第13話「幻の声」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
夜明けが来た。
だが、太陽は灰に遮られ、薄暗い光しか届かなかった。
町は、焼け野原になっていた。
建物は骨格だけを残し、黒く焦げている。車は焼け焦げた鉄の塊となり、信号機は溶けて地面に垂れ下がっている。道路は亀裂が走り、所々に穴が開いている。
そして、灰が降っていた。
雪のように、静かに、絶え間なく。
灰色の粉が空から舞い落ち、全てを覆っていく。瓦礫の上に積もり、道路を白く染め、風に舞う。
空気は冷たく、乾いていた。
炎の熱は去り、代わりに死の冷たさが満ちている。焼けた木材の匂い、灰の匂い、そして——腐敗の匂い。それらが混ざり合い、息をするたびに鼻を突く。
人影は、なかった。
生きている人間は、もういない。
ただ、ゾンビの群れが緩慢に歩いていた。
数千に迫る規模。
彼らは町の中心部を、目的もなくさまよっている。足を引きずり、ズルズルと音を立てる。低い呻き声が、静寂の中に響く。
藤原京は、その中心に立っていた。
焼けた交差点の真ん中。倒れた信号機のすぐ横。
全身は煤と血にまみれ、服はボロボロになっている。髪は焦げ、顔は灰で白くなっている。
だが——京の目は、空を見上げていた。
濁った瞳が、灰色の空を映している。
京の口が、わずかに動いた。
「……澪……」
声にはならない。
ただ、唇が彼女の名前を形作っただけ。
だが、その動きを——周囲のゾンビたちが見ていた。
まるで、京の動きに反応しているかのように。
京が動けば、群れも動く。
京が止まれば、群れも止まる。
(これは——何なんだ——)
京の意識が呟く。
(俺は——群れを——操ってるのか——?)
その時、声が聞こえた。
「京……」
澪の声だった。
だが——今までとは違った。
幻聴にしては、明瞭すぎる。
まるで、すぐ隣にいるかのような。
「まだ聞こえる?」
声が続く。
「あなたはまだ——戻れる……」
京の視界が、揺らいだ。
焼け野原が消え、別の景色が浮かんでくる。
夏祭りの夜。
提灯が並び、屋台が立ち並ぶ。人々の笑い声、子供の歓声、祭囃子の音。
そこに、澪がいた。
浴衣姿で、金魚すくいの前に立っている。ポイを手に、水槽を見つめている。
「ねえ京、見て——!」
彼女が振り返る。
笑顔。
無邪気な、幸せそうな笑顔。
「また破れちゃった——」
手元のポイが破れ、金魚が逃げていく。
澪が笑う。
京も笑う。
風鈴の音が響く。
チリン、チリン——。
手を取った。
澪の手は、温かかった。
柔らかくて、小さくて——。
その瞬間、視界が赤く染まった。
澪の浴衣が、血で濡れる。
笑顔が消え、恐怖に歪む。
「京——何をしてるの——?」
彼女の首筋から、血が流れる。
京の手が、彼女を掴んでいる。
口が、彼女の肉を噛んでいる。
「やめて——京——!!」
悲鳴。
視界が戻った。
目の前は、焼け野原だった。
灰が降り、瓦礫が転がり、ゾンビが歩いている。
だが——そこに、一つの遺体があった。
瓦礫の上に倒れている、焼け焦げた女性の遺体。
髪は焼け、服は炭化している。
だが、その輪郭が——澪に見えた。
(違う——!!)
京の意識が叫ぶ。
(違うんだ——澪は——海外にいる——!!)
(俺は——守りたかったのに——!!)
だが、遺体は動かない。
ただ、そこに横たわっているだけ。
灰が、その上に積もっていく。
「京——」
再び、声が聞こえた。
今度は、もっと近くから。
京が振り向くと——。
澪がいた。
幻影だった。
だが、今までよりもずっと鮮明だった。
浴衣姿ではなく、普段着。ジーンズにシャツ。髪を後ろで結んでいる。
彼女は、微笑んでいた。
「京、こっちよ……」
手を差し伸べる。
「あなたの居場所は、ここにある」
そして——歩き出した。
町の中心部へ向かって。
地下鉄駅の方向へ。
群れが、動き出した。
一斉に、澪の幻影の後を追うように。
数千のゾンビたちが、同じ方向へ歩き出す。
京も、その中にいた。
止められなかった。
足が勝手に動き、澪の後を追っていく。
(違う——そこは——!!)
京の意識が叫ぶ。
(人が隠れてる場所だ——!!)
(行くな——そこに行ったら——!!)
だが、身体は止まらない。
群れ全体が、まるで何かに引き寄せられるように、地下鉄駅へ向かっていく。
地下鉄の入口が見えた。
階段が地下へ続いている。
入口は半分崩れ、瓦礫で塞がれているが、隙間がある。
澪の幻影が、その隙間を通り抜けていく。
群れが、それに続く。
地下鉄構内。
照明は落ち、非常灯だけがわずかに点滅している。
薄暗い中、プラットホームに人々の姿があった。
数十人——いや、百人近くいるかもしれない。
彼らは静かに座り込み、息を潜めている。
子供、老人、母親、サラリーマン——。
遠くで、音が響いた。
ズルズル、ズルズル——。
足を引きずる音。
人々が顔を上げる。
恐怖が、顔に浮かぶ。
「まさか——」
「見つかった——?」
階段から、ゾンビたちが降りてきた。
一体、二体、十体、百体——。
次々と地下へ流れ込んでくる。
悲鳴が上がった。
「逃げろ——!!」
人々が走り出す。
だが、逃げ場はなかった。
地下鉄のトンネルは暗く、行き止まりになっている。
階段は、ゾンビで塞がれている。
京は、その中にいた。
階段を降り、プラットホームへ。
視界に映るのは、逃げ惑う人々。
澪の幻影が、目の前に現れた。
彼女は京を見つめ、手を差し伸べてくる。
「京、もう苦しまなくていい」
その声は、優しかった。
「この世界には、もう何も残っていない」
彼女が一歩、近づく。
「一緒に——終わろう」
京の心が、揺れた。
(澪——お前が——俺を——)
幻影の手が、京の頬に触れる。
冷たかった。
(なら——俺は、何のために——)
背後で、悲鳴が響いた。
ゾンビたちが、人々を襲っている。
母親が子供を庇い、倒れる。
老人が転倒し、群れに飲み込まれる。
若者が誰かを助けようとするが、自分も囲まれる。
京の視界に、それが映る。
意識はあった。全て見ていた。
(やめろ——!!)
心の中で叫ぶ。
(やめてくれ——!!)
だが、澪の幻影が囁く。
「京——見なくていいの」
「もう、何も考えなくていい」
「全部、終わらせましょう」
京の目から、何かが流れた。
涙だった。
ゾンビであるにも関わらず、頬を伝う透明な液体。
それが、灰で汚れた顔を濡らす。
「澪……俺は……」
声にならない声が、喉から漏れる。
「まだ……終われない……」
幻影の表情が、変わった。
優しい笑顔が消え、悲しみと——怒りが浮かぶ。
「——そう」
彼女の声が、冷たくなる。
「なら、もっと苦しみなさい」
幻影が、霧のように消えた。
澪の姿が、空気に溶けるように薄れていく。
「澪——!!」
京の意識が叫ぶ。
だが、彼女はもういなかった。
京が見上げると、天井が崩れていた。
瓦礫が落ち、穴が開いている。
そこから、光が差し込んでいた。
灰色の、薄暗い光。
だが——それは地上への道だった。
群れが、その光へ向かって動き出す。
階段を登り、地上へ戻っていく。
プラットホームには、もう人間はいなかった。
全て、ゾンビになっていた。
彼らも群れに加わり、地上へ向かう。
京も、歩き出した。
階段を登り、光へ。
だが、心の中は——空っぽだった。
地上に出ると、灰がまだ降っていた。
町は静かで、ゾンビの群れだけが蠢いている。
京は、町の中心で立ち止まった。
周囲を見渡す。
焼け野原。
死体。
そして——数千のゾンビたち。
(澪の声は、もう聞こえなかった)
京の心の中で、最後の何かが壊れた音がした。
それは、人間性の最後の欠片だったのかもしれない。
群れは、再び動き出した。
町の外へ。
都市部へ。
次の獲物を求めて——。
空から見れば、それは灰色の波のようだった。
数千のゾンビたちが、一つの塊となって進んでいく。
その中心に、京がいた。
立ち尽くしているように見えるが、群れと共に動いている。
町は、完全に死んだ。
人間の営みは消え、秩序は崩壊し、希望は失われた。
残ったのは、灰と死体とゾンビだけだった。
そして——京の心の中から、澪の声は消えた。
もう、彼女は現れない。
もう、彼女の声は聞こえない。
京は、完全に孤独になった。
意識を持ったまま、怪物として。
人間でも、ただのゾンビでもない——何かとして。
灰が、京の肩に積もっていく。
風が吹き、灰を舞い上げる。
群れは、黙々と歩き続ける。
町の向こうに、都市のシルエットが見えた。
高層ビルが立ち並び、まだ窓の灯りが見える。
そこには、まだ人間がいる。
まだ、秩序がある。
だが——それも、もうすぐ終わる。
京の群れが、そこへ向かっている。
数千の死が、都市を目指している。
京は、ただ歩き続けた。
心は空っぽで、涙は枯れ、声は失われた。
ただ、本能のままに——。
澪の声は、もう聞こえなかった。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




