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ゾンビサイド  作者: MOON RAKER 503


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第1部「黎明《れいめい》」 第1話「噛まれた夜」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。


秋の夜風が、冷たく肌を撫でる。


 藤原京ふじわら・きょうは、自転車のハンドルを握りながら、暗い田舎道を走っていた。街灯はまばらで、月明かりだけが頼りだ。空には雲ひとつなく、星が無数に散らばっている。遠くで虫の声が鳴き、風が稲穂を揺らす音が聞こえる。田んぼの向こうには、山の黒いシルエットが浮かんでいる。いつもの帰り道。いつもの静けさ。この村には、夜になると何もない。コンビニも、ゲームセンターも、何もかもが遠い。


 京は息を吐いた。白い息が、月明かりの中で薄く広がる。もう秋も深まってきた。冬が近い。友人の家で遅くまで遊んでしまった。ゲームに夢中になりすぎた。親に怒られるかもしれない。ペダルを踏む足に、少しだけ力を込める。タイヤが砂利道を噛む音が、リズミカルに響く。


 その時だった。


 ガサリ、と草むらが揺れた。


 京は反射的にブレーキをかけた。タイヤが砂利を噛んで、キィ、と短い悲鳴を上げる。自転車が止まり、辺りが静まり返る。虫の声も、一瞬途切れたような気がした。暗がりの中、何かが動いている。野良犬か、それとも狸か。この辺りでは、夜になると野生動物がよく出る。普段なら気にもしない。でも、今夜は違った。


 何かが、おかしい。


 目を凝らすと、小さな影がこちらに向かってくるのが見えた。ふらふらとした足取り。まるで酔っ払いのような、不自然な動き。その瞬間、京の背筋に冷たいものが走った。空気が、重くなったような感覚。風が止まり、虫の声も完全に消えた。


 影は近づいてくる。月の光がそれを照らした瞬間、京は息を呑んだ。


 野良犬だった。しかし、普通の野良犬ではない。毛並みはボロボロで、片目が白く濁っている。口からは何か黒いものが垂れていて、喉の奥から、ゴロゴロと低い音が響いている。足元はふらついていて、まともに歩けていない。それでも、こちらに向かってくる。まっすぐに。まるで、京だけを狙っているかのように。


 病気だ。狂犬病か何かに違いない。


 京は自転車を降りて、ゆっくりと後ずさりした。心臓が激しく鼓動している。ドクン、ドクンと耳の奥で音が響く。手のひらに汗が滲む。犬との距離を保つ。刺激しないように。逃げなくては。そう思った瞬間——犬が跳びかかってきた。


「うわっ!」


 京は腕で顔を守った。犬の体が、京の胸にぶつかる。ドスン、と鈍い衝撃。そして——犬のきばが、左腕に食い込む。


 ガブリ。


 鈍い痛みが走る。いや、鈍いだけじゃない。鋭い痛みも同時に走る。肉を貫く感覚。血が流れる温かさ。京は必死に犬を振り払った。腕を振り回し、犬の体を地面に叩きつける。犬は地面に転がり、そのまま草むらの中へ消えていった。ガサガサと音が遠ざかる。逃げたのか。


 京は荒い息をつきながら、左腕を見た。シャツの袖が破れ、血が滲んでいる。月明かりの下で、赤黒く光っている。傷口はそれほど深くない。でも、痛い。ズキズキと脈打つように痛む。まるで、傷口が生きているかのような。


 家に帰らなければ。消毒して、絆創膏ばんそうこうを貼らなければ。


 京は自転車にまたがり、ペダルを踏んだ。体が重い。さっきまでなかった重さ。まるで、体中に鉛を詰め込まれたような。寒気がする。汗が額に浮かんでいるのがわかった。シャツが肌に張り付いて、気持ち悪い。


 まずい。本当に、狂犬病だったらどうしよう。


 恐怖が胸を締め付ける。でも、今はとにかく家に帰るしかない。京は歯を食いしばり、暗い道を全力でいだ。ペダルが重い。息が上がる。視界が、少しずつぼやけていく。


-----


 家に着いた時には、体中が汗でびっしょりだった。


 玄関の扉を開けると、母親が驚いた顔でこちらを見た。


「京! どうしたの、そんなに汗かいて……って、腕!」


 母親が駆け寄ってくる。京は力なく笑った。笑おうとしたが、顔の筋肉がうまく動かない。


「犬に噛まれた。野良犬。大丈夫、そんなに深くないから」


「大丈夫じゃないでしょ! すぐに消毒しないと!」


 母親は京の腕を掴み、洗面所に引っ張っていった。蛇口をひねり、冷たい水で傷口を洗う。京は顔をしかめた。水が傷に染みる。痛い。ジンジンと、まるで電気が走るような痛み。でも、それよりも——


 体が、熱い。


 内側から焼けるような熱さ。寒気と熱さが同時に襲ってくる。矛盾しているのに、両方とも本物だ。頭がぼんやりとして、視界が揺れる。母親の顔が、二重に見える。


「京? 顔色悪いわよ。大丈夫?」


 母親の声が遠い。まるで、水の中から聞こえてくるような。京は首を横に振った。頭が重い。まるで、石でできているかのような。


「ちょっと……気持ち悪い。熱があるかも」


「熱? ちょっと待って、体温計持ってくるから」


 母親が部屋を出ていく。京は洗面台に手をついた。鏡に映る自分の顔は、青白く、額には汗が滲んでいる。唇の色も悪い。目の焦点が合わない。


 これは、ただの風邪じゃない。


 何かが、体の中で起きている。


 京は歯を食いしばった。傷口が、まるで火で焼かれているように熱い。ズキズキと脈打つたびに、熱が広がっていく。血管を通って、何かが全身に広がっていくのを感じる。心臓が激しく鼓動し、耳の奥でドクン、ドクンと音が響く。呼吸が荒い。息を吸うたびに、胸が痛い。


 母親が戻ってきて、体温計を渡してくれた。京はそれを脇に挟む。冷たい体温計が、熱い肌に触れる。一分後、ピピピと音が鳴った。母親が体温計を取り、画面を見た瞬間、顔が青ざめた。


「三十九度……! 京、すぐに病院行かないと!」


「大丈夫……ちょっと横になれば……」


 京はふらつきながら、自分の部屋に向かった。母親が後ろからついてくる。一歩歩くたびに、床が揺れる。いや、揺れているのは床じゃない。自分だ。ベッドに倒れ込むと、体がなまりのように重かった。沈み込むような感覚。もう、動けない。


「明日の朝、まだ熱があったら絶対に病院行くからね!」


 母親の声に、京は小さく頷いた。意識が遠のいていく。体が熱い。寒い。痛い。何もかもがぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。耳鳴りがする。視界が暗くなる。


 ただ一つだけ、わかることがあった。


 何かが、間違っている。


 この熱は、普通じゃない。


-----


 目が覚めたのは、翌朝だった。


 いや、正確には「目が覚めた」のかどうかもわからない。


 京は天井を見つめていた。白い天井。いつもの天井。でも、何かが違う。体は動かない。いや、動くけれど、自分の意志では動かない。まるで、体が勝手に動いているような感覚。自分の手なのに、自分の手じゃない。自分の足なのに、自分の足じゃない。


 視界はある。音も聞こえる。匂いもわかる。でも、それだけだ。


 口を開こうとしても、開かない。叫ぼうとしても、声が出ない。ただ、喉の奥から低いうなり声だけが漏れる。


「ア……アァ……」


 これは、俺の声じゃない。


 恐怖が込み上げる。心臓が激しく鼓動する。いや、鼓動しているのか? よくわからない。体の感覚が、曖昧だ。でも、体は動かない。いや、動いている。勝手に。ベッドから起き上がり、ふらふらとドアに向かって歩いている。


 やめろ。動くな。


 心の中で叫ぶ。でも、体は言うことを聞かない。まるで、操り人形のように。いや、それ以上に酷い。自分の体なのに、自分じゃない。


 ドアを開ける。廊下に出る。階段を降りる。一歩、一歩。ぎこちない動き。まるで、体の使い方を忘れてしまったかのような。足が重い。でも、止まらない。


 リビングから、母親の声が聞こえた。


「京? 起きたの? 朝ごはんできてるわよ」


 体が、そちらに向かう。


 やめろ。行くな。


 でも、止まらない。リビングのドアを開ける。母親が振り返る。そして、その顔が凍りついた。目が見開かれる。口が開く。でも、声が出ない。一瞬の沈黙。そして——


「きょ……京……?」


 母親の目が、恐怖で見開かれる。後ずさりする母親。テーブルに手をついて、体を支える。椅子が倒れて、ガタン、と音を立てる。


 何が起きている? 俺の顔が、そんなにおかしいのか?


 鏡はない。でも、わかる。きっと、俺の顔は——


 体が動く。母親に向かって、一歩、また一歩。ゆっくりと、でも確実に。


 やめろ! やめてくれ!


 心の中で叫ぶ。でも、体は止まらない。母親が悲鳴を上げる。


「来ないで! 来ないで! 京、お願い!」


 母親の声が、震えている。涙が頬を伝っている。その顔を見て、京の心は引き裂かれた。


 母さん。逃げて。逃げてくれ。


 でも、声は届かない。


 母親が逃げる。でも、足がもつれて、転んでしまう。床に手をついて、必死に這おうとする。爪が床を引っ掻く音。息を切らす音。


 体が、その上に覆いかぶさる。


 やめろ! 母さん! 逃げろ!


 でも、声は出ない。ただ、喉の奥から低いうなり声が響くだけ。


 そして——


 噛みついた。


 母親の肩に。牙を立てる。温かい血が口の中に広がる。肉を引き裂く感触。母親の悲鳴。それが、だんだんと小さくなっていく。ガクガクと震える体。力が抜けていく。


 京の心は、悲鳴を上げていた。


 やめろ! やめてくれ! 母さん!


 でも、体は止まらない。むしろ、加速していく。肉を噛み、飲み込む。血が喉を通る。その瞬間——


 快感が走った。


 脳を貫くような、甘美な快感。飢えが満たされていく感覚。もっと。もっと欲しい。体が、そう叫んでいる。本能が、そう命じている。


 京の意識は、恐怖と快感の狭間で引き裂かれた。


 これは、俺じゃない。


 俺は、こんなことをする人間じゃない。


 でも——


 俺は、もう人間じゃない。


 母親の体から力が抜けていく。もう動かない。もう、何も言わない。ただ、床に横たわっているだけ。


 京の体は、ようやく動きを止めた。口の周りが、赤く濡れている。床には、母親が倒れている。動かない母親。もう二度と動かない母親。


 京の心は、叫び続けていた。


 でも、声は届かない。


 ただ、喉の奥から低いうなり声が、虚しく響くだけだった。


 そして、京は悟った。


 これが、俺の新しい現実だ。


 これが、俺の終わりだ。


-----


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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