プロローグ 「刃の理《ことわり》」
ゾンビサイド(プロローグ+100話)執筆終了しました。
2025年12月26日 7時から連載スタートします。
第1部(全15話)は、毎日2話更新。
第2部は2026年1月5日(月)から毎日20時更新予定です。
音が、消えた。
神谷刃は、道場の中央に座していた。
畳の上。
静寂の中。
呼吸だけが、世界を満たしている。
目の前には、真剣が一振り。
鞘に収められたまま、床に横たえられている。
刃は、それを見つめていた。
⸻
「神谷家に伝わる刃だ」
祖父は、そう言った。
「お前が継ぐ」
刃が十歳の時だった。
祖父の手は、皺だらけだった。
だが、剣を握る指先だけは、若者のように力強かった。
「剣は、命を断つ」
祖父は続けた。
「だが、命を守るためにも振るわれる」
刃は、頷いた。
意味は、分からなかった。
ただ、祖父の声が重かった。
それだけは、理解できた。
⸻
大学生になった今。
刃は、その意味を少しだけ理解していた。
剣術は、殺人術だ。
美しい型も、華麗な技も、すべては相手を斬り伏せるために磨かれてきた。
だが、それは同時に。
自分を律する術でもあった。
刃を振るうたび、呼吸が整う。
心が、静まる。
雑念が、消えていく。
剣は、己を映す鏡だった。
⸻
道場の外から、音が聞こえた。
車のクラクション。
誰かの怒鳴り声。
都市の喧騒。
刃は、目を閉じた。
音を、遮断する。
呼吸だけを、感じる。
吸う。
吐く。
また吸う。
心臓の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。
⸻
剣を、抜いた。
刃が、光を反射する。
鏡のように磨かれた刀身。
祖父が遺したこの剣は、三百年の歴史を持つという。
何人の命を断ってきたのか。
それは、誰にも分からない。
ただ、刃は知っていた。
この剣が、今も生きているということを。
⸻
一閃。
空気が、裂ける。
音が、遅れて響く。
刃は、剣を止めた。
寸分の狂いもない。
刃先が、畳の一ミリ手前で止まっている。
呼吸を、整える。
汗が、一筋だけ頬を伝った。
⸻
「神谷、お前また道場に籠もってんのか」
友人の声が、外から聞こえた。
大学の同級生、田中だ。
刃は、剣を鞘に収めた。
「入れ」
短く、答える。
田中が、道場に入ってきた。
「相変わらず地味だな、お前の趣味」
田中は笑った。
「みんなカラオケ行くけど、来ないよな」
「用があるなら言え」
刃は、田中を見た。
田中は、少し困ったような顔をした。
「いや、用ってわけじゃないけど……最近、変なニュースばっかりだろ」
「変なニュース?」
「海外で、なんか感染症が流行ってるって」
田中は、スマートフォンを取り出した。
画面には、ニュースサイトが表示されている。
「WHOが警告出してるらしいぜ。まあ、日本には来ないだろうけど」
刃は、画面を一瞥した。
興味は、なかった。
「そうか」
「お前、ホント興味ねえな」
田中は肩をすくめた。
「じゃ、俺は行くわ。お前も、たまには外出ろよ」
「ああ」
田中が去った後。
刃は、再び剣を手に取った。
⸻
夜が、来た。
道場の明かりが、消える。
刃は、剣を抱えて自宅に戻った。
アパートの一室。
六畳一間の、質素な部屋。
窓の外には、街の明かりが見える。
刃は、剣を床の間に立てかけた。
そして、窓の外を見た。
街が、騒がしい。
いつもより、少しだけ。
サイレンの音が、遠くで響いている。
⸻
テレビをつけた。
ニュースが、流れている。
「……国内でも、感染例が報告されました」
アナウンサーの声が、緊張している。
「政府は冷静な対応を呼びかけていますが……」
画面が切り替わる。
病院の前。
人々が、押し寄せている。
「現場からの報告です。こちらの病院では……」
刃は、テレビを消した。
静寂が、戻ってくる。
⸻
剣を、見た。
鞘に収められたまま、静かに佇んでいる。
「剣は、命を断つ」
祖父の声が、蘇る。
「だが、命を守るためにも振るわれる」
刃は、剣に手を伸ばした。
柄を、握る。
冷たい感触。
だが、どこか温かい。
まるで、生きているかのように。
⸻
翌日。
刃は、大学に向かった。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない通学路。
だが、何かが違った。
人が、少ない。
いつもなら混雑している駅が、閑散としている。
マスクをつけた人々が、足早に歩いている。
刃は、違和感を覚えた。
だが、気にしなかった。
⸻
大学に着いた。
講義室は、半分も埋まっていなかった。
教授も、来ない。
学生たちが、ざわざわと話している。
「休講らしいぜ」
「マジかよ」
「感染症のせいだろ」
刃は、教室を出た。
キャンパスを歩く。
人影が、まばらだ。
風が、吹く。
木の葉が、舞う。
静かだった。
⸻
図書館に向かった。
いつもの席に座る。
窓際の、誰も来ない場所。
刃は、本を開いた。
剣術の古文書。
祖父が遺した、膨大な蔵書の一つ。
文字を追う。
意識が、集中していく。
⸻
「ねえ、聞いた?」
後ろから、女子学生の声。
「何が?」
「あの感染症、日本でも広がってるって」
「嘘でしょ」
「本当だよ。ニュースで言ってた」
刃は、本から目を上げなかった。
⸻
夕方。
刃は、帰路についた。
アパートに戻る。
剣を、手に取る。
道場には行かなかった。
部屋の中で、素振りをする。
一振り。
また一振り。
呼吸が、整う。
心が、静まる。
⸻
窓の外。
サイレンの音が、増えていた。
遠くで、何かが燃えているような煙が見える。
刃は、窓を閉めた。
カーテンを引く。
部屋の中に、静寂が戻る。
⸻
その夜。
刃は、剣を抱いて眠った。
枕元に、鞘に収めたまま置いて。
いつでも抜けるように。
なぜそうしたのか。
自分でも、分からなかった。
ただ、そうすべきだと感じた。
⸻
夢を見た。
赤い世界。
誰かが、叫んでいる。
誰かが、逃げている。
誰かが、倒れている。
そして、刃がいた。
剣を、握っている。
刃が、光る。
赤く。
⸻
目が覚めた。
汗が、全身を濡らしていた。
呼吸が、荒い。
刃は、剣を見た。
変わらず、そこにある。
静かに。
だが、何かが違う。
刃は、そう感じた。
⸻
朝が来た。
街が、静かだった。
いつもの喧騒が、ない。
刃は、窓を開けた。
誰も、いない。
車も、走っていない。
風だけが、吹いている。
⸻
テレビをつけた。
緊急放送が、流れている。
「……繰り返します。不要不急の外出は……」
画面には、混乱した街の映像。
人々が、走っている。
何かから、逃げている。
「……噛まれた場合は、直ちに……」
刃は、理解した。
世界が、変わった。
⸻
剣を、手に取った。
鞘から、抜く。
刃が、光を反射する。
冷たい輝き。
だが、どこか温かい。
刃は、剣を構えた。
祖父の言葉が、蘇る。
「剣は、命を断つ」
「だが、命を守るためにも振るわれる」
今、その意味が分かった。
⸻
外から、音が聞こえた。
引きずるような足音。
うめき声。
複数の人間が、近づいてくる。
刃は、窓の外を見た。
それらが、いた。
人間のような、何か。
よろめきながら、歩いている。
目が、濁っている。
口から、何かが垂れている。
⸻
刃は、ドアに向かった。
剣を、握る。
呼吸を、整える。
心を、静める。
扉の向こうから、音が聞こえる。
ドアノブが、ガチャガチャと揺れる。
刃は、構えた。
⸻
世界が、終わろうとしていた。
だが、神谷刃は知らない。
これが、始まりだということを。
剣が、真に振るわれる時代の。
破壊の、鬼神が生まれる瞬間の。
⸻
ドアが、開いた。
(了)
ゾンビサイドをよろしくお願いします。




