第14話「包囲」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
空は、再び赤黒く染まっていた。
夜明けというより、薄暗い黄昏のような光。太陽は厚い煙に遮られ、ぼんやりとした赤い円としてしか見えない。
灰が、雪のように舞っていた。
シンシン——という音はしない。ただ、静かに降り積もる。道路に、車に、瓦礫に。全てを白く覆っていく。
焦土の町を、数台のトラックが進んでいた。
エンジン音だけが、静寂を破っている。
先頭のトラックを運転しているのは、元消防隊員の男性だった。顔には煤が付き、目は血走っている。ハンドルを握る手が、わずかに震えていた。
荷台には、十数人の避難民が乗っていた。
子供、老人、母親——皆、毛布にくるまり、身を寄せ合っている。
会話はなかった。
泣き声すら、出なかった。
ただ、呼吸音だけが聞こえる。浅く、速く、怯えた呼吸。
神谷刃は、荷台の縁に立っていた。
真剣を背に差し、周囲を警戒している。
彼の服は血と煤で汚れ、顔には疲労が刻まれている。額の傷から血が滴り、頬を伝っているが、拭おうともしない。
目だけが、鋭く周囲を見据えていた。
町は、死んでいた。
建物は崩れ、道路は割れ、車は焼け焦げている。
人影はない。
ゾンビの姿も、まだ見えない。
ただ——静寂だけがあった。
トラックの車列は、ゆっくりと進んでいく。
タイヤが灰を踏む音。サラ、サラ——。
それだけが、世界に残った音のように思えた。
刃は、遠くを見た。
都市のシルエットが、霞んで見える。高層ビルが立ち並び、まだ窓の灯りが点いている。
(あそこまで行けば——)
刃の心が呟く。
(まだ、人間の世界が残っているかもしれない)
だが、その希望は——もう細い糸のようだった。
その時——前方に、何かが見えた。
灰色の壁。
いや——壁ではない。
動いている。
「止まれ——!!」
刃が叫んだ。
運転手がブレーキを踏む。キィィ——とタイヤが悲鳴を上げ、トラックが停止する。
前方の道路を、ゾンビの群れが塞いでいた。
数百——いや、千を超える。
道路全体を埋め尽くし、ゆっくりと近づいてくる。
ズルズル、ズルズル——。
足音が響く。
呻き声が重なり合う。
「ウゥゥゥ……」
「アァァァ……」
刃の目が、鋭く細まった。
(包囲——か)
背後を振り返る。
そこにも——群れがいた。
トラックを追ってきたのか、別の場所から現れたのか。
数百体のゾンビが、後方の道路を埋めている。
左右も確認する。
路地から、ビルの陰から、次々とゾンビが現れてくる。
完全に——囲まれていた。
「降りろ——!!」
刃が荷台の避難民に叫ぶ。
「トラックを捨てて走るぞ——!!」
避難民たちが慌てて降りる。母親が子供を抱き、老人が杖をつき、若者が荷物を掴む。
だが——どこへ逃げればいいのか。
四方八方、全てゾンビで塞がれている。
刃は真剣を抜いた。
シャキン——。
鞘走りの音が、静寂を切り裂く。
刀身が灰色の空を反射し、鈍く光る。
「俺が道を作る——!!」
刃が叫び、前方の群れへ突進した。
一閃——。
シュパッ!
ゾンビの首が飛ぶ。
返す刀で、別のゾンビを斬る。
シュバッ!
また一体、倒れる。
だが——群れは止まらない。
倒れた場所に、すぐ別のゾンビが現れる。
終わりがない。
避難民たちが叫ぶ。
「無理だ——数が多すぎる——!!」
「どうすればいいんだ——!!」
若者の一人が火炎瓶を投げる。
ボッ——!
炎が上がり、数体のゾンビが燃える。
だが、燃えたまま歩いてくる。
元猟師の男性が散弾銃を構える。
バン! バン!
二発撃ち、二体のゾンビの頭を吹き飛ばす。
だが、弾はそれで尽きた。
刃は、トラックの屋根に飛び乗った。
高い位置から、周囲を見渡す。
群れは、全方位から迫っている。
距離は——もう十メートルもない。
刃は大きく息を吸い、吠えた。
「来いよ——!!」
声が、灰色の空に響く。
「俺はまだ生きてるぞ——!!」
群れが、一斉に刃へ向かって殺到した。
刃は刀を振るう。
横薙ぎ——シュパッ! 三体の首が飛ぶ。
縦斬り——ズバッ! 頭蓋骨が割れる。
回転斬り——シュバババッ! 周囲のゾンビが倒れる。
避難民たちも、必死に抵抗した。
鉄パイプを振り回す者、石を投げる者、素手で殴りかかる者。
これが——人類の最後の足掻きだった。
だが、群れは止まらない。
一体倒れても、十体が現れる。
十体倒しても、百体が押し寄せる。
刃の呼吸が荒くなった。
額の汗が目に入り、視界が滲む。
腕が重い。握力が落ちている。
だが——止まれない。
その時、刃の視界に——一人のゾンビが映った。
藤原京だった。
群れの中心、少し離れた場所に立っている。
他のゾンビとは違う——存在感があった。
目は濁っているが、その奥に何かが残っているような——。
京は、じっと刃を見ていた。
動かず、ただ見ている。
(あいつ——)
刃の心が呟く。
(前に見た——指揮してるような——)
京の意識も、刃を見ていた。
(この人——)
京の心が呟く。
(人を守ろうとしてる——)
(俺も——昔なら——)
京の中で、かすかな意志が動いた。
止めたい。
群れを——止めたい。
この人を——襲うな——。
だが——。
身体は動かない。
本能が、それを許さない。
むしろ、群れはさらに加速した。
京の意志は——すぐに飲み込まれた。
刃は、再びゾンビたちと戦い始めた。
刀を振るい、また一体を斬る。
だが——疲労は限界に達していた。
刀が、軽くなった。
いや——違う。
刀が——折れていた。
ガキン、という音がして、刃先が地面に落ちた。
刃の手には、柄と刀身の半分だけが残っている。
刃は、それを見た。
そして——笑った。
「……そうか」
疲労で、声がかすれている。
「お前も——限界か」
刃は、折れた刀を逆手に構えた。
短くなった刃を、下向きに握る。
「なら——最後まで付き合ってもらうぞ」
刃は、再び飛び込んだ。
折れた刀を振るい、ゾンビの首を突く。
ズシュッ——!
刃が頭蓋骨を貫く。
抜く。
次のゾンビへ。
また突く。
だが——もう限界だった。
トラックが倒れた。
ゾンビの物量に押され、横転する。
ガシャーン!
金属が軋み、ガラスが割れる。
ガソリンタンクが破裂した。
ボッ——!
炎が上がる。
爆発——。
ドォォン!!
衝撃波が広がり、周囲のゾンビを吹き飛ばす。
刃も、吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられ、呼吸が止まる。
炎が、周囲を包み込んだ。
刃は、ゆっくりと立ち上がった。
全身が痛む。肋骨が折れているかもしれない。
だが——まだ、折れた刀を握っていた。
炎の向こうに——京の姿が見えた。
二人の視線が、交差した。
京の口が、わずかに動いた。
「……逃げろ……」
声にはならなかった。
だが——刃には、伝わったような気がした。
刃は——笑った。
「悪いな……もう、逃げる場所がないんだ」
刃は、最後の力を振り絞った。
折れた刀を構え、ゾンビたちへ突進する。
一閃——。
ズシュッ!
ゾンビの頭を貫く。
二閃——。
シュッ!
別のゾンビの首を斬る。
三閃——。
だが、その刀が——ゾンビの骨に引っかかった。
抜けない。
刃が引っ張る。
だが——その隙に、別のゾンビが飛びかかってきた。
刃の肩に、歯が食い込む。
ブチリ——。
痛みが走る。
血が噴き出す。
刃の身体が、よろめく。
次々と、ゾンビが襲いかかる。
腕に、足に、背中に——。
刃は、もがいた。
だが——もう力が入らない。
炎が、彼を包み込んだ。
熱い。
光が眩しい。
刃の視界が、白く染まる。
そして——。
静かになった。
炎の中で、刃の姿が消えた。
避難民たちも——全て倒れていた。
そして、起き上がり始めていた。
群れは、さらに膨れ上がった。
京は、その中心で立ち尽くしていた。
周囲は炎と死体と灰。
どこかで、金属が崩れる音がした。
ガシャーン——。
京の意識の奥で、声が響いた。
「京——」
だが、それは澪の声ではなかった。
もっと——無機質な。
もっと——冷たい。
まるで、大勢の声が重なったような——。
京は、その声に怯えた。
(何だ——これは——)
だが、答えは返ってこない。
ただ、声だけが響いている。
「進め——」
「広げろ——」
「仲間を——」
群れが、再び動き出した。
燃え落ちる町を越え、前へ。
遠くに、都市のシルエットが見える。
高層ビルが立ち並び、窓の灯りが点々と光っている。
群れは、そこへ向かっていた。
京も、それに従って歩き出した。
もう——抵抗する力はなかった。
炎が燃え続ける。
灰が降り続ける。
町は——完全に死んだ。
そして、群れは——都市へ向かっていく。
その群れを、衛星が捉えていた。
遥か上空から、高解像度カメラが焼け野原を映している。
管制室のモニターに映る、灰色の波——。
数千の点が、ゆっくりと都市へ向かって移動している。
オペレーターの一人が、震える声で呟いた。
「これが——終わりの始まり、か——」
モニターは、ただ静かに映像を記録し続けていた。
終わりの始まりが——そこにあった。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




