00 序
ユリは、会社の昼休みに、公園のベンチに腰掛けて、コンビニで買った弁当を後回しにして、一緒に買ったアイスキャンディーを齧っていた。
「あっ、また当たりだ」
『当り』のマークだ。奇麗にしゃぶって、ティッシュで拭き取って、ここ三日続きで手に入った三本の『当り』棒を手にして、悩んでしまう。
(さてどうしたものかな~。あそこで遊んでる親子にでもあげようかな~、でもあと一本ないと人数と合わないよな~、どうしようかな~。
それにしても、学校で習うフリガナは『当たり』なのに、子供向け商品で、許容されているけど推奨されていない『当り』を使うのは感心しないわよね~)
そんなことを考えていたら、手にしていた当たり棒を、横から何者かに搔っ攫われた。
「ちょっと!!」
逃げていく悪ガキの背中に声を掛けたとことで、止まるはずもなく、公園を出たあと、二車線道路の横断歩道でないところを走り抜けていった、と思ったら……
「ププーーー!!」「キーーー!!」
けたたましい車のクラクションと急ブレーキの音が同時に辺りに鳴り響いた。
「バカヤロー、何やってやがんだー!!」
運転手の怒鳴り声が聞こえたが、悪ガキはそのまま走って逃げてしまった。
「まったく、碌でもないガキね。
あれで車に轢かれでもしたら、私の責任にされちゃうじゃないの」
* * *
ユリは、クジ運については決して悪くはない。三日続けてアイスの当たりを引くくらいだから、普通よりいいくらいだ。しかしユリは、生まれてこの方、住む土地や人との出会いで当たりを引いたことがほとんどないと感じていた。いい加減、あまりの巡り合わせの悪さにうんざりしている。
たとえば住環境。
どこにでもいる迷惑駐車や、車や自転車の信号無視などはまだいい方で、近所での当て逃げや轢き逃げがあまりにも多かった。そして、その犯人も近所の人間だった。夜中に騒音をまき散らす輩、ごみのポイ捨て、粗大ごみの不法投棄、犬の糞の放置といった住人の民度が低い。近所のアルミのどぶ板や門扉も盗まれた。最近だと鉄製の物まで盗まれ始めている。コンビニやスーパーに行けば、万引きするところや、その犯人が捕まるのをよく目にする。電車やバスの痴漢が多い。
商店街でも外れが多い。昔ながらの対面販売する八百屋や肉屋では、近所の井戸端会議で「店主の人がいいし、ときどきおまけしてくれる」と噂しているのを聞いて行ってみれば、いらない物を押し売りされそうになったり、お釣りをごまかされそうになったりで、碌なことが無い。店がおかしいのか、井戸端会議でデマを流していたのかは分からない。
酷かったのは、比較的まともと思われたアーケードの商店街で祭りがあった日に、走行を禁止されている自転車で走り抜けていた中学生ぐらいの男の子に後ろから刺されたことだった。気づいたときには、30㎝以上の長さの串焼きの太い竹串が、肉が付いたままユリの左の袖を貫いていたのだ。犯人はそのまま逃げてしまった。倒れこんだユリを、すぐ脇の店で目撃した女将が介抱してくれて、警察も呼んでくれたことには感謝している。警察に聞かれたときの証言はこうだった。
「私もね、危ないと思ったのよ。
大っきな串をハンドルと一緒に握りしめて、人の間を走り抜けていたから。
あれは多分、よその街の子よね~。私、このアーケードに来る人の顔はほとんど覚えてるけど、あの子は初めて見る顔だったもの。
今日ここで祭りやってるじゃない?
たぶん、自転車で遊びにきてたのよね~」
近くには防犯カメラが無く、被害が服だけで怪我してなかったため、警察の捜査は期待できなかった。
そういうことだから、結局、買い物はスーパーかコンビニか、あるいは自動販売機で済ませるようになってしまう。
何度か引っ越したが、なぜか毎回そういう場所に当たる。引っ越し先の検討中に、ちゃんと現地の情報収集をして問題ないことを確認したはずなのに、住んでみると酷いことになっている。
仕事にも恵まれていない。短大を卒業して最初の就職から5年間で4回も転職することになった。好きで転職したわけではない。しかも、行く先々で、碌な目にあわない。募集要項と全く違う仕事や待遇。雇い主がまともでも、セクハラやパワハラを告発されて更迭される者、横領で懲戒解雇される者がいた。ユリに罪を着せようとした奴もいたし、従業員の給料を含む会社の金を、社長に持ち逃げされたこともあった。
そのせいだろうか。ユリは不正には黙ってられない質になっていた。
いや普通は人間不信になるだろう、そう言われてもおかしくないところだが、ユリは人ではなく罪に目を向けていた。
結果として罪人が罪を償うことになるとしてもだ。
だが、華奢な体では力に訴えることはできない。だから、地味で消極的な活動に努めることにした。
点字タイルの上に違法駐輪した自転車があれば他所にどかすし、未成年の喫煙や学生の自転車の信号無視は、動画撮影して学校に通報する。正義の味方のヒロインにはなろうとも思わないけれど、放置はしない。そういえば、勤務先で更迭されたり解雇された者は全部で16人いたが、そのうちの5人はユリが匿名で告発した相手だった。
今でも心残りはある。
私のやり方が間違ってたのだろうか。
もっといいやり方があったのではないだろうか。
ユリの心残りは、金を持ち逃げした社長の行方が分からなかったことだった。
彼女の姓は糊鹼、名は龥驪燐。
人呼んで怒りん坊のユリ。
ユリの本名は両親が付けた。そして「ユリ」というのは、小学校時代に自分で決めた通称だ。自分の本名が嫌で、学校でクラスメイトに「自分のことはユリと呼んで」と言っていたら、担任教師からあだ名禁止を通告されてしまったことがある。その教師には他に許しがたい、腹立たしいことがあったので、ユリは自ら教育委員会に掛け合ってその先生を学校から放逐し、ユリという通称を押し通した。
そういうことは普通なら親がするところだが、どういうわけか、ユリは1歳のときから祖父母に育てられていた。その祖父母の手を煩わせたくなかったので自分で始末したのだ。
両親のことは祖父母に何度か聞いたことがある。祖父母はいつも「二人は遠い所にいる」としか答えてくれなかったので、両親共に死んだのだと勝手に解釈していた。墓参りしたことはないが、「遠い所にいる設定」のせいだと納得していた。
ところが、ユリの二十歳の誕生日に、死んだと思っていた両親が現れて、真実が明かされた。一年前まで二人揃って刑務所にいたと告白されてしまったのだ。
「両親揃って懲役20年だったけど模範囚で仮釈放された?
えっどういうこと?
二人で一体何をやらかしたらそんなことになるの?
ちょっとまって、ちょっとまって。それって私が銀行や警察みたいに信用調査されるところには就職できないってことじゃない。
私の人生設計が大幅に狂うじゃないの!」
ユリは当時、そう思って、口にも出して呆れてしまったわけだが、両親とはそれっきり、五年たった今でも顔を合わせることがなかったので、やっぱり死んだも同然だろう。
そんなユリは、今年で25歳になる。子供の頃は子供らしくないと言われ続けたのに、なぜか同僚からは単純で子供っぽいと言われている。
* * *
ある日、ユリにしては珍しく、同僚たちと一緒に居酒屋に来ていた。
今の仕事が一区切りついたことでの打ち上げだったが、呑兵衛にとっては飲む口実のひとつでしかなかったのかもしれない。ユリはこういう飲み会があまり好きではなかったが、毎回断るのも申し訳ないからと、今回はたまたま参加していた。
まだ週半ばの水曜日の夜だったが、店はすぐに客で満席になり、ユリたちは、ガヤガヤと騒がしい中で、仕事の愚痴を言い合っていた。ユリがふと隣のテーブルに目を向けると、多分会社仲間なんだろう、自分たちと同じような老若男女のグループが乾杯していて、その中に一人、女優さんみたいな美女がいた。仲良く会話する様子から、男連中だけでなく、女たちからも、煽てられるのでも嫉妬されるのでもなく、普通に好かれていることが見て取れる。
(すごい人気者だな。
美人なのに女性からも好かれてるみたいだし、はっきり言って羨ましい。
こういうお客さんを、お店のひとはどう思ってるんだろう?)
なんで急にそんなことを気にしたのか分からない。ただ、そう思って店の厨房に目を向けると、男性店員のひとりがじっと彼女を見つめて、下卑た感じでにやついていた。
(ありゃ~、嫌なもの見ちゃったなぁ。
やっぱり美人って、いいことばかりじゃないんだなぁ。
何もなければいいんだけど……)
ちょっとしたトラブルは、そのすぐ後に起きた。
あの店員が、ユリたちの注文の品を隣のテーブルに持って行って、隣で注文していないと言われたときのことだ。さっさと、他のテーブルで確認すればいいのに、強引にそのテーブルに置いていこうとして、さらに、ユリの同僚がそれをうちの注文だと指摘しても渡そうとしなかったためだ。結局、店長が出てきて収まったが、その騒ぎで周囲のテーブルの宴会気分は一気に冷めてしまった。
(あの店員、結局何したかったんだ?)
問題を起こした店員は、店長が奥に引っ張って行ってしまった。理由は店長が聞き出すだろうが、ユリたちは当分はこの店に来ることがないだろうから、この謎は永遠に謎のままになるだろう。
その後、同僚の一人が終電に間に合わなくなるからと席を立ったのに合わせて、全員で店を出て解散となった。ユリはそれほど飲んでいなかったので、一人で歩いて帰宅の道についたのだが、途中で猛烈な眠気に襲われて、公園のベンチで休んでいたら世界が一変した。
* * *
ユリが目を開けると、そこはあたり一面が真っ白な、無重力とは違う上下不明の何もない空間だった。
(何ここ……
目は見えてるんだけど、体の感覚がない……
あ~、私、さっきから全然瞬きしてないや……
なんていうか……ラノベやアニメで見たり聞いたりした、あの謎空間だよね。
……これはな~んか、すっご~く嫌な予感がする。
え~~なんでぇ~~。
せめて『見知らぬ天井』ぐらいにしておいて欲しかったなぁ。
ここには床も天井も無いけど……)
見知らぬ天井だと、それはそれで物騒なことが起きてそうなもんだが、そんなこと露ほどにも思わず、ユリが能天気なことを考えていると、意識の後ろから声を掛けられた。
【補足】戸籍登録の文字について
戸籍や住民票が電子化される前は結構いい加減で、使っちゃいけないのに戸籍に記載されてしまった字が、数多くあります。その多くは書き間違いによる異体字ですが、常用漢字外の字も結構あります。親子で苗字の字が違うなんてのもざらにありました。電子化の際に、自治体によっては効率化のために「勝手に」戸籍の字体を変更したところがあって、結構大問題になりました。そういう勝手なことをしなかった自治体では「糊鹼龥驪燐」の戸籍があった場合、本人に字体の変更を要請しますが、本人が変更を拒否すれば、その字を使い続けることができます。ただし、電子化できないので、紙での管理となり、いろいろと受けられないサービスがでてきます。