第20話「逃げる夜」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
都心の夜が、血の色に染まっていた。
高層ビルから炎が噴き出し、煙が空を覆っている。赤と黒。オレンジと灰色。それらが混ざり合い、東京の夜空を異様な色に変えていた。遠くで爆発音が響く。ドォン、ドォン。地面が揺れ、窓ガラスが震える。ビルの破片が落下し、アスファルトに突き刺さる。車のアラームが鳴り響き、サイレンが遠ざかり、悲鳴が途切れない。人間の声、機械の音、破壊の音——すべてが混ざり合い、地獄の交響曲を奏でている。
国道は、放棄された車で埋め尽くされていた。どこまでも続く車の列。高級車、軽自動車、トラック、バス。すべてが放棄されている。ドアが開いたまま、エンジンがかかったままの車。ヘッドライトが夜空を照らし、ワイパーが動き続けている。窓ガラスが割れ、血が染み込んだシート。ハンドルに手形がついている。誰も乗っていない。みんな、逃げた。走って、必死に、どこかへ。
歩道には、倒れた人々がいた。動かない人々。もう助からない人々。血の海の中に横たわり、目を見開いたまま、硬直している。スーツ姿の男性、学生服の少年、ベビーカーを握ったままの母親。その横を、ゾンビの群れが通り過ぎていく。ズシン、ズシン。不規則な足音。うめき声。グルルル……アアアア……。彼らは倒れた人々を踏みつけ、時々立ち止まり、肉を食らう。骨を砕く音。肉を引き裂く音。
避難経路は、すべて寸断されていた。
東へ向かう高速道路——封鎖。バリケードが立ち、自衛隊の車両が横倒しになっている。装甲車のタイヤが宙を向き、砲塔が歪んでいる。でも、隊員の姿はない。逃げたのか。それとも——血痕だけが、地面に残っている。
南へ向かう橋——炎上。車が折り重なり、燃えている。黒煙が立ち上り、熱波が伝わってくる。橋の手前に立つだけで、顔が焼けるように熱い。近づけない。渡れない。橋桁が軋み、今にも崩れそうだ。
西へ向かう鉄道——崩壊。線路が歪み、電車が脱線している。車両が傾き、窓ガラスが割れている。中から、うめき声が聞こえる。ゾンビになった乗客たちが、窓から這い出そうとしている。手が伸び、顔が覗く。
そして、北へ向かう道だけが——まだ、開いていた。
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神谷刃は、その道を走っていた。
後ろには、二十人ほどの市民が続いている。老人、子供、男性、女性。みんな、疲れ切った顔をしている。足を引きずり、肩で息をし、服は汗と血で汚れている。でも止まらない。止まれば、死ぬ。それだけが、彼らを動かしている。
刃は振り返り、声をかけた。喉が枯れている。何時間も叫び続けている。唾を飲み込もうとするが、口の中はカラカラだ。
「もう少しだ! 橋を渡れば、北へ抜けられる! そこには自衛隊がいる! 希望がある!」
でも、本当にそうなのか? 刃自身、確信が持てない。ただ、希望を持たせるために、そう言うしかない。嘘でもいい。人々が走り続けるなら。
若い母親が、子供を抱えて走っている。五歳くらいの男の子。顔を母親の肩に埋め、泣いている。母親の足がもつれる。転びそうになる。膝が笑っている。もう限界だ。刃が駆け寄り、肩を支えた。
「大丈夫ですか?」
「ありがとう……ございます……でも、もう……」
母親の声は、震えている。涙が頬を伝っている。目の下にクマができ、唇は乾いている。疲労と恐怖で、もう限界だ。
刃は、子供を自分が抱えた。軽い。でも、温かい。生きている重さ。心臓が鼓動している。守らなければ。この命を。
「もう少しです。頑張りましょう。お子さんのためにも」
母親が頷く。涙を拭い、また走り出す。足がふらついている。でも、止まらない。
後方から、老人の声が聞こえた。
「待ってくれ……もう……走れない……置いていってくれ……」
七十代くらいの男性。杖をついて、必死に歩いている。でも、足が遅い。息が上がり、顔は真っ青だ。心臓が悪いのか。群れに追いつかれる。
刃は、グループを止めた。
「少し休憩します。水を飲んで、呼吸を整えて」
市民たちが、その場に座り込む。ペットボトルを取り出し、水を飲む。手が震えて、水がこぼれる。誰かが咳き込む。誰かが嘔吐する。
でも、時間がない。遠くから、うめき声が聞こえる。ゾンビの群れが、近づいている。足音が、徐々に大きくなる。
若い男性が、刃に近づいてきた。二十代後半。スーツを着ているが、泥と血で汚れている。ネクタイは緩み、シャツは破れている。顔には焦燥の色が浮かんでいる。目が血走っている。
「おい、休んでる場合か? 置いていこう、あの爺さん」
「何を言ってるんだ」
刃が、鋭い目で男を見る。男は一歩下がるが、食い下がる。拳を握りしめ、声を荒げる。
「俺たちが死ぬぞ! 足手まといは置いていくべきだ! 当然だろ! サバイバルなんだから!」
「誰も置いていかない」
刃の声は、低く、冷たい。刀の柄に手をかける。男は、それを見て黙った。でも、目には不満の色が残っている。唇を噛み、睨みつけている。
老人が、申し訳なさそうに言う。震える声で、涙を浮かべながら。
「すまない……私のせいで……みんなを危険に……本当に、置いていってくれ……」
「気にしないでください。みんなで行きます。誰も見捨てない。それが、人間だ」
刃は、老人の腕を支えた。
あの日、自分の手で失った命。その記憶が、刃を動かしていた。罪でも本能でもなく――贖罪だった。
そして、再び歩き出す。市民たちが、重い足を引きずりながらついてくる。
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橋が、見えてきた。
荒川にかかる大きな橋。まだ無傷だ。照明が点灯し、橋の向こうに北の街が見える。暗闇の中の光。希望の光。あそこに行けば、助かる。そう信じたい。
「あそこだ! 急げ! もう少しだ!」
刃が叫ぶ。市民たちが、最後の力を振り絞って走り出す。母親が子供を抱き直し、老人が杖を突き、若者が拳を握る。橋まで、あと百メートル。八十メートル。五十メートル。
その時——
爆発音が響いた。
ドォォォン。
橋が、爆発した。
炎が噴き出し、橋桁が崩れる。鉄骨が軋み、ギシギシと悲鳴を上げる。コンクリートが砕け、轟音と共に崩壊していく。破片が宙を舞い、火花が散る。熱波が押し寄せ、刃たちを吹き飛ばしそうになる。橋の一部が川に落ちる。ザブン、と巨大な水柱が上がる。
刃たちは、呆然と立ち尽くした。
橋が、ない。
崩れた。目の前で。
渡れない。
北へ、行けない。
希望が、消えた。
若い男性が、叫んだ。声が裏返っている。顔が歪んでいる。
「なんだよこれ! 誰がやった! 自衛隊か!? ふざけるな! 俺たちを殺す気か!」
男性が地面を蹴る。拳を振り上げる。怒りと絶望が、顔を歪めている。涙が溢れ、叫び続ける。
「俺は死にたくない! まだ死にたくないんだよ!」
母親が、座り込んだ。子供を抱きしめ、泣き崩れる。肩が震え、嗚咽が漏れる。
「どうしよう……どうしよう……ごめんね……ごめんね……」
子供に謝り続ける。何に対して謝っているのか。生まれてきたことか。ここに連れてきたことか。
老人が、杖にもたれかかり、深く息を吐く。目を閉じ、諦めたような表情。
「もう、終わりか……こんなところで……」
中年女性が、地面に膝をつく。手を合わせ、祈り始める。神に。仏に。何でもいい。誰か、助けてくれと。
刃は、拳を握りしめた。歯を食いしばる。爪が掌に食い込む。痛い。でも、心の痛みの方が強い。
どうする。どうすればいい。
後ろから、うめき声が聞こえた。
振り返ると——ゾンビの群れが、近づいている。
数十体。いや、数百体。道路を埋め尽くし、こちらに向かってくる。月明かりの下、その影が揺れている。
逃げ場が、ない。
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市民たちの間で、恐怖が広がった。
若い男性が、刃に詰め寄る。胸ぐらを掴み、顔を近づける。唾が飛ぶ。
「どうするんだ! お前が何とかしろ! お前が導いたんだろ! 責任取れ!」
「落ち着け。今、考えてる」
「考えてる場合か! 俺たちを殺す気か! お前のせいで死ぬんだぞ!」
男性が刃の胸を押す。刃は、それを払いのけた。でも、力を抑える。殴りたい。でも、殴れない。
「冷静になれ。パニックになったら、終わりだ」
でも、男性は聞かない。他の市民も、ざわめき始める。恐怖が伝染していく。
「どうするんだ」
「逃げられないじゃないか」
「あの橋を爆破したのは誰だ」
「政府か? 自衛隊か?」
「俺たちを見捨てたのか」
「最初から助ける気なんてなかったんだ」
疑念が、不安が、恐怖が——すべてが渦巻き、市民たちの心を侵食していく。理性が崩れていく。人間性が、剥がれていく。
中年女性が、母親を指差した。顔を歪め、ヒステリックな声で叫ぶ。
「あの子供、泣き止まないわ。うるさい。ゾンビを引き寄せる。黙らせなさい!」
母親が、顔を上げる。涙で濡れた顔。困惑と恐怖。
「何を……子供が泣くのは当然でしょう……」
「当然じゃない! 私たちが危ない! 黙らせなさい! 殺されたいの!?」
「子供に何を言ってるの! あなたこそ、うるさい!」
女性たちが言い争いを始める。声が大きくなる。怒鳴り合う。互いを指差し、罵り合う。
若い男性が、老人を睨む。指を突きつけ、吐き捨てるように言う。
「やっぱり置いていくべきだったんだ。足手まといだ。お前のせいで、俺たちが死ぬ」
老人が、顔を伏せる。唇が震える。何も言えない。
別の男性が、荷物を持った女性に詰め寄る。
「お前、その荷物捨てろ。重くて遅い」
「これは……大切なものなの……」
「大切? 命より大切か? 捨てろ!」
男性が女性の荷物を奪い、地面に叩きつける。中身が散乱する。写真、手紙、思い出の品。女性が悲鳴を上げる。
刃は、叫んだ。声が枯れている。でも、叫ぶ。
「やめろ! お前ら、何をしてる! 仲間割れしてる場合か! 敵はゾンビだ! 俺たちじゃない!」
でも、誰も聞かない。恐怖が、理性を破壊している。人間が、人間でなくなっていく。互いを攻撃し、罵り、責める。
ゾンビの群れが、さらに近づいてくる。
五十メートル。四十メートル。三十メートル。
刃は、刀を抜いた。シャキン、と音が響く。
「俺が、ここで食い止める。お前たちは、別のルートを探せ。東でも、西でも、どこでもいい。川沿いに走れ。小さな橋があるかもしれない。とにかく逃げろ」
市民たちが、刃を見る。
「お前は……」
「いい。行け。早く」
刃は、ゾンビの群れに向かって走り出した。刀を構え、深く息を吸う。
一体目——首を斬る。
二体目——胴を薙ぐ。
三体目——頭を割る。
血が飛び散り、体が倒れる。でも、終わらない。次から次へと、ゾンビが襲いかかる。
市民たちは、その隙に逃げ出した。川沿いに、必死に走る。
刃は、一人で戦い続ける。
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同じ頃。
藤原京は、炎上する街の中を歩いていた。
ビルが燃えている。窓から炎が噴き出し、煙が立ち上る。熱い。顔が焼けるように熱い。でも、感じない。温度を感じる感覚が、もう薄い。ただ、光だけが見える。赤い光。オレンジの光。
京の群れは、数百体に膨れ上がっていた。次々と仲間が増えている。人間を襲い、噛みつき、感染させる。新しいゾンビが生まれ、群れに加わる。増殖。拡散。本能が、それを命じている。
京は、その先頭を歩いている。足が、勝手に動く。どこへ向かっているのか、わからない。ただ、前へ。何かに引き寄せられるように。本能が、そうさせている。
その時——
声が聞こえた。
「京」
京の足が、止まった。
今の、声は——
「京、逃げて」
女性の声。優しい声。知っている声。懐かしい声。
藤宮澪。
幼馴染。大切な人。愛していた人。二歳年上で、いつも優しくて、いつも笑っていて——
京の心が、激しく揺れる。胸の奥で、何かが疼く。痛い。苦しい。心臓が、まだあるのか。鼓動しているのか。わからない。でも、痛い。
澪の声が、また聞こえる。まるで、すぐ隣にいるかのように。
「京……あなた、そこにいるの? 生きてるの?」
いる。ここにいる。生きてる。いや、生きてるのか? でも——
京は、声を出そうとする。口を開く。喉を動かす。でも、出てくるのはうめき声だけ。
「アア……アアア……ミ……オ……」
違う。これじゃない。俺の声じゃない。言葉にならない。伝わらない。
澪の声が、悲しそうに響く。泣いているような声。
「逃げて……京。お願い……生きて……人間のままで……」
生きて? 人間のまま? 俺は、もう生きていない。もう、人間じゃない。
でも、澪の声は、まだ続く。優しく、切なく。
「人間に戻れるなら……また会おう。約束したでしょ。海で。あの場所で」
海。
京の記憶が、鮮明に蘇る。澪と一緒に見た海。夏の日。青い空。白い雲。白い砂浜。波の音。潮の匂い。
二人で砂浜に座り、波を見ていた。澪が言った。「京、大学卒業したら、またここに来ようね」。俺は頷いた。「ああ、約束だ」。
澪が笑った。太陽みたいな笑顔。
「また、あそこで会おう。京。待ってる。ずっと待ってる」
澪の声が、遠ざかっていく。消えていく。風に溶けていく。
京は、叫ぼうとする。手を伸ばす。
待ってくれ。行かないでくれ。俺は、ここにいる。
でも、声は出ない。
ただ、うめき声だけが、虚しく響く。
「アアアア……ミオ……ミオ……」
京の心が、引き裂かれる。悲しみ。喪失感。絶望。
そして——決意。
俺は、群れを離れる。海へ行く。澪に会いに行く。
京は、向きを変えた。群れとは別の方向へ。東へ。海へ。澪が言った場所へ。約束の場所へ。
後ろのゾンビたちは、京についていこうとする。でも、京は首を振った。いや、首が振れるわけじゃない。でも、何かが伝わる。意志が伝わる。群れが、止まる。困惑したように、うめき声を上げる。でも、京についてこない。
京は、一体で歩き出した。
炎の中を、煙の中を、血の匂いの中を。
ただ一つの目的を持って。
澪に、会うために。
人間に、戻るために。
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夜の東京で、二つの逃走が交錯していた。
神谷刃は、ゾンビの群れと戦っていた。刀を振るい、一体、また一体を倒していく。血が飛び散り、体が倒れる。でも、終わらない。息が上がり、腕が重くなる。でも、止まらない。市民が逃げる時間を稼ぐ。それが、俺の役目だ。
藤原京は、一人で街を歩いていた。群れを離れ、海を目指す。何かを求めて。誰かを求めて。澪を求めて。
二人の距離は、近づいている。でも、まだ会わない。まだ、交わらない。
ただ、同じ夜の下で、それぞれの道を進んでいく。
人間とゾンビ。
でも、どちらも——逃げている。
何かから。何かへ。
その答えは、まだ見えない。
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夜が、明けようとしていた。
東の空が、わずかに白んでいる。朝が来る。新しい日が来る。
でも、東京は——もう、元には戻らない。
崩壊は、始まったばかりだ。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




