第23話「崩れる静寂」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
夜が、深まっていた。
廃ビルの中は、静かだった。生存者たちは眠っている。毛布にくるまり、床に横たわり、疲れ切った体を休めている。子供の寝息。老人のいびき。誰かの寝返りを打つ音。
神谷刃は、二階の廊下に座っていた。
隔離した男性の部屋の前。ドアに背中をつけ、刀を膝の上に置いている。目を閉じない。眠らない。耳を澄ます。
ドアの向こうから、時折音が聞こえる。
咳。苦しそうな咳。ゴホッ、ゴホッ。
うめき声。低い、苦しそうな声。
寝返りを打つ音。ガサガサと。
まだ、人間の音だ。
刃は、それを確認するたびに、わずかに安堵する。でも、その安堵は長く続かない。すぐに、不安が戻ってくる。
もし、ゾンビになったら——
その時は、俺が斬る。
それが、約束だ。
刃は、刀の柄を握りしめた。
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時刻は、深夜二時を過ぎていた。
月明かりが、廊下の窓から差し込んでいる。冷たい光。青白い光。影が濃く落ちている。
刃は、目を開けたまま、じっと座っている。体が冷える。でも、動かない。ここを離れるわけにはいかない。
その時——
ドアの向こうから、声が聞こえた。
「う……うぅ……」
苦しそうな声。スーツの男性の声。
刃は、立ち上がった。ドアに耳を当てる。
「おい、大丈夫か?」
刃が呼びかける。
しばらく、沈黙。
そして——
「痛い……痛いよ……頭が……体が……燃えてる……」
男性の声。震えている。苦しんでいる。息が荒い。
「我慢しろ。もう少しだ。朝になれば、熱も下がるかもしれない」
刃が言う。でも、自分でもわかっている。嘘だと。朝になっても、下がらない。むしろ——
「神谷さん……ありがとう……あなたは……いい人だ……俺を……信じてくれた……」
男性の声が、途切れ途切れに聞こえる。
「俺は……もう……ダメかもしれない……でも……最後まで……人間でいたい……人間として……死にたい……」
刃の胸が、締め付けられる。拳を握る。
「まだ、諦めるな。お前は生きる。絶対に」
「ありがとう……でも……もし……俺が……ゾンビに……なったら……」
男性の声が、震える。
「頼む……すぐに……殺してくれ……苦しませないでくれ……一瞬で……頼む……」
刃は、答えられなかった。喉が詰まる。言葉が出てこない。
ただ、拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。痛い。
「約束する」
刃が、ようやく言葉を絞り出す。
「苦しませない。一瞬で、終わらせる。俺が……必ず」
「ありがとう……神谷さん……あなたに……会えて……よかった……」
男性の声が、小さくなる。
そして、静かになった。
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一時間が経った。
刃は、まだドアの前に座っている。じっと、耳を澄ます。
男性の声は、聞こえない。眠っているのか。それとも——
その時——
ドアの向こうから、音が聞こえた。
ガタン、という音。何かが倒れた音。
刃は、立ち上がった。
「おい! 大丈夫か!」
返事はない。
また、音がする。ドンドンドン。何かが壁を叩く音。力強く、執拗に。規則的ではない。乱暴に。
刃の背筋に、冷たいものが走った。
嫌な予感。
「おい! 返事をしろ!」
刃が叫ぶ。
でも、返ってくるのは——
「グルル……アアア……」
うめき声。
人間の声ではない。
ゾンビの声だ。
刃の心が、沈む。拳を握る。歯を食いしばる。
やはり——
刃は、鍵を開けた。ガチャリ、と音がする。そして、ドアを開ける。
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部屋の中は、暗かった。
月明かりだけが、窓から差し込んでいる。
その光の中に——
スーツの男性が立っていた。
いや、立っているものは、もう男性ではなかった。
顔は血まみれで、目は虚ろ。白目が濁り、瞳孔が開いている。口からは、唾液が垂れている。シャツは破れ、血で汚れている。爪が伸びている。
ゾンビだ。
完全に、ゾンビになっていた。
それは、刃を見た瞬間——
襲いかかってきた。
手を伸ばし、口を開け、うめき声を上げる。
「グアアアア!」
刃は、一瞬躊躇した。
この男性を、昨日まで守っていた。信じていた。人間として、扱っていた。約束を交わした。
でも——
もう、人間じゃない。
刃は、刀を抜いた。
シャキン。
一瞬の迷いが、消えた。
刃は、刀を振るった。
一閃。
刀が、ゾンビの首を切り裂く。肉を断つ感触。骨を断つ感触。血が飛び散る。温かい血。
首が飛ぶ。
体が、崩れ落ちる。ドサリ、と重い音。
すべてが、終わった。
刃は、振り下ろした刀を握ったまま動けなかった。
血の匂いが、鉄と腐臭を混ぜ合わせて鼻を刺す。
だが、耳には何も届かない。世界から音が消えたようだった。
風の音も、心臓の鼓動も、すべて遠のく。
ただ、自分の息だけが、やけに大きく聞こえる。ハァ、ハァ、と。
部屋の中、床に倒れているゾンビ——いや、元スーツの男性を見つめる。
血が床に広がっていく。黒く、ゆっくりと。月明かりに照らされて、鈍く光っている。
刃の目から、涙が一筋、流れた。
拭わない。ただ、流れるままにする。温かい涙。頬を伝う。
「すまない……」
刃が、小さく呟く。声が震えている。
「守れなかった……人間として……守れなかった……」
約束は、守った。苦しませなかった。一瞬で、終わらせた。
でも——
人間として、守れなかった。
刃は、刀を鞘に収めた。刀身に残る血を、布で拭う。ゆっくりと、丁寧に。そして、部屋を出た。ドアを閉める。
廊下に立ち、深く息を吐く。
体が震えている。手が震えている。膝が笑っている。
これでよかったのか。
人を信じた結果が、これなのか。
答えは、出ない。
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その頃。
藤原京は、海辺を歩いていた。
夜の海。月明かりが、波に反射している。キラキラと光る。風が吹き、髪を揺らす。潮の匂い。魚の匂。砂の匂い。
京の足は、ふらついている。空腹が、限界に近い。でも、まだ歩ける。止まれない。止まったら、倒れる。
砂浜を歩く。足跡が残る。でも、波が寄せてきて、消していく。また歩く。また消える。
その時——
前方に、何かが見えた。
人影。
小さな人影。
京は、足を止めた。
月明かりの下、その姿がはっきり見える。
少女だ。
十歳くらいだろうか。白いワンピースを着ている。髪は長く、風に揺れている。裸足で、砂の上に座っている。膝を抱え、海を見ている。
京は、近づくべきか迷った。
少女を、襲ってしまうかもしれない。本能が、そうさせるかもしれない。肉を求める本能が。
でも——
少女が、振り返った。
そして、京を見た。
京は、動けなくなった。
少女は、怖がるだろう。逃げるだろう。悲鳴を上げるだろう。当然だ。俺は、ゾンビなのだから。
でも——
少女は、微笑んだ。
優しい笑顔。柔らかい笑顔。怖がる様子が、まったくない。
「こんばんは」
少女が言った。明るい声。無邪気な声。
京は、返事ができなかった。口を開く。でも、うめき声しか出ない。
「アア……」
少女は、首をかしげた。
「喉、痛いの? 風邪? 大丈夫?」
京は、首を横に振った。いや、振ろうとした。体がうまく動かない。
少女は、立ち上がった。そして、京に近づいてくる。砂を蹴りながら。
京は、後ずさりした。危ない。近づくな。俺は——
でも、少女は止まらない。
「大丈夫? 怪我してるの? 血が出てる」
少女が、京の顔を覗き込む。心配そうな顔。
京の顔は、血まみれだ。服もボロボロだ。目も虚ろだ。
どう見ても、ゾンビだ。
でも、少女は——
怖がらない。
「お兄さん、辛そう。大丈夫? 座ろう?」
少女が、京の手を取った。
小さな手。温かい手。柔らかい手。
京の心が、震えた。
この温もり。この優しさ。
人間の温もり。
京は、涙が出そうになった。でも、涙は出ない。ゾンビには、涙がない。
「お兄さん、一緒に座ろう? 海、きれいだよ」
少女が、京の手を引く。
京は、抵抗できなかった。少女に引かれるまま、砂の上に座る。ゆっくりと。
少女も、隣に座った。膝を抱え、海を見る。
「私ね、家族とはぐれちゃったの。ママとパパ、どこ行ったのかな」
少女が、小さな声で言う。寂しそうな声。でも、泣いていない。
「でも、大丈夫。きっと、また会える。お兄さんも、誰か探してるの?」
京は、頷いた。ゆっくりと。
澪を。俺は、澪を探している。
少女が、微笑んだ。
「じゃあ、一緒に探そう。朝になったら、きっと見つかるよ。私も手伝う」
少女が、砂浜を見回す。そして、何かを見つけた。
「あ、見て!」
少女が小さな貝殻を拾い、京に見せた。月明かりの下、それは白く光っている。
「ね、これハートの形。かわいいでしょ? お兄さんにあげる」
京は、貝殻を受け取った。小さな、ハート型の貝殻。手のひらに載せる。
少女は笑った。
「お兄さんも拾って。おそろいにしよ」
京は震える手で、砂を掘った。ゆっくりと、慎重に。小さな貝を見つけて、差し出す。
少女は拍手した。
「すごい! お兄さん上手! ありがとう!」
その言葉が、京の心に灯をともす。
誰かに”褒められる”感覚——
忘れていた、あの人間の喜び。
温かい感覚。胸が温かくなる。
少女が、京の肩に頭をもたれかけた。
「ねえ、お兄さん。名前は?」
京は、答えられなかった。声が出ない。
でも、心の中で——
「京だ。藤原京だ」
少女は、目を閉じた。
「私はね、ユイ。よろしくね、お兄さん」
少女——ユイが、小さく笑った。
そして、眠り始めた。
京の肩に頭をもたれかけたまま、安心しきった顔で。穏やかな寝息。
京は、動けなかった。
この少女を、守らなければ。
襲ってはいけない。
人間に、戻らなければ。
京の心の中で、何かが強く燃え上がった。
人間性。
それが、戻ってきている。確実に。
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夜明けが、近づいていた。
東の空が、わずかに白み始める。オレンジの光が、地平線を染める。
神谷刃は、一階に降りた。階段を、ゆっくりと。
生き残ったのは十人弱。老人、母子、若い女性、作業員の男、そして刃。
生存者たちが、目を覚まし始めている。刃を見る。不安そうな目で。
「あの人は……?」
母親が尋ねる。子供を抱きしめながら。
刃は、首を横に振った。
「ゾンビになった。俺が、斬った」
生存者たちが、黙る。誰も、何も言わない。
老人が、小さく頷いた。
「お前は、よくやった。約束を守った。それが、人としての務めじゃ」
刃は、何も言わなかった。
ただ、窓の外を見る。
朝日が、昇り始めている。
刃は外へ出た。建物の裏。小さな水たまりがある。
刃は血に濡れた手を、静かに水で拭った。冷たい水。赤い水が流れていく。
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同じ時刻。
海辺。
藤原京は、まだ砂の上に座っていた。
少女——ユイが、まだ眠っている。京の肩に頭をもたれかけたまま。
朝日が、二人を照らす。温かい光。
京は、海を見つめていた。
そして——京もまた、海水に手を浸していた。冷たい海水。波が手を洗っていく。
二人の指先を流れるのは、血と塩。
互いに知らぬまま、同じ痛みを洗い流していた。
京は、海を見つめた。
人間に、戻る。
その決意が、より強くなった。
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夜明け前。
刃は、命を奪った。
京は、言葉を受け取った。
二つの行動が、静かに物語を分岐させていく。
一つは、絶望へ。
一つは、希望へ。
でも、どちらも——まだ、終わっていない。
世界は、まだ回り続けている。
-----
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




