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ゾンビサイド ― 俺は、まだ人間か ―  作者: MOON RAKER 503
第1部「黎明《れいめい》」

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第15話「都市の影」

この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。

ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。

どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。

 焦土を越えて、群れは進んでいた。


 夜明け前の薄暗い空の下、数千のゾンビたちが歩いている。ズルズル、ズルズルと足を引きずる音が、静寂を破る。低いうめき声が重なり合い、不協和音となって空気を震わせる。


「ウゥゥゥ……」


「アァァァ……」


 それは、もはや人の声ではなかった。


 新しい種族の——声だった。


 


 藤原京は、その群れの中心にいた。


 全身は血とすすにまみれ、服はボロボロに破れている。髪は焦げ、肌には火傷やけどの痕が残っている。だが、足は止まらない。ただ、前へ——前へと進み続ける。


 


 前方に、境界線が見えてきた。


 焼け野原が終わり、都市が始まる場所。


 そこから先は、まだ建物が残っている。白い外壁の住宅、整備された道路、点滅する信号機、灯っている街灯。


 まだ——人間の世界があった。


 


 京の視界に、その光景が映る。


 だが、何も感じなかった。


 かつては懐かしいと思ったかもしれない景色。


 だが今は——ただの狩り場にしか見えなかった。


 


 群れは、境界線を越えた。


 


 都市の入り口——郊外の住宅地。


 二階建ての家が整然と並び、庭には手入れされた芝生がある。車庫には車が停まり、玄関先には自転車が立てかけられている。窓からは明かりが漏れ、カーテンが揺れている。


 どこかで犬が吠えた。


 ワンワン、ワンワン——。


 だが、すぐに静かになった。


 


 時刻は——午前三時。


 多くの人々は、まだ眠っている。


 ニュースも知らない。


 避難勧告も届いていない。


 


 群れが、最初の家に到達した。


 数十体のゾンビが、玄関に押し寄せる。


 ドアを叩く。ドンドンドン——。


 鈍い音が響き、ドアがきしむ。


 


 中から、男性の声がした。


「誰だ——こんな時間に——」


 足音が近づいてくる。


 ドアの鍵が開く音。ガチャリ——。


 


 ドアが開いた瞬間——。


 


 ゾンビたちが雪崩なだれ込んだ。


 男性の悲鳴が響く。


「ぎゃああああっ——!!」


 それは、すぐに途切れた。


 


 家の二階で、女性の悲鳴が上がる。


 子供が泣き叫ぶ。


 だが——それも、やがて静かになった。


 


 次の家へ。


 また次の家へ。


 


 住宅地に、悲鳴が連鎖していく。


 一軒、また一軒と、灯りが消えていく。


 いや——消えるのではない。


 中の人間が、いなくなるのだ。


 


 そして——新たなゾンビが、家から出てくる。


 群れに加わり、次の家へ向かう。


 


 


 はるか上空——高度三万六千キロメートル。静止衛星軌道。


 地球観測衛星「ひまわり10号」が、日本列島を見下ろしていた。


 高解像度カメラが、リアルタイムで地上の様子を捉えている。赤外線センサーが熱源を検知し、データを地上へ送信し続けている。


 


 東京——防衛省・中央指揮所。


 地下三階、コンクリートと鉄で厳重に守られた部屋。


 天井は低く、空調の音だけが響いている。蛍光灯が白い光を放ち、空気は冷たく乾燥している。


 


 巨大なモニターが壁一面に並んでいた。


 日本各地の映像が映し出され、データが流れ続けている。気象情報、交通情報、そして——感染状況。


 


 二十人近いオペレーターが、キーボードを叩いている。


 カタカタカタカタ——。


 画面の光が顔を照らし、疲労が目の下に刻まれている。


 


 一人の若い女性オペレーターが、声を上げた。


「第三衛星、映像受信——! ○○市上空です——!」


 


 メインモニターに、映像が映し出される。


 焼け野原——。


 建物の骨格だけが残り、道路は灰に覆われている。


 


 そして——動いているものがあった。


 


 灰色の波。


 


 数千の点が、ゆっくりと——だが確実に、都市部へ向かって移動している。


 


 指揮官が、モニターに近づいた。


 松永まつなが一佐。五十六歳。防衛大学校を卒業し、三十年以上自衛隊に勤めてきた。湾岸戦争、イラク派遣、東日本大震災——様々な現場を経験してきた。


 だが——これは、見たことがない光景だった。


 


「……拡大できるか」


 松永の声は、低く沈んでいた。


「はい」


 


 画面が拡大される。


 一つ一つの点が、はっきりと見えるようになる。


 人の形——いや、人だったもの。


 よろめきながら歩き、手を前に伸ばし、獲物を求めている。


 


「規模は?」


 松永が問う。


 別のオペレーターが答える。


「推定——三千から五千。そして——」


 彼は言葉を詰まらせる。


「増加中です」


 


「増加——?」


「はい。移動先の住宅地で、新たな——感染者が——発生しています」


 


 松永は、歯を食いしばった。


 拳を握り、爪が手のひらに食い込む。


 だが——声は冷静だった。


「政府には報告したか」


「はい。三十分前に」


「返答は?」


 


 オペレーターが、ためらいがちに答える。


「官邸は——『局地的感染』として発表する方針です」


「パニックを避けるため、と」


 


 松永の目が、鋭くなった。


「局地的——だと?」


 彼はモニターを指差す。


「これが局地的に見えるか?」


「……いえ」


「これは——国家レベルの危機だ」


 


 だが——命令には逆らえない。


 文民統制。政府の判断が優先される。


 


 松永は深く息を吐いた。


「……わかった。監視を続けろ。一時間ごとに報告書を上げる」


「了解」


 


 モニターには、灰色の波が映り続けていた。


 それは——止まる気配がなかった。


 


 


 京は、都市の中を歩いていた。


 住宅地を抜け、商店街へ。


 シャッターが下りた店、暗い窓、誰もいない道路。街灯だけが、むなしく光っている。


 自動販売機が、ブーンという音を立てている。


 風が吹き、看板が軋む。


 


 そして——前方に、それが見えた。


 


 高層ビル群。


 


 遠くに、巨大な建物が立ち並んでいる。ガラス張りの外壁が、街の灯りを反射している。二十階、三十階——中には五十階を超えるものもある。


 窓の灯りが点々と光り、まるで星座のように見える。


 


 京は、立ち止まった。


 群れも、それに合わせて止まる。


 


 京は——それを見上げた。


 


 その瞬間——記憶がよみがえった。


 


 大学のキャンパス。


 桜の木の下、友人たちと笑い合った春の日。


 図書館で夜遅くまで勉強した試験期間。


 サークルの飲み会、バイト先の居酒屋、アパートの小さな部屋。


 


 そして——みおと歩いた、都会の夜。


 


 高層ビルが立ち並ぶ繁華街。ネオンが輝き、人々が行き交う。


 澪が京の腕を掴んで、笑っていた。


 


 『京、都会は疲れるでしょ? 人が多すぎて』


 『ああ、田舎者だからな』


 『私もよ。でも——夜景は綺麗よね』


 


 二人で展望台へ上った日。


 ガラス越しに見える、無数の光。


 地平線まで広がる、都市の輝き。


 


 澪が窓に手を当てて、呟いた。


 


 『いつか、この街で一緒に暮らせたらいいね』


 


 京が振り返る。


 澪が微笑ほほえんでいた。


 少し照れたように、頬を染めて。


 


 『ああ——そうだな』


 


 京も笑い返す。


 


 『二人で、小さなアパートでもいいから』


 『うん。それで、毎日一緒に——』


 


 


 その記憶が——一瞬で塗りつぶされた。


 


 激しい衝動が、京を襲う。


 空腹。


 渇望。


 獲物を——肉を——血を——。


 


 本能が、理性を押し流す。


 記憶はかすみ、色を失い、消えていく。


 


 高層ビルは——ただの建物になった。


 そこにいる人間は——ただの獲物になった。


 澪の顔は——もう思い出せなかった。


 


(俺は——)


 京の意識が、かすかに呟く。


(もう——人間じゃない——)


 


 群れは、再び動き出した。


 京も、それに従って歩き出す。


 


 


 午前五時——。


 政府が、緊急記者会見を開いた。


 


 首相官邸・記者会見室。


 壇上には日本国旗が掲げられ、演台にはマイクが並んでいる。


 報道陣が詰めかけ、カメラが何台も設置されている。フラッシュが光り、ざわめきが響く。


 


 官房長官が、壇上に現れた。


 六十代の男性。黒いスーツを着て、表情は硬い。


 原稿を手に持ち、演台の前に立つ。


 


 カメラのフラッシュが一斉に光る。


 


「本日未明、○○県○○市において、原因不明の感染症が発生しました」


 官房長官の声は、落ち着いていた。


 だが——その目には、疲労がにじんでいた。


「現在、当該地域は封鎖され、自衛隊および警察が対応に当たっています」


 


 記者たちが、一斉に手を挙げる。


 官房長官が一人を指名する。


 


「感染の規模は?」


「局地的なものと認識しています。都市部への影響はありません」


「感染者の数は?」


「現在、確認中です」


「感染経路は?」


「調査中です」


「症状は?」


「詳細は専門家が分析中ですが、攻撃性の増加が報告されています」


「治療法は?」


「現在、研究機関と連携して——」


 


 官房長官は、原稿を読み上げるだけだった。


 質問に対して、具体的な答えは何もない。


 真実は——伏せられていた。


 


 テレビ中継が、全国に流れる。


 


 各家庭で、人々が朝のニュースを見ている。


 リビングで、キッチンで、寝室で——。


 


「局地的、か——」


 サラリーマンが、コーヒーを飲みながら呟く。


「じゃあ、大丈夫なのかな」


 主婦が、子供に朝食を食べさせながら言う。


「でも、自衛隊が出てるって——ちょっと怖いわね」


 大学生が、スマホを見ながら首を傾げる。


 


 不安はあった。


 だが、パニックにはならなかった。


 政府が「大丈夫」と言っているのだから——。


 


 そして——避難誘導が始まった。


 


 防災無線が、町中に響く。


「こちらは防災○○市です。繰り返します——」


 スピーカーから、機械的な女性の声が流れる。


「○○市周辺の住民は、指定された避難所へ移動してください」


「落ち着いて行動してください。指示に従ってください」


「車でお越しの方は、国道○号線を利用してください」


 


 人々が動き出した。


 車に乗り、荷物を詰め込み、家族を集める。


 渋滞が始まり、クラクションが鳴り響く。


 


 だが——それは、最悪の選択だった。


 


 避難所は——群れの進路上にあった。


 


 


 京の群れは、幹線道路を進んでいた。


 片側三車線の広い道路。普段なら車が行き交う場所。


 だが今は——ゾンビで埋め尽くされていた。


 


 そして——前方に、車の列が見えた。


 


 避難する人々だった。


 数百台の車が、渋滞じゅうたいしている。セダン、ワゴン、トラック、バス——あらゆる車両が道路をふさいでいる。


 クラクションが鳴り響き、エンジン音が重なり合う。


 ブォォォン、ブォォォン——。


 


 車の中で、人々が焦っている。


「なんで動かないんだ——!」


「前が詰まってる——!」


「早く——早く——!」


 


 子供が泣いている。


 老人が不安そうに窓の外を見ている。


 


 そして——後方から、それが迫ってきた。


 


 最初に気づいたのは、列の最後尾にいた男性だった。


 バックミラーを見て——凍りついた。


 


 灰色の波が、道路を埋め尽くしていた。


 


 数千——いや、もっと。


 視界の端から端まで、ゾンビで埋まっている。


 


「嘘——だろ——」


 男性の声が震える。


 


 隣の車の運転手も気づいた。


「来る——来るぞ——!!」


 


 悲鳴が、車列全体に広がった。


 人々が車を捨て、走り出す。


 荷物を置いて、子供を抱いて、必死に逃げる。


 


 だが——渋滞で前にも進めない。


 脇道は狭く、人であふれている。


 


 群れが、車列に到達した。


 


 ガシャーン!


 最初の車が、ゾンビに囲まれる。


 窓ガラスが割れ、ドアがこじ開けられる。


 


 次々と人々が倒れていく。


 噛まれ、引き裂かれ、そして——。


 


 起き上がる。


 


 目が濁り、口から唾液が垂れる。


 彼らは、仲間になった。


 そして、次の獲物へ向かう。


 


 群れは、加速度的に膨れ上がった。


 五千、一万——。


 もはや、数えることもできない。


 


 


 防衛省・中央指揮所。


 


「報告——! 避難誘導が——失敗——!」


 オペレーターが叫ぶ。声が裏返っている。


「群れが——避難民を——飲み込んでいます——!!」


 


 メインモニターに映る映像。


 道路を埋め尽くす車。逃げ惑う人々。そして——追いかける灰色の波。


 


 松永が、拳で机を叩いた。


 バン!


 音が部屋中に響く。


「クソ——! 誘導先が悪すぎる——!」


「官邸に連絡を——! 誘導ルートを変更しろと——!」


「もう——遅いです——!」


 


 モニターの中で——人々が次々と倒れていく。


 


 松永は、目を閉じた。


 だが——見なくても、わかる。


 これは——終わりの始まりだ。


 


 


 京は、その波の中心にいた。


 群れは、もう一万を超えていた。


 いや——それ以上かもしれない。


 


 都市の中心部が、見えてきた。


 高層ビルが立ち並び、ネオンが光り、まだ人々が活動している。


 朝の通勤ラッシュが始まろうとしていた。


 


 京の視界が、また揺らいだ。


 


 幻影——。


 


 澪が、前方に立っていた。


 浴衣姿で、振り返り、微笑んでいる。


 


 だが——その表情は、悲しかった。


 


「京——こっちよ」


 彼女の声が、聞こえる。


「あなたの——最後の場所」


 


 京の意識が、問う。


(最後——?)


(俺の——最後——?)


 


 澪は答えない。


 ただ、歩き出す。


 都市の中心部へ。


 高層ビルの間へ。


 


 群れが、それに従う。


 まるで、彼女に導かれているかのように。


 


 京も、歩き出す。


 止められない。


 止めたくても——身体が動く。


 


(澪——お前は——)


 京の心が呟く。


(俺を——どこへ連れて行くんだ——)


 


 だが、澪は振り返らない。


 ただ、前へ——前へと歩いていく。


 


 


 防衛省・中央指揮所。


 


 モニターに映る、灰色の波。


 それは——もう都市の入り口を突破していた。


 


 オペレーターの一人が、震える声で呟いた。


「これが——終わりの始まり、なのか——」


 


 松永は、何も言えなかった。


 ただ、モニターを見つめるだけ。


 


 画面の中で——群れは進み続けていた。


 


 そして——その映像は、官邸へ、各省庁へ、自衛隊各基地へ——。


 リアルタイムで送信されていた。


 


 日本中の指導者たちが——この光景を見ていた。


 


 終わりが——始まっていた。


 


 


 高層ビルの展望フロア。


 


 夜景を見ていたカップルが、窓の外を見下ろした。


 遠くに——何かが動いている。


 


「ねえ、あれ——」


 女性が指差す。


 


 男性が目を凝らす。


 そして——顔が青ざめた。


 


「逃げるぞ——今すぐ——!!」


 


 二人が展望フロアから駆け出す。


 エレベーターへ、階段へ——。


 


 だが——もう遅かった。


 


 都市に——終わりが来ようとしていた。


 


 


 京は、澪の幻影を追って歩き続けた。


 群れが、それに続く。


 


 一万を超える波が——都市を飲み込もうとしていた。


 


 空が、白み始めた。


 夜明けが来る。


 


 だが、それは——希望の光ではなかった。


 


 絶望の夜明けだった。


 


 京の心の中で——最後の人間性が、消えようとしていた。


 澪の声も、もう聞こえない。


 ただ——幻影だけが、前を歩いている。


 


 それを追って——京は歩く。


 


 群れと共に。


 新しい種族として。


 世界を滅ぼす存在として——。


 (了)


 

 *

 第1部「黎明」——完。


ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

第2部は、2026年1月5日(月)から毎日20時更新で投稿します。

よろしくお願いします。

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