第15話「都市の影」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
焦土を越えて、群れは進んでいた。
夜明け前の薄暗い空の下、数千のゾンビたちが歩いている。ズルズル、ズルズルと足を引きずる音が、静寂を破る。低い呻き声が重なり合い、不協和音となって空気を震わせる。
「ウゥゥゥ……」
「アァァァ……」
それは、もはや人の声ではなかった。
新しい種族の——声だった。
藤原京は、その群れの中心にいた。
全身は血と煤にまみれ、服はボロボロに破れている。髪は焦げ、肌には火傷の痕が残っている。だが、足は止まらない。ただ、前へ——前へと進み続ける。
前方に、境界線が見えてきた。
焼け野原が終わり、都市が始まる場所。
そこから先は、まだ建物が残っている。白い外壁の住宅、整備された道路、点滅する信号機、灯っている街灯。
まだ——人間の世界があった。
京の視界に、その光景が映る。
だが、何も感じなかった。
かつては懐かしいと思ったかもしれない景色。
だが今は——ただの狩り場にしか見えなかった。
群れは、境界線を越えた。
都市の入り口——郊外の住宅地。
二階建ての家が整然と並び、庭には手入れされた芝生がある。車庫には車が停まり、玄関先には自転車が立てかけられている。窓からは明かりが漏れ、カーテンが揺れている。
どこかで犬が吠えた。
ワンワン、ワンワン——。
だが、すぐに静かになった。
時刻は——午前三時。
多くの人々は、まだ眠っている。
ニュースも知らない。
避難勧告も届いていない。
群れが、最初の家に到達した。
数十体のゾンビが、玄関に押し寄せる。
ドアを叩く。ドンドンドン——。
鈍い音が響き、ドアが軋む。
中から、男性の声がした。
「誰だ——こんな時間に——」
足音が近づいてくる。
ドアの鍵が開く音。ガチャリ——。
ドアが開いた瞬間——。
ゾンビたちが雪崩込んだ。
男性の悲鳴が響く。
「ぎゃああああっ——!!」
それは、すぐに途切れた。
家の二階で、女性の悲鳴が上がる。
子供が泣き叫ぶ。
だが——それも、やがて静かになった。
次の家へ。
また次の家へ。
住宅地に、悲鳴が連鎖していく。
一軒、また一軒と、灯りが消えていく。
いや——消えるのではない。
中の人間が、いなくなるのだ。
そして——新たなゾンビが、家から出てくる。
群れに加わり、次の家へ向かう。
遥か上空——高度三万六千キロメートル。静止衛星軌道。
地球観測衛星「ひまわり10号」が、日本列島を見下ろしていた。
高解像度カメラが、リアルタイムで地上の様子を捉えている。赤外線センサーが熱源を検知し、データを地上へ送信し続けている。
東京——防衛省・中央指揮所。
地下三階、コンクリートと鉄で厳重に守られた部屋。
天井は低く、空調の音だけが響いている。蛍光灯が白い光を放ち、空気は冷たく乾燥している。
巨大なモニターが壁一面に並んでいた。
日本各地の映像が映し出され、データが流れ続けている。気象情報、交通情報、そして——感染状況。
二十人近いオペレーターが、キーボードを叩いている。
カタカタカタカタ——。
画面の光が顔を照らし、疲労が目の下に刻まれている。
一人の若い女性オペレーターが、声を上げた。
「第三衛星、映像受信——! ○○市上空です——!」
メインモニターに、映像が映し出される。
焼け野原——。
建物の骨格だけが残り、道路は灰に覆われている。
そして——動いているものがあった。
灰色の波。
数千の点が、ゆっくりと——だが確実に、都市部へ向かって移動している。
指揮官が、モニターに近づいた。
松永一佐。五十六歳。防衛大学校を卒業し、三十年以上自衛隊に勤めてきた。湾岸戦争、イラク派遣、東日本大震災——様々な現場を経験してきた。
だが——これは、見たことがない光景だった。
「……拡大できるか」
松永の声は、低く沈んでいた。
「はい」
画面が拡大される。
一つ一つの点が、はっきりと見えるようになる。
人の形——いや、人だったもの。
よろめきながら歩き、手を前に伸ばし、獲物を求めている。
「規模は?」
松永が問う。
別のオペレーターが答える。
「推定——三千から五千。そして——」
彼は言葉を詰まらせる。
「増加中です」
「増加——?」
「はい。移動先の住宅地で、新たな——感染者が——発生しています」
松永は、歯を食いしばった。
拳を握り、爪が手のひらに食い込む。
だが——声は冷静だった。
「政府には報告したか」
「はい。三十分前に」
「返答は?」
オペレーターが、ためらいがちに答える。
「官邸は——『局地的感染』として発表する方針です」
「パニックを避けるため、と」
松永の目が、鋭くなった。
「局地的——だと?」
彼はモニターを指差す。
「これが局地的に見えるか?」
「……いえ」
「これは——国家レベルの危機だ」
だが——命令には逆らえない。
文民統制。政府の判断が優先される。
松永は深く息を吐いた。
「……わかった。監視を続けろ。一時間ごとに報告書を上げる」
「了解」
モニターには、灰色の波が映り続けていた。
それは——止まる気配がなかった。
京は、都市の中を歩いていた。
住宅地を抜け、商店街へ。
シャッターが下りた店、暗い窓、誰もいない道路。街灯だけが、虚しく光っている。
自動販売機が、ブーンという音を立てている。
風が吹き、看板が軋む。
そして——前方に、それが見えた。
高層ビル群。
遠くに、巨大な建物が立ち並んでいる。ガラス張りの外壁が、街の灯りを反射している。二十階、三十階——中には五十階を超えるものもある。
窓の灯りが点々と光り、まるで星座のように見える。
京は、立ち止まった。
群れも、それに合わせて止まる。
京は——それを見上げた。
その瞬間——記憶が蘇った。
大学のキャンパス。
桜の木の下、友人たちと笑い合った春の日。
図書館で夜遅くまで勉強した試験期間。
サークルの飲み会、バイト先の居酒屋、アパートの小さな部屋。
そして——澪と歩いた、都会の夜。
高層ビルが立ち並ぶ繁華街。ネオンが輝き、人々が行き交う。
澪が京の腕を掴んで、笑っていた。
『京、都会は疲れるでしょ? 人が多すぎて』
『ああ、田舎者だからな』
『私もよ。でも——夜景は綺麗よね』
二人で展望台へ上った日。
ガラス越しに見える、無数の光。
地平線まで広がる、都市の輝き。
澪が窓に手を当てて、呟いた。
『いつか、この街で一緒に暮らせたらいいね』
京が振り返る。
澪が微笑んでいた。
少し照れたように、頬を染めて。
『ああ——そうだな』
京も笑い返す。
『二人で、小さなアパートでもいいから』
『うん。それで、毎日一緒に——』
その記憶が——一瞬で塗り潰された。
激しい衝動が、京を襲う。
空腹。
渇望。
獲物を——肉を——血を——。
本能が、理性を押し流す。
記憶は霞み、色を失い、消えていく。
高層ビルは——ただの建物になった。
そこにいる人間は——ただの獲物になった。
澪の顔は——もう思い出せなかった。
(俺は——)
京の意識が、かすかに呟く。
(もう——人間じゃない——)
群れは、再び動き出した。
京も、それに従って歩き出す。
午前五時——。
政府が、緊急記者会見を開いた。
首相官邸・記者会見室。
壇上には日本国旗が掲げられ、演台にはマイクが並んでいる。
報道陣が詰めかけ、カメラが何台も設置されている。フラッシュが光り、ざわめきが響く。
官房長官が、壇上に現れた。
六十代の男性。黒いスーツを着て、表情は硬い。
原稿を手に持ち、演台の前に立つ。
カメラのフラッシュが一斉に光る。
「本日未明、○○県○○市において、原因不明の感染症が発生しました」
官房長官の声は、落ち着いていた。
だが——その目には、疲労が滲んでいた。
「現在、当該地域は封鎖され、自衛隊および警察が対応に当たっています」
記者たちが、一斉に手を挙げる。
官房長官が一人を指名する。
「感染の規模は?」
「局地的なものと認識しています。都市部への影響はありません」
「感染者の数は?」
「現在、確認中です」
「感染経路は?」
「調査中です」
「症状は?」
「詳細は専門家が分析中ですが、攻撃性の増加が報告されています」
「治療法は?」
「現在、研究機関と連携して——」
官房長官は、原稿を読み上げるだけだった。
質問に対して、具体的な答えは何もない。
真実は——伏せられていた。
テレビ中継が、全国に流れる。
各家庭で、人々が朝のニュースを見ている。
リビングで、キッチンで、寝室で——。
「局地的、か——」
サラリーマンが、コーヒーを飲みながら呟く。
「じゃあ、大丈夫なのかな」
主婦が、子供に朝食を食べさせながら言う。
「でも、自衛隊が出てるって——ちょっと怖いわね」
大学生が、スマホを見ながら首を傾げる。
不安はあった。
だが、パニックにはならなかった。
政府が「大丈夫」と言っているのだから——。
そして——避難誘導が始まった。
防災無線が、町中に響く。
「こちらは防災○○市です。繰り返します——」
スピーカーから、機械的な女性の声が流れる。
「○○市周辺の住民は、指定された避難所へ移動してください」
「落ち着いて行動してください。指示に従ってください」
「車でお越しの方は、国道○号線を利用してください」
人々が動き出した。
車に乗り、荷物を詰め込み、家族を集める。
渋滞が始まり、クラクションが鳴り響く。
だが——それは、最悪の選択だった。
避難所は——群れの進路上にあった。
京の群れは、幹線道路を進んでいた。
片側三車線の広い道路。普段なら車が行き交う場所。
だが今は——ゾンビで埋め尽くされていた。
そして——前方に、車の列が見えた。
避難する人々だった。
数百台の車が、渋滞している。セダン、ワゴン、トラック、バス——あらゆる車両が道路を塞いでいる。
クラクションが鳴り響き、エンジン音が重なり合う。
ブォォォン、ブォォォン——。
車の中で、人々が焦っている。
「なんで動かないんだ——!」
「前が詰まってる——!」
「早く——早く——!」
子供が泣いている。
老人が不安そうに窓の外を見ている。
そして——後方から、それが迫ってきた。
最初に気づいたのは、列の最後尾にいた男性だった。
バックミラーを見て——凍りついた。
灰色の波が、道路を埋め尽くしていた。
数千——いや、もっと。
視界の端から端まで、ゾンビで埋まっている。
「嘘——だろ——」
男性の声が震える。
隣の車の運転手も気づいた。
「来る——来るぞ——!!」
悲鳴が、車列全体に広がった。
人々が車を捨て、走り出す。
荷物を置いて、子供を抱いて、必死に逃げる。
だが——渋滞で前にも進めない。
脇道は狭く、人で溢れている。
群れが、車列に到達した。
ガシャーン!
最初の車が、ゾンビに囲まれる。
窓ガラスが割れ、ドアがこじ開けられる。
次々と人々が倒れていく。
噛まれ、引き裂かれ、そして——。
起き上がる。
目が濁り、口から唾液が垂れる。
彼らは、仲間になった。
そして、次の獲物へ向かう。
群れは、加速度的に膨れ上がった。
五千、一万——。
もはや、数えることもできない。
防衛省・中央指揮所。
「報告——! 避難誘導が——失敗——!」
オペレーターが叫ぶ。声が裏返っている。
「群れが——避難民を——飲み込んでいます——!!」
メインモニターに映る映像。
道路を埋め尽くす車。逃げ惑う人々。そして——追いかける灰色の波。
松永が、拳で机を叩いた。
バン!
音が部屋中に響く。
「クソ——! 誘導先が悪すぎる——!」
「官邸に連絡を——! 誘導ルートを変更しろと——!」
「もう——遅いです——!」
モニターの中で——人々が次々と倒れていく。
松永は、目を閉じた。
だが——見なくても、わかる。
これは——終わりの始まりだ。
京は、その波の中心にいた。
群れは、もう一万を超えていた。
いや——それ以上かもしれない。
都市の中心部が、見えてきた。
高層ビルが立ち並び、ネオンが光り、まだ人々が活動している。
朝の通勤ラッシュが始まろうとしていた。
京の視界が、また揺らいだ。
幻影——。
澪が、前方に立っていた。
浴衣姿で、振り返り、微笑んでいる。
だが——その表情は、悲しかった。
「京——こっちよ」
彼女の声が、聞こえる。
「あなたの——最後の場所」
京の意識が、問う。
(最後——?)
(俺の——最後——?)
澪は答えない。
ただ、歩き出す。
都市の中心部へ。
高層ビルの間へ。
群れが、それに従う。
まるで、彼女に導かれているかのように。
京も、歩き出す。
止められない。
止めたくても——身体が動く。
(澪——お前は——)
京の心が呟く。
(俺を——どこへ連れて行くんだ——)
だが、澪は振り返らない。
ただ、前へ——前へと歩いていく。
防衛省・中央指揮所。
モニターに映る、灰色の波。
それは——もう都市の入り口を突破していた。
オペレーターの一人が、震える声で呟いた。
「これが——終わりの始まり、なのか——」
松永は、何も言えなかった。
ただ、モニターを見つめるだけ。
画面の中で——群れは進み続けていた。
そして——その映像は、官邸へ、各省庁へ、自衛隊各基地へ——。
リアルタイムで送信されていた。
日本中の指導者たちが——この光景を見ていた。
終わりが——始まっていた。
高層ビルの展望フロア。
夜景を見ていたカップルが、窓の外を見下ろした。
遠くに——何かが動いている。
「ねえ、あれ——」
女性が指差す。
男性が目を凝らす。
そして——顔が青ざめた。
「逃げるぞ——今すぐ——!!」
二人が展望フロアから駆け出す。
エレベーターへ、階段へ——。
だが——もう遅かった。
都市に——終わりが来ようとしていた。
京は、澪の幻影を追って歩き続けた。
群れが、それに続く。
一万を超える波が——都市を飲み込もうとしていた。
空が、白み始めた。
夜明けが来る。
だが、それは——希望の光ではなかった。
絶望の夜明けだった。
京の心の中で——最後の人間性が、消えようとしていた。
澪の声も、もう聞こえない。
ただ——幻影だけが、前を歩いている。
それを追って——京は歩く。
群れと共に。
新しい種族として。
世界を滅ぼす存在として——。
(了)
*
第1部「黎明」——完。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
第2部は、2026年1月5日(月)から毎日20時更新で投稿します。
よろしくお願いします。




