足は、ふらついている。空腹が、限界に近い。でも、まだ歩ける。止まれない。止まったら、倒れる。


 砂浜を歩く。足跡が残る。でも、波が寄せてきて、消していく。また歩く。また消える。


 その時——


 前方に、何かが見えた。


 人影。


 小さな人影。


 京は、足を止めた。


 月明かりの下、その姿がはっきり見える。


 少女だ。


 十歳くらいだろうか。白いワンピースを着ている。髪は長く、風に揺れている。裸足で、砂の上に座っている。膝を抱え、海を見ている。


 京は、近づくべきか迷った。


 少女を、襲ってしまうかもしれない。本能が、そうさせるかもしれない。肉を求める本能が。


 でも——


 少女が、振り返った。


 そして、京を見た。


 京は、動けなくなった。


 少女は、怖がるだろう。逃げるだろう。悲鳴を上げるだろう。当然だ。俺は、ゾンビなのだから。


 でも——


 少女は、微笑んだ。


 優しい笑顔。柔らかい笑顔。怖がる様子が、まったくない。


「こんばんは」


 少女が言った。明るい声。無邪気な声。


 京は、返事ができなかった。口を開く。でも、うめき声しか出ない。


「アア……」


 少女は、首をかしげた。


「喉、痛いの? 風邪? 大丈夫?」


 京は、首を横に振った。いや、振ろうとした。体がうまく動かない。


 少女は、立ち上がった。そして、京に近づいてくる。砂を蹴りながら。


 京は、後ずさりした。危ない。近づくな。俺は——


 でも、少女は止まらない。


「大丈夫? 怪我してるの? 血が出てる」


 少女が、京の顔を覗き込む。心配そうな顔。


 京の顔は、血まみれだ。服もボロボロだ。目も虚ろだ。


 どう見ても、ゾンビだ。


 でも、少女は——


 怖がらない。


「お兄さん、辛そう。大丈夫? 座ろう?」


 少女が、京の手を取った。


 小さな手。温かい手。柔らかい手。


 京の心が、震えた。


 この温もり。この優しさ。


 人間の温もり。


 京は、涙が出そうになった。でも、涙は出ない。ゾンビには、涙がない。


「お兄さん、一緒に座ろう? 海、きれいだよ」


 少女が、京の手を引く。


 京は、抵抗できなかった。少女に引かれるまま、砂の上に座る。ゆっくりと。


 少女も、隣に座った。膝を抱え、海を見る。


「私ね、家族とはぐれちゃったの。ママとパパ、どこ行ったのかな」


 少女が、小さな声で言う。寂しそうな声。でも、泣いていない。


「でも、大丈夫。きっと、また会える。お兄さんも、誰か探してるの?」


 京は、頷いた。ゆっくりと。


 澪を。俺は、澪を探している。


 少女が、微笑んだ。


「じゃあ、一緒に探そう。朝になったら、きっと見つかるよ。私も手伝う」


 少女が、砂浜を見回す。そして、何かを見つけた。


「あ、見て!」


 少女が小さな貝殻を拾い、京に見せた。月明かりの下、それは白く光っている。


「ね、これハートの形。かわいいでしょ? お兄さんにあげる」


 京は、貝殻を受け取った。小さな、ハート型の貝殻。手のひらに載せる。


 少女は笑った。


「お兄さんも拾って。おそろいにしよ」


 京は震える手で、砂を掘った。ゆっくりと、慎重に。小さな貝を見つけて、差し出す。


 少女は拍手した。


「すごい! お兄さん上手! ありがとう!」


 その言葉が、京の心に灯をともす。


 誰かに”褒められる”感覚——


 忘れていた、あの人間の喜び。


 温かい感覚。胸が温かくなる。


 少女が、京の肩に頭をもたれかけた。


「ねえ、お兄さん。名前は?」


 京は、答えられなかった。声が出ない。


 でも、心の中で——


 「京だ。藤原京だ」


 少女は、目を閉じた。


「私はね、ユイ。よろしくね、お兄さん」


 少女——ユイが、小さく笑った。


 そして、眠り始めた。


 京の肩に頭をもたれかけたまま、安心しきった顔で。穏やかな寝息。


 京は、動けなかった。


 この少女を、守らなければ。


 襲ってはいけない。


 人間に、戻らなければ。


 京の心の中で、何かが強く燃え上がった。


 人間性。


 それが、戻ってきている。確実に。


-----


 夜明けが、近づいていた。


 東の空が、わずかに白み始める。オレンジの光が、地平線を染める。


 神谷刃は、一階に降りた。階段を、ゆっくりと。


 生き残ったのは十人弱。老人、母子、若い女性、作業員の男、そして刃。


 生存者たちが、目を覚まし始めている。刃を見る。不安そうな目で。


「あの人は……?」


 母親が尋ねる。子供を抱きしめながら。


 刃は、首を横に振った。


「ゾンビになった。俺が、斬った」


 生存者たちが、黙る。誰も、何も言わない。


 老人が、小さく頷いた。


「お前は、よくやった。約束を守った。それが、人としての務めじゃ」


 刃は、何も言わなかった。


 ただ、窓の外を見る。


 朝日が、昇り始めている。


 刃は外へ出た。建物の裏。小さな水たまりがある。


 刃は血に濡れた手を、静かに水で拭った。冷たい水。赤い水が流れていく。


-----


 同じ時刻。


 海辺。


 藤原京は、まだ砂の上に座っていた。


 少女——ユイが、まだ眠っている。京の肩に頭をもたれかけたまま。


 朝日が、二人を照らす。温かい光。


 京は、海を見つめていた。


 そして——京もまた、海水に手を浸していた。冷たい海水。波が手を洗っていく。


 二人の指先を流れるのは、血と塩。


 互いに知らぬまま、同じ痛みを洗い流していた。


 京は、海を見つめた。


 人間に、戻る。


 その決意が、より強くなった。


-----


 夜明け前。


 刃は、命を奪った。


 京は、言葉を受け取った。


 二つの行動が、静かに物語を分岐させていく。


 一つは、絶望へ。


 一つは、希望へ。


 でも、どちらも——まだ、終わっていない。


 世界は、まだ回り続けている。


-----


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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