第18話「首都圏封鎖」
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どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
夕暮れの空が、赤く染まっていた。
東京湾岸エリア。海風が吹き抜け、潮の匂いが鼻をつく。コンテナが並ぶ倉庫街に、自衛隊の車両が次々と到着していた。装甲車、トラック、ジープ。タイヤが地面を噛む音が響き、エンジンの振動が空気を震わせる。ディーゼルの排気ガスが立ち込め、喉が焼けるような感覚。隊員たちが飛び降り、装備を整え、指示を待つ。誰もが、緊張した面持ちだ。ヘルメットを被る音。銃を構える音。弾薬を装填する音。金属がぶつかり合う音。
防護服を着た隊員が、バリケードを設置している。鉄製のフェンス、有刺鉄線、コンクリートブロック。音が響く。ガシャン、ガシャン。金属がぶつかり合う音。指示を出す声。怒鳴り声。無線のノイズ。すべてが混ざり合い、現場は混沌としていた。空は徐々に暗くなり、街灯が点灯し始める。オレンジ色の光が、隊員たちの影を長く伸ばす。
若い隊員が、手袋を締め直しながら上官に尋ねた。二十代前半。入隊して二年目。実戦経験はない。顔は青白く、額に汗が浮かんでいる。手が震えている。
「本当に、来るんですか? あの……感染者が」
上官は無言で頷いた。顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。目の下にクマができ、髭も剃っていない。声は低く、重い。まるで、石を喉から吐き出すような。
「すでに多摩川の手前まで来ている。数百、いや、もっとかもしれない」
若い隊員の顔が、さらに青ざめる。喉がごくりと鳴る。手が震える。銃を握る手に、力が入らない。銃身が微かに揺れる。上官はその肩を叩いた。硬い手。力強い手。
「落ち着け。俺たちの仕事は、ここで食い止めることだ。それだけだ」
でも、上官の目にも、恐怖が浮かんでいた。わずかに揺れる瞳。強張った表情。拳を握る手に、力が入りすぎている。
遠くで、無線が入る。ノイズ混じりの声。
「第二班、配置完了。バリケード設置、完了」
「了解。引き続き警戒を」
指揮官の声。冷静だが、その奥に緊張が滲んでいる。誰もが、知っている。これが、最後の防衛線かもしれないことを。
風が強くなる。海からの風。冷たい風。隊員たちの髪を揺らし、服をはためかせる。空が、完全に暗くなった。
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その頃、首都高速では地獄が始まっていた。
封鎖の報を受け、人々は一斉に逃げ始めた。車が道路を埋め尽くし、身動きが取れない。渋滞。完全な渋滞。どこまでも続く車の列。赤いテールランプが、まるで血の川のように続いている。クラクションが鳴り響き、怒鳴り声が飛び交う。子供の泣き声。女性の悲鳴。男性の怒鳴り声。すべてが混ざり合い、まるで動物園のようだった。
ある家族連れの車内。父親がハンドルを握り、母親が後部座席で子供を抱きしめている。窓の外では、人々が車を捨てて走り出している。荷物を抱え、子供を引きずり、必死の形相で。スーツケースが転がり、誰かがつまずいて倒れる。誰も助けない。みんな、自分のことで精一杯だ。
「パパ、怖いよ……」
五歳の娘が、震える声で言う。大きな瞳に涙が溜まっている。唇が震え、小さな手で母親の服を握りしめている。母親が娘の頭を撫でるが、その手も震えている。爪が娘の髪に引っかかる。
「大丈夫よ。すぐに動くから」
嘘だ。動かない。前も後ろも、車で埋まっている。脱出できない。父親の手のひらには、汗が滲んでいる。ハンドルを握る手が、白くなるほど力が入っている。
父親はミラー越しに後方を見た。そして、息を呑んだ。
遠くから、何かが近づいてくる。人の群れ。でも、普通の群れじゃない。ふらふらと、不規則に、でも確実に近づいてくる。その動きは、まるで壊れた人形のようだ。月明かりの下、その影が揺れている。数十、いや、数百。
「まずい……」
父親が呟く。声が裏返る。喉が渇く。唾を飲み込もうとするが、喉がカラカラだ。母親が振り返り、そして悲鳴を上げた。
「来る! 来るわ! 早く、早く逃げて!」
でも、どこに? 車は動かない。ドアを開けて走る? 娘を抱えて? 無理だ。追いつかれる。
感染者たちが、車の列に到達した。窓を叩く音。ガンガンガン。ガラスが軋む。ミシミシと、今にも割れそうな音。手形が窓につく。血の手形。べっとりと、赤黒い血が窓を汚す。誰かが悲鳴を上げる。車のドアを開けようとする音。ガチャガチャと、ハンドルを引っ張る音。
父親は必死にドアロックを確認した。施錠されている。でも、窓が割れたら——
隣の車で、窓ガラスが割れた。バリン、という音。鋭い音。ガラスの破片が飛び散る。悲鳴。女性の声。そして、すぐに静かになった。不気味な静けさ。何が起きているのか、想像したくない。
娘が泣き叫ぶ。声が耳に刺さる。母親が娘を抱きしめ、目を閉じる。涙が頬を伝う。父親は震える手で、携帯電話を取り出した。誰かに、助けを——
でも、圏外だった。画面には「圏外」の文字。無情な文字。
感染者の手が、彼らの車の窓を叩く。ドンドンドン。ガラスが揺れる。ヒビが入る。パキパキと、亀裂が走る音。
父親は、娘と妻を見た。そして、決意する。
「降りるぞ。走る」
「でも……」
「いいから! 今しかない!」
父親がドアを開けた瞬間——感染者の手が伸びてきた。
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多摩川。
月明かりの下、川面が静かに流れている。風が吹き、川岸の草が揺れる。サワサワと、まるで囁くような音。虫の声は、もうない。ただ、水の流れる音だけが、夜の静寂を破っている。チャプチャプと、小さな波が岸を打つ。
そして、橋の上を、群れが渡っていた。
藤原京は、その先頭にいた。足がアスファルトを踏む。一歩、また一歩。ズシン、ズシン。橋の欄干に手をかけ、体を引きずるように進む。欄干の金属が、冷たい。でも、感じない。温度を感じる感覚が、もう薄い。後ろには、数十、いや、数百のゾンビが続いている。足音が重なり合い、まるで大軍が行進しているかのようだ。不規則なリズム。でも、止まらない。
京の意識は、橋の向こうを見つめていた。
都市の光。高層ビルのシルエット。ネオンの輝き。窓から漏れる明かり。
あそこに、人間がいる。
肉がある。
体が求めている。喉の奥から、低いうなり声が漏れる。グルルル……。口の中に唾液が溜まる。足が勝手に動く。止められない。止まらない。本能が、すべてを支配している。
京の心の奥で、かすかな声が響いた。
やめろ。あそこには、人間がいる。俺が守るべきだった人間が。
でも、声は小さすぎた。本能の波に、飲み込まれる。消える。
群れは、橋を渡り終えた。そして、街へと入っていく。住宅街。静かな街。まだ、気づいていない人々。窓から漏れる明かり。テレビの音。笑い声。子供の声。
京の群れは、その街に侵入した。
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神谷刃は、ジープの助手席に座っていた。
二十歳。大学生。黒いジャケットに、ジーンズ。腰には、布に包まれた長い物が差してある。日本刀だ。家伝の真剣。彼の唯一の武器。柄には、古びた布が巻かれている。何代にもわたって使われてきた証。
運転席には、自衛隊の隊員が座っている。三十代半ばの男性で、階級章は二等陸尉。顔には傷があり、目つきは鋭い。ハンドルを握る手には、無数の傷跡がある。
「お前、本当に民間人か?」
隊員が、刃を横目で見ながら言った。刃は無言で頷く。表情は、静かだ。でも、その目には、強い意志が宿っている。
「なんで、こんなところに?」
「人を助けるため」
刃の声は、静かだった。でも、その声には、揺るぎない決意が込められている。隊員は、それ以上何も聞かなかった。ただ、アクセルを踏む。
ジープは住宅街に入った。ヘッドライトが暗い道を照らす。静かな街。でも、その静けさが、不気味だった。風が吹き、木々が揺れる。どこかで、犬が吠えている。遠吠えのような、悲しい声。
無線が入る。ノイズ混じりの声。
「こちら第三班。住宅街に侵入を確認。感染者、数百。繰り返す、数百——」
声が途切れる。銃声が響く。パンパンパン。連射音。悲鳴。そして、沈黙。
隊員が舌打ちをした。
「間に合わなかったか……」
ジープが角を曲がった瞬間、刃は目を見開いた。
道路の真ん中に、群れがいた。
数十体のゾンビが、ふらふらと歩いている。月明かりの下、その影が揺れている。血まみれの服。虚ろな目。口から垂れる唾液。その中の一体——先頭にいる若い男性のゾンビ。その姿に、刃は何かを感じた。
普通のゾンビとは、違う。
動きが、わずかに違う。目が、わずかに違う。まるで、意識があるかのような——
隊員が急ブレーキを踏んだ。ジープが停止する。タイヤが地面を擦る音。キィーッと、鋭い音。
「くそっ! 囲まれる前に——」
隊員が銃を取ろうとした瞬間、刃がドアを開けて飛び出した。
「待て! 何を——」
刃は、刀の柄に手をかけた。そして、鞘から抜く。
シャキン。
金属の音が、夜の静寂を切り裂いた。
月光が刀身に反射し、銀色の光が走る。刃は、深く息を吸った。胸が膨らむ。そして、吐く。呼吸を整える。心を静める。足を肩幅に開き、重心を落とす。刀を中段に構える。
刃は、群れに向かって走った。足音が地面を蹴る。タッタッタ。呼吸が整っている。心臓は静かに、でも力強く鼓動している。
最初のゾンビが、刃に飛びかかる。腕を伸ばし、口を開け、牙を剥く。うなり声が喉から漏れる。
刃は、一瞬で躱した。
体を捻り、ゾンビの腕を避ける。風を切る音。そして——刀を振るう。
一閃。
刀が空気を切り裂き、ゾンビの首を斬り飛ばす。肉を断つ感触。骨を断つ感触。抵抗を感じない。まるで、豆腐を切るかのように。血が飛び散り、頭部が宙を舞い、地面に転がる。ゴロゴロと。体が崩れ落ちる。ドサリ、と重い音。
刃は、止まらない。次のゾンビ、その次のゾンビ。一体、また一体。
二体目——胴を薙ぎ払う。刀が腹部を切り裂き、内臓が溢れ出る。ゾンビが倒れる。
三体目——振り下ろす。頭部が真っ二つに割れる。脳漿が飛び散る。
四体目——突きを放つ。刀が眉間を貫く。そのまま引き抜く。ズルリ、と音がして、ゾンビが倒れる。
刀が閃き、血が舞い、体が倒れる。動きは流れるように美しく、無駄がない。まるで舞を踊っているかのようだ。一歩踏み込み、斬る。回転し、斬る。跳躍し、斬る。
群れが、刃に集中する。でも、刃は恐れない。刀を振るい続ける。一体。また一体。返り血が顔にかかる。熱い。生温かい。でも、気にしない。
そして——刃の視線が、京と交差した。
一瞬の静止。
刃は、京を見つめた。京も、刃を見つめた。
その目には、何かがあった。意識。理解。恐怖。悲しみ。
刃の心に、疑問が浮かぶ。
こいつは——人間なのか?
京の心にも、何かが浮かぶ。
この人間は——強い。
時間が止まったような感覚。風が吹き、二人の髪を揺らす。周囲のゾンビたちが、うめき声を上げる。でも、二人は動かない。
でも、その瞬間は長くは続かなかった。他のゾンビが襲いかかる。刃は刀を振るい、それを斬り払う。そして、再び京を見たときには——
京は、群れと共に去っていた。
夜の闇に消えていく背中。ふらふらと、でも確実に遠ざかる。刃は、その姿を見送った。刀を下ろし、深く息を吐く。
何だ、今の感覚は……。
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翌朝。
政府の緊急記者会見が開かれた。
官房長官が壇上に立ち、原稿を読み上げる。顔は疲れ切っているが、声は努めて冷静だ。でも、その目には、隠しきれない恐怖が浮かんでいる。
「……昨夜の首都圏における感染拡大について、政府は現在、状況を完全にコントロール下に置いております。自衛隊および警察の協力により、封じ込めに成功しつつあり、市民の皆様には冷静な対応をお願いいたします」
嘘だった。
完全な嘘だった。
現場では、封じ込めなど成功していない。感染者は増え続け、自衛隊は撤退を余儀なくされている。バリケードは破られ、隊員が次々と感染している。でも、それを言えば、パニックになる。だから、嘘をつく。国を守るために、嘘をつく。
記者たちは、その嘘を見抜いていた。でも、報道できない。規制がかかっている。上から圧力がかかっている。
会見場の後方で、あるジャーナリストが拳を握りしめていた。爪が掌に食い込む。痛い。でも、それ以上に心が痛い。
この国は、もう終わりだ。
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その夜。
東京の街は、静かに燃え始めていた。
高層ビルの窓から、炎が噴き出している。オレンジ色の炎が、夜空を照らす。煙が立ち上り、夜空を黒く染める。遠くで爆発音が響く。ドォン、という重低音。地面が揺れる。車のアラームが鳴り響く。ガラスが割れる音。建物が崩れる音。
街のあちこちで、悲鳴が上がる。人々が逃げ惑い、車が暴走し、建物が崩れる。でも、まだ——まだ、都市は生きている。完全には死んでいない。信号機が点滅し、街灯が光り、ネオンが輝いている。
ただ、静かに、確実に、燃え始めていた。
藤原京は、ビルの屋上から、その光景を見下ろしていた。
炎。煙。崩壊していく街。逃げ惑う人々。
心の奥で、かすかな悲しみが湧く。これは、俺の街だった。俺が生きていた街だった。
でも、それ以上に——
空腹が、すべてを支配していた。
京は、ビルから飛び降りた。群れと共に、街へと消えていく。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




