第21話「崩壊する秩序」
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ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
夜が明けた。
夜が明けても、炎は消えていなかった。風が灰を運び、焦げた街が静かに息をしている。東の空が白み、朝日が東京の廃墟を照らす。オレンジ色の光が、崩れたビル、燃え尽きた車、血に染まった道路を浮かび上がらせる。煙が立ち上り、朝霧のように街を覆っている。鳥の声はない。虫の音もない。ただ、風だけが、瓦礫の間を吹き抜けていく。冷たい風。灰の匂いを運ぶ風。
テレビ局では、緊急放送が流れていた。
スタジオに座る官房長官。顔は疲れ切っているが、表情は努めて落ち着いている。カメラの前で、原稿を読み上げる。手元の紙が、わずかに震えている。
「国民の皆様。政府は、昨夜発生した一連の感染事案について、制圧に成功いたしました。現在、感染は終息に向かっており、自衛隊および警察の協力により、都内各所での秩序回復が進んでおります。市民の皆様におかれましては、冷静な対応をお願いいたします」
嘘だった。
完全な、絶対的な、嘘だった。
画面の向こう、スタジオの外では——地獄が広がっていた。官房長官は知っている。報告を受けている。避難所が次々と陥落していることを。自衛隊が撤退を続けていることを。でも、言えない。言えば、国が終わる。
スタジオの片隅で、ディレクターが拳を握りしめていた。嘘を流している。国民を騙している。でも、止められない。
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数時間後。
都内某所の避難所。
体育館に、数百人の避難民が詰め込まれていた。床に座り込み、毛布にくるまり、不安そうな顔で朝を迎えている。子供が泣き、老人が咳き込み、若者がスマートフォンを見つめている。圏外。何度確認しても、圏外。窓から差し込む朝日が、疲れ切った人々の顔を照らす。
入り口には、自衛隊員が立っていた。二人。銃を構え、外を警戒している。でも、その顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。目の下にクマができ、手が微かに震えている。昨夜から、一睡もしていない。
「おい、本当に終息したのか?」
若い隊員が、先輩に尋ねる。声が小さい。不安が滲んでいる。二十代前半。入隊して一年。実戦経験は、昨夜が初めてだった。
「知るか。上がそう言ってるんだ。信じるしかない」
先輩隊員が答える。でも、その目には、疑念が浮かんでいる。三十代半ば。イラク派遣経験あり。でも、あれとこれは違う。あれは人間と戦った。これは——
その時——外から、音が聞こえた。
ズシン、ズシン。
足音。不規則な足音。複数。
隊員たちが、銃を構える。安全装置を外す。カチャ、という音。
「来るぞ……」
体育館のドアが、叩かれ始めた。ドンドンドン。力強く、執拗に。ドアが軋む。ミシミシと音を立てる。
避難民たちが、ざわめき始める。
「何? 何の音?」
「外に何かいるの?」
「ゾンビ? まだいるの? 終息したんじゃないの?」
恐怖が、再び広がり始める。母親が子供を抱きしめる。老人が毛布にしがみつく。若者が立ち上がり、出口を探す。
そして——ドアが、破られた。
バキン、という音と共に、ドアが内側に倒れる。金属の蝶番が砕け、木材が割れる。そこから、ゾンビの群れが雪崩れ込んできた。
数十体。血まみれで、服がボロボロで、目が虚ろで——口からは、唾液が垂れている。
悲鳴が上がる。
隊員が発砲する。パンパンパン。銃声が体育館に響く。轟音。耳が痛くなるほどの音。ゾンビの頭が砕け、血が飛び散り、体が倒れる。でも、止まらない。次から次へと、ゾンビが入ってくる。
若い隊員が叫ぶ。
「弾が足りない! どうする!」
「撃ち続けろ! 時間を稼げ!」
先輩隊員が怒鳴る。でも、その声も恐怖で震えている。
避難民が逃げ出す。出口へ、窓へ、どこでもいい。とにかく逃げる。将棋倒しが起きる。ドミノのように人が倒れる。誰かが倒れ、踏みつけられる。骨が折れる音。悲鳴。子供が泣き叫ぶ。
若い母親が、子供を抱えて走る。でも、群衆に押され、転ぶ。子供が手から離れる。
「だめ! ○○ちゃん!」
母親が手を伸ばす。でも、届かない。群衆が二人を引き離す。子供が泣き叫ぶ。母親が叫ぶ。でも、声は届かない。
隊員の一人が、ゾンビに噛まれた。肩に。ガブリ、と音がして、血が飛び散る。隊員が悲鳴を上げる。銃を落とす。ガシャンと床に落ちる音。
先輩隊員が振り向く。
「おい! しっかりしろ!」
でも、若い隊員は床に倒れる。肩を押さえ、血が指の間から溢れる。顔が青ざめる。
「痛い……痛いです……」
ゾンビが、その上に覆いかぶさる。
先輩隊員は、目を逸らした。助けられない。もう、手遅れだ。
体育館は、一瞬で地獄と化した。
政府の「終息宣言」など、何の意味もなかった。
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同じ頃。
神谷刃は、多摩北部の道を歩いていた。
後ろには、十人ほどの生存者が続いている。昨夜、橋で別れた市民の中で、生き残った者たちだ。若い母親と子供、老人、男性数名、女性数名。みんな、疲れ切った顔をしているが、まだ歩いている。まだ、生きている。足を引きずり、息を切らし、でも止まらない。
刃は地図を広げ、道を確認していた。紙の地図。古い道路地図。スマートフォンは、もう使えない。圏外だし、バッテリーも切れかけている。地図の端が破れ、折り目が擦り切れている。何度も開いたから。
「この先に、避難キャンプがあるはずだ。自衛隊が設営したと聞いた」
刃が言う。生存者たちが、顔を上げる。希望の光が、わずかに灯る。
「本当に……あるんですか?」
若い母親が尋ねる。子供を抱きしめながら。子供は眠っている。疲れ切って、眠っている。小さな寝息。生きている証。
「ある。少なくとも、昨日の夕方まではあった。無線で確認した」
刃は頷く。でも、今もあるかは、わからない。昨夜、あれだけの混乱があった。キャンプが無事である保証はない。
道の両脇には、放棄された家々が並んでいる。窓が割れ、ドアが開いている。カーテンが風に揺れている。誰もいない。住人は、逃げたのか。それとも——玄関に、血痕が残っている家もある。
刃は、前を見据える。刀を腰に差し、一歩一歩、確実に進む。足音が、静かな住宅街に響く。
老人が、後ろから声をかけた。杖を突きながら、ゆっくりと歩いている。
「若いの……ありがとうな。お前がいなければ、俺たちはもう死んでいた」
「いえ。当然のことをしただけです」
刃は振り返らない。でも、声には温かみがある。
若い男性——昨夜、刃に食ってかかった男——が、申し訳なさそうに言う。スーツの男。泥と血で汚れている。
「昨日は……すまなかった。取り乱して……お前を責めて……」
「気にするな。あの状況なら、誰だってパニックになる。俺だって、内心は怖かった」
刃は、それ以上何も言わなかった。責めない。許す。ただ、前へ進む。
道の先に、建物が見えてきた。学校だ。小学校。校庭にテントが並び、自衛隊の車両が停まっている。フェンスが張られ、入り口に検問所がある。
「あれだ!」
生存者たちが、歓声を上げる。走り出そうとする。でも、刃が手を上げて止めた。
「待て。様子がおかしい」
刃の目が、細まる。刀の柄に手をかける。
キャンプは、静かすぎる。人の声が聞こえない。自衛隊員の姿も見えない。車両は停まっているが、エンジンは止まっている。煙も出ていない。旗も揺れていない。
何かが、起きている。
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刃たちは、慎重にキャンプに近づいた。
フェンスの前に立つ。門は、開いている。誰も守っていない。検問所の椅子が倒れている。
刃は、刀を抜いた。シャキン、と音が響く。静かな空気を切り裂く音。
「俺が先に行く。お前たちは、ここで待て」
「でも……危ないんじゃ……」
「いい。何かあったら、すぐに逃げろ。北へ向かえ。走れるだけ走れ」
刃は、ゆっくりと門をくぐった。
校庭に入る。テントが並んでいる。白いテント。医療用のテント。でも、静かだ。不気味なほど、静かだ。風がテントを揺らす。パタパタと布が鳴る音だけが聞こえる。
刃は、最初のテントに近づいた。入り口の布を開ける。
中を覗く。
血だまりがあった。
そして、死体。自衛隊員の死体。若い男性。制服が血で染まっている。噛まれた痕がある。首に、腕に、足に——肉が抉れ、骨が見えている。
刃は、息を呑んだ。顔を背ける。吐き気がする。
ここも、やられた。
次のテント。布を開ける。また死体。今度は市民の死体。家族だったのか。父親、母親、子供。三人。みんな、倒れている。抱き合ったまま、死んでいる。動かない。
刃の心が、沈む。拳を握る。爪が掌に食い込む。
ここも、終わっている。
三つ目のテント。医療用のテント。中には、ベッドが並んでいる。その上に、患者が横たわっている。でも、みんな死んでいる。目を見開いたまま、硬直している。
刃は、テントを出た。深く息を吸う。新鮮な空気。でも、血の匂いが混じっている。
その時——うめき声が聞こえた。
振り向くと、テントから一体のゾンビが出てきた。自衛隊員のゾンビ。顔は血まみれで、目は虚ろ。制服がボロボロで、階級章が外れている。
刃は、刀を構える。中段の構え。
ゾンビが、刃に向かって歩いてくる。手を伸ばし、口を開け、うめき声を上げる。
「グルルル……」
刃は、一閃で首を斬った。
刀が空気を切り裂く。ゾンビの首が飛ぶ。血が噴き出す。体が崩れ落ちる。ドサリ、と重い音。
でも、他のテントからも、ゾンビが出てきた。二体、三体、五体、十体——
刃は、後ろに下がった。
やばい。囲まれる。
「逃げろ!」
刃が叫ぶ。門の外にいる生存者たちに向かって。
生存者たちが、走り出す。悲鳴を上げながら、必死に。
刃も、ゾンビを斬りながら後退する。一体、また一体。刀を振るう。血が飛び散り、体が倒れる。でも、終わらない。
刃は、門を出た。そして、走る。生存者たちと共に。
ゾンビの群れが、後を追ってくる。うめき声が響く。足音が追いかけてくる。
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刃たちは、別の建物に逃げ込んだ。
廃ビル。三階建て。窓が割れ、壁が崩れかけている。でも、隠れるには十分だ。
刃は、一階のドアを閉め、バリケードを作った。椅子、机、棚——手当たり次第に積み上げる。生存者たちも手伝う。息を切らしながら、必死に。
やがて、ゾンビの群れが外を通り過ぎていった。うめき声が遠ざかる。足音が消える。
刃は、深く息を吐いた。背中を壁につけ、座り込む。汗が額を伝う。
助かった。今は。
でも、どうする。避難キャンプは、全滅している。北へ行く希望が、消えた。
生存者たちが、刃を見る。不安そうな目で。頼るような目で。
「どうするんですか?」
母親が尋ねる。子供を抱きしめながら。子供が泣いている。
刃は、答えられなかった。言葉が出てこない。
老人が、小さく笑った。諦めたような笑い。
「もう、終わりかな……」
「終わりじゃない」
刃が言う。顔を上げる。目に、強い光が宿る。
「まだ、終わってない。俺たちは生きてる。生きてる限り、希望はある」
生存者たちが、刃を見る。その言葉に、わずかに救われたような顔。
刃は、立ち上がった。
「休んだら、また動く。別のルートを探す。絶対に、諦めない」
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その頃。
藤原京は、別の廃ビルにいた。
都心のオフィスビル。十階建て。窓ガラスは割れ、天井は崩れ、床には瓦礫が散乱している。壁に亀裂が走り、配線が垂れ下がっている。
京は、その中を一人で歩いていた。
群れを離れて、もう半日が経つ。一人で、ただ歩いている。東へ。海へ。でも、まだ遠い。
京の体は、ふらふらとしている。空腹だ。肉を食べていない。本能が、叫んでいる。食え。食え。胃が痛い。喉が渇く。
でも、京は食べない。人間を襲わない。理由はわからない。ただ、何かが——心の奥の何かが、それを止めている。
澪の声。
「人間に戻れるなら」
人間に、戻る。
そのためには、人間を食べてはいけない。そんな気がする。根拠はない。でも、そう感じる。
京は、ビルの窓際に立った。
外を見る。東京の街。崩壊した街。煙が立ち上り、炎が燃え、死体が転がっている。遠くで、爆発音が聞こえる。
ここは、俺の街だった。
京の記憶が、蘇り始める。
このビル。俺は、ここでバイトをしていた。コンビニ。一階にあったコンビニ。
レジに立ち、客に笑顔で対応する。「ありがとうございました」。何度も、何度も。バーコードをスキャンする音。ピッ、ピッ。お釣りを渡す。レジ袋に商品を入れる。
店長は優しい人だった。五十代の男性。いつも笑顔で。ミスをしても、怒らなかった。「次は気をつけてね」。そう言って、肩を叩いた。
同僚の女の子がいた。大学生。可愛い子だった。名前は——思い出せない。でも、笑顔を覚えている。休憩中、一緒に缶コーヒーを飲んだ。「京くん、大学どう?」「まあまあかな」。他愛ない会話。でも、楽しかった。
京の心が、温かくなる。
人間だった頃の記憶。温かい記憶。笑顔の記憶。
でも、それと同時に——悲しみが湧く。
もう、戻れない。あの日々には。
店長は、どうなった。同僚の子は。みんな、死んだのか。ゾンビになったのか。
京は、うめき声を上げた。
「アアア……」
でも、それは——悲しみのうめき声だった。怒りでも、空腹でもない。ただ、悲しい。
京の中で、何かが変わり始めている。本能だけではない。意識が、戻ってきている。人間の心が、蘇り始めている。感情が、戻ってきている。
窓の外、遠くに海が見える。まだ小さく、でも確かに見える。青い線。水平線。
あそこへ行く。澪に会う。
京は、また歩き出した。一歩、また一歩。ふらふらと、でも確実に。
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夜が、また訪れようとしていた。
東京の空が、赤く染まり始める。夕日が、崩壊した街を照らす。まるで世界そのものが、血を流しているようだった。
神谷刃は、廃ビルの中で生存者たちと共にいた。どうすればいいのか、まだ答えは出ていない。でも、諦めていない。絶対に、諦めない。人を見捨てない。それが、俺の道だ。
藤原京は、一人で街を歩いていた。海を目指して。澪を目指して。人間に戻るために。
二人の運命は、まだ交わらない。
でも、確実に——近づいている。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




