第19話「交差」
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ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
都心の夜が、悲鳴で満たされていた。
新宿駅前。普段なら何万人もの人々が行き交う場所が、今は阿鼻叫喚の地獄と化していた。ネオンが明滅し、街灯が照らす中、人々が逃げ惑っている。スーツケースを引きずる者、子供を抱える母親、老人を支える若者。みんな、同じ方向へ走っている。どこへ行けばいいのかもわからないまま、ただ、逃げている。足音が重なり合い、まるで地響きのようだ。悲鳴、怒鳴り声、泣き声——すべてが混ざり合い、人間の声とは思えない音の渦を作っている。
消防車が横転していた。赤い車体が地面に倒れ、ガラスが割れている。中には誰もいない。消防士たちは、すでに逃げたのか。それとも——タイヤが回転し続け、キィキィと音を立てている。ヘッドライトが夜空を照らし、煙が立ち上る。焦げた匂いが鼻をつく。ゴムが焼ける匂い。金属が焼ける匂い。
パトカーも放棄されていた。ドアが開いたまま、エンジンがかかったまま。無線からは、断片的な叫び声が聞こえている。
「応援を——繰り返す、応援を——こちら第五班、壊滅——」
ノイズ。銃声。悲鳴。そして、沈黙。
警察も、消防も、もう機能していない。誰も助けに来ない。市民は、自分の力で生き延びるしかない。この街に、もう秩序はない。
感染爆発から数週間が経過し、日本各地は壊滅状態に陥っていた。
駅前の大型ビジョンには、まだニュース映像が流れていた。キャスターが原稿を読み上げている。表情は硬く、目が泳いでいる。「政府は状況をコントロール下に置いております。市民の皆様は、落ち着いて——」。嘘だ。誰もが知っている。画面の向こうで語られる安全は、もうここにはない。ビジョンの光が、逃げ惑う人々の顔を青白く照らす。
ビジョンの下で、若い女性が立ち尽くしていた。二十代前半。オフィスカジュアルの服装。スマートフォンを握りしめ、画面を見つめている。圏外。何度試しても、圏外。家族に連絡が取れない。友人にも。誰にも。涙が頬を伝い、唇が震える。指先が冷たい。体が震えている。
「お母さん……どこにいるの……」
呟く声は、誰にも届かない。雑踏の音にかき消される。悲鳴、怒鳴り声、泣き声、すべてが混ざり合っている。人の波が彼女の横を通り過ぎていく。誰も彼女を見ない。みんな、自分のことで精一杯だ。
その時、遠くから何かが近づいてくるのが見えた。人の群れ。でも、普通の群れじゃない。ふらふらと、不規則に、でも確実に近づいてくる。月明かりの下、その影が揺れている。血まみれの服。虚ろな目。開いた口。
ゾンビだ。
誰かが叫んだ。
「来るぞ! 逃げろ! ゾンビだ!」
パニックが加速する。人々が走り出し、将棋倒しが起きる。ドミノのように人が倒れていく。悲鳴が上がり、誰かが倒れ、踏みつけられる。骨が折れる音。悲鳴。女性も流れに呑まれ、転びそうになる。誰かが手を引いてくれた。見知らぬ男性。汗だくの顔。必死の表情。一瞬だけ目が合い、そして離れる。また人の波に呑まれる。
地面には、倒れた人々がいる。起き上がろうとするが、次々と人に踏まれる。助けを求める手が宙を掴む。でも、誰も止まらない。止まれば、自分が死ぬ。
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その混乱の中に、神谷刃がいた。
刃は、ビルの入り口に立ち、人々を誘導していた。
「落ち着いて! 押さないで! 順番に入って!」
声を張り上げる。喉が痛い。声が枯れかけている。何時間も叫び続けている。でも、止まらない。止められない。目の前で、人が死んでいく。助けなければ。この混乱を、少しでも抑えなければ。
刃の横には、数人の市民が立っていた。若い男性、中年女性、老人。みんな、刃に従っている。刃が指示を出し、それに従う。秩序。この混乱の中で、唯一の秩序。刃の周りだけが、まだ人間らしさを保っている。
「ビルの中に入って! エレベーターは使うな、階段を上がれ! 屋上まで! 急げ!」
人々がビルに入っていく。足音が響く。階段を駆け上がる音。誰かがつまずき、誰かが助ける。老人を若者が支える。子供を抱える母親を、男性が先導する。
刃は入り口で、群衆を整理し続ける。汗が額を伝う。シャツが肌に張り付いている。息が上がっている。でも、手を止めない。
でも、時間がない。
ゾンビの群れが、もうすぐそこまで来ている。うめき声が聞こえる。グルルル……アアアア……。足音が聞こえる。ズシン、ズシン。不規則なリズム。でも、確実に近づいている。地面が微かに揺れる。
刃は、腰の刀に手をかけた。
もう、逃げる時間はない。ここで食い止めるしかない。この人たちを、守らなければ。
最後の市民がビルに入った。老人が階段を上がり始める。刃は振り返り、ドアを閉めようとした。でも——
群れが、到達した。
数十体のゾンビが、刃に向かって殺到する。手を伸ばし、口を開け、牙を剥く。血の匂いが漂う。鉄の匂い。腐臭が鼻をつく。吐き気がする。胃が引っくり返りそうだ。でも、耐える。
刃は、刀を抜いた。
シャキン。
金属の音が響く。月明かりが刀身に反射し、銀色の光が走る。刃は深く息を吸い、構える。中段の構え。重心を落とす。足を肩幅に開く。刀を握る手に、力を込める。
最初のゾンビが飛びかかる。中年男性。スーツを着ている。サラリーマンだったのか。顔は血まみれで、目は虚ろ。口から唾液が垂れている。
刃は横に跳び、刀を振るう。一閃。刀が首を切り裂く。肉を断つ感触。骨を断つ感触。首が飛ぶ。血が噴き出す。体が崩れ落ちる。ドサリ、と重い音。
次のゾンビ。女性。若い。看護服を着ている。医療従事者だったのか。刃は胴を薙ぎ払う。刀が腹部を切り裂き、内臓が溢れ出る。ズルリ、と音がして、ゾンビが倒れる。
次。老人。杖を持ったまま襲いかかってくる。刃は振り下ろす。頭部が真っ二つに割れる。脳漿が飛び散る。
次。子供——
刃の手が、一瞬止まった。
小学生くらいの少年。ランドセルを背負ったまま。顔は血まみれだが、まだ幼い顔立ちが残っている。
刃の心が、揺れる。
でも——
少年ゾンビが飛びかかる。刃は刀を振るった。突く。眉間を貫く。そのまま引き抜く。ズルリ、と音がして、少年が倒れる。
刃は、歯を食いしばる。
これは、もう人間じゃない。ゾンビだ。倒さなければ、こっちが死ぬ。
刃は、必死に戦い続ける。でも、数が多すぎる。一体倒しても、また一体。倒しても、倒しても、終わらない。周囲を囲まれていく。逃げ場がない。
息が上がる。ハァハァと荒い呼吸。汗が額を伝い、目に入る。痛い。視界がぼやける。腕が重い。刀を振るうたびに、筋肉が悲鳴を上げる。肩が焼けるように痛い。でも、止まらない。止まったら、死ぬ。
そして——背後から、ゾンビの手が伸びてきた。
刃は気づき、振り向こうとする。でも、遅かった。
ゾンビの手が、刃の肩を掴む。爪が服に食い込む。引っ張られる。バランスを崩す。足がもつれる。
やばい——
刃は刀を振るい、そのゾンビを斬り払う。でも、その隙に、他のゾンビが迫る。三体、四体。囲まれた。完全に囲まれた。
刃は、覚悟を決めた。
ここで、死ぬのか——
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その時、遠くで爆発音が響いた。
ドォン。
地面が揺れる。空気が震える。ゾンビたちが、一斉にそちらを向く。刃も、その方向を見た。
炎が上がっている。ビルが燃えている。オレンジ色の炎が、夜空を照らす。煙が立ち上り、夜空を赤く染める。熱波が伝わってくる。顔が熱い。
ゾンビたちが、そちらに向かって動き出した。群れが、刃から離れていく。本能が、そちらに引き寄せられている。炎。音。動き。それらに反応している。
刃は、その隙に立ち上がった。息を整え、刀を握り直す。体中が痛い。肩に爪の痕がついている。服が破れ、皮膚に引っかき傷。でも、深くない。血は出ているが、致命傷じゃない。まだ、戦える。
刃は、ビルの中に入った。ドアを閉め、鍵をかける。重いドアが、ガチャンと閉まる。外からゾンビが叩く音。ドンドンドン。でも、ドアは頑丈だ。簡単には破られない。
刃は、階段を駆け上がる。一段、二段。足が重い。膝が笑っている。手すりを掴み、体を引き上げる。息が上がる。でも、止まらない。
屋上へ。市民たちが待っている場所へ。
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同時刻。
別の場所で、藤原京の群れが街に侵入していた。
京は、地下鉄の出口から地上に出た。階段を登り、夜の空気を吸う。冷たい空気。でも、感じない。温度を感じる感覚が、もう薄い。匂いだけがする。人間の匂い。血の匂い。肉の匂い。汗の匂い。恐怖の匂い。
喉の奥から、うめき声が漏れる。
グルルル……
体が反応する。心臓が速く鼓動する。いや、鼓動しているのか? よくわからない。胸の中で、何かが動いている。でも、それが心臓なのか、別の何かなのか——
京の後ろには、数百のゾンビが続いている。地下鉄から、次々と這い出てくる。階段を這い上がり、改札を乗り越え、地上へ。群れが、街を埋め尽くす。足音が重なり合い、まるで軍隊の行進のようだ。
京は、大通りを歩いた。車が放棄され、ガラスが割れ、血痕が残っている。アスファルトに血が染み込み、黒く変色している。窓ガラスには、手形がついている。血の手形。誰かが、必死に逃げようとした痕跡。でも、人間はいない。もう、逃げたのか。それとも——
京の意識は、ぼんやりとしていた。でも、何かを感じている。
この街を、知っている。
ここは、東京だ。俺が、生きていた場所だ。
あのビル。あの交差点。あのコンビニ。
記憶が、かすかに蘇る。友人と歩いた道。バイトに通った道。
でも、もう違う。俺は、もう人間じゃない。
京の心の奥で、悲しみが湧く。喪失感。自分が失われていく感覚。人間だった頃の記憶が、少しずつ薄れていく。
でも、それ以上に、空腹が強い。
前へ。肉を求めて、前へ。本能が、すべてを支配する。
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京の群れが、交差点を曲がった瞬間——
遠くに、何かを感じた。
人間。でも、普通の人間じゃない。強い人間。戦う人間。生命力が強い人間。
京は、その方向を見た。視界はぼやけている。色も薄い。でも、わかる。あそこに、何かがいる。特別な存在が。
神谷刃だ。
京は、それを知らない。名前も、顔も、知らない。でも、感じる。あの人間は、特別だ。他の人間とは違う。
刃も、その瞬間、何かを感じていた。
屋上に立ち、街を見下ろしていた刃の目が、ある方向を捉える。背筋に何かが走る。冷たいものが、背中を這い上がる。
あそこに、何かがいる。
ゾンビ。でも、普通のゾンビじゃない。意識があるゾンビ。群れを率いるゾンビ。
藤原京だ。
刃は、それを知らない。名前も、過去も、知らない。でも、感じる。あのゾンビは、特別だ。他のゾンビとは違う。
二人の視線が、夜の街で交差した。
距離は、数百メートル。ビルが邪魔をして、直接は見えない。でも、わかる。互いの存在を、感じ取る。まるで、磁石のように。引き合う力。反発する力。両方が同時に働いている。
京の心の奥で、何かが動いた。
あの人間を、食べたい。
いや、違う。
あの人間を、知りたい。
矛盾した感情。本能と意識が、ぶつかり合う。京の体が、わずかに震える。足が止まる。群れも、京に合わせて止まる。
刃の心の奥でも、何かが動いた。
あのゾンビを、倒さなければ。
いや、違う。
あのゾンビを、理解したい。
矛盾した感情。使命と好奇心が、ぶつかり合う。刃の手が、刀の柄を握る。でも、抜かない。
でも、二人は動かなかった。
ただ、その場に立ち、互いの存在を感じ続ける。
風が吹く。ビルの間を抜け、二人の髪を揺らす。遠くで、悲鳴が聞こえる。爆発音が響く。炎が燃える。ガラスが割れる。でも、二人には関係ない。
ただ、この瞬間だけが、存在している。
時間が止まったような感覚。世界が、二人だけになったような感覚。
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やがて、京が動いた。
群れと共に、別の方向へ進む。刃から離れていく。本能が、そちらを選んだ。まだ、戦う時ではない。
刃も、屋上から降りた。市民たちを連れて、避難を続ける。使命が、そちらを選んだ。まだ、向き合う時ではない。
二つの運命は、すれ違った。
まだ、交わらない。
でも、いつか——いつか、必ず交わる。
その予感が、二人の心に残った。鮮明に。強烈に。
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夜が、更けていく。
東京の街は、炎に包まれていく。ビルが燃え、車が爆発し、悲鳴が響く。煙が立ち上り、夜空を黒く染める。でも、まだ終わらない。まだ、都市は生きている。信号機が点滅し、街灯が光り、ネオンが輝いている。
神谷刃は、市民を連れて北へ向かう。北海道へ。まだ希望がある場所へ。生き延びるために。人を守るために。
藤原京は、群れを率いて東へ向かう。海へ。本能が呼ぶ場所へ。何かを求めて。何かに引き寄せられて。
二つの意志が、同じ都市で動き出した。
人間とゾンビ。
生者と死者。
でも、どちらも——まだ、何かを求めている。
その答えは、まだ見えない。
ただ、夜だけが、静かに過ぎていく。
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(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




