第17話「報道規制」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
朝のニュース番組が、異様な空気に包まれていた。
スタジオ内の照明は変わらず明るく、キャスターの笑顔も変わらない。でも、画面の向こうで何かが違っていた。カメラの前に座る女性キャスターの目が、わずかに揺れている。原稿を読む声に、かすかな震えが混じっている。手元の紙を握る指先が白くなり、爪の先まで力が入っている。
「……昨夜、関東近郊で発生した一連の事件について、政府は本日未明、正式な見解を発表しました。厚生労働省によりますと、これは未知のウイルス性疾患によるものであり、SNS上で拡散されている映像の多くは、誤情報および悪質な加工によるものとのことです」
キャスターの声は、丁寧に、慎重に、言葉を選んでいる。まるで地雷原を歩くかのように。画面には「デマ情報に注意」というテロップが流れ、視聴者に冷静な対応を呼びかける文字が躍っている。スタジオの空調が効きすぎているのか、キャスターの肩がわずかに震えている。
スタジオの片隅で、若いディレクターが唇を噛んでいた。手に持つタブレットには、削除される前の映像が保存されている。血まみれの人間が人間を食らう映像。悲鳴。逃げ惑う人々。それを「デマ」と言えと、上から指示が来た。
嘘だ。あれは本物だった。
でも、言えない。放送できない。すでに通達が来ている。総務省から、内閣府から、警察庁から。複数のルートで、同じ指示が降りてきた。「パニックを防ぐため、事実確認が取れるまで映像の使用を控えるように」と。
ディレクターは窓の外を見た。東京の朝は、いつもと変わらない。ビルが立ち並び、車が走り、人が歩いている。平和な朝。静かな朝。でも、その平穏が、もう長くは続かないことを、彼は知っていた。
タブレットの画面が光る。新しい通達だ。「一切の関連映像を削除せよ」「違反した場合、放送免許の剥奪を検討する」。
ディレクターは、深く息を吐いた。この国は、真実を殺そうとしている。
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厚生労働省の会見場は、記者たちで埋め尽くされていた。
カメラのフラッシュが明滅し、マイクが林立している。会場の空気は重く、エアコンが効いているはずなのに熱気が渦巻いている。壇上には、厚労大臣と数名の官僚が座っている。大臣の顔は青白く、額に汗が滲んでいる。ハンカチで拭う仕草が、何度も繰り返される。
記者たちは、血眼になっていた。誰もが、真実を求めている。誰もが、答えを欲しがっている。
「大臣、SNS上で拡散されている映像についてですが、あれは本当にデマなのですか?」
最前列の記者が立ち上がり、鋭い声を放った。会場がざわめく。大臣は一瞬、言葉に詰まった。目が泳ぎ、隣の官僚と視線を交わす。そして、用意された原稿に目を落とす。
「……ええ、その……現時点では、映像の真偽を確認中です。ただし、多くの映像には加工の痕跡が見られ、悪質なデマである可能性が高いと……」
「では、病院で起きた事件は? 医師や看護師が襲われたという報告がありますが?」
別の記者が食い下がる。会場の空気が、一気に張り詰める。大臣の顔が、さらに青ざめる。額の汗が頬を伝って落ちる。
「それについては……現在、警察が捜査中であり、詳細はお答えできません。ただし、ウイルス性疾患による錯乱状態が原因である可能性があり……」
「つまり、感染者が人を襲っているということですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「では、何なんですか?」
記者たちの声が重なる。カメラのシャッター音が連続して響く。大臣は口を開閉させるだけで、言葉が出てこない。隣の官僚が小声で何か囁くが、虚しく響くだけだ。
会場の後方で、フリージャーナリストの男が腕を組んでいた。四十代半ば、目の下にはクマができている。彼は、すでに真実を掴んでいた。昨夜、現場に潜入し、自分の目で見た。血の海。食い荒らされた死体。あれは、ウイルスなんて生易しいものじゃない。
あれは、終わりの始まりだ。
男は会見場を出て、スマートフォンを取り出した。画面には、昨夜撮影した映像が保存されている。政府が削除しようとも、ネットは忘れない。真実は、必ず広がる。
彼は、アップロードボタンを押した。画面に「投稿完了」の文字。
もう、止められない。
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その頃、ネット上では地下で戦いが始まっていた。
政府の削除要請を受けて、大手SNSプラットフォームは次々と映像を削除し始めた。アカウント凍結。投稿削除。検閲の嵐。でも、削除される速度よりも、再投稿される速度の方が速かった。
誰かが消せば、誰かがアップロードする。匿名掲示板、ファイル共有サイト、暗号化されたメッセンジャーアプリ。真実は、地下に潜り、より深く、より広く拡散していった。
#ゾンビ東京
#政府隠蔽
#食人ウイルス
ハッシュタグが次々と生まれ、トレンド入りし、そして削除される。でも、消えない。形を変え、言葉を変え、人々の間で囁かれ続ける。
ある大学生は、深夜までパソコンの前に座っていた。画面には、削除される前の映像が複数開かれている。モニターの青白い光が、暗い部屋を照らしている。
彼は映像を編集し、字幕をつけ、新しいアカウントで再投稿する。削除されても、また作る。何度でも。指がキーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響く。
「これは、本物だ。政府が隠そうとしても、無駄だ」
彼の目は充血し、手は震えている。エナジードリンクの空き缶が、机の上に転がっている。もう何時間、ここに座っているのかわからない。
投稿ボタンを押す。数秒後、再生回数が跳ね上がる。10、100、1000。コメントが殺到する。「これマジ?」「政府嘘ついてる」「逃げた方がいい」。そして、数分後——「アカウントが凍結されました」の文字。
彼は舌打ちをした。また新しいアカウントを作る。また投稿する。また削除される。また作る。
イタチごっこだ。でも、止まらない。止められない。
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現場では、地獄が続いていた。
都内の総合病院。救急外来には、次々と感染者が運び込まれていた。熱を出し、うなり声を上げ、目を血走らせた患者たち。ストレッチャーが廊下を行き交い、医師も看護師も走り回っている。
「また来た! ベッドが足りない!」
「隔離病棟も満床です! どうすれば……」
白衣を着た若い医師が、廊下を走る。床に血の跡がついている。考えたくない。
救急外来の入り口では、救急隊員がまた新しい患者を運び込んでいた。ストレッチャーの上で、中年男性が暴れている。拘束ベルトを締め直しているのに、力が強すぎる。
「落ち着いてください! 治療しますから!」
看護師が叫ぶ。でも、男性は聞いていない。目は虚ろで、口からは泡を吹いている。そして——突然、ベルトを引き千切った。
バチン、と音がして、男性がストレッチャーから飛び降り、看護師に飛びかかる。
「いやああああ!」
看護師の悲鳴が廊下中に響く。他の医療スタッフが駆けつけるが、男性は看護師の肩に噛みついていた。ガブリ、と肉を噛む音。血が飛び散る。白衣が、一瞬で赤く染まる。
「離れろ!」
男性医師が引き剥がそうとする。でも、力が強い。異常なほど強い。二人、三人がかりで、ようやく引き離す。男性は床に押さえつけられ、今度は手錠で拘束される。
看護師は床に倒れ、肩を押さえている。血が指の間から溢れ、床に広がる。顔は青白く、唇が震えている。
「大丈夫ですか! すぐに処置を!」
別の看護師が駆け寄り、傷口を確認する。深い。消毒液とガーゼを当てるが、血が止まらない。
「先生! こっちも!」
廊下の向こうで、また悲鳴が上がる。医師は顔を上げた。また、感染者が暴れている。病院全体が、もう制御できない。
医師は震える手で携帯電話を取り出した。でも、電話は繋がらない。回線が混雑している。ツーツーという無機質な音だけが、耳に響く。
病院の外では、報道陣が集まっていた。レポーターが興奮した様子で話している。
「現在、病院内では感染者による襲撃事件が発生している模様です! 警察が到着し、病院を封鎖——」
レポーターの言葉が途切れた。病院の入り口から、血まみれの人間が飛び出してきた。白衣を着た、元は看護師だったであろう女性。顔は血で汚れ、目は虚ろ。ふらふらと、でも確実に、報道陣に向かってくる。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。報道陣は蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。でも、一人のカメラマンは、カメラを回し続けた。
シャッターを切る音が響く。フラッシュが明滅する。そして——感染者が、カメラマンに飛びかかった。
カメラは地面に落ち、画面が揺れる。音声だけが、悲鳴と肉が引き裂かれる音を記録し続ける。
その映像は、数時間後、ネット上に投稿された。そして、数分で削除された。でも、すでに数万人が保存していた。
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夜。
国道を、群れが進んでいた。
藤原京は、その先頭にいた。月明かりの下、アスファルトの道が果てしなく続いている。遠くに、都市の光が見える。高層ビルの明かり。ネオンサイン。街灯。それらが、夜空を薄く照らしている。
京の体は、ゆっくりと、でも確実に前に進んでいる。一歩、また一歩。後ろには、数十体のゾンビが続いている。足音は揃っていない。ばらばらで、不規則で、でも止まらない。
京の意識は、その光を見つめていた。
あそこに、人間がいる。
あそこに、肉がある。
体が、それを求めている。本能が、それを命じている。喉の奥から、低いうなり声が漏れる。胃が、何かを欲している。空腹。それだけが、体を支配している。
でも、京の心の奥には、まだ何かが残っていた。かすかな抵抗。かすかな恐怖。
俺は、あそこに行ってはいけない。
人間がいる。俺が知っていた人間が。俺が愛していた人間が。
でも、止まらない。体は、命令に従わない。ただ、前に進むだけ。
国道の脇には、放棄された車が並んでいた。ドアが開いたまま、エンジンが止まったまま。窓ガラスには、血の手形がついている。誰かが、必死に逃げようとした痕跡。
京の群れは、その車を通り過ぎる。風が吹き、木々が揺れる。虫の声は、もうない。静寂だけが、辺りを支配している。
遠くで、サイレンの音が聞こえた。ウーウーという音が、夜の闇に響く。でも、それも次第に遠ざかっていく。やがて、静寂が戻る。
京は、ただ歩き続ける。
都市の光が、少しずつ近づいてくる。高層ビルのシルエットが、夜空に浮かんでいる。窓の明かりが、星のように点滅している。そこには、何万人、何十万人もの人間がいる。
京の心が、悲鳴を上げる。
やめろ。行くな。
でも、体は止まらない。
群れは、進み続ける。
“静かな朝”は、終わった。
次に来るのは、血に染まる夜だ。
そして、その夜は——もう、すぐそこまで来ていた。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




