第10話「崩れる秩序」
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
町は、崩壊していた。
藤原京の群れは、既に数百体規模に膨れ上がっていた。村から始まった感染は、町全体を覆い尽くそうとしていた。
京は、その群れの中にいた。
足が勝手に動き、前へ進んでいく。周囲には、同じように歩くゾンビたちがいる。元は人間だった存在たち。主婦、サラリーマン、学生、老人——皆、目を濁らせ、口から唾液を垂らし、ただ獲物を求めて歩いている。
京の意識は、その光景を見ていた。
(これが——俺たちなのか)
心の中で呟く。
(これが、新しい種族——)
その時、声が聞こえた。
澪の声だった。
「京……あなたなら、助けるはずよ」
優しい声ではなかった。責めるような、悲しむような声。
京の視界に、澪の姿が浮かんだ。幻影だった。彼女は京の隣を歩いているように見える。浴衣姿で、夏祭りの時のように笑っている。
だが、その笑顔は——どこか悲しかった。
「澪なら、見捨てないわよね」
彼女の声が、耳の奥で響く。
(助けたい——)
京の意識が叫ぶ。
(でも、俺は——)
だが、身体は答えない。
ただ、本能のままに歩き続ける。
前方に、警察署が見えた。
二階建ての建物。駐車場にはパトカーが数台止まっている。窓からは明かりが漏れ、人の気配がする。
そして、その前には——柵が立てられていた。
鉄製のバリケード。警察官たちが避難誘導のために設置したものだろう。その向こうには、数十人の市民が集まっていた。
警察官が拡声器を持ち、叫んでいる。
「落ち着いて——! 順番に署内へ避難してください——!」
だが、市民たちは混乱していた。
押し合い、怒鳴り合い、子供が泣いている。
そこへ、京の群れが到達した。
数百体のゾンビが、一斉に柵へ向かって歩いていく。
ズルズル、ズルズルと足音が響く。
市民たちが振り返り、悲鳴を上げた。
「ゾンビだ——!!」
「逃げろ——!!」
パニックが広がる。
警察官たちが拳銃を構え、発砲した。
パン、パン、パン!
銃声が響き、数体のゾンビが倒れる。だが、群れは止まらない。
柵が倒れた。
ガシャーン!
鉄製のバリケードが、ゾンビの物量に押され、地面に倒れる。
群れが雪崩込んだ。
市民たちが逃げ惑う。
だが、逃げ場はなかった。
背後は警察署の壁。左右も建物で塞がれている。
袋小路だった。
ゾンビたちが、一人、また一人と襲いかかる。
悲鳴が響き、血が飛び散る。
警察官たちも、必死に応戦する。だが、弾が尽きた。警棒を振るい、素手で抵抗する。
だが、数の差は圧倒的だった。
京は、その中にいた。
視界に映るのは、逃げ惑う人々。
(やめろ——!!)
京の意識が絶叫する。
(助けろ——助けなきゃ——!!)
だが、身体は止まらない。
むしろ、加速した。
京のゾンビ化した身体は、一人の女性に飛びかかった。若い警察官だった。彼女は警棒を振り上げ、抵抗する。
だが、京の手がその腕を掴み、引き倒した。
「いやあああっ——!!」
悲鳴が響く。
そして、京は——噛みついた。
肉が、口の中に広がった。
熱く、柔らかく、そして甘い。
血が喉を流れ、細胞が歓喜する。
(やめろ——やめてくれ——!!)
京の意識が叫び続ける。
だが、身体は止まらない。
もっと、もっと食べたい。
本能が、理性を完全に支配していた。
澪の声が、再び聞こえた。
「京……あなたは、そういう人じゃなかったのに」
その声は、泣いているようだった。
京の視界に、澪の幻影が浮かぶ。彼女は目に涙を浮かべ、京を見ていた。
「澪なら——助けたはずよ」
「京、あなたも——助けるはずだったのに——」
(わかってる——!!)
京の心が叫ぶ。
(でも、俺は——もう——)
警察署は、壊滅した。
数分後、建物の中からも悲鳴が聞こえなくなった。
市民も、警察官も、全てゾンビになっていた。
彼らは群れに加わり、次の場所へ向かって歩き出す。
群れは、さらに膨れ上がった。
次に、病院が見えた。
三階建ての総合病院。救急車が何台も止まり、負傷者が次々と運び込まれている。
だが、その負傷者の中に——既に感染した者がいた。
病院内部。
廊下は血で汚れ、壁には手形がべっとりと付いている。
看護師が悲鳴を上げながら走っていた。
「助けて——! 患者がおかしい——!!」
病室から、ゾンビが這い出してきた。
搬送されてきた負傷者が、ベッドの上でゾンビ化していた。点滴が腕に刺さったまま、よろめきながら立ち上がる。
隣のベッドの患者に噛みつく。
悲鳴が響き、また一人がゾンビになる。
連鎖だった。
病室から病室へ、廊下から廊下へ、感染が広がっていく。
医師たちが必死に対応する。
「隔離だ——隔離しろ——!!」
だが、もう手遅れだった。
病院内部は、既にゾンビで溢れていた。
一階のロビーでは、待合室にいた患者たちがパニックを起こしていた。出口に殺到し、押し合い、転倒する。
そこへ、京の群れが到着した。
病院の正面玄関を突破し、内部へ雪崩込む。
京は、その群れの中にいた。
廊下を歩き、病室を襲い、人々を噛む。
意識はあった。全て見ていた。全て聞いていた。
看護師の悲鳴、医師の絶望、患者の恐怖。
全てが、京の心に刻まれていく。
(やめろ——やめてくれ——!!)
何度も、何度も叫ぶ。
だが、誰にも届かない。
澪の声が、また聞こえた。
「京……これが、あなたの選んだ道なの?」
その声は、冷たかった。
京の視界に、澪の幻影が立っている。彼女は病院の廊下に立ち、京を見下ろしていた。
「澪なら——こんなことしない」
「澪なら——人を守る」
(俺だって——!!)
京の意識が反論する。
(俺だって、守りたい——!!)
だが、現実は違った。
京の身体は、また一人の看護師に噛みついていた。
病院は、崩壊した。
そして、避難所。
町の中心にある小学校が、避難所として開放されていた。
体育館には、数百人の市民が集まっていた。毛布が配られ、水と食料が置かれている。
だが、指揮系統は混乱していた。
警察も消防も壊滅状態。町役場の職員だけで対応しているが、人手が足りない。
避難民たちは不安を募らせていた。
「本当にここは安全なのか——?」
「いつになったら救助が来るんだ——?」
「子供が怖がってる——早く何とかしてくれ——!」
その時、体育館の扉が破られた。
ガシャーン!
ゾンビの群れが、雪崩込んできた。
京の群れだった。
数百体のゾンビが、避難所へ突入する。
パニックが広がった。
市民たちが悲鳴を上げ、逃げ惑う。
だが、体育館には出口が二つしかない。
一つは、既にゾンビで塞がれている。
もう一つへ、全員が殺到した。
押し合い、転倒し、踏まれる。
子供が泣き叫び、老人が倒れる。
そこへ、ゾンビたちが襲いかかった。
京は、その最前列にいた。
視界に映るのは、逃げ惑う人々。
母親が子供を抱きしめている。老人が杖をついて逃げようとしている。若者が誰かを助けようとしている。
(助けろ——!!)
京の意識が絶叫する。
(助けなきゃ——俺が助けなきゃ——!!)
だが、身体は——。
京は、母親に飛びかかった。
彼女は子供を庇い、背中を京に向けた。
京の歯が、彼女の首筋に食い込む。
ブチリ——。
肉が裂ける音。
血が噴き出し、京の口を満たす。
子供が泣き叫んだ。
「ママ——! ママ——!!」
その声が、京の耳に突き刺さる。
(やめろ——やめてくれ——!!)
京の意識が崩壊しそうになる。
だが、身体は止まらない。
もっと、もっと食べる。
本能が、全てを支配していた。
澪の声が、また聞こえた。
「京……」
その声は、もう何も言わなかった。
ただ、悲しそうに京の名を呼ぶだけ。
京の視界に、澪の幻影が立っている。彼女は涙を流していた。
「澪なら——」
京の意識が呟く。
「澪なら——助けただろう——」
避難所は、壊滅した。
数百人の市民が、ゾンビになった。
彼らは群れに加わり、次の場所へ向かって歩き出す。
遠くで、ラジオの音が聞こえた。
誰かが落としていったものだろう。地面に転がり、まだ放送を流し続けている。
「——避難所が——壊滅——」
「——警察署——応答なし——」
「——病院——制御不能——」
「——町全域で——秩序崩壊——」
無機質なアナウンサーの声が、絶望を告げていた。
京は、その音を聞いていた。
群れの中を歩きながら、ただ聞いていた。
(俺は——もう人間じゃない)
京の意識が呟く。
(俺は——怪物だ)
(人を食う——怪物だ)
澪の幻影が、まだ隣にいた。
彼女は何も言わず、ただ京を見ていた。
その目は、悲しみに満ちていた。
(ごめん、澪——)
京の心が呟く。
(俺、もう——戻れない)
(お前が知ってた京は——もういない)
群れは、進み続けた。
町の中心部を抜け、次の区画へ。
破壊と死を撒き散らしながら、ただ前へ。
空は暗く、月も見えなかった。
ただ、炎の光だけが、町を赤く照らしていた。
秩序は崩れ、希望は消えた。
残ったのは、絶望だけだった。
京は、その絶望の中を歩いていた。
意識を持ったまま、怪物として。
澪の幻影に責められながら、ただ歩き続けた。
心が、少しずつ壊れていくのを感じながら。
(了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
あなたの時間を少しでも楽しませることができたなら、それが何よりの喜びです。
また次の物語で、お会いできる日を願っています。




