第22話「決断」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
朝日が、廃ビルの割れた窓から差し込んできた。
オレンジ色の光が、瓦礫の散らばった床を照らす。埃が舞い、光の筋が浮かび上がる。壁には亀裂が走り、天井から配線が垂れ下がっている。どこかで、水が滴る音がする。ポタリ、ポタリ。配管が壊れているのか。
神谷刃は、壁にもたれて座っていた。
一睡もしていない。目を閉じることができなかった。外から、時折うめき声が聞こえる。ゾンビが、まだ近くをうろついている。油断すれば、終わりだ。耳を澄ます。足音。遠ざかる足音。また、安全だ。今は。
刃の周りには、生存者たちが横たわっている。毛布にくるまり、床に寝ている。疲れ切って、眠っている。子供の寝息。老人のいびき。若い女性のすすり泣き。寝言を言う者もいる。「助けて」「いやだ」。悪夢を見ているのか。
刃は、刀を膝の上に置いている。柄に手をかけたまま。いつでも抜けるように。刀身には、まだ血が残っている。昨日、斬ったゾンビの血。布で拭いたが、完全には落ちない。
窓の外を見る。東京の街。崩壊した街。煙が立ち上り、建物が傾き、道路が血で染まっている。昨日よりも、ひどくなっている気がする。遠くで、炎が燃えている。ビルが、ゆっくりと崩れていく。
どうする。
刃は、自問する。
このまま、ここにいるわけにはいかない。食料も水も、もう少ししかない。ペットボトル三本。缶詰二つ。それだけだ。十人で分ければ、一日もたない。動かなければ、飢え死にする。
でも、どこへ行く。避難キャンプは全滅していた。北へ向かう橋は爆破された。東は海。西は炎上している。南は——
答えが、出ない。
その時、誰かが目を覚ました。
若い男性——スーツの男。昨夜、刃に謝った男だ。体を起こし、額を押さえる。顔をしかめている。
「うっ……」
苦しそうな声。息が荒い。
刃が、立ち上がる。刀を腰に差し、男性に近づく。
「大丈夫か?」
男性が、顔を上げる。目が充血している。白目が赤く染まっている。額に汗が浮かんでいる。びっしょりと。シャツが、汗で濡れている。
「ちょっと……頭が痛くて……気分が悪い……吐きそうだ……」
刃の背筋に、冷たいものが走った。
まさか——
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他の生存者たちも、目を覚まし始めた。
母親が、子供を抱きしめながら立ち上がる。老人が、杖をついて体を起こす。中年女性が、髪を整えながら周りを見渡す。
刃は、男性に近づいた。膝をつき、目を見る。
「熱はあるか?」
「わからない……でも、体が熱い……寒気もする……震えが止まらない……」
男性が震えている。唇の色が悪い。紫がかっている。呼吸が浅い。
刃は、男性の額に手を当てた。
熱い。異常に熱い。まるで、火傷しそうなほど。
これは——
「感染だ」
誰かが叫んだ。中年女性。昨夜、母親の子供にうるさいと言った女性だ。後ずさりしながら、指を差す。
「あの人、感染してる! ゾンビになる! 離れて!」
生存者たちが、一斉に後ずさりする。男性から距離を取る。恐怖の表情。目を見開き、口を開け、息を呑む。
男性が、顔を上げる。涙が浮かんでいる。
「違う……俺は……ただの風邪だ……疲れてるだけだ……」
「風邪? こんな状況で風邪? 嘘つくな!」
中年女性が叫ぶ。他の生存者たちも、ざわめき始める。
「どうするんだ」
「あいつ、ゾンビになるぞ」
「殺すべきだ。今のうちに」
「いや、隔離だ」
「隔離してどうする。結局ゾンビになるんだろ」
若い女性が、泣き出す。
「いやだ……また、あんなのが……」
刃は、手を上げて制止した。
「落ち着け。まだ、感染と決まったわけじゃない」
「でも、熱があるんだろ! それが感染の兆候だ! テレビで言ってた!」
中年女性が食い下がる。他の生存者も、頷く。恐怖が、判断を狂わせている。
別の男性が、前に出た。四十代くらい。作業服を着ている。筋肉質で、顔に傷がある。
「俺たちを守るために、今のうちに処分すべきだ。ゾンビになる前に。頭を潰せば、ゾンビにならない」
「処分? 人を殺すのか?」
刃が、鋭く問い詰める。目を細める。
「人じゃない。もう、感染者だ。ゾンビ予備軍だ。放っておけば、俺たちを襲う」
男性が言い切る。他の生存者たちが、また頷く。恐怖が、理性を奪っている。人間性が、剥がれていく。
スーツの男性が、震える声で言う。膝をつき、手を合わせる。
「俺は……まだ人間だ……殺さないでくれ……お願いだ……家族がいるんだ……妻が……子供が……」
涙が頬を伝う。声が震える。
母親が、子供を抱きしめたまま言う。申し訳なさそうに、でも恐怖に満ちた声で。
「でも……もしゾンビになったら……私たちが……この子が……」
子供を見下ろす。子供は、母親の服を握りしめている。
老人が、杖を突いて立ち上がる。腰が曲がり、足がふらついている。
「わしは、殺すのは反対じゃ。まだ、わからん。もしかしたら、本当に風邪かもしれん。昔は、風邪でも高熱が出たもんじゃ」
「風邪だとしても、リスクが高すぎる! 万が一があったら、どうするんだ!」
中年女性が叫ぶ。声が甲高くなる。
作業服の男性が、ポケットからナイフを取り出した。
「俺がやる。お前らは見てろ」
男性が、スーツの男性に近づく。
刃は、その前に立ちはだかった。刀の柄に手をかける。
「やめろ」
「どけ。こいつを生かしておけば、俺たちが死ぬ」
「どかない」
刃の目が、鋭く光る。殺気が漂う。
作業服の男性が、一歩下がった。でも、ナイフは握ったままだ。
生存者たちの間で、議論が始まる。声が重なり合い、怒鳴り声になり、混乱していく。
「殺せ」
「いや、待て」
「隔離だ」
「時間の無駄だ」
「人間を殺すのか」
「人間じゃない、感染者だ」
刃は、その中心に立っていた。
どうする。
人を信じるか。
それとも——
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刃は、深く息を吸った。
そして、刀を鞘に収めた。
「俺は、殺さない」
生存者たちが、刃を見る。
「何を言ってるんだ! 俺たちが危ないんだぞ!」
作業服の男性が詰め寄る。ナイフを握りしめ、刃の胸元に突きつける。
刃は、その男性を真っ直ぐ見つめた。動じない。
「俺は、人を見捨てない。それが、俺の道だ」
「道? そんなもので俺たちを守れるのか! 綺麗事だ!」
「守る。でも、殺さない」
刃の声は、静かだが、強い。揺るがない。鉄のような意志。
「じゃあ、どうするんだ!」
「隔離する。別の部屋に移す。様子を見る。もし、ゾンビになったら——その時、俺が斬る」
刃が言い切る。生存者たちが、黙る。刃の目を見て、何も言えなくなる。
スーツの男性が、涙を流しながら言う。
「ありがとう……ありがとう……神様……」
床に手をつき、泣き崩れる。
刃は、男性の肩を支えた。
「立てるか?」
「ああ……なんとか……」
刃は、男性を別の部屋へ連れて行った。階段を上がり、一段一段。男性の体を支えながら。二階の小さな部屋。窓が一つある部屋。壁に穴が開いている。
「ここで休め。水と食料は置いておく。何かあったら、叫べ。俺が来る」
刃は、ペットボトルと缶詰を床に置いた。
「すまない……本当に……お前は、いい奴だ……」
男性が座り込む。背中を壁につけ、目を閉じる。
刃は、部屋を出て、ドアを閉めた。
外から、鍵をかける。ガチャリ、と音がする。
扉の向こうから、かすかな咳が聞こえた。それが人間のものか、そうでないのか——刃には、もうわからなかった。
刃は、ドアの前に立ったまま、しばらく動かなかった。
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一階に戻ると、生存者たちが刃を見ていた。
中年女性が、不満そうに言う。腕を組み、顔をしかめている。
「あんた、甘すぎる。そのせいで、俺たちが死ぬかもしれないのよ」
「そうなったら、俺が責任を取る」
刃が答える。
「責任? 死んだら、意味ないでしょ」
「それでも、俺は人を殺さない。人間を信じる」
刃の目は、真っ直ぐだ。迷いがない。濁りがない。
老人が、小さく笑った。皺だらけの顔に、優しい笑み。
「若いの、お前は立派じゃ。わしは、お前を信じるよ」
母親も、頷く。子供を抱きしめながら。
「私も……信じます。あなたが、ここまで守ってくれたから」
他の生存者たちも、次第に頷き始める。全員ではない。でも、半分以上が。作業服の男性は、まだ不満そうだが、ナイフをしまった。
刃は、深く息を吐いた。
これでいい。
これしか、できない。
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その頃。
藤原京は、海辺の街に辿り着いていた。
小さな港町。家々が並び、漁船が停泊している。でも、人はいない。みんな、逃げたのか。それとも——窓が割れ、ドアが開いている。血痕が残っている。
京は、港の道を歩いていた。足がふらついている。空腹だ。もう、限界に近い。でも、まだ歩ける。まだ、進める。本能が叫んでいる。食え。食え。でも、京は食べない。
海の匂いがする。潮の匂い。魚の匂い。懐かしい匂い。記憶を呼び起こす匂い。
京の記憶が、蘇る。
子供の頃、ここに来たことがある。母さんと、父さんと。夏休み。海を見て、砂浜で遊んで、魚を食べた。刺身。焼き魚。美味しかった。
母さんが笑っていた。麦わら帽子を被って、白いワンピースを着て。
父さんが、俺の頭を撫でた。「京、楽しいか?」「うん!」
温かい記憶。
でも——
道端に、死体があった。
中年男性。漁師だったのか。作業服を着ている。長靴を履いている。顔は血まみれで、首に噛まれた痕がある。深く、大きく。肉が抉れている。でも、動いていない。ゾンビにならなかったのか。それとも、すでに頭を破壊されたのか。頭蓋骨が、割れている。
京は、その死体の前で止まった。
見つめる。
じっと、見つめる。
そして——
京は、死体を抱え上げた。
重い。でも、持てる。京の力は、ゾンビになってから強くなった。人間の頃の何倍も。
京は、死体を海岸に運んだ。一歩一歩、ゆっくりと。
砂浜。白い砂。波が寄せては返す。ザザーッ、という音。穏やかな音。
京は、死体を砂の上に置いた。そして、砂を掘り始めた。
手で、砂を掻き出す。爪が砂に食い込む。一掴み、また一掴み。砂が飛び散る。
穴ができる。深く、深く。腕が砂だらけになる。でも、止まらない。
やがて、十分な深さになった。人一人が入る深さ。
京は、死体を穴に入れた。そして、砂をかける。
埋める。
死体を、埋める。
なぜ、こんなことをしているのか。
わからない。
でも、何かが——心の奥の何かが、そうしろと言っている。
人間は、死んだら埋葬する。
それが、人間のすることだ。
京は、砂をかけ続けた。死体が、完全に埋まるまで。顔が隠れ、体が隠れ、すべてが砂の下に。
そして、その上に立つ。
手を合わせる。
祈る。
何に祈っているのか、わからない。神? 仏? それとも——
でも、祈る。
これが、人間のすることだから。
波が返す音が、まるで「ありがとう」と聞こえた。
京は、目を閉じた。風が吹く。髪が揺れる。
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京は、海岸を歩き続けた。
波が足元に寄せてくる。冷たい水。でも、感じない。温度を感じる感覚が、もう薄い。ただ、濡れているのがわかるだけ。
遠くに、防波堤が見える。長い防波堤。コンクリートの壁。そこに——
京の足が、止まった。
防波堤の上に、人影がある。
女性。
白いワンピースを着ている。
髪が、風に揺れている。長い髪。黒い髪。太陽の光を受けて、輝いている。
その姿を見た瞬間——
京の心が、激しく揺れた。胸の奥で、何かが疼く。
澪だ。
藤宮澪だ。
京は、走り出した。いや、走ろうとした。でも、体がうまく動かない。ふらふらと、よろめきながら、前へ進む。砂に足を取られる。でも、止まらない。
「ミ……オ……」
声を出そうとする。でも、うめき声にしかならない。喉が、言葉を拒否する。
「アア……ミオ……マテ……」
防波堤に近づく。女性の姿が、はっきり見える。
白いワンピース。細い肩。揺れる髪。
でも——
近づくほどに、その姿が薄れていく。
透けていく。
消えていく。
まるで、朝霧のように。
京が防波堤に辿り着いたとき——
そこには、誰もいなかった。
ただ、風が吹いているだけ。
波の音が聞こえるだけ。
幻だったのか。
それとも——
京は、防波堤の上に立った。コンクリートの感触。ザラザラとした。
海を見る。広い海。青い海。水平線が遠くに見える。空と海が、溶け合っている。
澪は、あの向こうにいるのか。
それとも、もういないのか。
わからない。
でも——
京の心の中で、何かが変わった。
人間に戻りたい。
澪に会いたい。
その想いが、より強くなった。燃えるように。消えないように。
京は、また歩き出した。海沿いを。東へ。砂浜を。波打ち際を。
どこへ向かうのか、まだわからない。
でも、進む。
人間に戻るために。
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夜が、訪れようとしていた。
東京の空が、また赤く染まり始める。夕日が、崩壊した街を照らす。
神谷刃は、廃ビルの中で生存者たちと共にいた。隔離した男性は、まだ生きている。まだ、ゾンビになっていない。でも、熱は下がらない。咳が聞こえる。うめき声が聞こえる。
刃は、二階の部屋の前に座っていた。刀を抱え、目を閉じない。耳を澄ます。
もし、男性がゾンビになったら——
その時は、俺が斬る。
それが、俺の責任だ。
人を信じた責任だ。
藤原京は、海辺の廃屋で一夜を明かそうとしていた。小さな漁師小屋。窓から、海が見える。波の音が聞こえる。
京は、窓際に立ち、海を見つめていた。
澪の幻影を探している。
でも、もう見えない。
ただ、波の音だけが、聞こえている。
ザザーッ、ザザーッ。
まるで、誰かが囁いているような。
二人の夜が、また始まる。
決断の夜。
信じる夜。
そして——
何かが、変わり始める夜。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




