潮の香りが漂う車
青い空を背景にして、白い入道雲が浮かぶ。
そんな夏空の下、主婦の日課として、私は午後の買い物に出かけた。
「今日は……豚肉の生姜焼きでどうかしら? 生姜には食欲増進の効果もあるから、暑い時期には合うはずよね!」
今晩の献立は、歩きながら考える。もちろんメインの一品だけでなく、サラダや汁物、小鉢の副菜なども含めて、総合的なバランスも考慮に入れるのだ。
それに合わせて、駅前の商店街で食材を買い揃えて……。
「よし! これで今日もバッチリね!」
買い物が終わり、商店街から立ち去る頃には、私の内心は満足感でいっぱいだった。
空を見上げれば、まだ本格的な夕焼けには早いものの、遠くの部分が少し赤みを帯びている。
「あら、きれいな色!」
などと思いながら、のんきに帰り道を歩いていたのだが……。
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「きゃっ、何これ……?」
突然、体に水滴が当たり始める。
最初は戸惑って、どこかの家で水を撒いているのかとも思ったほどだが、そうではなく雨だった。
空は雲に覆われているわけではなく、まだ青い晴れ間も見えているくらいだ。天気雨の類いみたいだが……。
ポツポツ程度だった雨が、やがてザーザーとした本降りに変わる。かなり本格的な夕立だった。
「あら、ついてない……」
雨が降るとは思っておらず、雨合羽はもちろん、折りたたみ傘すら持ってきていなかった。
降り始めるのがあと10分遅ければ、その前に私は家まで帰り着いていただろうし、逆にあと少し早ければ、まだ商店街だったから適当なお店で雨宿り出来ただろう。
しかし現在地は、商店街と自宅の間。住宅街と呼ぶには大袈裟だけれど、民家が建ち並ぶ区域だった。
「まさか知らないお宅に入れてもらうわけにはいかないし……」
それは問題外として、まあ軒下で雨宿りさせてもらう程度ならば大丈夫だろうか。
いや、それも少し抵抗ある。逆の立場で考えれば、自分の家の軒下に見知らぬ他人が立っていたら、それだけでも十分に気持ち悪いではないか。
一瞬の逡巡の間に、手に下げた買い物バッグも、私自身の体も徐々に濡れてしまう。
そんな私の視界に入ったのが、明らかに民家とは違う建物。灰色の壁に平らな天井という一階建てで、敷地には数台分の駐車スペース……。
数ヶ月前に閉店した本屋だった。
「あそこで雨宿りしましょう!」
自分に言い聞かせるように叫ぶと、私はその灰色の建物へと駆け寄っていく。
建物自体は閉まっていて入れなくても、正面の軒が少し突き出ているおかげで、かろうじて雨を避けられる程度の場所はあった。
無人の建物ならば、その軒下を借りることにも抵抗はない。雨が止むまでの間、私はそこで過ごすことにした。
「夕立だったら、そんなに長く続かないわよね……?」
空を見上げて、雲の切れ間を改めて確認。ハンカチを取り出し、体や買い物バッグから雨を拭っていると……。
「奥さん! 柳田さんの奥さんですよね!?」
いつのまにか建物の前に、一台の赤い車が停まっていた。
運転席の窓から青白い顔を出して、こちらに呼びかけている。
記憶にあるのと比べたら不健康そうな顔色だが、でも見覚えのある顔だった。
夫の同僚の一人で、うちにも何度か来たことがある人だ。名前はパッと出てこないけれど。
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「雨宿りですか?」
「ええ、急に降られちゃって……」
「それはお困りでしょう。よかったら、僕の車で送りますよ」
何度も来たことあるだけに、うちの場所は覚えているようだ。
車ならばすぐだろうし、彼の親切をありがたく受け入れる。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」
「助手席は荷物あるんで後ろへ」
と言われた通りに、後部座席に乗り込む。
しかしドアを開けた途端、独特の匂いが漂ってきて、私の鼻をついた。
「何の匂い?」と疑問に思いながら座ると、シートはジメジメしている。
雨の中で突っ立っていた方がましだったかもしれない……とまでは言わないが、ちょっと後悔してしまう。
同時に、匂いの正体に思い至った。
ああ、潮の香りだ。いや、その言い方ではポジティブな表現になるから、むしろ磯臭いと言うべきか。
いずれにせよ、海を彷彿とさせるような、しかも気持ち悪い匂いだった。
まあ、家に着くまでの我慢だ。帰ったらシャワーを浴びよう。全身よく洗って、匂いを落とそう。
そんな私に対して、車が動き出してすぐに、運転席から話しかけてきた。
「すいませんね。今日はこれから海へ、夜釣りに行く予定だったので……」
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車内の悪臭についての言い訳だろうか。
いや海へ行った帰りならばまだしも、これから行くというのに既に海臭いのは、ちょっと理屈に合わない。
私は頭の中で疑問符を浮かべるが、たまたま助手席が視界に入ったおかげで、彼の言いたいことを理解する。
そちらのシートには釣り竿らしき棒が立てかけてあり、人が座るには狭すぎる状態だったのだ。どうやら最初の「助手席は荷物あるんで」についての状況説明であり、その状態を「すいませんね」と謝っていたようだ。
「いえいえ、お気になさらずに。雨の中、送ってもらえるだけで助かりますから」
車内の悪臭については指摘せず、ただ感謝だけを述べておく。それが大人の対応というものだろう。
私の不快感には気づかず、彼は明るい口調で、自分語りを続けていた。
「いやあ、僕は本当に釣りが好きでしてね。今夜はかなり雨が降るらしいけど、潮の流れは大丈夫みたいだし、せっかく明日は休みなんだから、朝まで遊べるチャンスだと思って……」
少し違和感のある発言だった。
今日も明日も平日であり、夫は普通に出勤だ。それなのに同僚の彼が「明日は休み」とは、どういう意味だろう。有給を取ったのだろうか。
しかし、その点わざわざ問いただすほど、大きな違和感でもなく……。
だから私は、別の部分で相手の会話に乗っかっておく。
「あら、今夜は雨が強くなるの? でしたら気をつけてくださいね。ほら、ちょうど少し前……」
ここで頭に浮かんだのが、夫の喪服姿。つい先日、同僚の葬式に参列したのだ。
「……大雨の日に、海で亡くなった方もおられるのでしょう?」
海沿いの道路で車がスリップして、そのまま夜の海に車ごと突っ込んだらしい。
夫が語っていたのは、そんな話だったが……。
「えっ? そんな奴いたっけ?」
運転席の彼には、思い当たる人物などいないようだ。
もしかすると、会社は同じでも部署が違うのだろうか。だから知らないのだろうか。
いや、たとえ違う部署でも、噂すら聞いていないのは少し変ではないか……?
「ええ、夫の話では、亡くなった方のお名前は……」
葬式があった日に、夫が言っていた人名。
名前だけ聞いても顔は思い浮かばなかったが、夫の口ぶりでは、どうやら私も面識ある人のようだった。
その名前を思い出して、そのまま口にする。
「……確か、竹中さんといったかしら」
「えっ!」
素っ頓狂な声を上げたかと思ったら、彼は笑い飛ばし始めた。
「やだなあ、奥さん。いったい何の冗談ですか? 竹中だったら……」
ハンドルを握ったまま彼が振り返ると、その瞬間、ムッとするような潮の香りが一段と強くなる。
思わず吐きたくなるほどの、気持ち悪い匂いが車内に充満する中。
生気の失われた虚ろな目で、彼は続けた。
「……僕ですよ、僕。他ならぬ僕の名前じゃないですか。もしかして奥さん、忘れてましたか?」
(「潮の香りが漂う車」完)




