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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第2部「裂け目」

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第22話「決断」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 朝日が、廃ビルの割れた窓から差し込んできた。


 オレンジ色の光が、瓦礫の散らばった床を照らす。埃が舞い、光の筋が浮かび上がる。壁には亀裂が走り、天井から配線が垂れ下がっている。どこかで、水が滴る音がする。ポタリ、ポタリ。配管が壊れているのか。


 神谷刃は、壁にもたれて座っていた。


 一睡もしていない。目を閉じることができなかった。外から、時折うめき声が聞こえる。ゾンビが、まだ近くをうろついている。油断すれば、終わりだ。耳を澄ます。足音。遠ざかる足音。また、安全だ。今は。


 刃の周りには、生存者たちが横たわっている。毛布にくるまり、床に寝ている。疲れ切って、眠っている。子供の寝息。老人のいびき。若い女性のすすり泣き。寝言を言う者もいる。「助けて」「いやだ」。悪夢を見ているのか。


 刃は、刀を膝の上に置いている。柄に手をかけたまま。いつでも抜けるように。刀身には、まだ血が残っている。昨日、斬ったゾンビの血。布で拭いたが、完全には落ちない。


 窓の外を見る。東京の街。崩壊した街。煙が立ち上り、建物が傾き、道路が血で染まっている。昨日よりも、ひどくなっている気がする。遠くで、炎が燃えている。ビルが、ゆっくりと崩れていく。


 どうする。


 刃は、自問する。


 このまま、ここにいるわけにはいかない。食料も水も、もう少ししかない。ペットボトル三本。缶詰二つ。それだけだ。十人で分ければ、一日もたない。動かなければ、飢え死にする。


 でも、どこへ行く。避難キャンプは全滅していた。北へ向かう橋は爆破された。東は海。西は炎上している。南は——


 答えが、出ない。


 その時、誰かが目を覚ました。


 若い男性——スーツの男。昨夜、刃に謝った男だ。体を起こし、額を押さえる。顔をしかめている。


「うっ……」


 苦しそうな声。息が荒い。


 刃が、立ち上がる。刀を腰に差し、男性に近づく。


「大丈夫か?」


 男性が、顔を上げる。目が充血している。白目が赤く染まっている。額に汗が浮かんでいる。びっしょりと。シャツが、汗で濡れている。


「ちょっと……頭が痛くて……気分が悪い……吐きそうだ……」


 刃の背筋に、冷たいものが走った。


 まさか——


-----


 他の生存者たちも、目を覚まし始めた。


 母親が、子供を抱きしめながら立ち上がる。老人が、杖をついて体を起こす。中年女性が、髪を整えながら周りを見渡す。


 刃は、男性に近づいた。膝をつき、目を見る。


「熱はあるか?」


「わからない……でも、体が熱い……寒気もする……震えが止まらない……」


 男性が震えている。唇の色が悪い。紫がかっている。呼吸が浅い。


 刃は、男性の額に手を当てた。


 熱い。異常に熱い。まるで、火傷しそうなほど。


 これは——


「感染だ」


 誰かが叫んだ。中年女性。昨夜、母親の子供にうるさいと言った女性だ。後ずさりしながら、指を差す。


「あの人、感染してる! ゾンビになる! 離れて!」


 生存者たちが、一斉に後ずさりする。男性から距離を取る。恐怖の表情。目を見開き、口を開け、息を呑む。


 男性が、顔を上げる。涙が浮かんでいる。


「違う……俺は……ただの風邪だ……疲れてるだけだ……」


「風邪? こんな状況で風邪? 嘘つくな!」


 中年女性が叫ぶ。他の生存者たちも、ざわめき始める。


「どうするんだ」


「あいつ、ゾンビになるぞ」


「殺すべきだ。今のうちに」


「いや、隔離だ」


「隔離してどうする。結局ゾンビになるんだろ」


 若い女性が、泣き出す。


「いやだ……また、あんなのが……」


 刃は、手を上げて制止した。


「落ち着け。まだ、感染と決まったわけじゃない」


「でも、熱があるんだろ! それが感染の兆候だ! テレビで言ってた!」


 中年女性が食い下がる。他の生存者も、頷く。恐怖が、判断を狂わせている。


 別の男性が、前に出た。四十代くらい。作業服を着ている。筋肉質で、顔に傷がある。


「俺たちを守るために、今のうちに処分すべきだ。ゾンビになる前に。頭を潰せば、ゾンビにならない」


「処分? 人を殺すのか?」


 刃が、鋭く問い詰める。目を細める。


「人じゃない。もう、感染者だ。ゾンビ予備軍だ。放っておけば、俺たちを襲う」


 男性が言い切る。他の生存者たちが、また頷く。恐怖が、理性を奪っている。人間性が、剥がれていく。


 スーツの男性が、震える声で言う。膝をつき、手を合わせる。


「俺は……まだ人間だ……殺さないでくれ……お願いだ……家族がいるんだ……妻が……子供が……」


 涙が頬を伝う。声が震える。


 母親が、子供を抱きしめたまま言う。申し訳なさそうに、でも恐怖に満ちた声で。


「でも……もしゾンビになったら……私たちが……この子が……」


 子供を見下ろす。子供は、母親の服を握りしめている。


 老人が、杖を突いて立ち上がる。腰が曲がり、足がふらついている。


「わしは、殺すのは反対じゃ。まだ、わからん。もしかしたら、本当に風邪かもしれん。昔は、風邪でも高熱が出たもんじゃ」


「風邪だとしても、リスクが高すぎる! 万が一があったら、どうするんだ!」


 中年女性が叫ぶ。声が甲高くなる。


 作業服の男性が、ポケットからナイフを取り出した。


「俺がやる。お前らは見てろ」


 男性が、スーツの男性に近づく。


 刃は、その前に立ちはだかった。刀の柄に手をかける。


「やめろ」


「どけ。こいつを生かしておけば、俺たちが死ぬ」


「どかない」


 刃の目が、鋭く光る。殺気が漂う。


 作業服の男性が、一歩下がった。でも、ナイフは握ったままだ。


 生存者たちの間で、議論が始まる。声が重なり合い、怒鳴り声になり、混乱していく。


「殺せ」


「いや、待て」


「隔離だ」


「時間の無駄だ」


「人間を殺すのか」


「人間じゃない、感染者だ」


 刃は、その中心に立っていた。


 どうする。


 人を信じるか。


 それとも——


-----


 刃は、深く息を吸った。


 そして、刀を鞘に収めた。


「俺は、殺さない」


 生存者たちが、刃を見る。


「何を言ってるんだ! 俺たちが危ないんだぞ!」


 作業服の男性が詰め寄る。ナイフを握りしめ、刃の胸元に突きつける。


 刃は、その男性を真っ直ぐ見つめた。動じない。


「俺は、人を見捨てない。それが、俺の道だ」


「道? そんなもので俺たちを守れるのか! 綺麗事だ!」


「守る。でも、殺さない」


 刃の声は、静かだが、強い。揺るがない。鉄のような意志。


「じゃあ、どうするんだ!」


「隔離する。別の部屋に移す。様子を見る。もし、ゾンビになったら——その時、俺が斬る」


 刃が言い切る。生存者たちが、黙る。刃の目を見て、何も言えなくなる。


 スーツの男性が、涙を流しながら言う。


「ありがとう……ありがとう……神様……」


 床に手をつき、泣き崩れる。


 刃は、男性の肩を支えた。


「立てるか?」


「ああ……なんとか……」


 刃は、男性を別の部屋へ連れて行った。階段を上がり、一段一段。男性の体を支えながら。二階の小さな部屋。窓が一つある部屋。壁に穴が開いている。


「ここで休め。水と食料は置いておく。何かあったら、叫べ。俺が来る」


 刃は、ペットボトルと缶詰を床に置いた。


「すまない……本当に……お前は、いい奴だ……」


 男性が座り込む。背中を壁につけ、目を閉じる。


 刃は、部屋を出て、ドアを閉めた。


 外から、鍵をかける。ガチャリ、と音がする。


 扉の向こうから、かすかな咳が聞こえた。それが人間のものか、そうでないのか——刃には、もうわからなかった。


 刃は、ドアの前に立ったまま、しばらく動かなかった。


-----


 一階に戻ると、生存者たちが刃を見ていた。


 中年女性が、不満そうに言う。腕を組み、顔をしかめている。


「あんた、甘すぎる。そのせいで、俺たちが死ぬかもしれないのよ」


「そうなったら、俺が責任を取る」


 刃が答える。


「責任? 死んだら、意味ないでしょ」


「それでも、俺は人を殺さない。人間を信じる」


 刃の目は、真っ直ぐだ。迷いがない。濁りがない。


 老人が、小さく笑った。皺だらけの顔に、優しい笑み。


「若いの、お前は立派じゃ。わしは、お前を信じるよ」


 母親も、頷く。子供を抱きしめながら。


「私も……信じます。あなたが、ここまで守ってくれたから」


 他の生存者たちも、次第に頷き始める。全員ではない。でも、半分以上が。作業服の男性は、まだ不満そうだが、ナイフをしまった。


 刃は、深く息を吐いた。


 これでいい。


 これしか、できない。


-----


 その頃。


 藤原京は、海辺の街に辿り着いていた。


 小さな港町。家々が並び、漁船が停泊している。でも、人はいない。みんな、逃げたのか。それとも——窓が割れ、ドアが開いている。血痕が残っている。


 京は、港の道を歩いていた。足がふらついている。空腹だ。もう、限界に近い。でも、まだ歩ける。まだ、進める。本能が叫んでいる。食え。食え。でも、京は食べない。


 海の匂いがする。潮の匂い。魚の匂い。懐かしい匂い。記憶を呼び起こす匂い。


 京の記憶が、蘇る。


 子供の頃、ここに来たことがある。母さんと、父さんと。夏休み。海を見て、砂浜で遊んで、魚を食べた。刺身。焼き魚。美味しかった。


 母さんが笑っていた。麦わら帽子を被って、白いワンピースを着て。


 父さんが、俺の頭を撫でた。「京、楽しいか?」「うん!」


 温かい記憶。


 でも——


 道端に、死体があった。


 中年男性。漁師だったのか。作業服を着ている。長靴を履いている。顔は血まみれで、首に噛まれた痕がある。深く、大きく。肉が抉れている。でも、動いていない。ゾンビにならなかったのか。それとも、すでに頭を破壊されたのか。頭蓋骨が、割れている。


 京は、その死体の前で止まった。


 見つめる。


 じっと、見つめる。


 そして——


 京は、死体を抱え上げた。


 重い。でも、持てる。京の力は、ゾンビになってから強くなった。人間の頃の何倍も。


 京は、死体を海岸に運んだ。一歩一歩、ゆっくりと。


 砂浜。白い砂。波が寄せては返す。ザザーッ、という音。穏やかな音。


 京は、死体を砂の上に置いた。そして、砂を掘り始めた。


 手で、砂を掻き出す。爪が砂に食い込む。一掴み、また一掴み。砂が飛び散る。


 穴ができる。深く、深く。腕が砂だらけになる。でも、止まらない。


 やがて、十分な深さになった。人一人が入る深さ。


 京は、死体を穴に入れた。そして、砂をかける。


 埋める。


 死体を、埋める。


 なぜ、こんなことをしているのか。


 わからない。


 でも、何かが——心の奥の何かが、そうしろと言っている。


 人間は、死んだら埋葬する。


 それが、人間のすることだ。


 京は、砂をかけ続けた。死体が、完全に埋まるまで。顔が隠れ、体が隠れ、すべてが砂の下に。


 そして、その上に立つ。


 手を合わせる。


 祈る。


 何に祈っているのか、わからない。神? 仏? それとも——


 でも、祈る。


 これが、人間のすることだから。


 波が返す音が、まるで「ありがとう」と聞こえた。


 京は、目を閉じた。風が吹く。髪が揺れる。


-----


 京は、海岸を歩き続けた。


 波が足元に寄せてくる。冷たい水。でも、感じない。温度を感じる感覚が、もう薄い。ただ、濡れているのがわかるだけ。


 遠くに、防波堤が見える。長い防波堤。コンクリートの壁。そこに——


 京の足が、止まった。


 防波堤の上に、人影がある。


 女性。


 白いワンピースを着ている。


 髪が、風に揺れている。長い髪。黒い髪。太陽の光を受けて、輝いている。


 その姿を見た瞬間——


 京の心が、激しく揺れた。胸の奥で、何かが疼く。


 澪だ。


 藤宮澪だ。


 京は、走り出した。いや、走ろうとした。でも、体がうまく動かない。ふらふらと、よろめきながら、前へ進む。砂に足を取られる。でも、止まらない。


「ミ……オ……」


 声を出そうとする。でも、うめき声にしかならない。喉が、言葉を拒否する。


「アア……ミオ……マテ……」


 防波堤に近づく。女性の姿が、はっきり見える。


 白いワンピース。細い肩。揺れる髪。


 でも——


 近づくほどに、その姿が薄れていく。


 透けていく。


 消えていく。


 まるで、朝霧のように。


 京が防波堤に辿り着いたとき——


 そこには、誰もいなかった。


 ただ、風が吹いているだけ。


 波の音が聞こえるだけ。


 幻だったのか。


 それとも——


 京は、防波堤の上に立った。コンクリートの感触。ザラザラとした。


 海を見る。広い海。青い海。水平線が遠くに見える。空と海が、溶け合っている。


 澪は、あの向こうにいるのか。


 それとも、もういないのか。


 わからない。


 でも——


 京の心の中で、何かが変わった。


 人間に戻りたい。


 澪に会いたい。


 その想いが、より強くなった。燃えるように。消えないように。


 京は、また歩き出した。海沿いを。東へ。砂浜を。波打ち際を。


 どこへ向かうのか、まだわからない。


 でも、進む。


 人間に戻るために。


-----


 夜が、訪れようとしていた。


 東京の空が、また赤く染まり始める。夕日が、崩壊した街を照らす。


 神谷刃は、廃ビルの中で生存者たちと共にいた。隔離した男性は、まだ生きている。まだ、ゾンビになっていない。でも、熱は下がらない。咳が聞こえる。うめき声が聞こえる。


 刃は、二階の部屋の前に座っていた。刀を抱え、目を閉じない。耳を澄ます。


 もし、男性がゾンビになったら——


 その時は、俺が斬る。


 それが、俺の責任だ。


 人を信じた責任だ。


 藤原京は、海辺の廃屋で一夜を明かそうとしていた。小さな漁師小屋。窓から、海が見える。波の音が聞こえる。


 京は、窓際に立ち、海を見つめていた。


 澪の幻影を探している。


 でも、もう見えない。


 ただ、波の音だけが、聞こえている。


 ザザーッ、ザザーッ。


 まるで、誰かが囁いているような。


 二人の夜が、また始まる。


 決断の夜。


 信じる夜。


 そして——


 何かが、変わり始める夜。


-----


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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