12.魔国の現状
ユミルがカップの中の紅茶に目を落とした。
「この紅茶一つとっても、魔国では同じものはまず手に入らない。紅茶を飲めること自体が、裕福である象徴と言ってもいい」
「それほどに深刻な自体か」
ウィリアムの顔が曇った。
魔国の現状は精霊国の民には流れていない。精霊国内でも上層部のみが知る事実だ。もちろん、王族であるアイザックやウィリアムにも知らされていない。
「魔国に流れる瘴気が濃すぎるせいで、作物が育たない。土壌が汚染され、水が濁り、魔族ですら住める環境ではなくなりつつある。間違いないかな?」
ノエルの質問に、ユミルが頷いた。
「瘴気と聞くと、人はきっと恐れを抱くのだろうが。適度であれば、瘴気は生き物にも植物にも、精霊にもより良く作用する。しかし、今の魔国に流れる瘴気の量は異常だ。我々ですら、命を繋ぐのも危うい」
ユミルの淡々とした話に、一同は言葉を失う。
「だが、君たちは何故、魔国の現状を知っている? この話は、他国に漏れてはいないはずだ。国王からの通達か? だとすれば、君たちが僕をここに連れてきたのも国王の指示だろうか?」
ウィリアムが首を振った。
「魔国の現状を教えてくれたのは、この子たちだよ」
ウィリアムの周りを、赤い気を纏った小さな精霊が飛び回った。
「精霊は結界をすり抜けて精霊国と魔国を移動できる。この子たちにとり、両国は昔と変わらず同じ国なんだそうだ」
赤い光が人と同じ形を成した。小さな体がユミルの前をひらひらと舞う。
『はじめまして、ユミル。私はスル。貴方、とても良い男だけど、ちょっと残念。まだ目覚めていないのね。貴方に目覚めの祝福が齎されることを祈るわ』
ユミルの鼻にキスを落とすと、スルはウィリアムの肩に腰掛けた。
『私はウィル一筋だから力になれないけど。ウィルも大概、残念な男子だから、ユミルとはきっと気が合うわよ』
「スル、初対面の相手にそういう紹介は、如何なものだろう」
渋い顔をするウィリアムに、スルが悪戯な笑みを向ける。
ユミルが二人をじっと見詰めた。
「君は、火の精霊かな。精霊に会うのは久しぶりだ。やはり精霊にとっても魔国は暮らしにくい場所かい?」
『暮らしにくいも何も、息もできないわ。あっち側に精霊なんて、まだいるのかしら?』
スルが両手を上げて大仰に嘆いて見せる。
「やはり、そうか。精霊の加護すらも、魔国からは消えてしまったのだな」
ユミルが睫毛を伏す。
「正直、私は魔国や魔族を別の次元の生き物だと認識していた。人を喰らう悪魔だと思っていた。君のことも同様に恐ろしい存在だと考えていた」
ウィリアムの言葉に、ユミルが目を瞑る。
「だが、スルや他の仲間たちの精霊の話を聞き、考え方が変わった。何より今、私の目の前にいるユミルは、我々と何も変わらない。同じように悩み、国を憂う心がある。だから私たちは、君に協力したいと思っている」
ユミルがゆっくりと目を開く。
「魔国は結界に隔てられているだけで地繋がりの、元は精霊国と同じ国なんだろう。結界を解くことが難しくても、国の体を取り戻せれば、対等な外交関係に持っていけるはずだ。今の魔族が人を喰わずとも生きられるなら」
アイザックがユミルの肩に手を置く。
一度は上がったユミルの顔が、また俯いた。
「確かにほとんどの魔族は人喰せずに生きられる。しかし、一部にはまだ人を喰う本能を捨てきれない者たちがいるのも事実だ」
マイナスになる情報も隠さず話すユミルは、誠実な性格なのだろう。今更、隠した所でどうにかなるものでもないが、それでもノエルには、ユミルが考えていた以上に素直な質に映った。
「それが『人喰鬼団』を名乗る保守派の革命軍だね」
ノエルの言葉に、ユミルが頷いた。
「彼らもまた、人を喰らう本能は廃れている。だが、彼らは人喰の本能を魔族の誇りと考えている。それを禁ずる法令に反対の意を示すため決起した。手練れ揃いで魔王指揮下の魔術団でも手を焼いている」
魔国が『人喰禁止令』を出したのは百年近く前のことだ。それでもまだ、燻ぶった火種を消しきれないのは、国王が臥せっているせいもあるのだろう。
魔国の国王は妻を亡くして以来、国政にほとんど参加していない。若いユミルが代行を務める今、王族を見限る貴族も出てきている。
(加えて革命軍のリーダーは元魔術団の団長だ。参謀を引き連れて革命軍を起こした。王室も魔術団も形骸化している。つまり、ユミルの味方は実質、一人もいない)
加えて瘴気の大量発生という異常気象は、弱った王室に大打撃になった。国力の低下は歯止めがかからない状況だろう。
(大体は予測通りだ。けど、魔国の瘴気の状態や革命軍の実情をもっと詳しく知りたいんだよね)
ノエルの書いたシナリオとどの程度、違っているのか、それを把握したい。
「で、その革命軍にカルマが協力している可能性が高いってことだね」
ずっと黙っていたユリウスが、ユミルの表情を窺う。
「確信はないが、そうなんだろうと、思う」
ユミルが苦い顔をする。表情の乏しいユミルが初めて見せた顔かもしれない。
「カルマは僕に人喰を勧めていた。僕の力が強まれば、王室の権威も取り戻せると。革命軍に下り、魔族因子を強める血を持つ人間を探しているんだと思う。革命軍のリーダーは結界を渡る術が使える」
ユミルの目がノエルに向く。
「成程ねぇ。だからカルマはあの時、魔獣の森にいた訳だ。人を喰うにも、精霊国に入れなければ狩りは出来ない」
ユリウスがノエルに目を向ける。
ノエルは、頷いた。
「ユミルの話を聞いて、情報が整理できた。目下の問題は、革命軍と瘴気だね。その為に我々がまず着手すべきは、ユミルの護衛とカルマの奪還だ」
「僕の、護衛?」
ユミルが不思議そうな声を出す。
「そうだよ。革命軍は法案を撤回させたい。けど、ユミルにその気はないでしょ? だったら王室をぶっ壊すのが手っ取り早い。一番効果的なのは魔王の暗殺。今なら、代行のユミルだよ」
「君は精霊国に入る時、魔力を封じられているだろう。魔法攻撃を受けても対抗手段がない。今が一番の狙い目ってこと」
「確かに、理に適った話だが」
ノエルとユリウスに立て続けに話されて、ユミルが目を白黒させる。
「だからこそ、ユミルをこのクラブに招いたんだ。今から私たちが、ユミルを守る騎士だ」
ウィリアムがにこりと笑む。
ユミルは絶句しているようだった。
「ウィリアムもアイザックも、王族だろう。それに、ユリウス先生とノア先生は聖騎士団の中でも二強と謳われる魔術師であるはずだ。貴方たちが何故、僕を庇う? 魔国に尽くしてくれる?」
ユミルの意見は尤もだ。実際、クラブメンバーを説得するのにノエルも苦労した。
「精霊国の国益を考えるなら、魔国には平和であってもらう必要があるからね。人喰禁止令は是非とも継続してもらいたい法案だ。私たちは、ユミルに倒れてもらう訳にはいかないんだよ。だろう? ノエル」
ウィリアムがノエルを横目に見る。
まさにその方便で、王族二人とロキを丸め込んだ。
ぐぬぬ、とノエルは顔を顰める。
「国防の観点からも革命軍は看過できん。聖魔術師を動かせば国同士の戦争に発展する。だが、学院のクラブメンバーが仲間を守るのなら、顧問も副顧問も協力して然るべきだ。なぁ、ノエル?」
ノアにしたり顔で語られて、ノエルはまた、ぐぬぬと口を噤んだ。
いつの間にノアが副顧問になったのか知らないが、ユリウスの筋書きなのだろう。
ユミルがノエルに視線を移した。
「ノエル、君は一体……。どうして、そこまでして」
ユミルの気持ちは察する。突然、こんな話をされて、信じられないのは当然だ。
(私は、この世界の崩壊を阻止するために転生した只の原作者だ。自分の作った世界が壊れる様なんか、絶対見たくない。それにもう、変な死に方したくない)
「私にとっては精霊国も魔国も同じ国だ。ユミルはもうクラブメンバーだから、仲間だ。もちろん、カルマもね。ユミルがカルマを大事に想っているなら、助けるよ」
(ユミルもカルマも原作者にとっては創作したキャラたちだ。無駄死になんかさせない)
ユミルがフラフラと立ち上がり、ノエルを抱き締めた。
「僕は君に、何と礼をしたらいいのだろう。気持ちが疼いて、とても温かいのに、苦しい。この気持ちが何なのか、わからない」
ロキが慌てて、ノエルとユミルを引き剥がす。
隙を見て、ユリウスがノエルを腕の中に保護する。
「だから、すぐに抱き付くのは無しだって言っただろ。少しは我慢を覚えろよな」
容赦なく言い放ち、ロキがユミルの胸をぽんと殴る。
「ノエルは僕の婚約者だから、手を出したら魔国ごとユミルも焦土にしちゃうよ」
ユリウスがにっこりと笑顔で怖いことを言った。
「ノエルがユリウス先生の婚約者? 僕はてっきり、ロキの恋人かと思っていた」
ロキとユリウスが目を丸くする。
「俺も、そうであってほしいと思うよ」
ぽそりと零したロキに、ユリウスが暗い視線を投げる。
「ていうか、俺の恋人だと思っていたのにノエルに抱き付いたわけ? どういう神経してるんだよ」
「つい、無意識に。他意はなかったんだ。すまない」
ロキが疲れた顔で息を吐く。
(どうやら、ロキにとっては遣り辛い相手らしい)
誰とでも仲良くなれるロキにしては珍しい。
地味に微妙な顔をしているユリウスもまた、珍しい表情だなと思った。




