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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第2部「裂け目」

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17/40

第16話 静かな朝

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 春の陽射ひざしが窓を叩く朝だった。

 通勤電車の中で、スマートフォンを操作する人々の指は軽やかに動く。画面には昨夜のバラエティ番組の話題、新作ゲームの配信通知、友人とのたわいない会話。その合間を縫うように、ニュースアプリの通知が一つ、また一つと流れていく。

「地方都市で原因不明のウイルス性疾患――感染者は数名、症状は発熱と錯乱」

 見出しはそれだけだ。記事を開く者は少ない。開いた者も、数行読んで指を止め、次の話題へとスワイプする。電車の揺れに身を任せ、つり革をつかむ手には力がない。誰もが、いつもの朝を過ごしている。

 窓の外には青い空が広がり、街路樹の新緑が風に揺れていた。都心の高層ビル群がガラスに反射し、きらきらと光を放つ。桜の花びらが舞い散り、歩道を薄紅色に染めている。誰も気づいていない。遠く離れた地方都市で、すでに地獄の扉が開き始めていることに。


 郊外の総合病院。

 救急外来の待合室には、十数名の患者が座っていた。せきをする老人、腕を押さえた主婦、熱で顔を紅潮こうちょうさせた子供。看護師が名前を呼び、診察室へと案内していく。白い壁、消毒液のにおい、機械的に流れるアナウンス。蛍光灯の光が床を照らし、廊下の奥からは医療機器の電子音が途切れることなく響いている。すべてがいつもと変わらない。

 だが、処置室の奥では違う光景が広がっていた。

 ベッドに寝かされた中年男性――昨夜、野良犬に噛まれて搬送されてきた患者だ。医師は傷口を洗浄し、抗生物質を投与した。「念のため一晩様子を見ましょう」と告げ、カルテに記入する。男は黙ってうなずき、目を閉じた。その時点では、ただの外傷患者に過ぎなかった。

 だが、朝になって男の容態が急変した。

 体温は四十度を超え、瞳孔どうこうが開き、呼吸が荒くなる。看護師が駆けつけ、医師を呼ぶ。中年の医師――桜井と呼ばれる男が処置室へ入り、ベッドに近づく。聴診器を当て、脈を測る。だが、その瞬間――

 男が跳ね上がった。

 固定用のベルトが外れ、男の腕が空を掴む。桜井が驚いて後ずさろうとした瞬間、男の手が医師の白衣を掴み、強引に引き寄せた。そして――男の口が、桜井の首筋に食いついた。

 ブチリ、という音。

 肉が裂け、血がき出す。桜井の悲鳴が廊下に響き渡り、看護師たちが駆けつける。だが、その時にはもう遅かった。男の歯は深々と桜井ののどに沈み、引き裂かれた血管から赤黒い液体が床を染めていく。医師の白衣が真紅に変わり、体が痙攣けいれんするように震える。

 看護師の一人――若い女性が悲鳴を上げ、壁際の非常ボタンを押した。けたたましい警報音が病院中に鳴り響く。もう一人の看護師が男を引きがそうと腕を掴むが、男は離れない。むしろさらに深くみつき、肉を引きちぎる。ゴリ、ゴリ、という骨を削る音。血の匂いが部屋を満たし、看護師たちの顔が青ざめていく。

 そして――倒れた桜井の指が、ぴくりと動いた。


 その光景を、偶然居合わせた見舞客の一人がスマートフォンで撮影していた。

 震える手で画面を操作し、動画をSNSへアップロードする。タイトルは「病院で人が人を食ってる マジでヤバい」。投稿ボタンを押した瞬間、動画は拡散し始めた。

 十人、百人、千人――シェアの数が秒単位で増えていく。コメント欄には「フェイクだろ」「映画の撮影じゃね?」「CGにしてはリアルすぎ」「どこの病院?」という文字があふれ、リツイートの嵐が巻き起こる。再生回数は一万、五万、十万と跳ね上がり、トレンドワードに「病院」「食人」「ゾンビ」という単語が並び始める。

 だが、投稿から三分後――動画は削除された。

 アカウントも凍結され、リンクをクリックしても「このコンテンツは利用できません」の表示が出るだけ。それでも、すでにスクリーンショットを保存した者たちが別の場所へと転載し、イタチごっこが始まっていた。削除、再投稿、削除、再投稿。情報は地下水脈のように、見えない場所で広がり続ける。

 そして――テレビ局も動き出した。


 午前九時、全国ニュースで「速報」のテロップが流れた。

 キャスターの表情は冷静だが、声にはかすかな緊張が混じる。

「先ほど入った情報です。神奈川県内の総合病院で、患者が医療スタッフに噛みつくという事件が発生しました。現在、警察が現場を封鎖し、状況を確認中です。詳細が入り次第、お伝えします」

 画面が切り替わり、病院の外観が映る。規制線が張られ、警察車両が数台停まっている。報道陣がカメラを構え、リポーターがマイクを握る。

 リポーターは若い男性で、緊張した面持おももちちで病院の入り口を指差す。

「現在、病院内では警察による現場検証が行われていますが、詳しい状況はまだ――」

 その瞬間、病院の自動ドアが開いた。

 中から、白衣を着た人影が飛び出してくる。顔は血まみれで、白目をいている。その後ろから、別の人影が追いかけてくる。看護師だ。彼女の腕には噛まれたあとがあり、血がしたたり落ちている。

 リポーターの声が震え始める。

「え……あ、あれは……!」

 カメラが揺れ、映像が乱れる。警察官が叫び、規制線を越えようとする人影を押し戻す。だが、白衣の人影は構わず前へ進み、警察官の一人に飛びかかった。悲鳴、怒号、銃声――。

 映像が途切れ、スタジオに戻る。

 キャスターの顔が強張こわばり、手元の原稿を見つめる。だが、何も言葉が出てこない。数秒の沈黙。そして――

「……只今ただいまの映像について、確認中です。視聴者の皆様にはご心配をおかけしておりますが……」

 声がかすれ、画面が再び切り替わる。だが、その映像はすでに全国の視聴者の脳裏のうりに焼きついていた。


 その頃、藤原京ふじわら きょうの群れは田園地帯を抜けていた。

 麦畑が風に揺れ、穂が金色の波を描く。遠くには山の稜線りょうせんが見え、青い空が果てしなく広がっている。農道を歩く群れの足音は、土を踏みしめる鈍い音だけ。鳥のさえずりが聞こえ、トラクターのエンジン音が遠くから響く。平和な、あまりにも平和な風景。

 だが、その中を進む群れは、やがて訪れる混沌こんとんの使者だった。

 京は先頭を歩いている。その目には意思が宿っているが、肉体は本能に従い、ただ前へ、前へと進んでいく。彼の意識の奥底では、言葉にならない何かが渦巻いている。

 ――なぜ、俺はここにいる?

 ――なぜ、俺は歩いている?

 答えは出ない。ただ、体が勝手に動く。空腹。それだけが、彼を突き動かしている。肉を求める本能。人間を求める衝動。それ以外の感情は、霧の中に沈んでいる。

 京の目に、市街地の輪郭が映り込む。ビルの看板、信号機の赤い光、行き交う車。人間たちは、まだ何も知らない。


 海の向こう。

 藤宮澪ふじみや みおは、ホテルの一室で朝食をっていた。トーストとスクランブルエッグ、オレンジジュース。窓からは青い海が見え、ヨットが白い帆を広げて進んでいく。おだやかな朝。訓練の疲れもいやされ、体は軽い。

 隣のテーブルには、訓練仲間の女性――エマという名のアメリカ人が座っている。彼女はコーヒーを飲みながら、スマホの画面を眺めている。

「澪、これ見た?」

 エマが画面を向ける。そこには、日本のニュースサイトが表示されていた。

「日本、また地震?」

 澪は首を横に振る。

「違う……感染症らしい」

 エマがまゆをひそめる。

「感染症? どんな?」

 澪は答えず、テーブルの隅に置かれたテレビに目を向けた。現地の言葉で語られる内容は、ほとんど理解できない。だが、画面の端に映し出された文字に、澪の手が止まった。

「Japan - Unknown Virus Outbreak」

 映像が切り替わり、病院の外観が映る。救急車、警察車両、規制線。そして、担架たんかで運ばれる人影。顔にはシートがかけられ、血がにじんでいる。

 澪はフォークを置き、画面を凝視ぎょうしした。心臓が一度、強く脈打つ。胸の奥に、冷たい予感が広がっていく。

「……日本で?」

 つぶやきは、誰にも届かない。エマが肩をすくめる。

「大したことないでしょ。いつもの誇張報道よ」

 だが、澪の表情は凍りついていた。画面に映る病院の名前。神奈川県。それは、京が住んでいた場所から、そう遠くない。

 胸の奥の冷たさは、消えなかった。


 日本。都心の街角。

 サラリーマンたちが駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら、スマホの画面を見せ合っている。

「これ見た? 病院のやつ」

「ああ、フェイクでしょ。こんなの信じるやつバカだろ」

 笑い声が響き、誰かがまた別の動画をシェアする。画面には、病院の廊下を走り回る何かが映っている。だが、映像は粗く、判別できない。コメント欄には「CG乙おつ」「演技下手すぎ」「ネタにマジレスw」という言葉が並ぶ。

 その横を、マスクをつけた女性が通り過ぎる。彼女の目は不安に揺れているが、誰もそれに気づかない。街は、まだ笑っている。


 病院の処置室では、倒れた桜井が起き上がっていた。

 首から血を流し、白目を剥いたまま、ふらふらと立ち上がる。看護師たちが悲鳴を上げ、後ずさる。桜井の口が開き、低いうなり声が漏れる。そして――看護師の一人に向かって、腕を伸ばした。

 彼女は逃げようとしたが、足が絡まり転倒する。桜井がおおいかぶさり、その腕に噛みつく。再び、肉が裂ける音。血が床をらし、悲鳴が響き渡る。

 病院の外では、すでに警察が到着していた。だが、中で何が起きているのか、まだ誰も理解していない。ただ、通報を受けた「暴力事件」として処理され、規制線が張られる。報道陣も到着し、カメラが病院の入り口を映す。

 そして――その映像が、全国のニュース番組で流れ始めた。


 京の群れは、ついに市街地へと足を踏み入れた。

 舗装された道路。停車中の車。歩道を歩く人々。群れの姿を見た瞬間、誰かが悲鳴を上げた。だが、それはすぐに笑いに変わる。

「コスプレ?」

「イベントか何か?」

 スマホを向ける者もいる。だが、群れは止まらない。無言で、ただ前へ進む。その目はうつろで、動きは緩慢かんまんだが、確実に人々へと近づいていく。

 最初の犠牲者は、笑いながら近づいた若い男だった。彼がスマホを構え、「インスタ映えするわ」と呟いた瞬間、群れの一体が腕を伸ばし、男の肩に手をかける。そして――噛みついた。

 男の笑顔が凍りつき、悲鳴が街に響く。血が噴き出し、周囲の人々が一斉に逃げ出す。パニックが広がり、車がクラクションを鳴らし、怒号が飛び交う。母親が子供を抱きかかえ、老人が転倒し、誰かがぶつかり合う。群れはそれでも止まらず、次の獲物へと手を伸ばす。

 京は、その光景を静かに見つめていた。

 体は本能のままに動き、人間を追う。だが、意識の奥底で、彼は何かを感じていた。

 ――これが、始まりだ。


 澪のテレビ画面に、速報のテロップが流れた。

「日本・首都圏で感染症拡大の兆候」

 彼女の手が、胸元で強く握られる。心臓が激しく鳴り、呼吸が浅くなる。

 画面の向こうで、何かが崩れ始めていた。


 そして――人々の「まだ大丈夫」という言葉が、最初の地獄の扉を押し開けた。


(了)

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。

また次の物語で、お会いできる日を願っています。


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